会沢正志斎 1782〜1863。藤田幽谷の青藍舎に入り、1862年には幽谷の後を受けて水戸彰考館総裁となる。1829年に藩主継嗣問題が紛糾したとき、斎昭を擁立し、斎昭が藩主になった後は藩政改革を補佐。1844年斎昭が幕府から咎めを受けた際、藩内で勢力を盛り返した保守・左幕派と対立。改革派内過激派の激論を抑えつつ斎昭赦免に奔走するが禁固となる。1849年復帰して弘道館教授となり藩政の重鎮となるが、安政の大獄後の再度の藩内の紛糾と抗争の中で死去。代表的著作『新論』は、尊王攘夷運動において聖典視された。尊攘運動が激化した晩年は開国論に転向
あいざわせいしさい
青谷上寺地遺跡 遺跡。鳥取県青谷町の日本海から約1キロ内陸の水田下から見つかった。国、県道ルート調査で、水路から約5200点の人骨が出土。うち殺傷痕のある人骨130点が見つかり、「倭(わ)国の大乱」を証明する遺跡として注目された。さらに、発見された頭蓋骨に大脳などの一部が残っていることもわかった
あおやかみじちいせき

赤い靴 童謡「赤い靴」のモデルとされる岩崎きみさんは、残された戸籍などから1902年に静岡県で生まれ、1903年、母親に連れられて北海道へ渡り、函館に滞在した。1904年にきみさんは母親の知り合いだった男性の養女になり、その後、この男性がヒュイット氏夫妻に引き渡したとされる。 ヒュイット氏は札幌には1907年に移ったとみられる。1908年には米国へ帰国したが、病弱なきみさんは日本にとどまり、1911年に東京の施設で9歳の生涯を閉じた。 一方、きみさんの母親は1905年に別の男性と結婚後、後志管内留寿都村に入植したが、1907年に一家で札幌へ移転。夫が入社した新聞社の同僚だった野口雨情にきみさんのことを話し、「赤い靴」の詩が生まれたとされる
あかいくつ

赤羽刀 日本の武装解除の一環として連合国占領軍に接収された刀剣類は、当時東京・北区赤羽にあった米軍施設に集められたため「赤羽刀」と呼ばれる
あかばねとう

飛鳥池遺跡 奈良県明日香村飛鳥で発見された7世紀後半〜8世紀前半の遺跡。日本最初の通貨「富本銭」や「天皇」と書かれた最古の木簡。多数の工房跡とそれに伴う炉跡、多量のガラス玉などが見つかっている
あすかいけいせき

飛鳥京苑池 1999年に発掘で発見された、日本最初の宮殿付属苑池とみられる大規模な石敷きの池を持つ庭園。浴槽のような形の石造物や現在京都にある「出水の酒船石」を抜き取った穴もあり、池や水の動きを楽しんだらしい。7世紀中ごろの斉明朝に後飛鳥岡本宮の付属庭園として完成、7世紀後半の天武朝に飛鳥浄御原宮の付属庭園として改修されたと推定されている
あすかきょうえんち

アテルイ(阿弖流為) 『続日本紀』に登場する蝦夷の頭領。789年、北上川河畔の巣伏村(水沢市佐倉河四丑)で征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍を撃退。その後、坂上田村麻呂の軍勢に2度にわたって攻められ802年に降伏し、河内国杜山(大阪府枚方市)で処刑された
あてるい
新井竹次郎 土佐藩の幕末の志士で野根山二十三士のひとり。竹次郎は本姓が北川で、中岡慎太郎とは同い年の友人。藩に捕らえられた武市瑞山の放免などを訴えたが聞き入れられず、藩への反逆として清岡道之助らとともに奈半利川原で処刑された
あらいたけじろう

淡谷のり子 歌手。1907年生まれ。県立青森高等女学校(現青森高)から東洋音楽学校(現東京音大)に進学。学費を得るため絵のモデルをしながら、1929年に首席で卒業。歌手デビュー後は、「別れのブルース」「雨のブルース」など数々のヒットを飛ばし、「ブルース女王」と呼ばれた。1998年に青森市名誉市民となり、翌年死亡
あわやのりこ

安養寺 和歌山県南部町にある寺。『安養寺縁起』(1689(元禄2)年)によると、寛和年間(985〜986)に恵心僧都が建立したとされている。1174(承安4)年に書かれた藤原経房の日記『吉記』に出てくる海福寺が安養寺の前身とも言われている。1585(天正13)年、豊臣(羽柴)秀吉で南征で焼かれ、元禄時に再興された
あんようじ