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●7月16日、岐阜県岐阜市の市役所一階ロビーで「信長報時の梵鐘」が公開された。この鐘は1458年に愛知県・甚目寺町でつくられ、後に織田信長が岐阜城へ移し、城下に時を告げる際に使われた。高さ約90センチ、重さ約200キロある。鐘を保管する岐阜市矢島町の本誓寺によると、約400年前の岐阜城落城の際にひび割れ、以降は鳴らされていないという。今回の公開は「岐阜城・築城八百年記念事業」の一環。また、同事業の特別企画として、8月12日にこの鐘の試しつきが岐阜公園で行われる(2001.7.31) |
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●京都市中京区室町通四条上ルにある祇園祭の菊水鉾保存会は、菊水鉾の名前の由来となり、マンション建設のため、姿を消した井戸「菊水の井」の復元計画を進めている。菊水の井は、建て替えに伴い、町内から転出した金剛能楽堂の中にあった。名水として知られ、茶の湯を大成した千利休の師が庵(いおり)を結んだ所とされる。最近になって、井戸の縁を囲っていた石の一つから「菊水」の銘が見つかった。破損部分を修復し、復元する井戸に再利用するという(2001.7.27) |
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●石川県の金沢市立玉川図書館に、前田利家や二代藩主利長らが家臣の高畠家にあてた書状20点の「高畠文書」が寄贈された。この20点は、16世紀末から幕末にかけての前田家からの書状。1582(天正10)年11月11日付の利家の印のある書状は、石動山の合戦で一〜六番手まで家来の名前を挙げて配置するよう指示。1584(天正12)年11月3日付の書状で利家は、末森の合戦後も小競り合いが続いた佐々成政が治めた越中からの難破船の処理について、船員を上陸させないよう命じている。また二代藩主・利長が1600(慶長5)年に高畠定吉にあて、関ケ原の合戦に絡んだ大聖寺攻めに勝利した後の大聖寺城の修復を命じている書状もある(2001.7.22) |
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●6月10日、可児市瀬田の天龍寺で戦国武将・明智光秀の420回忌法要が行われた。法要は市民有志でつくる「市史跡明智城址保存会」の主催で、関係者が高さ約185センチの日本一大きな位牌を前に次々と焼香した。光秀は同市内で生誕したとされる(2001.7.10) |
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●7月2日、有田焼の陶祖となった李参平の半生を描く日韓合作映画「白神渡海(はくじんとかい)」の京都ロケが京都市北区鷹峰の常照寺で始まった。李参平は秀吉の朝鮮侵略で、日本に連行された陶工(2001.7.6) |
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●6月2日、京都市中京区の本能寺で織田信長の命日である同日にあわせて「2001 信長まつり」が開かれ、信長公忌法要などが行われた。法要が行われた後、織田一族発祥の地である福井県から参加した民俗無形文化財「明神ばやし」、伊賀忍者集団「黒党」の忍者ショーや歌謡ショーなどが行われた(2001.7.1) |
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●6月2日、京都市右京区の亀山公園内にある角倉了以の銅像前で角倉了以(1554〜1614)をしのぶ2001年記念法要が営まれた。高瀬川や保津川などを開削し、京都の治水事業に業績を残した了以について後世に伝えるため、「角倉了以翁顕彰会」が毎年催している(2001.7.1) |
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●徳川家康と京都・伏見城で朝鮮侵略の戦後処理交渉を行った松雲大師が、滞在中に書いたと見られる五言律詩が京都市内で見つかった。書は五言律詩で、師の西山大師弟子を意味する「西山嫡 松雲」の名前と花印が押されている。筆運びは、韓国内に残る書と同様、滑らかな筆跡。京都市内の所蔵家が、最近手に入れたもの松雲大師の書が国内で確認されたのは珍しい(2001.7.1) |
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●京都市東山区の方広寺大仏殿跡から約130個の墓石や石仏が出土した。大半は砕かれており、五輪塔の宝珠や、文字を刻んだ墓石、石仏の破片などもあった。専門家は、これらを大仏殿の柱を固定するための「根がため石」に転用したとみられる。これまで、信長の造営した旧二条城跡からも石仏を石垣に転用した例が確認されている。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長が多くの石仏を壊して首に縄をつけて工事現場に運んだと記録している(2001.6.2) |
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●4月28日、熊本県玉名郡三加和町は、豊臣秀吉の検地に反発して起きた肥後国衆一揆(いっき)に加わった地元の和仁一族を描く映画「おんな・国衆一揆」を制作すると発表した。1587(天正15)年に起きた和仁氏と豊臣方の戦いは一揆最後の戦いとして知られている。この作品の監督は「隧道幻想・トンカラリン夢伝説」(菊水町制作)、「鞠智城物語・防人たちの唄」(県立装飾古墳館制作)を手掛けた三池崇史氏。今回の作品が同氏の「熊本三部作」の完結編となる。主役の親実役に原田芳雄氏、親実の妹牧の方役に元CCガールズの青田典子氏、秀吉役に竹中直人氏らが内定。同町に残る中世城の田中城跡を舞台に来年2月完成予定(2001.5.22) |
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●4月27日、大阪市は、豊臣秀吉が幼い秀頼に寄せた自筆の手紙を初公開した。手紙は、岡山藩の家老を務めた旧家に保存されていたもので、発見日時は不明だが、専門家が鑑定した結果、秀吉の自筆書状と判明。大阪市が昨年、京都市の古美術商から約3400万円で購入した。手紙には、「まもなくそちらに行って口を吸いましょう。おかか(淀君)に口を吸われないよう、油断なさいますな」などと書かれている。なお、この手紙は5月9日〜6月21日まで大阪城天守閣の4階展示室で公開されている(2001.5.22) |
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●4月22日、「和賀氏400年祭実行委員会」は北上市民会館で和賀氏についての記念シンポジウムを開いた。また、15日に行われた和賀氏ゆかりの地探訪会には、市内外から約90人が参加。和賀氏の居城・二子城跡や岩崎城跡(いずれも北上市)などを巡り、往時の隆盛をしのんだ(2001.5.7)関連記事 |
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●福井結城会は、同会と結城秀康入国400年記念のシンボルマークをそれぞれ作った。同会のシンボルマークは、秀康が用いたとされるかぶとをかたどった。400年記念のシンボルマークはくわ形と葵の紋などを用い、「越前国のいしずえ」「結城秀康入国四百年」と文字を入れた(2001.4.27) |
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●4月16日、愛知県県史編纂室が刊行した「県史研究第五号」に豊臣秀次が尾張を治めていた時代に、家来を統制するために出した法令の文書が紹介されている。この文書は瀬戸市の旧家で先祖伝来の家宝として保管、1999年4月から県史織豊部会などが調査してきた。秀吉が関白となった後の1591(天正19)年6月23日付のもので、条文は全七条。秀次の史料が同県内で発見されるのは珍しく、一部で疑問視されている尾張統治の裏付けや、当時の武士の主従関係を知るうえで貴重な史料だという。この「県史研究」は、図書館や学校などに配るほか、県民サービスセンター(県自治センター2階・情報コーナー)で、1070円で販売する。問合せは同センター 電話:052-961-2111 内線5024(2001.4.26) |
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●4月6日、京都市北区大宮土居町の「大宮御土居」に生い茂っていた竹が伐採され、市内最大級の土塁が築造当時の姿を現した。大宮御土居は、長さ約250メートル、幅約40メートル。高さは6メートルを超える部分もある(2001.4.18) |
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●4月5日、前田家十八代当主で、東京石川県人会長の前田利祐氏は前田家繁栄の礎となった
「末森合戦」の地である押水町の末森城跡を訪れ、本丸跡で営まれた慰霊法要で前田利家と佐々成政の両軍兵士の霊を弔った。前田家当主が能登半島を巡るのは、1853(嘉永6)年に加賀藩主の13代前田斉泰(なりやす)が、幕府の異国船打払令に呼応して約700人の家来とともに同半島沿岸を巡視して以来148年ぶり。末森城跡は押水町の末森山(標高138メートル)にある。1584(天正12)年に越中から末森城に攻め込んできた佐々成政軍を、城主奥村永福(ながとみ)に援軍を送って前田利家が打ち破り、末森合戦として伝えられている(20014.16) |
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●3月21日、京都市下京区五条通新千本で豊臣秀吉が洛中の防御のために築いた御土居の堀の一部が見つかった。見つかった御土居の堀は幅約12メートル、深さ約3メートル、長さは約20メートル。御土居本体は、後世の開発で消滅していた。堀の中には、堀を東西に区切るように三カ所に盛り土があった。堀には間仕切りがあり、水をためたものと考えられている(2001.4.3) |
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●岩手県北上市の和賀氏四百年祭実行委員会が一般公募した同祭記念碑の碑銘は、同市花園町の会社員及川政直氏の応募作「和賀氏盛衰の跡飛勢城」に決まった。記念碑は9月に同市二子町の飛勢城跡に建立される。飛勢城跡は二子城跡とも呼ばれる和賀氏の居城跡。和賀氏四百年祭は、和賀義忠が自刃した年から数えて今年が400年目に当たることを記念して催される(2001.4.3) |
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●2月19日、豊臣秀吉が滋賀県江州高島郡今津浦(現今津町今津の港一帯)あてに送った「若狭からの荷物を独占的に運ぶことを認める」とする書状の写本が、同町今津の旧家から見つかった。写本は、半紙(長さ41センチ、幅30センチ)を九枚つなげた巻物状の古文書。書状は1583(天正11)年6月に出されており、当時、金沢藩領だった今津村で代官を務めた河原林甚右衛門家に代々伝わってきたとされる(2001.2.23) |
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●2月18日、昨年春、不破郡関ケ原町の製材工場で見つかった火縄銃の復元作業が始まった。この鉄砲は同町の製材業者の倉庫のがらくたの中から見つかり、鑑定の結果慶長の大鉄砲であることが判明。さらに根元の裏側に慶長年間、堺で活躍した鍛冶年寄芝辻理右衛門の銘があった(2001.2.22) |
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●2月12日、仙台市青葉区の勾当台公園市民広場などで仙台藩祖・伊達政宗が仙台に城下町を築いたことを記念する「仙台開府400年」事業のオープニングイベントがなどで行われた。メインイベントの町割り再現は、15メートル四方の城下絵図を用意。当時の衣装を身につけた政宗と普請奉行、足軽、商人、職人役ら約40人が出演(2001.2.16) |
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●宮城県仙台市では2月12日に伊達政宗が仙台に城下町を築いて400周年となるのを記念して「仙台開府400年」を祝うオープニングイベントが開かれる。藤井黎仙台市長が「まち開き」宣言をするほか、会場に15メートル四方の巨大な城下絵図を用意。時代衣装をまとった政宗と普請奉行、足軽、商人、職人ら総勢30余人が出演し、城下町建設の経過をわかりやすく解説する。ちなみに仙台開府400年は、1601年(慶長6年)2月13日(新暦)の「仙台城下屋敷割」を基準としている(2001.2.6) |
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●愛知県弥富町荷之上石仏の安土桃山時代の1576(天正4)年に建てられた服部家住宅(重文)の維持管理ができなくなっている。1977〜78年にかけて大改修が行われたが、柱をつなぐ梁の長さが短かったり、柱の一部が削られているなどのミスが見つかっている(2001.1.31) |
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●1月21日、長崎県長崎市勝山町の勝山小学校跡で発掘体験学習会が開かれた。同跡からは17世紀初頭に存在したサント・ドミンゴ教会の遺構とみられる石畳や地下室などが見つかっている(2001.1.24) |
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●1月21日、熊本県熊本市と菊池郡菊陽町の韓国人強制連行に関する史跡を韓国の大学生が訪ねた。熊本市の加藤神社や本妙寺、菊陽町の三菱航空機製作所跡などを見て回り、文禄の役の際に日本に連れてこられた技術者や財務官の話や、第二次世界大戦中の強制労働に従事した韓国人の実態などに耳を傾けた(2001.1.24) |
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●滋賀県長浜市大宮町の妙法寺は、曳山をイメージした本堂を再建することになった。同寺は豊臣秀吉の長男で幼くして亡くなった秀勝の菩提寺。長浜城主だった秀吉は秀勝の誕生を祝って町民に砂金を振る舞い、それをもとに曳山祭りが始まったとされる(2001.1.24) |
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●1月17日、兵庫県加西市畑町の安富智彦さん方で、刀を先祖の象徴として祭り、供養する伝統行事「刀講」が開かれた。この刀は、安富一族の先祖、安富形部太輔親豊の愛刀「備前長船清光」。親豊の亡くなった420年前から毎年、命日の1月17日に「刀講」を開いてきた(2001.1.19) |
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●1月11日、佐賀県東松浦郡相知町佐里の平松窯跡(16世紀末)から、亀の形を模した装飾陶片が出土。唐津焼で動物を模した作品が確認されたのはこれが初めて。なお同窯は唐津焼の源流とされる岸岳古窯群の一つ(2001.1.15) |
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●豊臣秀吉が、わが子鶴松の三回忌のため建立した祥雲寺(京都市東山区・智積院の前身)と、祥雲寺にあった国宝の智積院障壁画が、CGによって創建時の姿に再現された。智積院の障壁画は、秀吉が1593(文禄2)年に創建した禅宗寺院の祥雲寺(現在の智積院境内)に飾られていた(2001.1.13) |
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●12月24日、静岡県石脇浅間神社前にある直径4メートルほどの「大旗かけ石」に注連縄がかけられた。言い伝えによると、武田勢を攻めた徳川家康がこの石に戦勝を祈願して地元の原川家を本陣としたという。家康はその後も、狩りなどで訪れ、そのつどこの石に旗を立てたり馬の鞍を懸けたりしたことから「旗かけ石」の名がある(2000.12.27) |
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●広島島県竹原市東野町の浄土真宗長善寺で行方不明になっていた戦国時代の甲胄が戻ってきた。甲胄の製作年代などから、「石山合戦」で使った甲胄に違いない、という。同寺は、織田信長と石山本願寺の石山合戦に参加。三代目住職の円西が、初代住職の善恵と義兄弟だった大三島口総(くちすぼ、愛媛県越智郡)の藤原忠左衛門とその一族に出陣を要請。毛利軍の水軍に参加して兵糧を運んだが、1577年に尼崎砦で全滅した記録がある。また「進者(進めば)往生極楽、退者(退けば)無間地獄」と書かれた戦旗や、戦死した19人の記録なども同寺には残っている(2000.12.26) |
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●12月15日、兵庫県姫路市書写の書写山円教寺から羽柴(豊臣)秀吉の軍勢が持ち出したとみられる仏具の一つ「密壇」が約499年ぶりに同寺へ戻った。密壇を入手した大阪市内の美術商から、同寺へ連絡があり住職らが確認したところ、墨書の歴代高僧の名が正確なうえ、寺内に同年代ごろの製作とみられる礼盤が残っていたことから、寺ゆかりの品と判断し購入した(2000.12.21) |
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●12月13日、三重県上野市では「天正伊賀の乱」の犠牲者を供養する「天正伊賀の乱四百二十年祭」をとりおこなう。「天正伊賀の乱」は織田信長の伊賀攻めで、3万数千人が攻め滅ぼされた(2000.12.16) |
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●11月15日、京都市伏見区の醍醐寺で秀吉を供養する献茶式が開かれ、茶道表千家の千宗左家元が秀吉の位牌に茶をささげた。この献茶式は、秀吉とかかわりの深い千利休の流れをくむ茶道三千家家元が、慰霊のため紅葉の季節に交代で続けている(2000.11.22) |
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●11月14日、鹿児島県姶良郡加治木町仮屋町の御里窯の確認調査を行った際、窯跡近くから白粘土を採取したことが判明。この窯は島津家17代義弘が開いたもので、薩摩では白粘土が産出していなかったことから、当時の陶工らが朝鮮から持ち込んだものと考えられると(2000.11.16) |
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●11月9日、愛知県岡崎市の市民らが丸岡城ゆかりの武将・本多作左衛門の足跡を訪ねようと、同城や本多家の墓がある本光院を訪問。本多作左衛門は日本一短い手紙を書き残し、丸岡町は「日本一短い手紙」を全国に広め、また終焉の地の茨城県取手市も作左衛門のイメージにちなみ「頑固者賞」のエッセー募集を始めた。岡崎市も「作左で町おこしを」と、昨年末から動き始めた(2000.11.15) |
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●11月9日、南陽天文愛好会会長の大国富丸氏が発見した二つの小惑星に「義光」と「兼継」の名称がつけられた。長谷堂合戦で敵対した最上、上杉両軍の大将だった最上義光と直江兼続にちなんだもので、米国のスミソニアン天文台から正式に認定された(2000.11.10) |
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●11月3日、三重県松坂市で「氏郷まつり」。氏郷をはじめとする松阪城の歴代城主や奥方、少年少女武者など約240人が武者行列(2000.11.7) |
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●11月3日、岩国市横山二丁目にある吉川史料館の庭園で吉川広家の岩国入封400年記念の武道大会開催。片山伯耆流や夢想神伝流の居合、岩国藩石田流鉄砲隊保存会による古式砲術など(2000.11.7) |
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●11月2日、兵庫県有馬で、豊臣秀吉が千利休と茶会を開いた故事にならう「有馬大茶会」がはじまった。今年で50回目(2000.11.3) |
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●10月29日、織田信長と織田家にゆかりの深い市町による「織田信長サミット」が滋賀県神崎郡の永源寺で開催。サミットには全国の19市町が加盟。17回目の今年は安土町、高島町(岐阜県)のほか岐阜市、清洲町(愛知県)、天童市(山形県)など12市町の町長や助役など自治体関係者ら約90人が参加(2000.10.31) |
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●10月28日、広島県岩国市で岩国藩の初代藩主吉川広家入封400年を記念して「吉川サミット」開催。吉川家発祥の地、静岡県清水市の駿河吉川会の吉川治郎氏や鳥取市の鳥取吉川会会長の辻敏治氏なども参加(2000.10.31) |
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●10月23日、岡山大付属図書館で慶長期に描かれたとされる「備前国図」が公開(2000.10.25) |
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●10月22日、京都の「時代祭」開催。平安時代から明治維新までのけんらん豪華な装束に身を包んだ約2000人が参加。1995、1996年と2年連続で石田三成役の人が落馬したが今年は無事(2000.10.24) |
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●姫路商工会議所青年部歴史文化研究委員会は、官兵衛の血を引く歴史研究家の講演会や「中国大返し」を自転車で再現するサイクリングを計画。サイクリングは11月3日、備中高松城跡で出立式。後楽園で昼食後、黒田家墓所・妙興寺を訪ね、日生で宿泊。翌日に赤穂、上郡、龍野を経て姫路に戻る。参加費は2万円(宿泊費、弁当込み)。二十四騎になぞらえ、募集は25人程度。問合わせ先佐藤さん0792-89-0540。なお官兵衛は1604年に亡くなっている(2000.10,19) |
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●元俳優・栗塚旭さん経営の喫茶店(京都)の庭に、「大仏寺」の名で親しまれた方広寺大仏殿の瓦があることがわかった。栗塚さんはテレビ時代劇の土方歳三役で人気を博した(2000.10.21) |
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●10月9日、「決戦関ケ原大垣博」閉幕。入場者は合計74万8000人(2000.10.12) |
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●10月8日、「第44回ぎふ信長まつり」のメインイベント「美濃三英傑武者行列」が行われた。俳優・三浦浩一が信長役(2000.10.12) |
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●10月8日、「関ケ原合戦四百年祭」のメインイベント「関ケ原合戦絵巻2000」開催。東西合わせて44隊約800人が参加(2000.10.12) |
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●9月29日、名古屋まつり(10月13日〜15日)の三英傑が決まった。信長役は出版会社長・前田亨さん。秀吉役は自衛官・臼田松男さん。家康役は会社社長・長崎弘さん。濃姫に名古屋三越の水野かおるさん、ねねに丸栄の鴻村衣里さん、千姫に松坂屋の金井陽子さん。秀吉役の臼田さんは「入隊直後の18歳の時、鉄砲隊の役を務めて以来、いつかは三英傑をやりたいと思っていた」と語った!(2000.10.10) |
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●富山県高岡市の「岩坪岡田島遺跡」で1585(天正13)年の「天正の大地震」の地割れと1858(安政5)年の飛越地震による噴砂を発見)(2000.10.2) |