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●熊本県熊本市は本年度末までに、国の専門委員会に熊本城御殿復元計画を提出する方針を固めた。そのために9月補正予算案に、熊本城復元整備事業関係費として約1億1千万円を計上。このうち約1900万円で、天守閣前広場にある売店を解体、同敷地にある本丸御殿の遺構調査を進める。仮設売店も同広場北側に設置する。同御殿着工には、文化庁の「史跡等における歴史的建造物等の復元取扱専門委」(年二回開催)の承認と、その後の同庁への原状変更届が必要(2001.10.25) |
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●7月9日、熊本県熊本市の熊本城総合事務所は、熊本洋学校教師だった米国人・ジェーンズが1877(明治10)年に米国に持ち帰った明治初期の熊本城の古写真19点(複写)を入手したと発表した。内訳は、天守閣から東西南北を眺めた3枚1組のパノラマ4組と、二の丸から天守閣を仰ぎ見た3枚1組、それに城外4カ所から撮られた城郭の写真4枚。中には、藩校時習館の教師・中村如斎が明治3年2月9日の日記に、火薬が引火して吹き飛んだと記した数寄屋丸御門や、同4年ごろに熊本(鎮西)鎮台が取り壊したとされる数寄屋丸五階櫓の写真もある。今回の19点は、ニュージャージー州のプリンストン大学付属図書館が「ジェーンズコレクション」として保管していたもの。同事務所は、撮影時期は明治2年夏から同4年7月以前と推測(2001.7.27) |
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●熊本軍人恩友会会長の小田常元氏は、明治初期に熊本城二の丸に建てられ、昭和40年代まであった陸軍歩兵第一三連隊の兵舎の写っている写真を保有している。同写真は、小田氏の父で、日露戦争では歩兵同連隊第五中隊長だった常記さんの遺品から見つかったという。正確な撮影年月日は不明だが、兵士の帽子と制服から、日清戦争から日露戦争の間(1900年前後)に撮影された可能性が高いという。同連隊の兵舎は1874(明治7)年にフランスから技師を招いて着工。一個中隊ごとに建てられ、翌8年に全12棟が完成、1925(大正14)年まで同連隊が使用した。その後、熊本陸軍教導学校などに使われ、二の丸整備時の昭和44年までにすべて取り壊された。歩兵連隊兵舎は、同じ建築様式で全国16カ所に建設され、現在は名古屋市に第六連隊、仙台市に第四連隊の兵舎が一部残るだけという(2001.7.10) |
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●6月28日、熊本県熊本市が熊本城の復元費用として、寄付を募っている「熊本城復元整備基金」が4億円を超えたが、寄付総額の伸び悩んでいる。同基金は、1998(平成10)年4月にスタート復元を計画している本丸御殿や西出丸一帯、飯田丸五階櫓の費用に充てる。目標額は15億円。1万円以上の寄付者には「一口城主」として、「城主証」を贈り、天守閣内に「芳名板」を掲示している(2001.7.5) |
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●4月25日、熊本県熊本市の熊本城西出丸一帯の復元建造物の上棟式が、戌亥櫓(いぬいやぐら)前で行われた。西出丸には、戌亥櫓のほか南大手門と未申(ひつじさる)櫓、元太鼓櫓も復元予定している。式には、熊本城復元基金に募金した一口城主ら約200人が参加(2001.5.9) |
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●熊本市は、熊本城の復元整備が本格化し、天守閣南側の本丸御殿大広間や飯田丸五階櫓、西側の西出丸一帯に南大手門や戌亥(いぬい)櫓など六つの建造物と長塀を再建が予定されている。今回の復元で最大の特徴は、古来の建築技術に忠実な施工。江戸時代の古絵図や明治時代に撮影された写真、宇土櫓など現存する建物を参考に、木材や瓦、壁材など建材の加工をはじめ、構造や工法に至るまで、可能な限り築城当時の技術で再現する。(2001.4.9) |
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●熊本城の飯田丸五階櫓復元事業中、慶長年間より前の石垣に見られる、大きさがばらばらの「清正公積み」の旧石垣が見つかった。現在の石垣は大きさが均一の「算木積み」と呼ばれる技法で造られているため、築造時期が異なるのは明らか。このため旧石垣築造から間もない加藤清正時代に櫓土台部分の拡張工事があったとみられるという(2001.3.19) |
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●2月27日、熊本県熊本市は復元工事を計画している本丸御殿建設に向けた「熊本城建造物復元課題検討委員会」を発足させた。本丸御殿は、総畳数が1570畳を数える城内有数の巨大建造物。約800畳の大広間や狩野派の襖絵などが描かれた「昭君之間」などを備えていたが、1877年2月の西南戦争で、天守閣とともに焼失した。復元計画では、このうち大広間、数寄屋、台所など約1000畳分の建設を予定(2001.3.10) |
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●2月14日、熊本城二の丸で籠城記念祭が開かれた。同日は、西南戦争時に熊本城を守る官軍が籠城戦を決めたといわれる日。杖術や抜刀術などを学ぶ9団体32人が参加。肥後伝承砲術の演武では、重さ約30キロの大筒や火縄銃の空砲が36発打ち鳴らされた(2001.2.18) |