昭和

■2003年
2/21、埼玉県比企郡の大谷佳子氏宅から1931(昭和6)年に作製された座敷唄「川越小唄」のレコードが見つかった。2001年12月、川越市の広報紙で所有者を呼び掛けたが情報はなく、「幻のレコード」とされていた。 埼玉新聞
2003/2/21
■2002年
12/13、「宇治山宣会」は、会誌「山宣」第8号を作った。同会は、戦前、治安維持法の強化に反対して暗殺された政治家・山本宣治(1889−1929年)の功績を広める活動をしている。会誌には、宣治が暗殺された旅館関係者による講演内容や、宣治の孫と曾孫の対談などを収録している。(2002.12.20) 京都新聞
2002/12/13
12/5、徳島県徳島市内に建つ野上彰の詩碑に刻まれた、川端康成が墨で書いた短章の原本が高松市内で見つかった。この近く県立文学書道館に寄贈される。(2002.12.13) 徳島新聞
2002/12/5
11/21、富山県城端町の城端織物会館内の床下から、新築された1928(昭和3)年11月当時の建設記録板「城端織物組合事務所新築記録」が見つ かった(2002.12.5) 中日新聞
2002/11/27
11/25、国立国会図書館で2・26事件(1936年)で襲撃を受けた岡田啓介首相の秘書官だった迫水(さこみず)久常氏(1977年死去)の録音テープが国立国会図書館で公開される 毎日新聞
2002/11/24
11/21、大阪万国博覧会に作られたエキスポタワーの解体工事始まる 朝日新聞
大阪版2002/11/24
11/19、埼玉県の国土交通省関東地方整備局利根川上流工事事務所は、1947(昭和22)年9月16日のカスリーン台風の被害状況を撮影した米軍の航空写真を入手し公表した 中日新聞
2002/11/24
11/5、和歌山県上富田町に現存する猪垣(ししがき)は、昭和初期の農業行政を知る上で貴重な構造物であることが判明した。この猪垣は昭和10年、旧生馬村が畑を開墾したさいに、イノシシの食害から農作物を守るために築いた。高さ約2メートル、幅約1メートル、延長は約3.2キロあり、築後70年近くたった今も一部がきれいに形状を残し、農地の境界や畑の石垣として使われている。(2002.12.21) 紀伊民報
2002/11/6
●8月10日、1945年10月2日に連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官がカミーユ・ゴルジェ駐日スイス公使と会談した際、戦後の日本が安い製品をアジア各国などに大量輸出する「経済面での新たな侵略行為」に懸念を示していたことがスイス政府の公文書で明らかになった。 司令官は、日本の輸出大国化を阻止するため、労働組合の組織化を通じて労働者の賃金を上昇させ、日本製品の価格を引き上げる必要性を力説。(2002.8.13)
●広島市南区松原町に、原爆投下の1カ月前に疎開して被災を免れた神像が57年ぶりに社のあったに返還される。像は一本彫りの木製座像で高さ30センチ、幅20センチ、奥行き20センチ。赤い鎧を付け、兜に毛利家の家紋とみられる「一文字三星紋」がある。「友元大明神」と呼ばれ、当時の東松原町に戦前まであったという友元稲荷神社にまつられていた。 社を管理していた、故・松井廉平氏の手記によると、像は毛利元就の義弟「友元明」とされる。1931年に旧糸崎鉄道学校の校長が京都の職人に彫像を依頼し、神社に寄進した。建物疎開などで神社が戦時中に取り壊されたため、1945年7月に安芸区内の知人宅に移されたらしい。(2002.8.13)
●5月25日、広島市安佐北区の地域づくりグループ「可部カラスの会」が、昭和初期の可部の町並みを地図で再現し、大文字まつりで発表した。同町は出雲・石見両街道で運ばれた農産物などが集まり、にぎわったが、当時の業種などを記した資料がなく、歴史部会を中心に調査に乗り出した。 昭和初期の旧安佐郡可部町は南北約2キロ、東西約200メートルの区域。道路配置はほとんど変わっておらず、70代後半〜80代の人に聞き、一軒ごとに業種を特定していった。(2002.6.24)
●2月13日、福井県江市の農村を舞台に撮影され、存在がわからなくなっていた教育用映画『村のいぶき』が富山県内で見つかった。同映画は1955(昭和30)年、鯖江市中河地区で撮影された。当時始まったばかりの学校給食の良さと、家庭の食生活改善を訴える内容で18分の短編。フィルムを発見したのは、撮影時に小学6年でエキストラ参加した同市中野町の栗田信夫氏。今年1月に富山県映像センターのリストに同映画の名前を見つけ、保管庫にフィルムが残っていることを確認した。(2002.4.2)
●2月10日、山梨県山中湖村の三島由紀夫文学館収蔵の遺稿から作家・三島由紀夫(1925〜70年)が15歳のころ書いた童話「仔熊(こぐま)の話」の原稿が見つかり展示された。仔熊の話は400字詰め原稿用紙16枚の作品。1枚目に本名「平岡公威」の署名が残っている。三島は14歳のころ、キリスト生誕をテーマにした戯曲も書いている。(2002.3.27)
●1927(昭和2)年、長崎県の子どもたちが日米両国の友好親善を願って贈った日本人形・ミス長崎こと「長崎瓊子(たまこ)」が今秋、保管先の米国・ニューヨーク州ロチェスター市科学博物館から75年ぶりに里帰りすることが決まった。瓊子は、1927年に米国人宣教師ギューリック一世から贈られた約1万2700体の「青い目の人形」のお礼にと、全国の子どもたちが小遣いを出し合い作った58体の答礼人形のうちの1体。瓊子は米国に渡った当初から記録などが一切残っておらず、行方不明の“幻の人形”だったが、2000年8月、にロチェスター市科学博物館に別の答礼人形(ミス青森)と取り違えられ保管されていたことが判明した(2002.3.6)
●富山県福光町の商工会は板画家・棟方志功の資料掘り起こしに取り組み、これまで収集した資料数100点の本格的な整理を始めた。資料は、棟方が町内の知人にあてた郵便物のコピーや碑文の拓本、写真など。棟方志功は同町に終戦前から疎開し、6年8ヶ月生活した(2002.3.6)


■2001年

●広島県広島市中区住吉町の元小学校長・反田十郎氏は、中央アジア・ウズベキスタン東部のベガワート市にある日本人の墓地整備のためにソ連抑留者経験者や家族に情報提供を呼び掛けている。この夏にベガワート市を訪れた会社役員・木村博一氏は、現地で荒れ果てた墓の整備の協力を依頼された。そこで抑留者の多くが、広島出身者が中心の陸軍三十九師団(藤部隊)だったと聞き、陸軍の特別操縦士見習士官の同期生・反田氏に協力を求めた(2001.12.19)
●9月6日、滋賀県信楽町の陶芸家方に俳人・種田山頭火が、滋賀県蒲生町出身の洋画家・野口謙蔵らと作った合同句を記した色紙があることが確認された。山頭火の日記には、1939(昭和14)年4月に、蒲生町石塔の極楽寺住職で詩人の米田雄郎宅を訪問したことが記されている。また、米田と親交の深かった野口が書き残した「謙蔵日記」には同月、米田が山頭火を連れて、同町綺田の野口のアトリエを訪れ、絵や句をつくり交流した様子や山頭火の風貌が記載されている。しかし、どのような句を作ったかを示す作品はこれまで見つかっていなかった(2001.12.1)
●9月3日、輸送船「浮島丸」が舞鶴湾で爆沈した事件の遺族らが国に損害賠償などを求めた訴訟で、国は原告一部勝訴を言い渡した一審の京都地裁判決を不服として控訴した。控訴理由について、法務省は「浮島丸による輸送は、旧海軍が徴用者らに対する行政上の措置として実施したもので、(原告と)国との間に私法上の旅客運送契約に類似する法律関係があると認めた一審判決は誤りがあり、承服しがたい」としている(2001.10.25)
●北海道後志管内岩内町の画家・木田金次郎による、知り合いの漁業者を描いた肖像画1点が同町内で見つかった。木田の作品は1954年の岩内大火で大量に焼失、肖像画は6点しか存在が確認されていなかった(2001.10.25)
●熊本県八代税関支署は、戦後、外地からの引き揚げ者から各税関が預かったままになっている通貨や証券類について、預けた本人か、その親族が返還請求するよう呼び掛けている。終戦当時は、引き揚げ者の通貨などの持ち込み額に制限があり、制限を超えた分は上陸地の税関が預かっていた。預金通帳や株券、通貨など約16万4000件を預かった。このうち、今年7月末までに約45%に当たる7万3000件が返還されたが、残る9万1000件は未返還(2001.10.25)
●三重県四日市市貝塚町の会社経営・中島貞夫氏宅で、壊れて放置してあった約80年前のかまどが復活した。このかまどは、約7年前から使われずに放置してあったもの(2001.10.7)
●8月23日、京都地裁の水上敏裁判長は「浮島丸」が舞鶴湾で爆沈した事件で、「浮島丸に乗船した朝鮮人に対し、国は釜山まで安全に運送する義務があった」と国の安全配慮義務違反を認め、原告のうちの生存者15人にそれぞれ慰謝料300万円、計4500万円を支払うよう命じた。同訴訟は韓国の遺族や生存者80人が、国に30億円の損害賠償や謝罪などを求めていた(2001.10.3)
広島県呉市の郷土史研究家・市村忠司氏は、福島県内で戦艦「長門」艦長が帰省を許可した休暇願を発見した。同願いは1937(昭和12)年、青森市出身の旧海軍下士官が、戦艦の艦長から帰省の許可を受けた文書で、旧海軍などの実務分野の書類は廃棄されることが多く、現存するものは珍しい(2001.10.3)
●熊本県熊本市の新聞博物館に寄贈された南支那派遣軍詩歌集に、「麦と兵隊」などの兵隊三部作で知られる作家・火野葦平(1907〜1960)の詩が収められていた。寄贈された詩歌集「兵隊の祝祭」は昭和18年、同派遣軍報道部の発行。前年からの募集に応じた作品の中から、詩や俳句など約950点が収載されている。葦平は昭和12年に芥川賞を受賞、すでに兵隊三部作を発表し、作家として活躍していた時期。詩歌集では報道部所属となっている(2001.10.3)
●神奈川県藤沢市のメディア史研究家・福島鋳郎氏が30年間かけて収集したコレクションと日本新聞博物館保有の資料を基に、「同盟通信社」(1936年発足)が、宣伝広報用に発行していた壁新聞「同盟写真特報」約1500点(約5000カット)を復元した。同社は共同通信社の前身。これらの写真の一部はデジタル化作業を行った経葉社のホームページで見ることができる。経葉社のアドレスはhttp://www.keiyou.co.jp/(2001.9.21)
●新潟県南蒲田上町の農業・小林賢三氏の自宅から、太平洋戦争終結直後の「新潟日報」が見つかり、同社に寄贈した。寄贈されたのは、1945年8月15日以降、約1週間の「新潟日報」。用紙不足から表裏2ページで、15日の1面には「休戦の大詔降る」の大見出しに「詔書」の全文を紹介している。多少劣化はしているが、ほぼ完全な状態で保存されていた(2001.9.21)
●国土交通省霞ケ浦工事事務所は、1938(昭和13)年に大洪水に見舞われた土浦尋常高等小学校(現土浦小学校)の生徒が書きつづった「大洪水文集」をCD-ROM化するために、当時の在学者1068人を捜している。CD化には筆者の同意が必要なため、土浦小学校などの協力で当時の生徒を捜している(2001.9.18)
三重県大宮町金輪の農業・広瀬元久氏の自宅で、第二次世界大戦中に作られた「愛国百人一首」や「皇軍慰問・一六ゲーム」「数字五目ゲーム」などが見つかった。「愛国百人一首」には、昭和17年12月8日発行と記されている。陸軍省や海軍省などの後援で京都の会社が作った。柿本人麻呂や徳川光圀、本居宣長らが詠んだ歌の百人一首が納められている。升目に小型の碁石などを並べて遊ぶ「数字五目ゲーム」や穴に木片を差し込んで遊ぶ一六ゲームには、「皇軍慰問」と書かれ、説明書から軍隊の慰問や一般向けに作られたものらしい(2001.9.13)
●8月10日、北海道空知管内幌加内町朱鞠内の朱鞠内共同墓地で日韓の若者が一緒に歴史を学ぶ「東アジア共同ワークショップ」によるの遺骨発掘作業が、行われ3体の遺骨を発見した。同地区では1935(昭和10年)から終戦まで、雨竜ダムなどの工事のため日本人数千人と朝鮮人3000人以上が過酷な労働に従事。判明しているだけでも、日本人168人と朝鮮人36人の合わせて204人が犠牲となり、うち100人近くが同墓地周辺に埋められたとされる。 見つかった遺骨は、強制労働で犠牲になった日本人か韓国人の可能性が高いとみている(2001.9.12)
●広島県呉市で、1930年11月に芸備銀行(現広島銀行)呉支店として建てられたビルが取り壊される。ビルは、鉄筋コンクリート4階建て。3月の芸予地震で、東側に増築した倉庫の壁に亀裂が入るなどしたため、一緒に取り壊して、新築することになった(2001.8.25)
●8月1日、横浜市中区の第一港湾合同庁舎で戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で持ち込みが制限され、税関が預かり保管していた海外の引き揚げ者の通貨や証券などが虫干しされた。虫干しされたのは、旧日本銀行券や軍票、国債、運転免許証、卒業証書など。治安などの理由で持ち帰りを制限され、引き揚げ者が上陸した港の税関や外地の在外公館などに預けられた。同税関は当時、約18万人から預かり、制限が解除された1953年から約5万人に返還してきたが、現在も約60万点余りを保管している(2001.8.23)
●北海道北見市の小林正氏は、ノモンハン事件に従軍した元兵士や遺族の体験談をもとに詠んだ自作の短歌を、小冊子『草芽吹くとも―ノモンハン事件の歌 百十九首』にまとめた。小林氏は1992年、小説執筆のためにノモンハン事件の元兵士や遺族を取材。1994年にノンフィクション『草原の死闘―ノモンハン事件と北見の兵士達(たち)』を、1999年に続編を出版した(2001.8.23)
●和歌山県田辺市栄町の「もりくま玩具店」の倉庫から昭和時代初期などの、ブリキや木製の玩具が見つかった。同店には、以前より古い玩具をコレクションしている人から問い合わせがあり、今回、あらためて倉庫を整理すると、数多くの玩具が見つかったという(2001.7.27)
●6月6日、新潟県で在日韓国人の青年組織「在日本大韓民国青年会」は、「歴史を伝える運動」の一環として在日一世世代を対象に聞き取り調査を始めた。10月ごろまでに全国47都道府県を回り、約500人から話を聞く予定。在日韓国・朝鮮人は全国で約60万人、新潟県だけでも約2500人いるといわれている(2001.7.17)
●京都市伏見区の御香宮神社の「千姫神輿(みこし)」の巡行風景をとらえた昭和10年代と30年代の8ミリ映像が見つかりビデオに編集された。昭和10年代の映像は氏子が区内の知人宅で探し出し、昭和30年代の映像は先代宮司が所有していた。千姫神輿は1597年、徳川秀忠が長女千姫の誕生を祝い、同神社に寄進したと伝わる。1961年以降、同神輿の巡行は途絶えているという(2001.7.6)
●国会の憲政資料館に、戦前、貴族院議員、枢密顧問官などを務めた高遠出身の政治家伊沢多喜男(1869〜1949)が保管していた手紙や日記類が遺族から寄贈された。“政界の黒幕”とも称された伊沢の交友関係は広く、この伊沢文書約1300点。うち1028点が手紙で、差出人は幣原喜重郎、近衛文麿、吉田茂などの首相をはじめ、著名な経済、文化人など270人余り。中には“東洋のマタハリ”と呼ばれた川島芳子が戦後、中国で銃殺刑となったことを知った伊沢が、芳子の養父川島浪速に送った哀悼の手紙などもある(2001.6.29)
●5月24日、青森県金木町で30数年ぶりに見つかった太宰直筆の詩を保管する金木町太宰会の木下巽会長と会員の沢田政孝氏は、町役場にこの詩を町に寄贈した。この詩は、太宰が200字詰め原稿用紙に書き、当時地元の文学青年たちが発行していた文芸誌「灯(ともしび)」の表紙に2回使われた。「灯」の編集・発行を手掛けた故・山中正津氏が所有し、30数年前に町内の友人に貸したまま行方不明になっていたが、今月中旬に見つかった(2001.6.18)
●2月に北海道根室市は、チャールズ・リンドバーグの妻アン氏の死に際して弔電を送り、このほどその返礼のカードが遺族から届いた。リンドバーグ夫妻は、1931年8月24日の北太平洋横断飛行の際に、根室港に立ち寄った(2001.5.15)
●作家・坂口安吾(1906〜55)が敗戦翌年に書いた未発表のエッセーが、当時の随筆誌の編集者の遺族宅で見つかった。エッセーは「インチキ文学ボクメツ雑談」と題した四百字詰め原稿用紙約5枚分。冒頭に1946年7月7日の日付がある。雑誌「雑談」の女性編集者から「インチキ文学撲滅論」のテーマで執筆依頼を受けたが、それに反発。「不幸にして僕には(そんな)勇壮遠大な雄図はない」と記す。文芸評論家の七北数人氏によると、原稿は執筆を依頼した編集者と意見が合わず不掲載になったとみられる。編集者の遺族が保管していた原稿を、七北氏が見つけた(2001.4.23)
●熊本県八代市の日奈久温泉で、漂泊の俳人・種田山頭火の人気に火がついている。市は山頭火が宿泊し日奈久中町の木賃宿「織屋」の保存作業にも近く着手する予定。同宿は1903(明治36)年に建てられ、山頭火はこの一室に三日間、寝泊まりした。山頭火の宿では、全国で唯一現存するといわれる年代ものだ。山頭火(1882〜1940)は自由律の俳人と知られ、九州や中国、四国を放浪した。なお、日奈久には豊臣秀吉が薩摩に向かったとの言い伝えがある太閤道や、古い蔵を飾る白壁の「なまこ壁」が残っている(2001.4.9)
●岩手県水沢市星ガ丘町の沢田公任氏は、金田一京助博士(1882〜1971)の直筆原稿を保管している。旧制盛岡中(現盛岡一高)時代に学校新聞を創刊する際、新憲法公布について寄稿を依頼したもの。この手紙の中で盛岡市出身の金田一氏は、新憲法を肯定し、憲法が変わっても天皇への崇敬は変わりがないという趣旨のことが書いてある(2001.3.19)
●2月1日、愛知県蒲郡市は同市出身の戦前の冒険小説家桜田十九郎(とくろう)の作品を掲載した推理小説雑誌「新青年」4冊を購入した。桜田十九郎 は、本名福井穣(ゆたか)。宝飯郡塩津村(現蒲郡市竹谷町)に生まれ、東大医学部を中退。1935(昭和10)年、週刊誌の懸賞に入選したのを機に小説家になった。東京で執筆にいそしんだ。海外を舞台にした「悪霊の眼」「魔女の木像」などの異境物と呼ぶ冒険小説に筆をふるった。発表の舞台となった「新青年」は、大正から戦後にかけて発行され、江戸川乱歩、夢野久作らを世に出した(2001.2.7)



■2000年
●12月12日、三重県飯高町宮前の町老人福祉センターで「全国小津安二郎ネットワーク会議」による「第七回オーヅ先生を偲(しの)ぶ集い」が開催された。同会は映画監督の故・小津安二郎さんを愛する人々が情報交換する全国的組織(2000.12.15)
●12月5日、和歌山県和歌山市は同市出身の作家有吉佐和子さんの遺品などを集めた記念館を建設する意向を、旅田卓宗市長が市議会本会議で明らかにした(2000.12.12)
●10月23日、愛知県の名古屋市役所で1935(昭和10)年に描かれた21枚の東山植物園温室の設計原図が見つかる(2000.10.31)
●10月22日、谷川俊太郎氏さんが岩手県東山町の宮沢賢治詩碑を訪問。この碑文は父で哲学者だった故・徹三氏が揮毫したもの(2000.10.24)
●10月5日、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した渋沢敬三。民族学者としても知られているが、その渋沢が70年前の奥三河地方に伝わる花祭を撮影した映像がビデオ化され地元に寄贈された(2000.10.10)

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