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●2月28日、沖縄県宜野湾市のホテルで、普天間飛行場が米軍に接収される以前の宜野湾の街並みがCGで再現され公開された。CGは、「基地がなかった頃 昭和の初めごろ、宜野湾への旅」と題した全9分の作品。宜野湾、新城の両集落を中心に宜野湾並松(ジノーンナンマチ)を歩き、馬場(ウマウィー)やジノーンマチグヮーなど戦前の街並み、人々の暮らしの様子などがナレーションで語られている。(2002.4.11) |
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●2月28日、与那国島の海底遺跡調査に水中テレビロボットが導入され、海底遺跡近辺の水中の地形画像を撮影した。水中テレビロボットは全長約1メートル、高さ約52センチで、最大深度は150メートル。(2002.4.11) |
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●2月27日、米ネット・オークションに出品されており、米軍属のアダム・スピーク氏が落札したアルバムの持ち主が見つかり遺族の元に戻った。報道で、気づいた遺族が親戚中に連絡し、アルバムで再確認して判明した。撮影されたのは1930年ごろだとみられる。(2002.4.11) |
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●2月22日、沖縄県大里村の「平川壕」で行われている厚生労働省の沖縄戦没者遺骨収集作業で、遺骨11柱、信管のない150ミリ砲弾130発、薬莢25発が見つかった。(2002.4.6) |
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●2月11日、沖縄戦で米兵が持ち帰ったと思われる戦前の沖縄の写真が、米ネット・オークション・eBayに出品され、宜野湾市在の米軍属、アダム・スピーク氏が落札した。氏は、「アルバムを捜している遺族に返したい」としている。写真は着物姿の女性たちが浜辺に座ったカットや学生服を着たリーゼントの男性、外国を思わせる建物の前に立つ中年男性など7枚。1枚ずつ、アルバムの台紙に張り付けられているが、装丁ははずれ、バラバラになっている。(2002.4.6) |
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●2月16日、沖縄県那覇市の首里中学校で県立第二高等女学校「白梅学徒隊」をテーマにしたドキュメンタリー映画(仮題「白梅」、クリエイティブ21制作)の撮影が行われた。同学徒隊は沖縄戦中、具志頭村にあるヌヌマチガマ内の野戦病院で看護に当たった。映画は今年8月中に収録終了、来春に一般公開の予定。(2002.4.2) |
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●2月7日、沖縄県那覇市に18世紀に作られ、琉球王家筋が所有していたとみられる琉球漆器の衣装箱が寄贈された。衣装箱は、模様の特徴などから「朱漆双鳳瑞雲箔絵櫃(しゅうるしそうほうずいうんはくえひつ)」と名付けられた。横86センチ、縦52センチ、高さ56センチの杉製。寄贈したのは明治に沖縄で開業医をしていた佐賀県出身の故野田愛六氏の遺族。(2002.3.27) |
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●2月6日、沖縄県那覇市にある「ナーチュー毛古墓群」で見つかった厨子甕(ずしがめ:ジーシーガーミ)4点が親族の一人である祖慶文子氏に返還された。1993年に市教委が発掘・復元したもで、その後親族側から申し出があり、系図と銘書が一致、今回の「返還」となった厨子甕は沖縄に普及していた家型、御殿(うどぅん)型などと呼ばれるもの洗骨した骨を納める瓶。(2002.3.27) |
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●沖縄県で68年前の臨時市場、「九日市」(クニチマチ)の写真が見つかった。戦前、九日市は先祖を迎える盆初日の十三日(ウンケー)まで開かれており、サトウキビやスイカを売る商人や買い物をする人の姿が写っている。写真を撮影したのは三重県四日市市に住む長島貞則氏(94)(2001.10.25) |
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●7月28日〜8月5日まで、ロシアの東洋学者ニコライ・ネフスキー(1892〜1937)の故郷を訪ねるロシア訪問団の一行がロシアを訪問。ネスフキーの娘エレーナ氏と面談し、墓苑で舞踊を奉納した。ネフスキーは1915年、官費留学生として来日。1922年、初めて宮古島に調査で来訪し、「宮古島の結婚と祭祀」を発表。その後、研究のため二度、宮古や伊良部島を訪れ、宮古の方言や伝統祭祀、当時の風習などについて研究し、多くの著者を残した(2001.9.18) |
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●8月8日、沖縄県浦添市に建設が進められている国立組踊劇場支援財団に、100年以上前の組踊台本が寄贈された。台本は1896年に真栄城某が一つづりにした「忠孝婦人」「二山和睦」「高山敵討」「本部大主」と、後年、政牛さんが入手した「忠臣身替之巻」を含めた5冊。王府時代に変体仮名交じりで書かれていた台本を、明治期の人たちが読みやすいように楷(かい)書片仮名交じりに書き換えたものと思われる。首里の著名な組踊研究者だった故・与那覇政牛氏が保管していたもので、息子の与那覇修氏が「組踊劇場の研究資料になれば」と贈った(2001.9.12) |
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●東京都の新宿の神社で開かれていた骨董市で1905(明治38)年に沖縄で二番目にできた「沖縄新聞」の、1906(明治39年)5月14日(94号)と同月24日(99号)の原本が見つかった。これまで最も古いと確認されている沖縄の新聞は、東京大学などに保管されている「沖縄新聞」(明治40年12月22日号)。今回発見した新聞は、ほぼ完全な形で残っており、損傷はほとんどなく、記事もはっきり読み取れる(2001.8.23) |
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●6月21日、北中城村中央公民館で琉米歴史研究会が米国から持ち帰った古地図「琉球国惣絵図(間切集成図)」についての講演会が開かれた。糸満市立図書館主幹の金城善氏は、帰ってきた6枚の古地図を丹念に分析した結果、1781年に建てられた「宜名真之御殿」が国頭間切の絵図で確認できる一方で1798年には完成していたとされる真和志の識名園が見当たらないことを挙げ、「その間に描かれたと考えている」と報告した(2001.7.24) |
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●沖縄市の諸見民芸館で116年前に沖縄から本土へ渡ったとみられる壺屋焼の荒焼きの甕が見つかった。表面には「明治十八年園寄孫兵衛自用 琉球國製極上泡盛三斗五升入 代金五圓也」という文字が、墨で書かれている。「沖縄で泡盛を購入した人が本土へ持ち帰って書き入れたのだろう」と専門家はみている(2001.7.24) |
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●沖縄県那覇市の祖慶文子氏は、沖縄戦の混乱で正確な場所が分からなくなっていた先祖の本家(ムートゥ)墓を、県公文書館に保管している米軍の航空写真によって56年ぶりに確認した。祖慶さんは15代続く、天久親雲上(ペーチン)の末裔に当たる。元の那覇東急ホテル内の敷地内で確認された墓は戦前、「清明」(シーミー)やウマチーなど大切な行事では親せきが集まっていたという(2001.7.24) |
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●吉備国際大学の下山進教授の分析で、琉米歴史研究会が米国から持ち帰った絵図「琉球国惣絵図(間切集成図)」に青色「プルシアンブルー」が使われていたことが判明した。プルシアンブルーは1704年にドイツの科学者ディースバッハが合成に成功した人工染料。その後十数年は製法が公開されなかったという。記録によると、この染料が日本に輸入されたのは1820年に大坂、1825年の江戸が最も早い時期とされている(2001.7.24) |
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●琉米歴史研究会が、米国から持ち帰った「琉球国惣絵図」の高嶺間切(現糸満市)部分に、「南山舊城(きゅうじょう)」と記されているのが確認された。南山は、尚巴志が沖縄本島を統一する15世紀まで南部を支配していたが、王府時代の書には、本拠地は大里か高嶺のいずれかが記載され、長く論争の的となっている。「高嶺」説は、南山最後の王・他魯毎(たるまい)が嘉手志川を金の屏風と換えたとの説話を裏付けるように、同川が糸満市大里に他魯毎の墓も同市内にあることから根強い。また、政治家・蔡温が改修した史書『中山世譜』(蔡温本)も高嶺を本拠地と記していることによる。一方、「大里村」説は、政治家・向象賢(しょうじょうけん)(羽地朝秀)が1650年に著した琉球最初の正史『中山世鑑』や蔡温の父・蔡鐸(さいたく)が漢訳補訂した『中山世譜』などの記載を基にする。今回の発見は、南山の本拠地は「高嶺・南山城」説を主張する研究者らは「高嶺説を補強する有力な手掛かり」と意気込んでいる(2001.7.24) |
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●沖縄を代表する音楽家・宮良長包(1883〜1939)直筆の楽譜がこのほど、言語学者の宮良当壮(1893〜1964)の長男で東京都在住の当章氏宅で見つかった。都内の出版社「郷土研究会」が長包、当壮共著で出版した「八重山古謡」(1928年に第一集、1930年に第二集を発刊)に収録している八重山のユンタ(労働歌)など18曲で、ほとんどが戦争で焼失し、これまで現存が確認されていなかった「幻の楽譜」(2001.6.22) |
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●海洋博覧会記念公園管理財団に、最後の琉球国王・尚泰の孫に当たる玉寄澄子氏(大阪在住)から王府時代から明治期に使用された王家の遺品が寄贈された。寄贈されたのは、1・琉球国王の衣装に使われた絹織物と同じ素材で作られたバッグ、2・同素材で作られた絹織物、3・読谷山織の手ぬぐい。バッグは、王府時代に中国皇帝から授かった「御蟒緞(うまんとん)」と呼ばれる龍をあしらった絹織物から仕立てられている。また読谷山織の手ぬぐいは、明治期に製作され、当時の大阪博覧会に出品されたもの(2001.6.22) |
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●沖縄県浦添市教委は、琉球王朝時代から使われていた前田・経塚地域にある古墓群から出土した厨子甕(ずしがめ)の修復と、納められている人骨の分析を進めている。同地域には約1000基の墓があり、これまで約30基を発掘してきた。甕には納骨された人の名前や続柄、死亡年月日、洗骨日などが書かれており、墓が使用されていた時期や家族の構成などがわかり、同地域に住んでいた人たちの系譜や来歴がわかるという(2001.6.22) |
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●沖縄県名護市の吉川安一氏は、源氏物語のうち「夕顔」と「若紫」を「夕顔の花」と「紫の上」と題し、原作からイメージした口語を当てて、詩に創作した。氏は、「芭蕉布」の作詞者。作曲は過去にも「やんばるの夜」など約20曲でコンビを組んだ作曲家・島袋正雄氏に依頼した(2001.5.29) |
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●5月1日、沖縄県首里城公園管理センターは、琉球王府時代末期の19世紀に制作されたとみられる紅型を今年3月に収集したと発表した。紅型は絹を黄色の地で染め、梅や桜、カエデなどのほか、雪輪や手毬様の紋様が配されている。琉装を和装に仕立て直してある(2001.5.15) |
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●4月23日、 木村政昭琉大教授のグループが与那国の「海底遺跡ポイント」周辺で採取した遺物2点が、6月21日からオーストリアで開催される世界の未解明の遺物を一堂に集めた国際展示会に出展されることが決まった。この展示会は「未解明のなぞ」をテーマにリンツ市美術・博物館などが主催。ヨーロッパ、南米などの遺物約300点を展示する。エクアドルのアルデビア土器、ポリネシアのラピタ土器、青森県・三内丸山の遺物も含まれている(2001.5.8) |
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●琉米歴史研究会は、18世紀中ごろに作成されたとみられる琉球の絵地図6枚と所有者を見つけ、返還交渉に取り組んでいる。同研究会は流出文化財の返還運動に取り組む特定非営利活動法人。同研究会顧問で、流出文化財のリストを作成した真栄平房敬さんによると、地図はカール・W・スタンフェルト米海軍中佐が中城御殿(ウドゥン)から米国に持ち出した琉球王朝の宝物の一部。同研究会によると、中佐は1977年に死去。沖縄から持ち帰った品約200点を、翌年に家族が米マサチューセッツ州内で開かれたオークションに出品。地図はボストンに住む収集家が250ドルで落札した。同研究会はオークションの記録を入手し、所有者を特定して、返還交渉を進めている(2001.4.7) |
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●3月23日、琉米歴史研究会は、18世紀ごろに作成されたとみられ、現在米国ボストンの収集家が保存している琉球の絵地図6枚が、4月初旬に沖縄に返ってくると発表した。地図には1700年代の琉球の間切や集落、主要道路のほか番所や井戸の位置などが細かく記録されている(2001.4.7)関連記事 |
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●3月23日、沖縄の伊江島の米軍爆弾処理船(LCT)爆発事故の慰霊碑が伊江港内に建立された。LCTは戦闘用爆弾を海上に投棄処分していた米軍の作業船。1948年8月6日午後4時すぎ、本部町から村の連絡船が入港し、大勢の船客や出迎えがいた波止場でLCTに積載されていた爆弾が崩れて大爆発。村民63人、村外の39人が死亡。73人が負傷し、8家屋が全焼する惨事となった(2001.4.7) |
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●3月30日、沖縄県具志頭村で村立歴史民俗資料館が完成し、落成記念式典が催された。同村内で見つかった約1万8000年前の化石人骨・港川人の全身骨格レプリカをはじめ、文書や民具、パネルなどが展示されている(2001.4.7) |
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●沖縄県豊見城村教育委員会は、開墾地の権利関係を記した『仕明知行帳』一冊、『仕明請地帳』二冊のほか、墓地の売買契約に関する『墓敷譲手形』『墓敷村証拠』村有形文化財に指定した。いづれも土地の所有や開墾などを認めた19世紀・琉球王府時代の古文書。 「仕明地」とは、士族や農民が薩摩の許可を得て新たに開墾した土地。士族による場合を「仕明知行地」、農民なら「仕明請地」といい、それぞれ文書(帳)を発行し、土地の所有や売買譲渡などの権利を認めた(2001.3.15) |
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●沖縄県那覇市の琉米歴史研究会は、終戦直後に米軍に持ち出された約300年前に薩摩藩が作製したとみられる琉球の地図の現在の所有者を突き止め、返還交渉を進めている。この地図は5枚1組。琉球の地図が5枚に分けて描かれており、当時の間切(現在の市町村に相当)が色別で塗られ、集落や主要道路が記されている。1700年代に江戸幕府が各藩に測量図の作製を命じており、その命令で薩摩藩が作ったものではないかとみられている。同会では3年前のオークションのカタログに、所有者のひとりから琉球の地図を所有しているとの手紙が届いた(2001.3.10) |
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●沖縄に豚がいつごろ入ったかをめぐって二つの異なる研究結果が相次いで発表された。琉球大学の川島由次農学部教授は、北谷町桑江の町役場一角にある「後兼久原遺跡」の14世紀前半の層から出土した獣骨に豚の前足骨があった、と発表。一方、国際日本文化研究センターのの会誌には、石黒直隆帯広畜産大学助教授らの研究グループによる、県内出土のイノシシ属の骨から得たミトコンドリアDNAの分析が掲載され、「弥生並行期(紀元前三世紀から紀元後三世紀)には大陸からの東アジア系家畜豚がいた」という論を展開している(2001.3.5) |
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●2月3日、沖縄県豊見城で「ジョン万次郎を語る会」主催の「万次郎来村150年祝う会」が開催された。同日は、幕末に日本と米国の橋渡し役として活躍したジョン万次郎こと中浜万次郎(1827〜1898年)が沖縄に上陸してから150年目に当たる(2001.2.14) |
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●沖縄県読谷村楚辺の米軍トリイ基地内で、グスク時代初期(12〜13世紀ごろ)の遺跡が発掘された。高倉式倉庫と母屋の柱穴とみられる穴が多数見つかったほか、なべ型や壷型の土器のかけら、中国製青磁器のかけらなどが出土。遺跡は「楚辺ウガンヒラー北方遺跡」と名づけられた(2001.2.12) |
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●沖縄県宜野湾市真志喜のヒヌカン(火の神)の祠、ノロ殿内(ドゥンチ)拝所が、戦前の姿で復元されることになり、3月末にその姿をあらわす。同祠は沖縄戦後まもなく、米軍の土地造成で壊されたとみられる。戦前の見取り図や、古老からの聞き取り調査などを基に木造りで復元される(2001.2.5) |
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●1月31日、沖縄県の公文書館は、大戦で焼け落ちる前の首里城周辺の全景が米軍によって鮮やかに空撮された写真などの上空写真を公表した。
この写真は同館が、米国国立公文書館新館で見つけたもの。首里城を中心とする一帯の写真は、1945年4月2日に空撮。本島上陸(4月1日)の翌日首里城をはじめ、円覚寺、たくさんの棟から成る中城御殿(跡地は現在の県立博物館)の様子がよくわかる(2002.2.2) |
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●沖縄県北谷町伊平の米軍嘉手納基地内にある「大作原(うふさくばる)古墓群」で約100年ほど前の墓11が確認されている。100年ほど前の亀甲墓のほかに石灰岩の岩盤を掘り抜いて造った掘込墓も見つかっている(2001.1.28) |
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●1月4日、福岡県立図書館に1894(明治27)年12月16日付の「琉球新報」が保存されていることが判明。原紙としては現存する最古のもの。同新聞は、1893年9月15日に那覇で創刊された沖縄初の新聞(2001.1.10) |
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●12月24日、沖縄県国頭で、琉球王朝時代に首里王府の年中行事だった「辺戸大川(ウッカー)のお水取り」を再現する「あすむい祭り」が行われた。「お水取り」は1938年に途絶えていたが1998年に復活した(2000.12.27) |
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●12月4日、沖縄県で琉球国王尚泰(中山王)が薩摩藩家老の島津石見(いわみ)に送った直筆の書簡を公開。薩摩藩主島津斉興(なりおき)が、江戸城で12代将軍家慶から茶入を拝領したことに対し、尚泰王が祝儀を表し太刀や馬代などを贈ったことが書かれている。書簡は1855年ともの推定されている(2000.12.11) |
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●11月30日、ユネスコの第24回世界遺産委員会で琉球王国の王城だった首里城跡や中城城跡など9カ所の城跡や名勝などが「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産に登録されることが決まった。登録されたのは、今帰仁城跡、座喜味城跡(読谷村)、勝連城跡(勝連町)、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門(ソノヒヤンウタキイシモン=那覇市)、玉陵(タマウドゥン=同)、識名園(同)、斎場御嶽(セーファウタキ=知念村)。座喜味城と中城城の両城は王国とかかわりの深い護佐丸が居を構えた。勝連城は阿麻和利が居城としたことで知られる。玉陵は第二尚氏の墓で、琉球独自の石造り建造物。識名園は冊封使(さっぽうし)を招くなど外交の場として活用された。斎場御嶽は自然崇拝など独特の信仰形態を示し、国家的な祭祀(さいし)の場(2000.12.2) |
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●11月16日、沖縄県の公文書館に琉球王国時代の伊平屋島の村役人が残した文書9冊が新垣家から寄託された。当時の伊平屋島では、間切番所が選んだ子弟を首里に派遣する「地頭家御殿奉公」と呼ばれる教育制度があり、新垣家は代々首里に派遣されていた(2000.11.21) |
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●11月1日、沖縄県名瀬市小湊の「フワガネク遺跡」で箱形石棺墓が出土。7世紀前後のものとみられるが、この地層から墓が出たのは奄美群島では初めて(2000.11.7) |
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●10月29日、沖縄の首里城祭のメインイベントの琉球王朝絵巻行列が開催。ドラや「ソーナ」と呼ばれる楽器で、中国風の行列音楽「路次楽」が奏でられる中、金の竜の装飾が施された「御轎椅」(ウチューイ)に乗った国王と王妃が登場(2000.10.31) |
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●10月19日、沖縄海洋博のシンボル・アクアポリスの撤去作業が始まる。23日午前には上海へ運ばれスクラップに(2000.10.23) |
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●沖縄県名護市の大堂原貝塚から、県内では最古の土器と同じタイプの薄手の土器の破片が大量に出土(2000.10.6) |