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●山口県山口市では、幕末に英国留学した5人の顕彰碑を立てる。5人は、のちに明治政府の基礎を築いた初代総理・伊藤博文、外務卿・井上馨、日本最初の鉄道を敷設し国有化に努めた井上勝、造幣局長で構内のサクラを初めて一般開放した遠藤謹助、工部卿・山尾庸三。鎖国中の1863(文久3)年5月12日に横浜を離れロンドン大で学んだ。場所は、山尾庸三の生家跡。5人と薩摩藩留学生の顕彰碑はロンドン大に、鹿児島県串木野市には薩摩藩留学生の碑が立っている。(2002.8.13) |
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●高知県香美郡夜須町の住吉海岸の砂浜から旧海軍「震洋隊」の隊員を供養したモニュメントがこのほど見つかった。モニュメントは長さ約35センチのコンクリート製で、特攻艇の形を模したとみられる。上部にはステンレスのパイプで作った小さな飛行機と石碑に見立てたような長さ15センチほどの石が据えられている。前部には「供養」、後部には「南無阿弥陀仏」、側面には「昭和20年8月16日手結住吉○玉砕」「南無震洋隊○○玉砕」(○は判読不明)、上部には桜といかりの印が刻まれている。(2002.6.24) |
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●2月11日、愛知県名古屋市緑区の有松鳴海絞会館で、頼山陽の漢詩が刻まれた石碑の除幕式が行われた。漢詩は、山陽が有松の豪商・井桁屋に宿泊した際、絞りが盛んな有松の町を詠み込んで扇面に記したもので、往時の有松の様子を伝えている。同碑は、江戸時代からの伝統産業である絞りを受け継ぐ有松絞商工協同組合の創立50周年記念碑(2002.3.22) |
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●2月1日、島根県益田市の石見空港ロータリー正面に柿本人麻呂の歌碑が建立され除幕式が行われた。歌碑には、人麻呂が妻との惜別の情を読んだ「石見のや高角山の木のまより わがふる袖を妹みつらむ」が刻まれている(2002.3.22) |
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●埼玉県さいたま市の常泉寺は、同寺にある関東大震災当時に虐殺された朝鮮人の墓がわかりづらかったことから2001年12月、追悼の石碑を墓前に建立した。1923年に起こった関東大震災では、大災害とともに社会が混乱、流言によって多くの朝鮮人が虐殺された。同寺に葬られているのは、震災当時24歳だった朝鮮人・姜大興氏。姜氏は旧片柳村(現さいたま市)に、東京方面から避難してきたところを自警団員に日本刀や槍で重傷を負わされ、死亡した。流言の犠牲者だった。この事件では同年11月、浦和地裁(当時)で5人に執行猶予のついた判決が言い渡された。自責の念にかられた村人たちは、後日の教訓とするために、同寺に犠牲者の墓を造って手厚く葬ったとされる。戒名は、朝露如幻禅定門(2002.3.11) |
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●1月26日、福井県小浜市のうのせ公園に良弁和尚の記念碑を建立し、完成の記念式典が行われた。東大寺(奈良市)の開祖・良弁僧正は、赤ん坊のころにワシにさらわれ、両親と生き別れた。その後、奈良で育ち東大寺を建立。わが子を捜し歩いていた両親が、成長した良弁のうわさを聞き30年ぶりに再会したという言い伝えが残っている。下根来は良弁の生誕地とされ、良弁と両親のつながりを示す根拠になったという十一面観音像が残っている(2002.3.7) |
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●1月24日、沖縄県石垣市崎枝で、1897〜1945年まで約半世紀にわたって、日本本土や沖縄本島、台湾間の通信に利用された海底電信線の中継施設「海底電信線陸揚げ室」の記念碑除幕式が行われた。台湾〜沖縄〜日本本土間の通信回線は、日清戦争で日本が台湾を領有したのに伴い、1897(明治30)年に敷設された台湾と石垣をつなぐ海底電信線によって全通した。石垣〜台湾間の海底電信線の陸揚地にある同施設は「デンシンヤー」(電信屋)の呼称で地元に親しまれてきたが、太平洋戦争の戦災で1945年に焼失。現在、焼け跡と弾痕の残る外壁が市指定史跡として保存されている(2002.3.7) |
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●岡山県落合町と同町上河内の西谷地区住民は、同所にある旧出雲街道の峠「鮒越(ふなごし)の乢(たわ)」に名前の由来などを記した石碑を建立した(2002.3.6) |
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●8月30日、京都市中京区の「賀茂(紫野)斎院跡顕彰会」は、葵祭のヒロイン斎王の住まい「斎院」の跡で11月18日に催す顕彰碑の除幕式に、葵祭の歴代斎王代45名に参加を呼びかける。葵祭に行列が復活したころの斎王代はすでに60代だが、歴代のヒロインが大勢集まるのは初めてという(2001.10.25) |
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●8月29日、新潟県佐渡相川町弥十郎町に三井物産創始者・益田孝氏の功績を記念した顕彰碑が建立され除幕式が行われた(2001.10.25) |
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●石川県富来町の三谷博氏宅の庭に、ペリリュー島で玉砕した日本守備隊の敢闘ぶりをたたえ米国太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥が当時読んだ弔辞を刻んだ碑がたっている。碑文は「この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ 日本の国をよぎることあらば伝えよかし この島を全員死して守った日本の将兵の勇気と祖国を憶(おも)う心根を」。軍隊経験者の三谷氏は、元敵将の姿勢に感動し1985年、同碑を建てた(2001.10.7) |
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●8月29日、新潟県佐渡相川町で故・益田孝氏の顕彰碑の除幕式が行われた。益田氏は1848年、佐渡奉行所の役人の子として生まれ、三井物産を創設し、初代社長になった。その後、日本経済新聞の元となる中外物価新報を創刊、日本の経済界をリードした(2001.10.3) |
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●8月25日、下関市阿弥陀寺町の阿弥陀公園で、朝鮮通信使の「上陸之地記念碑」が完成し除幕式が行われた。同地は、日本を訪れた朝鮮通信使が、本州に初上陸した地点とされる(2001.10.3) |
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●8月23日、北海道釧路市米町の厳島神社で俳人・高浜虚子(1874〜1959)の句碑の除幕式が行われた。虚子が1933年(昭和8年)8月23日に釧路を訪れた際に詠んだ俳句「燈台(とうだい)は低く霧笛は峙(そばだ)てり」を彫り込み、除幕式も来釧した日にちなんで行われた(2001.9.28) |
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●群馬県倉渕村の東善寺で幕末の幕臣・小栗上野介の銅版レリーフが公開されている。同レリーフは、1930(昭和5)年の群馬会館完成を記念し、同会館二階の壁にはめ込まれていたが1983年の改修で外され、県に保管していたもの。同寺は小栗の菩提寺で、講演やシンポジウムなど小栗を「群馬を代表する偉人」として顕彰する活動を続けている(2001.9.28) |
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●福島県会津若松市の佐川官兵衛顕彰会は、官兵衛戦死の地・熊本県長陽村からゆかりの大石を譲り受け、これをもとに鶴ケ城内に顕彰碑を作る。官兵衛が戦死した長陽村には「佐川官兵衛討死之地」の碑と首塚があり、大石は碑と首塚のすぐ近くにある。官兵衛が後ろから銃撃された場所の近くにあったものといわれ、没後、地元の人々に大切に保存されてきたもの(2001.9.24) |
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●8月18日、新潟県新発田市大手町1に同市出身の実業家・大倉喜八郎の「生誕之地」の石碑が建てられ除幕式が行われた。高さ1メートル余りの石碑には、「郷土の偉大な実業家 大倉喜八郎生誕之地」と記されている(2001.9.21) |
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●8月15日、沖縄県石垣市新川で、石垣島事件により処刑された3人の米兵捕虜の慰霊碑の除幕式が行われた(2001.9.18) |
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●北海道石狩管内当別町の有志が中国人・劉連仁氏の生還記念碑を建てるための募金活動を開始した。劉氏は、第二次大戦中に道内の炭鉱に強制連行され、戦後も13年にわたり逃亡生活を続けた末、石狩管内当別町で保護された(2001.9.18) |
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●滋賀県五個荘町は、歴史街道「景清道」を歴史的遺産として後世に伝えようと石川地区の同道に記念石碑を建立した。「景清道」は、中山道に沿って五個荘町を横断する。能や浄瑠璃、歌舞伎などに登場する平家の雄将・平景清が通ったという古道。景清は、平安末期から鎌倉初期に生きた平家の侍大将で、屋島の戦で源氏武将・美尾屋十郎の錣を太刀で切り、「遠からん者は音にも聞け」と大音声を上げた勇者として知られている。また、平家物語以降の幸若舞「景清」によれば、壇ノ浦の戦いを生き延びた景清は復讐に燃える暗殺者として源頼朝を狙うが、最終的に自らの両目を抉って頼朝に恭順。この景清道は、目の回復を祈って京都清水寺詣でに通った道で、中山道(当時は東山道)と平行する別名・陰京道という間道(2001.8.25) |
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●8月1日、大映が京都市右京区太秦の旧撮影所内に飾っていた「映画「羅生門」の映画賞受賞記念碑」の台座が亀岡市から里帰りした。1971年に大映が倒産し、撮影所取り壊しの際、出入りの造園業・野村武司氏が碑の台座を引き取り、亀岡市内で保管していたもの(2001.8.23) |
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●7月18日、北海道函館の「ペリー提督来航記念碑建立協議会」は、函館出身でローマ在住の彫刻家小寺真知子さんにペリー提督の胸像の制作を依頼した。同会は幕末の函館を訪問した米国のペリー提督の胸像を建立することを目的に活動している(2001.8.6) |
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●6月23日、北海道鷹栖町に「鷹栖町水田発祥の地の碑」が建てられた。同町の稲作は1893年(明治26年)、岩手県から当時の鷹栖村に移住してきた山崎力蔵・千松親子が、水田を造り、札幌の農家でもらった種もみをまいたのが始まり(2001.7.24) |
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●6月26日、京都市上京区の白峯神宮に「蹴鞠の碑」が奉納され除幕式が行なわれた。同神社は蹴鞠の神様として知られ、2003年に結成100年を迎える蹴鞠(けまり)保存会による |
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●6月20日、新潟県北蒲笹神村の新潟ロシア村で「日ロ親善シベリア戦没者慰霊友好の塔」の完工式が行われた。友好の塔は、日露戦争以来の両国の戦死者を供養する目的で建てられ、抑留で多数の人が犠牲になったシベリアの大地に向けて立てられている(2001.7.17) |
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●6月17日、静岡県沼津市内浦三津の安田屋旅館に太宰治の文学碑が完成し、除幕式が行われた。太宰は昭和22年2月上旬から約1カ月間、同旅館に滞在。現存する2階の部屋で、8章からなる「斜陽」の1、2章を書き上げた。碑はこの部屋の真下に建てられ、一章後半の「海は、かうしてお座敷に座ってゐると、ちやうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらゐの高さに見えた」という一節が刻まれている(2001.7.4) |
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●6月27日、長野県岡谷市の諏訪湖ハイツで、1944(昭和19)年、旧ソ連国境に近い旧満州(中国東北部)の「向陽岡谷郷開拓団」に、岡谷市内から勤労奉仕隊員として渡った人たちが、「偲(しの)ぶ会」を開いた。奉仕隊には同開拓団を支援しようと市内の男女を募集、当時20歳前後の若者45人が参加し、農作業や在満国民学校での指導など約半年間にわたり開拓を手助けした(2001.7.4) |
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●5月27日、石川県輪島市鳳至町の鳳来山に民謡詩人野口雨情の歌碑が建立された。野口は、1934(昭和9)年、能登を訪れた際に「輪島小唄」を作詞。その詞の一部が歌碑に刻まれている。この歌の一節は短冊型の和紙に墨書され、当時、雨情を歓迎した広瀬昌太郎県議が譲り受け、家族が保存していた。市文化協会の中村裕前会長が輪島港建設に尽力した広瀬の経歴などを調査中に偶然、発見した(2001.6.18) |
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●5月19日、福井県敦賀市の神楽町二丁目のアクアトム玄関広場に「奥の細道」の原本とされ、同市の西村家が所蔵する「素龍清書本」(重文)を忠実に再現した文学碑が、建立され除幕式が行われた。石碑は御影石製で、芭蕉が敦賀に到着した晩に気比神宮を参拝し、遊行上人が土砂を運んで参道を造ったという伝説を聞いて詠んだ有名な句「月清し遊行のもてる砂の上」などが刻まれている(2001.6.3) |
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●静岡県由比町本光寺に、万葉集の防人の句を刻んだ万葉の歌碑を建立された。歌碑では、庵原郡の防人の生部道麻呂(おふしべのみちまろ)が詠んだ「畳けめ牟良自(むらじ)が磯(いそ)の離り磯(そ)の母を離れて行くが悲しさ」を紹介している。「むらじが磯」は、当時地元で取れた黄金を朝廷に献上した三使連(みつかいのむらじ)が恩賞を受けたことから、その名が付いたと『続日本記』にある(2001.5.8) |
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●4月25日、岐阜県羽島市江吉良町の神宮神社で「薩摩義士顕彰記念碑」の除幕式が行われた。1752(宝暦2)年、薩摩義士が幕府の命で行った「宝暦治水工事」を後世に伝えようと計画した羽島ライオンズクラブと、姉妹提携している鹿児島ライオンズクラブの提携40周年記念事業(2001.5.10) |
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●4月22日、愛知県新城市新城文化会館で新城藩重臣の池田寛親(ひろちか)が著した太平洋漂流記「船長(ふなおさ)日記」の碑の除幕式が行われた。船長日記は、尾張半田(現半田市)の船頭小栗重吉の漂流体験を、寛親が本人から聞き取って書いたもの。重吉は1813(文化10)年、回船に乗っていて遠州灘で暴風雨により遭難。太平洋を484日間漂流して米国西海岸で英国船に救助された(2001.5.2) |
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●4月8日、広島県神辺町で箱田良助(1790〜1860)の生誕碑が建立され除幕式が行われた。良助は箱田村(現神辺町)に生まれ、17歳で上京して伊能忠敬に入門。一緒に西日本を測量して歩き、後には筆頭内弟子となって1821年の「大日本沿海輿地全図」の完成に寄与した。翌年、良助は榎本家の養子になり、二男の武揚は戊辰戦争で函館・五稜郭にたてこもり、後に明治政府の要職を歴任した(2001.4.18) |
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●京都市中京区西洞院通三条下ルの染色会社「馬場染工業」は、業務用にくみ上げている地下水のいわれを記した石碑を建立した。同時に井戸も修復し、4月から地下水を使って抹茶喫茶もオープンさせる。地区一帯は「柳水」と呼ばれる地下水があり、千利休や織田信長の二男、信雄などが愛用したとされている。このほか石碑には、一帯には平安時代末期に崇徳院の御所があったことや、織田信雄邸跡を経て、紀州徳川氏の京都屋敷跡だったことなども記している(20014.8) |
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●3月18日、山口県下関市吉田の東行庵に高杉晋作の和歌を刻んだ歌碑が建った。全国からの募金で建てられ、
「面白き こともなき世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」が刻んである。なお同寺には晋作の墓がある (2001.3.28) |
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●3月11日、静岡市丸子赤目ケ谷の起樹天満宮で近代日本茶業の礎を築いた、故多田元吉翁の業績をたたえる多田元吉翁顕彰碑除幕式が行われた。元吉翁は、徳川慶喜らと明治維新のころに静岡に移り住み、丸子で開いた茶園の実績を認められ、茶の先進国、中国やインドに派遣された。元吉翁は命がけの調査から持ち帰った紅茶栽培のノウハウを日本に広めただけでなく、緑茶にも応用し緑茶の生産革命を起こした。その業績は現在の茶業、茶文化に大きな影響を与えてた(2001.3.20) |
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●3月2日、「賀茂(紫野)斎院跡顕彰会」は、京都市上京区社横町の斎院跡に顕彰碑を建てることを決めた。斎院は810年(平安初期)、上賀茂、下鴨両神社に仕える斎王の住まいとして設けられた。歴代の斎王や仕えた女房たちには一流歌人が多く、宮廷とともに平安文学のサロンだったとされる。葵祭は、斎院を出発し、両神社に参拝した斎王の行列を今に伝えるものとされる(2001.3.7) |
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●千葉県市原市でこのほど、清水市の市民団体「次郎長翁を知る会」により「伏谷如水ト清水次郎長ノ碑」が建立され除幕式が行われた。同会によると、伏谷如水は浜松藩家老だった明治元年、駿府周辺の警護役として次郎長を抜てき。次郎長はその期待にこたえ、清水港の近代化や富士山すそ野の開墾など大事業に余生をかけた。如水はその後、国替えで市原の鶴舞藩に移り、名家老として活躍したという(2001.3.5) |
●静岡県磐田市内の郷土史家は「万葉集」に収録されている磐田地方出身の防人の歌を広く知ってもらおうと歌碑の建立を計画している。歌碑は三月に同市御殿の御殿遺跡公園内に完成の予定。万葉集には755(天平勝宝7)年の防人の歌84首を収録。遠江国出身者の歌は全部で7首あり、
畏(かしこ)きや命被(みことかがふ)り明日ゆりや草(かえ)がむた寝む妹(いも)なしにして
詠人:国造丁長下郡物部秋持 恐れ多い勅命を承って、門出する明日からは茅とともに寝ることであろうか。妻も無く
我が妻も絵に描きとらむ暇(いつま)もが旅行く吾(あ)れは見つつ偲(しの)はむ
詠人:長下郡物部古麿 妻をせめて絵に描き写すだけの暇があればなぁ。(防人として)長い旅路を行く私は、それを見ては妻を偲ぶであろうに
この2首が現在の磐田市南部とみられる長下郡出身者の歌となっている。
(2001.1.28) |
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●12月20日、大東島北北大東村は村上陸公園で記念碑除幕式を行った。同公園は100年前、玉置半右衛門らが島の開拓に着手した、今回の碑建立地となった(2001.1.8) |
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●12月17日、兵庫県播磨町古田三丁目の正願寺に浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ、1837〜1897年)らが乗っていた廻船「永力丸」が漂流して150年たったことを記念する石碑建立された。永力丸は1850年10月、遠州沖で嵐に遭って遭難。彦蔵ら17人の乗員は太平洋を漂流し、米国船に救助された(2000.12.21) |
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●11月26日、大分県竹田市竹田の稲葉川河川公園に四原一揆記念碑が立ち除幕された。四原一揆は1811(文化8)年、岡藩の過酷な年貢に立ち上がった農民がここに集結、岡藩との交渉で要求を貫徹した(2000.11.29) |
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●11月15日、兵庫県神戸市灘区の都賀川に架かる西郷橋西詰めに「旧西國浜街道」と刻んだ石碑建立。旧西国浜街道は、北側の西国街道の“バイパス”として利用され、芦屋市・打出から神戸・三宮神社までをつないだ(2000.11.17) |
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●福島県郡山の発展の基礎になった「安積疏水」を設計・監督したオランダ人技師ファン・ドールン(1837〜1906年)の生誕の地、ブルメン市にドールンの記念碑が建設されることになった(2000.11.10) |
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●ロシア・ウラジオストク市の「浦潮本願寺」跡地に記念碑が建てられ除幕式が行われた。同市には約5000人の日本人が住み、浄土真宗本願寺派(西本願寺)は1886年から布教活動をした(2000.10.31) |
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●生家が残る埼玉県伊奈町の住民らが中心になって進めていたサハリンでの間宮林蔵を顕彰碑建立がロシア側の事情で中止に(2000.10.10) |
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●京都・三吉稲荷に「映画の父」こと故・牧野省三監督を顕彰する碑を建立(2000.10.3) |