紫香楽宮(しがらきのみや)

■2002年
12/10、滋賀県信楽町の「紫香楽宮跡」近くの「鍛冶屋敷遺跡」から、8世紀中頃の大規模な銅の鋳造工房跡が出土した。出土したのは、溶解炉、たたら(足踏み式送風機)、鋳込み場の3つの跡がセットで16基。また、これとは別に、西側から鋳込み場の遺構が2基出土。この中から釣り鐘を造った鋳造跡と、一辺約1メートルの六角形で、内径が約2メートルある仏像の台座の鋳造跡が確認された。史書『続日本紀』によると、聖武天皇は743年10月、紫香楽で大仏造立の詔を出し、すぐに甲賀寺を開いた。この遺跡は「甲賀寺に仏像など銅製品を供給した官営工房」と見られる。(2002.12.20) 朝日新聞
大阪版
2002/12/11
●10月3日、滋賀県信楽町の「北黄瀬(きたきのせ)遺跡」から、紫香楽宮の関連施設とみられる井戸跡が出土した。井戸は一辺約2メートルの正方形で、厚さ約10センチのヒノキの板で囲われていた。深さは約80センチで、底に砂利が敷き詰められていた。すぐ西側には幅約2.5〜4.5メートル、高さ約70センチの檜や杉板3枚が井戸の板より深く埋められていた。また、井戸を囲んで東西7.75メートル、南北5.35メートルの建物跡も見つかった。この遺跡は、紫香楽宮の中心施設があったとされる宮町遺跡から南西へ約1.5キロ離れた場所で、規模や構造が平城宮の井戸跡と酷似していた。研究者は紫香楽宮の規模が当初考えられていたよりさらに広大で、平城宮に匹敵する規模の都だった可能性が高まった。(2002.10.10)
●紫香楽宮跡の調査委員長を務める小笠原好彦・滋賀大教授は、近年の調査の成果を踏まえて紫香楽宮造営の背景などを分析した文庫本「聖武天皇と紫香楽宮の時代」を新日本出版社から出版した。聖武天皇がなぜ都を転々と移し、当初大仏造立のための離宮と位置づけていた紫香楽宮を首都にしたのかなどについて、古代東アジア世界の国際関係などをひもときながら論証ている(2002.3.7)

■2001年
●滋賀県信楽町教委は、同町宮町の紫香楽宮跡の第二十九次発掘調査を始めた。これまで同時代の柱の根っこの一部や建物跡が多数出土している。昨年は宮の中枢施設だった「朝堂」のうち、長さ90メートルを超える西側の「西脇殿」とみられる大型建物跡が見つかり、宮の中核地点が確認できた(2001.5.25)

■2000年
●滋賀県信楽町黄瀬にある「新宮神社遺跡」を保存するため、同県の教育委員会は建設予定地となっている第二名神高速道路の設計変更の協議を日本道路公団大津工事事務所に申し入れる。この遺跡では聖武天皇が造った紫香楽宮に続く「朱雀路」にあったとみられる橋の跡などが見つかっている(2000.12.1)
●11月22日、滋賀県信楽町の紫香楽宮跡とされる「宮町遺跡」で、宮の中枢施設とみられる長さ90メートルを超える長大な建物跡が見つかった。この建物は現在の国会議事堂にあたる朝堂(ちょうどう)とみられる。奈良時代(8世紀)中ごろの掘っ立て柱建物跡で、南端が不明だが、南北の長さが91.5メートル以上あり、東西は11.8メートルほど。なお現地説明会資料は信楽町教委のサイトでも公開される。アドレスはhttp://www.biwa.ne.jp/~shi-kyoi/bunka.htm(2000.11.27)
●10月3日、紫香楽宮跡の「新宮神社遺跡」(信楽町)から奈良時代中期の掘立柱建物や井戸などの遺構と多数の土器が見つかった(2000.10.10)


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