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●7月13日、京都府向日市森本町野田の「長岡京跡」で、都城を東西に結ぶ最北端の道路「北京極大路」を京域で初めて確認された。ただ、道路幅が9.2メートルと小路級の規模で、長岡京の北限を示す本来の北京極大路ではないことも判明した。長岡京跡の調査では、1996年に宮域内の北京極大路の推測地から、今回と同じ小路規模の道路を発掘し、昨年10月には同地点から二町(約200メートル)南側に、幅約24メートルの北一条大路を確認している。また、京域の北辺部で条坊制の土地利用が初確認されたほか、左京域の北側にも天皇の遊興施設「北苑(えん)」が広がり、昨年出土した東院が京外離宮であった可能性も出てきたという(2001.7.27) |
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●4月19日、長岡京市開田の長岡京跡から、日本で最古の厄よけ護符「蘇民将来札」が出土した。札は木製で、長方形の板。長さ2.7センチ、幅1.3センチ、厚さ2ミリ。両面に「蘇民将来之子孫者」と墨書きされている。同札は、祇園祭などで現在も親しまれている護符で、定説である鎌倉時代より古い、長岡京期(784〜794)にあったことになる(2001.5.7) |
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●3月16日、京都府向日市寺戸町古城の「長岡京跡」から見つかった馬をかたどったミニチュアの祭祀具が計47点にのぼったことがわかった。このほかにも破片が多数見つかっていて、最終的には約100点近くになる見通しという馬の祭祀具は土製で体長約14センチ、高さ約12センチ。長岡京の大規模な祭祀場跡は、
「水垂遺跡」(京都市伏見区)などに次いで4例目。清めなどの祭祀は通常、建物の隅など清める対象物のそばで行われるが、長岡京の大規模な祭祀場はいずれも事実上の京域の端に近い川跡にあり、祭祀物にけがれを移して水に流すことで都の安泰を祈っていたと考えられる(2001.3.28) |
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●2月16日、京都府向日市寺戸町古城の「長岡京跡」から、馬やなべ、かまどなどをかたどったミニチュアの祭祀具計約20点以上が発見された。発見場所が、3世紀末〜4世紀初頭ごろに造営された前方後円墳「五塚原古墳」(埋葬者は不明)の南約100メートルだったことから、長岡京の造営に伴い、同古墳のたたりを鎮める狙いがあったと考えられている。同じような都城造営のために古墳のたたりを防ぐ祭祀跡としては藤原京などでも確認されている(2001.2.20) |
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●2月14日、京都府長岡京市開田の長岡京跡発掘調査地で、向かい合った二羽の鳥を墨で描いた絵画薄板などが見つかった。薄板は縦2.8センチ、横9.6センチで、二羽の鳥が植物をくわえ、向き合っている姿を丹念に描いている。雄、雌を区別して描いたとみられる。これまで、陶板に人の形を描いた祭祀用絵画の出土例はあるが、一般絵画の出土は初めて(2001.2.18) |