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●11月7日、奈良県天理市豊田町で第二次大戦末期に本土決戦に備えて天皇陛下を移すために造られたと見られる地下壕が確認された。地下壕内の坑道は、幅約3メートル、高さ約2.5メートルで、あみだ状の構造。内部には、地下壕の壁面を覆うために用いられていたと見られる板材の一部などが残っている。第二次大戦末期に天皇陛下を奈良に移すことは、海軍の大西瀧治郎・軍令部次長が中心になり計画。昭和20年6月の最高戦争指導者会議では、米軍が沖縄を奪ったあと、7〜8月に九州南部・四国方面を奪取すると想定。海軍は、大和航空基地(柳本飛行場)を本土決戦の拠点とし、特攻隊出撃を天皇が見送る位置に御座所を設けようとしたとされる(2001.12.19) |
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●北海道網走の金野弘氏は、第二次大戦中に発売された、米軍戦闘機のエンジン音を収めたレコード「敵機爆音集」を保管している。レコードはSP盤で1943年、日蓄工業(現日本コロムビア)が千葉陸軍防空学校の監修を受け、4枚組で1200セットを発売。防衛研究所図書館によると、1942年に東京などが初めて空襲を受けた直後に、日本軍が海外戦地で入手した米軍機を国内で飛ばして録音。「ボーイングB17D重爆機」など機種別に、機体や爆音の特徴に関する解説付きで紹介。
現在は音源さえ残っていない(2001.12.1) |
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●9月6日、石川県の県議会土木企業委員会が開催され、石川護国神社(金沢市)に建つ「大東亜聖戦大碑」をめぐり、県が碑のある土地の代替地として7月に県立美術館周辺の土地を新たに都市公園に編入した問題が再度、取り上げられた(2001.11.7) |
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●8月21日、学童疎開船「対馬丸」の100分の1の模型が、同船が所属していた日本郵船から対馬丸記念会に寄贈された。模型を作ったのは愛知県在住の元教員・福富喜太郎氏。詳しい資料もなく、慰霊祭に間に合わせようと徹夜作業で完成させた。木材、紙を使用。マストや甲板などが細かく復元した(2001.10.3) |
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●1945年6月38日深夜から翌29日未明にかけ、長崎県佐世保市を襲った空襲での死者は、同市が従来公表している「1030人」より121人多い「1151人」とする「佐世保署沿革簿資料綴」が佐世保署に保存されていることがわかった。市の見解は市制50周年(1952年)記念の市史が根拠。同市史は旧陸軍などの発表を基にしており、遺族ら関係者から「実際の死者数より少ないのでは」との疑問も出ていた(2001.10.3) |
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●全国樺太連盟理事でサハリン史研究家の矢野牧夫氏の調査で、1944年(昭和19年)8月ごろ、南樺太(サハリン南部)の炭鉱地帯から朝鮮半島出身者や日本人労働者を関東や九州の炭鉱に送り込むため、当時の日本政府が策定、実施した徴用計画の全体像が明らかになった。徴用は9000人におよび、韓国・朝鮮人の中には戦争でサハリンが旧ソ連に占領されたため、妻子の元に戻れず、多数の家族離散の発端となった。氏は、茨城県立歴史館に保管されていた、政府機関・石炭統制会の「極秘」扱いの「樺太及釧路ニ於ケル炭鉱勤労者、資材等ノ急速転換実施要綱」など、計画の全貌を示す文書を確認、関係者の証言を集めた(2001.9.28) |
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●富山県富山市総曲輪地区の住民らでつくる「歴史研究サークル」は、昭和20年8月の富山大空襲で亡くなった、同地区の住民の名前を調査し記録する作業を続けている。現在の富山市戦災死亡者名簿は、終戦直後の昭和21年につくられた名簿を基にしており、世帯主以外の家族は「他四名」などと記され、姓だけしか分かっていない人も多い。メンバーは名簿の中から総曲輪地区に分類されている人を抜粋。2700人を超えるとされる富山大空襲の戦没者のうち、同地区では約400人と全体の7分の1もの人が亡くなっており、このうち姓名の分かっている人は約3分の2にとどまっていた(2001.9.24) |
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●8月14日、島根県斐川町神氷の元教員・陰山慶一氏所有の写真から、湯町基地に派遣されていた海軍航空隊が、1945(昭和20)年8月15日の終戦後も爆弾を抱いて出撃していたことが判明した。湯町基地は日本海に進攻する潜水艦の偵察と攻撃のために、1945年5月に基地を開いた。零式水上偵察機3機と、搭乗員や整備士など約120人が配置されていた。写真には偵察機が250爆弾を搭載しており、8月17日の日付が書かれた紙が添付されていた(2001.9.21) |
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●熊本県熊本市の宝田ふじ子氏のもとに、太平洋戦争の末期、フィリピンで戦死した夫・吉田孝弘氏が出征した際、現地へ持って行った「寄せ書きした日の丸」が58年ぶりに戻った。同旗は、米国のフレッド・ウォーカー氏の祖父から譲り受けたもので、入手の経路はわからないとしている(2001.9.21) |
●広島県三良坂町三良坂の巳之口照男氏は、このほど戦争中に戦地で受けた銃弾の一部と思われる破片を左腕から取り除いた。いまも肺の近くや右足など数カ所に、除去できない銃弾の破片などが残っている。巳之口氏は1942年大竹海兵団に入隊。以来、軍艦や駆潜艦に乗り、終戦まで東南アジアなどを転戦した。
1943年11月、ミャンマー沖のインド洋で浮上してきた潜水艦と交戦中に両足太もも、背中、胸に被弾。駆潜艦も沈没寸前の状態で生死の境をさまよった。1944年12月のフィリピン・レイテ沖でも右足や左ひじなどに被弾した(2001.9.21)
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●広島県下松市瑞穂町の元海運業・村上盛行氏は、太平洋戦争中、徴用船で赴いたフィリピンで亡くなった兄弟の最後の地を確かめたいと、11月に現地を訪れる。村上氏一家は戦中、広島県沼隈町常石で海運業を営んでいた。1944年5月、兄・利勝氏、弟・末吉氏は、弾薬など輸送船として徴用された持ち船「月吉丸」(約200トン)に乗り、フィリピンへ。翌年5月14日、末吉氏はルソン島のアンガダナンで病死。勝利氏は8月5日、同島バギオ北方で戦死した(2001.9.21)
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●福島県いわき市小名浜に水中特別攻撃隊「12海竜隊」が配備されていたことが、歴史研究家・丹賢一氏の調査でわかった。小名浜には、水上特攻「138震洋隊」に加え、「141震洋隊」も配備されていたことが明らかになっている。氏が入手した当時の機密文書、「軍機・水上水中特攻兵力展開現況」(1945年7月27日付)など2通によると、小名浜には震洋二隊のほか、海竜も一隊配備。これら三隊は「横須賀鎮守府第17突撃隊」と呼ばれていた。配備予定は震洋50隻、海竜12隻の計62隻。また、海竜隊は敗戦間際の1945年7月25日にやっと編成された上、通常は、部隊編成から配備まで半月かかるが、同日に配備される混乱ぶりも明らかになった(2001.9.18)
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●和歌山県和歌山市の旧県立医大跡地から戦時中の防空壕2基が見つかった。同地は江戸時代には和歌山城三の丸に当たり、紀州徳川家の重臣だった安藤家や渡辺家の屋敷内でもあった場所。江戸時代の大名家の屋敷内の状況を明らかにすることを主な目的に、また和歌山大空襲(45年7月9日)の被災地でもあることから、戦災の様相についても調査の対象に調査を行っている(2001.9.18) |
●8月18日、愛知県西区花の木二の西文化小劇場で、太平洋戦争の人間魚雷「回天」を題材にした演劇公演が行われた。「滄(あお)い海」と題した演劇は、潜水艦に5本の「回天」とその搭乗員5人をのせて南西太平洋へ出撃。搭乗員の潜水艦での生活や突撃前の様子などをリアルにまとめてある(2001.9.13)
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●三重県伊勢市岩渕一丁目の「ギャラリーM」で特攻隊として命をささげた将校20人の辞世の句33句が、展示されている。経営者岡出氏の両親が当時、度会郡小俣町にあった明野陸軍飛行学校の将校の寮を伊勢市で営んでおり、そのときに辞世の句を預かっていた(2001.9.12)
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●8月5日、愛知県半田市東洋町の県半田勤労福祉会館で戦時中の半田市で生活する朝鮮人労働者らの姿を描いた演劇「半田の歌15 アリラン」が上演された。演じるのは、半田空襲の記録上演実行委員会。1944(昭和19)年、戦闘機などを製作していた中島飛行機半田工場に約1200人が強制連行され、差別を受けたり、厳しい労働を強いられたという(2001.8.23)
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●琉球大学の篠原武夫教授は、太平洋戦争末期の石垣島事件で処刑された米軍飛行士3人の写真を入手した。写真は1944年に撮影されたもので、三人が愛機の前でくつろいだ表情を見せている。ティボー機長の遺族が保管していた。石垣市では篠原教授の呼び掛けで、3人の兵士の慰霊碑の建立が進められており、慰霊碑の除幕を兼ねて8月15日に記念式典を開く(2001.8.23)
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●8月5日、愛知県名古屋市昭和区の市公会堂で合唱曲「原爆小景」の完結版が日本で初めて歌われた。「原爆小景」の作曲は林光氏。疎開先の故郷広島で被爆し、その後鉄道自殺した詩人原民喜の同名の詩集などを歌詞にしている。1958年の第一曲「水ヲ下サイ」の後、1971年に前衛的な雰囲気の「日ノ暮レチカク」と「夜」が作られた。しかし、林氏は期待されながらも30年間完結させることができなかったが、昨年7月、名古屋で平和の祭典「グローバル・ピース・フェスティバル2001」の準備を始めた関係者が新世紀を迎えた反核のシンボルとして初演してもらおうと最終曲「永遠のみどり」の作曲を依頼。林氏はこれを了承し完成した(2001.8.22)
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●7月26日、沖縄県で南龍寺の西原龍道住職ら3人は、沖縄戦戦没者を祭る慰霊碑で民間団体の建立した碑の永代供養や清掃管理する「全沖縄戦没者慰霊碑管理協会」を設立する。県内には慰霊碑や慰霊塔が330基あるが、遺族ら関係者の高齢化などで管理が不十分なものが、糸満市を中心に約50基ある。同協会は、依頼があった場合の戦没者の永代供養、慰霊碑の清掃管理、案内掲示板の設置を行う(2001.8.22)
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●7月25日、広島県広島市中区の原爆資料館は、2泊3日の予定で「ピース・サマースクール」を開催。市内の4〜6年生55人が、建物疎開中に被爆死した中学一年折免滋君が持っていて、黒焦げになった弁当箱の中身を再現したものを食べた
。「大豆と麦の混ぜご飯」と「大根とジャガイモの油いため」の二品で子どもたちからは「味がしない」「量が少ない」との声があがった(2001.8.22)
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●7月24日、青森県六戸町犬落瀬の故・坂本卯之吉氏が第二次世界大戦に出征する際、知人たちが寄せ書きして贈った日章旗が、終戦から56年を経て自宅へ戻った。米国インディアナ州の米軍関係者が今年6月、現地に住む日本人女性に返還を依頼、厚生労働省と県を通じて六戸町まで届けられた。坂本氏は2年前に死去したため、代わりに孫の勝義氏が受け取った(2001.8.22)
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●アメリカのインディアナポリス市に住む高校教師ステファニー・アイラー氏は広島市中区の原爆資料館を訪れ、祖父が1943年ごろ、ソロモン諸島のガタルカナル島近くの小島で発見した、旧日本軍の従軍手帳の持ち主を探してほしいと依頼した。手帳は、陸軍が1941年7月に配布したもので、持ち主の名前は記されていない。中国を出た1943年10月以降の日程のほか、「神戸市灘区赤坂通八ノ一八 垣屋武子」「木下静枝」「稲本兵太郎」、「田中中イ(尉) 新井中イ 吉田中イ 小木曽少イ 藤田少イ」の記述がある(2001.8.22)
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●7月29日、岐阜県岐阜市のホテルで同県内に住む原爆被爆者でつくる県原爆被爆者の会「岐朋会」による慰霊祭が行われた。県内には現在、約700人の被爆者がいるとされている(2001.8.10)
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●7月15日、長崎県佐世保市江上町の墓地で第二十回戦没者釜墓地慰霊祭が行われ、太平洋戦争時、フィリピン・カンルバンの日本人収容所で亡くなった軍人ら約6500人を追悼した。1949年1月、同収容所で亡くなった軍人、民間人らの遺体約4500柱、遺骨約300柱が、フィリピン・マニラから引き揚げ船で同市針尾北町の浦頭港に運ばれた。さらに、旧満州、東南アジアなどから引き揚げ途中、船内などで約2000人が亡くなり、遺体はいずれも同墓地近くの海岸で火葬。遺骨が同墓地に安置されている(2001.8.10)
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●7月13日、被爆者七団体は広島市中区の平和記念公園に、来春完成予定の原爆死没者追悼平和祈念館の展示説明文見直し問題で、「日本の国策の誤りが戦争につながった」とする説明文案を修正しないよう求める坂口力厚生労働相あての要望書を広島市に提出した(2001.7.27)
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●6月29日、北海道釧路管内厚岸沖で米国潜水艦に撃沈された旧陸軍の輸送船「日連丸」の犠牲者たちの慰霊祭が慰霊碑のある厚岸町の愛冠岬で3年ぶりに行われた。厚岸での慰霊祭は、撃沈場所を突き止めた宮城県の遺族が1984年に初めて実施。遺族の高齢化で3年前が最後とみられていたが、福島県などで新たに多数の遺族が見つかったため実施された。(2001.7.24)
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●6月26日、政府は学童疎開船「対馬丸」の戦没者記念館建設問題の運営費を支援する方針を固めた。建設に向けては厚生労働省が展示資料収集費の1億円を来年度予算に盛り込む方針で、順調に進めば2003年度内に開館の運びとなる。また沖縄戦時遭難船舶遺族会が要望していた洋上慰霊祭は今年11月29、30の両日で調整していることも明らかになった(2001.7.24)
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●琉大の保坂広志教授の調べで、沖縄戦の中で、戦場の恐怖から戦争神経症(トラウマ、PTSD=心的外傷後ストレス障害)となった米兵を治療する記録映画が昨年、米国で解禁されていたことがわかった。同記録映画は、沖縄戦中の1945年5月に、米陸軍省が国内の精神病院で制作した。タイトルは「Let There Be Light」(汝光あれ)。監督は「白鯨」「荒馬と女」などを作った著名な故ジョン・ヒューストン。制作後、米陸軍は上映禁止とし1981年に一度だけ公開。その後また封印したが昨年11月からあらためて公開した。保坂教授によると、1945年に米国医師の調査により、沖縄戦で同障害を負った米兵士は1万4000人(上陸数は18万3000人)。沖縄住民は、収容所内の4万8000人中の50人、日本軍兵士は30人(米軍病院に入院する1500人中)と記録されているという(2001.7.24)
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●7月3日、石川県の杉本勇寿副知事は、石川護国神社に建つ「大東亜聖戦大碑」碑のある場所を含め県が都市公園「本多の森公園」の一角として同神社から無償で借りていた土地を6日に返却する方針を示した(2001.7.22)
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●7月8日、福井県敦賀市のプラザ万象で敦賀市戦没者戦災死没者追悼式が行われた。敦賀市は1945年7月12日に日本海側で初めての空襲を受けるなど、計3回の爆撃で225人が犠牲になった。日清戦争から太平洋戦争までの戦役で命を落とした市出身者は1764人(2001.7.17)
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●6月26日、内閣府が収集・整理している沖縄戦資料閲覧室について、港区西麻布の賃貸ビル内に設置することが固まった(2001.7.24)
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●6月20日、旧陸軍新発田歩兵第16連隊の「連隊旗遺片」が戦友会の手で靖国神社の歴史資料館「遊就館」に寄贈された。同連隊は1884年、県人部隊として創設され日清、日露戦争を経て、1937年からはノモンハン、ガタルカナル、ビルマ(現ミャンマー)など激戦地ばかりを転戦。この間戦病死者6459人を出し、「悲劇の連隊」と言われた。連隊旗は、終戦に伴いサイゴン(現ホーチミン)近郊で燃やされたが、一部の将兵が遺片をひそかに持ち帰り、復元されていた(2001.7.17)
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●6月13日、沖縄県豊見城村の平和祈念旧海軍司令部壕慰霊搭前で慰霊祭が行われた。同壕には日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれ、司令官太田実少将ほか多数の将兵が1945年6月13日に自決した(2001.7.24)
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●6月7日、広島市役所で開催された祈念館建設広島検討会議で、広島平和文化センターが集めている原爆死没者の遺影と名前の数が397と、長崎市の2034人分よりはるかに少ないことから、被爆者団体から「広島市のPRの努力不足」などと、不満の声が上がった。この名前と遺影は建設中の国立原爆死没者追悼平和祈念館に収めるためのもの(2001.7.10)
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●陸軍大臣直轄の多摩技術研究所の元技術者らが証言により、大戦末期、旧陸軍の高射砲に連動した機密兵器・防空用電波標定機(レーダー)の設計、実験が一時、横浜市中区山手町のホテルと現在「港の見える丘公園」になっているフランス山の空き地で行われていたことがあきらかになった。証言したのは、元日本高周波社員で陸軍高等官嘱託だった李家正爽(りのいえ・しょうぞう)氏(86)。1943年2月除隊後、同社に入社し、大型無線機などの設計、製造にあたっていた。1944年春、防空能力を高めるため、高射砲に連動したレーダーの改良、開発が陸軍から発せられ、担当の多摩研第三科第二班・岡本正彦少佐の下に、東芝、ビクター、日本通信工業、日本高周波の技術者が集められた。当時、日本のレーダー技術は欧米諸国に比べて遅れていた。1942年2月シンガポールを攻略した時に捕獲した英米のレーダーとその取り扱い説明書に、東北大の八木秀次教授が開発した「八木アンテナ」が用いられていたことに陸海軍は衝撃を受け、レーダーの開発に拍車が掛かった。李家さんによると、「すでに二月から、岡本少佐らによる試作機『た号改四型』初期型の実験が、フランス山の空き地で始まっていた。私たちは5月から約1カ月間、丘の下のバンドホテルに缶詰めになり、設計図を引いた」。空き地には「た号舎」と呼ばれる背の高い木造実験棟が建てられた。中には据え置き型の試作機が置かれ、横須賀方面から飛行機を飛ばしてレーダーの実証試験を繰り返した。こうして完成した「た号改四型」発展型は、レーダーの性能が標定距離40キロ、精度も誤差100メートルに向上した。「最初に多摩研から発注のあった『た号改四型』25台は完納しましたが、次の40台は途中までしか完成しなかった」という(2001.7.10)
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●神奈川県横浜市鶴見区の翻訳業・萩野谷敏明氏は、市民団体「横浜の空襲を記録する会」の活動に賛同してホームページを開設した。氏は、4年前、南北戦争の古戦場を巡ろうと米国を旅した際、元B29射撃手ドン・ミューレーさんと偶然出会い、帰国後、図書館で横浜大空襲について調べようとしたが、記録が既に書庫にしまわれたケースもあり、戦争の記憶の風化という現実を思い知らされたという。ホームページのアドレスはhttp://history.independence.co.jp/ww2(2001.7.10)
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●和歌山県高野町の霊場・高野山の奧の院に建立されている「昭和殉難者法務死追悼碑」の碑や追悼文の彫刻、設計を含む一切は中国国営企業の手で製作された。同碑は第二次大戦戦犯の死刑者、収容中に死んだ朝鮮人、台湾人を含む1068人を追悼するもの。陸軍士官学校、海軍兵学校、海軍予備学生などの同窓会、関係戦友会などが、同建立委員会の呼びかけに応じて、約2000万円の浄財を集めて、平成6年5月、奧の院の霊地に建立された(2001.7.10)
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●6月23日、滋賀県大津市園城寺町の園城寺(通称・三井寺)観音堂で、太平洋戦争の沖縄戦で犠牲になった人たちを追悼し、反核反戦と平和を祈る慰霊法要が営まれた。同日は沖縄戦が終結した「慰霊の日」にあたる。同寺住職の福家俊明長吏が3年前、目にした新聞記事で沖縄戦の悲惨さに胸を突かれたことから、長く事実を知らなかった反省を込めて2年前から慰霊している(2001.7.5)
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●5月28日、石川県は「大東亜聖戦大碑」のある土地を含め、同神社と結んだ土地貸借契約により無償で借りていた計約2980平方メートルすべてを神社に返す方針を固めた。同碑の撤去を求める「「聖戦大碑」撤去の会」は、県の返却に「トカゲのしっぽ切りだ。県が設置を許可したという事実は消えない」と憤る。碑をめぐっては、戦争体験者からも「賛同できない」との声が相次いだほか、韓国の日刊紙も批判する記事を掲載。碑には戦友会などの寄付団体が刻まれ、その中に「少女ひめゆり学徒隊」「少年鉄血勤王隊」があり、ひめゆり同窓会などは「無断に刻銘した」として削除を求めている(2001.6.29)
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●5月26日、石川県の市民グループ「『大東亜聖戦大碑』の撤去を求め、戦争の美化を許さない石川県民の会設立準備会」に、沖縄県の大田昌秀前知事からメッセージが届いた。撤去運動に敬意を表し「熱烈な連帯の誠をささげます」との内容(2001.6.18)
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●5月21日、石川県議会土木企業委員会で大東亜聖戦大碑の問題が取り上げられ、藤井肇委員が、石川護国神社の聖戦大碑問題を一面写真入りで報じた韓国の日刊紙「ハンギョレ新聞」(4月11日付)を手に、「聖戦大碑はすでに外交問題」と述べ県側の対応をただした(2001.6.18)
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●5月13日、台湾の旧日本海軍軍人らでつくる台日海交聯誼(れんぎ)会の張徳水名誉会長ら20人が大東亜聖戦大碑を参拝。張名誉会長は「戦争は負けたが、そのおかげで東南アジアの国々は解放された。平和のための聖戦だった」と話した。一方、太平洋戦争中の強制労働をめぐり、韓国人の元勤労挺身隊員らが、機械メーカー不二越に損害賠償などを求め、昨年7月に和解した不二越訴訟の金景錫原告団長は大碑を訪れ「県が設置を認めたことは、あってはならないことだ。韓国に戻り抗議運動をしたい」と述べた(2001.6.18)
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●5月26日、千葉県銚子市のカメラマン堺敬生氏が製作した。8ミリ映画「還ってきた飛行帽」が、主人公・飯田房太中佐の故郷、山口県新南陽市で上映された。飯田中佐は、真珠湾攻撃で第二次攻撃隊戦闘機隊長として出撃。戦果を挙げて空母に戻ろうとした際に燃料タンクを撃たれた。部下に帰還を命じたまま、自らはオアフ島の米軍基地へ突入し、自爆。基地近くに住んでいた日系人男性が、燃え上がる機内から中佐の遺体を運び出し、身に着けていた飛行帽を自宅に保管。飛行帽が中佐のものと判明し、58年ぶりに遺族に返還された。このことを知った堺氏が映画を製作した(2001.6.5)
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●広島県竹原市忠海沖の大久野島の歴史を研究する市民団体「毒ガス島歴史研究所」は、同島にあった旧陸軍の毒ガス製造工場で毒ガス製造などに従事し、後遺症に悩む障害者の証言の記録や島の戦争遺跡の保存運動などの活動を続けている。同研の設立は、1996年4月。隔週で運営委員会を開き、市や県、国などとの話し合い、障害者の証言や毒ガスに関するマスコミ情報などを盛り込んだ会報誌を年1回の割合で発行、ホームページを使った情報発信などをしている(2001.6.5)
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●5月12日、富山県高岡市の伏木港万葉ふ頭沖の海底で発見された機雷を海上自衛隊舞鶴地方総監部の水中処分隊が処理した。機雷は第二次大戦時に投下された米軍製「MK36」で、長さ約1.7メートル、直径約47センチ、重量約490キログラム(2001.6.3)
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●長崎県長崎市は本年度から2カ年計画で、長崎原爆資料館が保管する写真約3500点すべての検証、整理作業に着手した。撮影場所や爆心地からの距離などを割り出し、撮影者名や時代背景の写真説明文などと合わせて台帳に記入していく。データはコンピュータに入力し、情報検索が迅速かつ容易になる(2001.6.3)
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●5月18日、京都市東山区の京都霊山護国神社に、第二次大戦で戦死した元海軍飛行科予備学生や生徒を追悼し、世界平和を祈願するための陶板パネルの顕彰碑が設置された。京都や大阪などの遺族らでつくる「関西白鴎遺族会」によるもので、「神風特攻隊」として若者たちの命が多数奪われた痛恨の歴史を後世に伝えるため、同会が全国に寄付を呼び掛け制作した(2001.5.29)
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●北海道稚内の田上食品工業社長・田上俊三氏にこのほど、東京の知人から「東郷・アドミラル(提督)ビール」が届けられた。田上氏は第二次大戦中に駆逐艦「雷(いかずち)」の砲術長を務め、1942年、スラバヤ海戦で撃沈した敵国・英艦船の乗組員404人を救助した。このことを大東文化大の菊地育三教授が知り、田上さんから英文資料を提供してもらったお礼にと四本を贈ってきた。1905年、日本海海戦で東郷元帥率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破。当時ロシアに苦しめられていたフィンランドはそれに喜んで「東郷ビール」を製造、その後、製造元はオランダに移った(2001.5.29)
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●5月18日、東京都硫黄島で都主催の戦没者追悼式が行われ、遺族や関係者ら約50人が「玉砕の島」に眠る霊の冥福を祈った(2001.5.28)
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●5月16日、埼玉県秩父市の大渕寺境内にある「旧陸軍歩兵第七十五連隊通信隊戦没者慰霊碑」前で慰霊法要が行われた。同通信隊は、1944年12月にフィリピン・ルソン島に派遣された。翌年1月から米軍と交戦したが敗退を重ね、数多くの戦友を失い敗戦を迎えた。戦後、生き残りの隊員がルソン島南部、バクサンハンに慰霊碑を建立。しかし、碑の借地継続ができず、1985年に慰霊碑銘板を持ち帰り、大渕寺境内に碑を再建した(2001.5.28)
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●5月8日、山形県真室川町野々村地区の陸軍飛行場跡を、戦時中に同基地で航空通信業務に従事していた元少年飛行兵で、「少年飛行兵甲種16期加藤会」のでメンバーが訪れた。戦時中、軍関係者と民間人との交流は表向き禁止されていたが、同飛行場に近所の農家が慰問に訪れるなどかかわりが深かく、一行は当時交流のあった町民らとも再会し、旧交を温めあった(2001.5.21)
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●5月5日、新潟県上越市黒井で、直江津空襲と平和を考える集いが開かれた。直江津空襲は太平洋戦争末期の1945年5月5日午前11時15分ごろ、米軍機のB29が直江津の工場群をめがけ爆弾を投下。死者3人、重軽傷者5人の犠牲者を出した(2001.5.22)
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●4月13〜15日、長崎市内の第二次大戦中、東南アジアなどで旧日本軍の捕虜になった英国人の孫に当たる20〜40歳代の英国青年19人が長崎市内でホームステイした。21日までの滞在日程で9日に来日。東京で相撲部屋の朝稽古を見学、沖縄では戦跡巡りや小学校訪問などをして13日に長崎到着。全員で長崎原爆資料館を視察し、各受け入れ先の市民宅に2泊した(2001.5.9)
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●東京都豊島区南池袋の郷土史家・矢島勝昭氏は、日中戦争などでの軍隊生活を絵で描き、東京の家族あてに送っていた一兵士のはがきなど約200点を整理した。はがきの絵は、初年兵をいじめている上官の顔が犬になっている漫画のようなものもあるが、戦死した戦友の遺骨を抱えて行軍する様子を伝えるはがきなどが描かれている。はがきの絵を描いたのは、同区雑司が谷で生まれた岡野誠氏(1908〜1939)。若いころは画家を目指したが、20歳になってから数回にわたって召集、除隊を繰り返し、大陸での外地訓練や満州事変、日中戦争などに従軍した。31歳で除隊すると、しばらくふさぎ込んでいたが、間もなく目白駅で自殺したという(2001.5.2)
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●4月13日、東京都豊島区立南池袋公園の哀悼の碑前で豊島区の戦争犠牲者をしのぶ「根津山小さな追悼会」が開かれた。1945年4月13〜14日未明にあった空襲で、同区も死者は778人、負傷者2523人という大きな被害を受けた.南池袋公園のある場所は当時、根津山と呼ばれる森林で、空襲の犠牲者526柱が仮埋葬された(2001.4.27)
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●4月13日、神奈川県横浜市港北区の慶応大学は日吉台地下壕の整備を終了した。同地下壕には、太平洋戦争末期、旧日本海軍連合艦隊司令部などがあった。地下壕には蛍光灯が設置され、当時のまま保存されている作戦室や司令長官室などが目の当たりにできる。同大は安全管理のため入坑ガイドラインを設け、戦史を伝える重要な近現代史の跡として研究、教育、報道目的などの限定的な見学を認める(2001.4.24)
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●4月14日、広島市の原爆資料館に展示されている「人影の石」の影に当たる部分が、有機物質が付着し黒くなっていたことがわかり、同資料館は説明文の一部を変更した。これまで影に当たる部分は、人が座っていた部分が熱線で焼けずに白く変色しなかったため、黒く人影が残ったとされていた。しかし奈良文化財研究所埋蔵文化財センターが昨年実施した調査で、有機物質が付着したものと判明。有機物質は、人間の皮膚などの生体成分と推測されるが、分析では結論が得られなかったという。このため、同資料館では「人影の石」の説明を「元のまま黒く残りました」から「影のように黒くなって残りました」などと変更した(2001.4.24)
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●愛知県渥美町福江の船舶研究家福富喜太郎氏は、貨物船「対馬丸」の100分の1模型を、同県名護市のホテルに寄贈する。沖縄県は、対馬丸の悲劇を県民の記憶に深く刻むため、那覇市内に建設する対馬丸記念館の調査設計費3000万円を本年度予算に計上している(2001.4.18)
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●長崎県長崎市の山里国民学校防空壕跡の入口に新たにコンクリート枠が設けられるなどしたことから、被爆者から「元の防空ごうと違う姿になった」と落胆の声が出ている。同防空壕は、原爆の爆心地から約700メートルのところにある(2001.4.15)
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●京都府舞鶴市に洋画家の宮崎進氏から「歌う兵士」の自作ブロンズ像が寄贈された。氏は終戦後4年間、シベリアに抑留された。像は、舞鶴引揚記念館で4月1日〜20日まで寄贈記念展が開かれる(2001.4.9)
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●3月12日、沖縄の県平和祈念資料館が旧日本軍の魚雷や米軍戦車のキャタピラーなどを屋外展示していることに、沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会など三団体が「展示は県民の声、学者、研究者を交え、あらためて検討することが必要だ」とする見解を発表。「兵器の野外展示は、県民の戦場体験と半世紀を超える米軍基地の重圧の中から生まれた『未来へのメッセージ』『武器なき平和』を求める場所として、ふさわしいと思えない」とした(2001.3.20)
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●太平洋戦争の犠牲者の慰霊を続ける広島市中区中島町、会社会長三浦寛さんが、民間から軍に動員されて沈んだ「徴用船」の乗組員たちの遺族を捜している。三浦さんはフィリピン・ルソン島に学徒出陣した。1971年から戦死者の遺族とフィリピンなどへ慰霊の旅を続けている。活動を通じ、徴用船員の遺族は死亡通知は受け取ったものの、どの船でどう最期を迎えたか分からないことを知った。
厚生労働省によると、戦争中に沈没した徴用船乗組員の死亡者数は6万人余り(2001.3.10)
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●3月2日、東京都墨田区の都立横網町公園内で「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑−記憶の場所−」完成披露式が行われた。黄色の花壇に覆われた円形状の建造物で、内部に都の調査で判明した6万8000人の犠牲者名簿を安置(2001.3.5)
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●2月18日、太平洋戦争で戦死した立命館大卒業生の兵士が所持していた日章旗の寄せ書きがアメリカから遺族に返還された。この日章旗は、1943年9月に立命館大を卒業した直後に中国に出征した北村幸三さんのものだったが、まもなく戦死。アメリカのすしレストランで働いている日系人に、アメリカ人の客から「遺族に返してほしい」と預けられ、日本人の知人を通して立命館大に届いた(2001.2.20)
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●広島県福山市御幸町のホロコースト記念館は、杉原千畝が救ったユダヤ人から証言の聞き取りをイスラエルなど四カ国で続けている。その声をもとに、連続セミナーを今月中旬から始め、巡回写真展も計画している(2001.2.7)
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●太平洋戦争末期の1945年に旧呉軍港一帯を空襲し、撃墜されて捕虜になった米兵2人の連行写真が昨秋、江田島町の民家から見つかったが、この写真に移っていた2人ともいまも母国で元気に暮らしていることが判明し、そのひとりに写真を送った。写真を見た郷土史家が、米軍の記録をたどったり、米国に住む知人の戦史研究家に協力を求めたりしたところ、1人はフロリダ州在住のロバート・ウイリアムズさん(78)とわかった。もうひとりの米兵はタルマッジ・ウエストモーランさんだと証言した(2001.2.7)既報参照
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●愛媛県川之江市川之江町の「紙のまち資料館」に「風船爆弾」の材料和紙がこのほど、香川県の男性から寄贈された。この和紙は、愛媛県と高知県で作られた「四種」という規格を示す付せんがあり、「安芸」という表記も残っていたことから高知県安芸市で製造された可能性があるという。同資料館には別の風船爆弾用の和紙も所蔵しており、風船爆弾をテーマにした常設コーナーを設けることを計画している(2002.2.2)
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●1月26日、「広島に文学館を! 市民の会」は、被爆建物・旧日本銀行広島支店を、原爆文学の世界的拠点とするよう求める要望書を市に提出した(2001.1.31)
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●大阪府高槻市北部の第2名神高速道路の建設予定地内に、太平洋戦争末期に建設された地下トンネルが残っている可能性が高まり、日本道路公団が現地調査を始めた。米国側の記録や戦後の証言などによると、この地下トンネルは「高槻地下倉庫」の略称である「タチソ」と呼ばれ、強制徴用された朝鮮人らが建設。陸軍機のエンジンを製造する予定だったが、完成直前に敗戦を迎えた(2001.1.31)
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●在日米軍に接収された江田島の旧海軍兵学校が1956年に返還された際の返還式の写真が、広島県江田島町内で見つかった。返還式の写真は、式であいさつする米軍江田島キャンプのニコルス司令官と後ろで通訳する平木町長の2人が写った写真とともに発見された(2001.1.31)
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●京都市東山区の清水三年坂美術館が所蔵するパウル・クレーの絵画が、かつてナチスがドイツの美術館から略奪したクレーの作品の1点とわかり、同館は絵画の行方を探していたロシア人の元の所有者に返すことを決めた。同絵はスイスのオークションに売りに出された後、何人かの手を経て4年前に同美術館が手に入れた。
パウル・クレー(1879−1940)は、モダンアートを代表する作家の1人でスイスに生まれ、ドイツの美術学校で学んだ(2001.1.26)
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●1月22日、石川県加賀市伊切町の元谷久男さんは日中戦争で戦死した長兄が保管していた女学生の激励の手紙など約100点の戦争資料を同市に寄贈した。女学生らは1935〜36年当時、面識がない満州駐留の日本兵にあてて激励の手紙を書き、現地で分配されたとみられる(2001.1.25)
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●1月14日、広島県広島市中区の被爆建物・旧日本銀行広島支店の一般公開が終了。公開日の3日間の来訪者は計約5100人(2001.1.16)
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●1月6日、広島県広島市中区の被爆建物、旧日本銀行広島支店が初めて一般公開された(2001.1.13)
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●12月14日、岐阜県岐阜市の旧岐阜近鉄百貨店の第二次大戦の岐阜空襲による黒い焼けすすが残る壁を保存展示するため壁面の一部を切り取った。1945(昭和20)年7月の岐阜空襲では、焼失家屋約2万1200戸、死者856人の被害が出た(2000.12.24)
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●滋賀県守山市笠原町の笠原自治会が所有していた掛け軸の書が関雪が晩年に書いた漢詩作品であることが判明。橋本関雪(1883〜1945)は近代日本画の巨匠。掛け軸には、日本軍が第二次世界大戦で戦車や飛行機、10万の軍隊が中国の町を攻め落とし、旭日旗を高々と掲げたとの内容が七言絶句で書かれていた(2000.12.14)
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●12月9日、島根県松江市で「戦争体験を語り継ぐ集い」が開催され松江南高の高校生2人が、島根県簸川郡斐川町出西の旧海軍飛行基地「大社基地」の調査結果を発表。大社基地が魚雷格納庫や庁舎からなる広大な基地だったと指摘。また有人の飛行機型爆弾「桜花」を保有していた可能性もあるとした(2000.12.13)
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●撃墜され連行中に写真撮影された米兵の氏名や撃墜時の状況が判明した。米海軍博物館(フロリダ州)にある航空母艦「ホーネット」の航空機出撃記録などによると、飛来したのは、3人乗りのTBM雷撃機。操縦士のタルメージ・ウエストモーランドさん、通信士のロバート・ウイリアムズさん、射撃手のハロルド・ウエストさんが搭乗していた。同機は3月19日午前8時ごろ、艦船の対空砲火で撃墜され、佐伯郡沖村畑(現沖美町役場南)に墜落。搭乗していた3人は、パラシュートで三カ所に降り、村民に捕まった(2000.12.13)
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●12月8日、徳島県内に住む旧海軍甲種飛行予科練習生の生存者グループ「徳島甲飛会」は会員たちの体験談を集めた「噫乎(あ・あ)青春」を出版(2000.12.12)
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●12月7日、全米地理協会の真珠湾調査グループは、旧日本軍が航空機による真珠湾攻撃を行う約1時間前に、米駆逐艦「ウォード」が旧日本軍の特殊潜航艇を真珠湾で発見、爆雷投下などの攻撃をしたのが「太平洋戦争最初の戦火」との見方を伝える調査報告書を発表した(2000.12.12)
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●11月29日、第二次世界大戦中、米軍潜水艦などの攻撃で沈没した戦時船舶犠牲者の洋上慰霊祭が来年度にも実現する見通しとなった。戦時中、鹿児島〜沖縄間では、関西方面の軍需工場で働く徴用工や女子艇身隊などが乗り込んだ客船が次々に撃沈され1200人余が犠牲になっている。しかし、学童疎開の悲劇で知られる「対馬丸」を除く「嘉義丸」「湖南丸」「台中丸」「宮古丸」「開城丸」の5隻については洋上慰霊祭が行われてこなかった(2000.12.2)
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●市民団体が元軍人を対象に行ったアンケートで、67%が旧日本軍による慰安所は「必要だった」と答えていたことが判明(2000.11.30)
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●11月25日、広島県福山市の備後護国神社にウォレアイ島(メレヨン島)の戦没者慰霊碑が完成し除幕式が行われた。同島には、福山市で編成された南洋第五支隊を中心とする混成陸軍と海軍の将兵計約6000人が派遣された。しかし、米軍機の爆撃で物資の大部分を焼失。食料の補給が断たれ餓死者が相次いだという(2000.11.29)
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●11月24日、香川県詫間町の旧海軍の航空隊基地跡に「史跡 詫間海軍航空隊跡 神風特別攻撃出撃の地」と刻まれた碑石を完成し除幕式が行われた。同碑には、地区民が強制移転させられ1943年6月に水上機の作戦基地が建設されたことや戦況の悪化で、各地から兵員が集まり、支援の徴用技術者、女子挺挺身隊や年少工、学徒動員を含めて約3000人の大飛行隊だったこと。また終戦まで死、飛行艇27機や57人の神風特攻隊含めて300を超える若者が散ったことなども記されている(2000.11.29)
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●11月19日、横浜で川崎市内の工場に動員され、風船爆弾の製造にかかわった共立女学校(現横浜共立学園)と東京工業専門学校(現千葉大工学部)の卒業生が55年ぶりに再会。国内で初めて見つかった同爆弾の高度維持装置を見た。この装置は東京工専の卒業生で静岡県内に住む男性が自宅に保管していた。縦横それぞれ8センチ、7センチほどの絶縁盤に直径5センチほどの薄い気圧計がついていた。この装置は東京の国立科学博物館に保管される予定(2000.11.22)
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●11月11日、長野県松代市で松代大本営の工事に従事して亡くなった日本と朝鮮の犠牲者を追悼する集会を開催。多くの朝鮮人が強制的に連行され、突貫工事のため多数の犠牲者を出したとされる大本営の工事が、1944年の11月11日11時11分に最初の発破がかけられ始まったことから(2000.11.15)
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●11月8日、韓国の遺族たちが損害賠償や遺骨返還などを求めている「浮島丸訴訟」で、日本側は遺骨返還に限って原告の請求を認める方針であることを伝えた。「浮島丸」は終戦直後に京都府舞鶴湾で朝鮮人労働者を乗せ、爆沈した日本海軍の輸送船(2000.11.10)
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●11月8日、ガダルカナル島でアメリカ軍人に拾われた寄せ書きの日章旗が新潟市の遺族に手渡された。今年7月にボストンに寄港した大阪市の帆船「あこがれ」に「持ち主を探して届けてほしい」と託されたもの(2000.11.10)
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●長野県松代町で松代大本営地下壕にかかわる資料を展示している個人的な資料館「時代の館」が12月6日で閉鎖へ。土地、建物の賃借契約が切れ更新のめどがたたないため。同館には工事責任者がGHQに命じられて作成した工事調書、地下壕の図面コピーなど展示されていた
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●10月24日、日本軍機に撃墜され茨城県神栖町居切付近に墜落した米軍爆撃機B29の搭乗員レイモンド・E・ハロラン氏が現地を訪れた(2000.10.30)
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●10月24日、広島県呉市でシンポジウム「『大和』におもう」(主催・「大和」を語る会)開催。潜水調査を行ったテレビ朝日のスタッフや、設計者、生き残りの乗員らの講演など(2000.10.27)
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●「津軽男児」「青森健児」の文字を記した日章旗が、ギリシャの日本大使館に届けられた。青森県との関係をうかがわせる文言が記されており、外務省から旗を寄託された県遺族連合会は情報提供を呼びか(2000.10.25)
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