恭仁京 聖武天皇が奈良時代、四年近く都を置いたが古代の宮城で内裏が東西の二つに分かれていたのはこの恭仁京だけ
くにきょう
楠瀬喜多 民権運動家。1836〜1920年。士族・楠瀬実の妻だった喜多は、夫の死亡後、明治11(1878)年、区会議員選挙で投票を拒否されたため、男女同権を基本理念に、婦人参政権を要求。この要求は拒否されたが、これを機に、明治13年、日本で初めて土佐郡上街と小高坂村(現在の高知市)で「婦人参政権」が実現した
くすせきた 

熊本城 日本三名城の一つとされる。戦国武将の加藤清正が1601(慶長6)年から7年の歳月をかけて建設。築城当初は大小二つの天守閣をはじめ、櫓49棟、櫓門18棟、城門29棟が存在したとされる。1877(明治10)年の西南戦争でそのほとんどが焼け落ちた
くまもとじょう
久米通賢 1780〜1841。讃岐郡引田郷馬宿村(現在の香川県引田町)に船舵作り職人の子として生まれる。幼少より天文と地理に興味を持ち、19歳の時、大阪の間重富(はざましげとみ)の門に入り、その後 4年の間、数学と天文・地理・測量を学ぶ。 故郷に戻って、高松藩の測量を命ぜられ、1808(文化 5)年の伊能忠敬の讃岐での測量には、案内役として参加し、翌年には高松藩「天文測量方」になり、「久米」を名のることを許された。その後、藩の財政再建、、鉄砲の研究開発、干拓工事や塩田開発、港の工事などのほか、マッチや精米機の考案なども手がける
くめみちたか
競馬 上賀茂神社の神事。宮中の競馬会を1093(寛治7)年に移して始まった。左右2頭の馬が境内の馬場を疾走する。乗尻(のりじり)と呼ばれる騎手は、社家の出身者が担当し官人の舞楽装束をまとう。
くらべうま

来美廃寺 島根県松江市矢田町にある史跡。「出雲国風土記」は、来美廃寺を「出雲神戸日置君猪麻呂(へきのきみいまろ)」の父「目烈(めづら)」が建立した「山代郷新造院」と記載。「厳堂(金堂)あり」と伝えている
くるみはいじ

郡衙 律令制下の郡の中心官庁(地方の役所)
ぐんが