斎王 上賀茂、下鴨両神社に奉仕した未婚の皇女で、平安時代から鎌倉時代まで続いた。斎院は、上京区上御霊前通智恵光院東入ルの櫟谷(いちい)七野神社付近にあったとみられている。斎王や仕えた女房に一流の歌人が多かったため、当時の文学サロンでもあった。斎院を出発した斎王の行列と御所を出た勅使の行列が合流して上賀茂、下鴨の両神社に参拝したのが葵祭とされる
さいおう

西郷菊次郎 西郷隆盛の長男。隆盛と奄美大島の女性・愛加那との間に生まれた
さいごうきくじろう

塞道の幕見 山形県酒田市の小正月の行事。歴史上の事件や物語を染め抜いた布幕「塞道絵幕」を板塀などに飾る
さいどうのまくみ
酒井抱一 江戸時代の画家。1761〜1828年。は姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の二男として江戸に生まれ、若いころから浮世絵や俳諧に親しんだ。37歳で出家し琳派に傾倒、光琳百回忌を催したほか「光琳百図」を刊行。余白を生かした構図や自然の情趣に富んだ画題を特徴とする画風を開き、江戸琳派の祖となった
さかいほういち

榊原政岑 “風流大名”と呼ばれた姫路城主。旗本の二男として生まれた。将棋と芝居が趣味の厄介者として扱われていたが、兄、いとこの死などで1732年、18歳にして姫路城主になった。吉原で、高尾に出会いこれを大金で身請けし、姫路へと連れてきた。このことを将軍に知られ、越後高田に転封された
さかきばらまさみね

坂本古墳群
7世紀前半(古墳時代)の古墳。当初、150基以上あったとされているが、古くからの開墾で現存するのは6基のみ。そのうち中心的な1号古墳は保存状態も良く、古墳時代後期の前方後方墳としては極めて貴重。前方後方墳は通常、4世紀のものがほとんどだが、7世紀前半まで造成時期が下るのは、全国的に見ても珍しいという
さかもとこふんぐん

佐川官兵衛 1831〜1877年。会津藩士佐川直道の長男に生まれた。若いころから猛者として知られる一方、人望も厚かった。藩主の松平容保が京都守護職に就任すると、一緒に上洛し、学校奉行となり、別選組の隊長に任命される。鳥羽伏見の戦いで、銃弾で負傷した目を陽光から守るため雨傘を差し、折れた刀をつえ代わりに悠然と退却する様には敵の兵士も舌を巻いたという。戊辰戦争後、旧藩士の生活のため藩士300人を率いて上京し、警視庁に入った。1877(明治10)年、西南戦争で出陣し、西郷軍と激戦となり、銃弾3発を浴びて戦死した
さがわかんべい

防人 奈良時代、九州地方の防衛のために遠江国以東の東国から派遣された農民兵士。3年の任期中、守備と農耕に従事した
さきもり

佐久間勉 海軍大佐。明治の海軍第六潜水艇の艇長。 1879(明治12)年に福井県三方町に生まれ、旧制小浜中学校(現若狭高校)を卒業し、海軍兵学校に進んだ。1910年4月15日、山口県新港沖で半潜航訓練中に故障で艇が沈没。乗員13人とともに、最後まで持ち場を離れることなく亡くなった
さくまつとむ

佐世保海軍工廠 同工廠は1903(明治36)年に設置。艦船や兵器の製造、修理などを行う工場で、終戦の45年に閉鎖された
させぼかいぐんこうしょう

三角縁神獣鏡 景初(けいしょ)三年、正始(せいし)元年など、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏王朝に使いを送った年号を記したものがあり、これこそが「卑弥呼の鏡」であるとする説が唱えられた。その一方、中国では一面も出土例がないことから日本で作られたとする説とがあって対立し、現在にいたるまで激しい論争が続いている。京都府山城町の「椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳」と奈良県天理市の「黒塚(くろづか)古墳」は全国でも最も数多くの三角縁神獣鏡が出土した代表的な古墳である。この二つの古墳を中心として、同じ型から作られた三角縁神獣鏡が全国の古墳から出土しており、初期のヤマト王権から各地の王に配られたことを示すものと考えられている
さんかくぶちしんじゅうきょう

佐藤一斎 1772〜1859年。学者。幕府の昌平坂学問所の儒官を務め、渡辺崋山や佐久間象山らを輩出している。小泉首相が2001年5月29日、教育改革関連三法案の審議が行われた衆院本会議で、一斎の著書『言志四録(げんししろく)』から「少(わか)くして学べば壮にして為(な)すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽ちず」という一節を引用。「三学戒」と呼ばれる言葉で、首相は「学びの重要性を指摘しており、私の好きな言葉だ」と語った
さとういっさい
三時知恩寺 京都市の寺。後光厳天皇の皇女見子(けんし)内親王が応永年間(1394〜1428)に崇光天皇の入江殿を賜って成立した尼門跡寺院。現在の建物は1788(天明8)年の大火後に再建され、円山応挙作とされる襖絵などを飾る書院や、「蓬莱の庭園」と呼ばれる枯山水式庭園などがある。寺宝の花鳥図六曲一双屏風は、狩野永納の作で市指定文化財。
さんじちおんいん

三枚橋城 1577年(天正5年)に武田勝頼が北条氏と対抗するための前線基地として築城し、家臣の高坂源五郎が城代を務めたとされる。以後、豊臣一族、徳川幕府の支配下に置かれ、江戸時代初期に廃城となった。1777年(安永6年)、十代将軍徳川家治から沼津の地を拝領し、三河から移ってきた水野忠友が荒廃した三枚橋城の跡に沼津城を築いた。
さんまいばしじょう