北条氏邸跡 静岡県韮山町寺家にある史跡。平安時代末から鎌倉時代にかけて、北条氏が広大な敷地に邸宅を構え、滅亡後にも生き残った一族が「円成寺」を建てたとされている
ほうじょうしていあと
宝蔵院流槍術 同槍術は、約450年前に興福寺宝蔵院院主・覚禅房胤栄が始め、「鎌槍(かまやり)」と呼ばれる穂先が十文字形の槍を使うのが特徴。画期的な武器として江戸時代に全国に広まった
ほうぞういんりゅうそうじゅつ
鳳来山東照宮 静岡県鳳来町門谷にある鳳来山東照宮は、1651(慶安4)年9月に三代将軍・徳川家光の発願で建築が始まった。家光が家康をまつる日光東照宮を参拝した際、縁起を見たのがきっかけという。家康の父・広忠が夫人・於大の方とともに鳳来寺にこもって祈願して家康が生まれたことを知り、その恩に報いるため建築を命じた。家光の死後、四代将軍・家綱が完成させた。。日光(栃木県)久能山(静岡県)と並ぶ「三東照宮」のひとつで、社殿は重文
ほうらいさんとうしょうぐう

法琳寺 孝徳天皇の願いで657年に創建されたと伝わる真言宗の寺。平安時代前期の840年に密教秘法の根本道場となり、最盛期には伽藍に三重塔、弥勒堂、薬師堂、太元堂を配したという。平安時代後期、醍醐寺塔頭の理性院の管理下に入って衰退し、江戸時代には廃寺になったとされる
ほうりんじ

宝暦治水 1753(宝暦3)年に行われた濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)の分流工事。薩摩藩が950人の人員と40万両の工費を投入。下流域の延べ110キロを整えたが、33人の病死者と52人の割腹自殺者を出した。総奉行だった薩摩藩家老・平田靫負(ゆきえ)は責任をとって美濃国大牧村(現:岐阜県養老郡大巻で切腹した。
ほうれきちすい
北斎漫画 浮世絵師・葛飾北斎(1760〜1849)が、孫弟子まで含めると200人を超えるという門弟に、手本として描いた教科書のような存在といわれている。気の向くままに描いた3000点あまりの図柄は、欧米でも「ホクサイスケッチ」として知られ、フランス印象派に大きな影響を与えた
ほくさいまんが
穂積親王 〜715年。天武天皇の皇子。705年に政界トップの「知太政官事(ちだじょうかんじ)」に就いた。その10年余り前、太政大臣の高市皇子(たけちのみこ)の妃・但馬皇女と恋仲になり、お互いの思いを詠んだ「降る雪はあはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪養(いかい)の岡の寒からまくに」(降る雪よ たくさん降るな。但馬皇女が眠る墓がある猪養の岡が寒かろうから)など数首が万葉集にある。
ほづみしんのう

ホフマン窯 1897年、旧海軍舞鶴鎮守府の倉庫用れんが製造のために設けられた登り窯を、大正末期に改造したもの。大量の赤れんがを戦後まで連続焼成した。コンクリート製品製造会社が所有していたが倒産したために競売にかけられた
ほふまんがま
本阿弥光悦 1558〜1637。桃山・江戸初期の芸術家で「寛永の三筆」の一人。光悦は蒔(まき)絵や陶芸などで独創的な才能を発揮し、特に書では「光悦様」といわれる独自の書風を完成した能筆家として名高い。1615(元和元)年には徳川家康から鷹峯の地を与えられ、一族や工匠らとともに芸術村を築いた。
ほんあみこうえつ

本多富正 徳川家康の次男・結城秀康に仕え、秀康に伴って越前入り。福井藩筆頭家老として秀康を含む四代の福井藩主に仕えて藩体制の確立に努めるとともに、初代府中領主として近世の武生のまちの基礎を築いた
ほんだとみまさ