近江10遺跡 県民投票などで選ばれた滋賀県の10遺跡。「大岩山遺跡」、「粟津湖底遺跡」、「近江大津宮関連遺跡群」、「近江国庁関連遺跡群」(以上大津市)、「葛籠尾崎湖底遺跡」、「小谷城跡」(以上湖北町)、「紫香楽宮関連遺跡群」(信楽)、「雪野山古墳」(八日市市など)、「安土城跡」(安土町など)、「守山市内弥生遺跡群」
おうみじゅういせき

奥州安達原 歌舞伎の演目。「奥州安達原」は、源義家の奥州攻め(前九年の役)で滅亡した安倍頼時の遺子・貞任と宗任兄弟の再挙をテーマにしたもの。1762(宝暦12)年に人形浄瑠璃として初演された
おうしゅうあだちがはら

大浦天主堂 長崎県長崎市にあるキリスト教会。日本最古の洋風教会建築で国宝。キリシタン禁教時代の1864(元治元)年、フランスの修道会の神父が外国人居留地内に完成させた。翌年、浦上山里村の「潜伏キリシタン」が同天主堂を訪れ、神父に信仰を告白。日本におけるキリスト教復興のきっかけになったという
おおうらてんしゅどう

大谷嘉兵衛 1844〜1933年。三重県飯高町宮本出身。横浜で茶問屋として成功し、アメリカやカナダ、ロシアに日本茶輸出の道を開いた。48歳で全国茶業組合中央会議所議長、全国茶業組合中央会議所会頭などを歴任。茶業界のリーダーとして活躍、茶聖と称賛された
おおたにかへい

大湯環状列石 青森県鹿角市十和田のある大湯環状列石は、野中堂と万座の2つの環状列石を主体とする縄文時代後期の遺跡。これまでに日時計状組石など200を超える配石遺構が見つかっている。市教委の1984〜1986年の調査では、野中堂環状列石から約250メートル離れた配石遺構から死者を入れるために使う甕棺(かめかん)が見つかり、その中の土からは人間特有の脂肪酸が検出されている。また、1952年の国の調査では両環状列石の周囲にある穴から、精度は低いものの、骨に含まれるリンが検出されているこれらの調査結果から、研究者の間では配石遺構の一つ一つが墓標で、環状列石が墓地として使用されていたと見られている。1956年に国の特別史跡に指定された
おおゆかんじょうれっせき

乎加神社 滋賀県能登川町にある神社。平安時代前期の法令集「延喜式・神名帳」に記載されている「式内社」。地名「神郷」もこれに由来すると伝えられている。領域内から「神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳」が見つかった
おかじんじゃ

小倉山城 南北朝末期に吉川氏の四代・経見が築城し、約170年間、吉川氏の本拠になったとされる。毛利元就の妻おかた(妙玖)は八代国経の娘で、1518年に毛利元就に嫁いだ。1986年国史跡指定
おぐらやまじょう

小栗上野介忠順 1827〜1868年。日米修好通商条約批准交換の使節として渡米するなど幕府の要職を歴任。横須賀に最新の造船所を建設。江戸城で官軍への徹底抗戦を主張したが認められず、役職を取り上げられて領地の群馬郡権田村(現倉渕村)で隠居生活に入った。しかし、反官軍の意思があるとされ、42歳の時、烏川で斬首された
おぐりこうずけのすけただまさ
落栗庵元杢網 狂歌歌人。本名金子喜三郎。1724(享保9)年生まれ。当時の比企郡杉山村(埼玉県嵐山町)の農家出身で、若いころから文才に恵まれた。人々に手習い、素読を教え、金子家の四代目当主だったが家督を弟に譲り、江戸に出て湯屋を営みながら国文和歌を学んだという。その後研鑽を重ね、天明狂歌壇の最古参に名を連ねた。杢網は狂歌だけでなく絵にも秀でた才能を発揮し、画号を嵩松(すうしょう)と称した。晩年、仏門に帰依して各地を回った
おちぐりあん?(読み不明)

小津安二郎 明治36年、東京・深川生まれ。小学生の時に松阪市に引っ越し、県立宇治山田中学校を卒業。大正11年、飯高町の宮前尋常小学校の代用教員を一年間務める。翌年、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影部助手として入社、監督に。「麦秋」「東京物語」などで知られる
おづやすじろう

御土居 豊臣秀吉が1591(天正19)年、外敵の来襲や鴨川の氾濫などから洛中を守るために築いた延長約22キロの土塁。堀は御土居の外側に設けられた。御土居の遺構は、北区や上京区、中京区に残る計9カ所が国の史跡に指定されている
おどい

オラショ カクレキリシタンの祈りの言葉。約400年前から口伝えで受け継がれてきた。日本語のほかラテン語、ポルトガル語でキリスト教の教義が盛り込まれているという
おらしょ

お竜 1841?〜1906。京都の町医者の長女で、後に伏見・寺田屋の養女となる。龍馬が伏見奉行所の幕吏に襲われた寺田屋騒動の際、入浴中のお竜がその気配に気づき、龍馬に危機を知らせて難を逃れさせた。これを機に龍馬と結婚、龍馬の傷の治療を兼ねた鹿児島への旅は「日本初の新婚旅行」といわれる。龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家や京都の近江屋に身を寄せ、1872(明治5)年東京へ出る。
おりょう

おわら節 その起源については、1813(文久9)年、八尾の遊芸の名手らが「お笑い節」を作り、さまざまな装いで歌い回ったものが現代のおわらに変化したという説や、豊作を祈る大藁(おおわら)節、八尾町の旧小原村発祥など諸説さまざまある
おわらぶし