化和尚さんpresents
今週の「トリ●アの泉」〜歴史編
補足トリビア歓迎。掲示板にあげてくれれば、適当に切り出して掲載します。なお、日付は投稿の掲載日であり、放映日とは関係ありません。

☆森鴎外が初孫につけた名前は「森マックス」 (2004.5.3)
於菟の長男である初孫に「真章(まくす)(Max)」と命名。
由来:ドイツ留学中の師、マックス・フォン・ペッテンコーフェルから。
理由:留学中、本名の「林太郎」で不自由したことドイツな西欧に対する興味から
出典:森於菟(おと、鴎外の長男)著『父親としての森鴎外』
☆4億年前、1日は24時間ではなくおよそ22時間だった(2004.5.3)
サンゴには樹木と同様に年輪、さらに1日毎の成長の跡「日輪」が刻まれる。それが4億年前のサンゴの化石には400本の日輪が刻まれていたため、「4億年前の1年=400日」、公転周期は変わらないので365日×24時間=8760時間、よって、8760時間÷400日=21.9時間!当時の地球の自転速度が今よりも速かったためで、今もなお遅くなり続けている・・・。
☆昆虫記で有名なファーブルは「鳴き声がうるさい」という理由で小鳥を撃ち殺したことがある (2004.5.3)
出典:G・V・ルグロ(ファーブルの弟子)著「ファーブルの生涯」
☆画家マネは画家モネと勘違いされ絶賛されたことがある(2004.5.3)
1866年、マネは「笛を吹く少年」を展覧会に出品した。見事入賞したのだが、その作品はモネの「緑衣の女」で、マネ自身の作品は落選していた。名前が似ていたので間違えられたらしい。マネは激怒、モネに恨みを抱くが、3年後偶然出会って親しくなる。
※「緑衣の女」http://www2.plala.or.jp/Donna/monet.htm
 「笛を吹く少年」http://www1.megaegg.ne.jp/~summy/gallery/fifre.html
出典:新聞「ル・タン」紙1900年11月26日付〜モネの談話
☆リンカーンが髭を生やしたのは小学生に言われたから(2004.5.3)
1860年秋、大統領選挙運動中にグレース・ベデル(当時11歳)から手紙を貰う。その中で「お髭を生やせば立派に見えて選挙に勝ちますよ」と言っていた。リンカーンが返事を出すも、グレースから返答は無く迷いながらも髭を生やし始める。そんな中、大統領に当選、米国史上初の「髭の大統領」誕生であった。
☆清少納言は股間を丸出しにして女であることを証明したことがある
(2004.3.25)
寛仁元年(1017年)、朝廷での勤めを引退し出家して尼になった清少納言は兄(清原致信(きよはらのむねのぶ))の家に身を寄せていた。その年の3月、兄と敵対する源頼光が暗殺者を送り込み一家を斬殺。男と勘違いされた清少納言は暗殺者達に殺されそうになったため、自ら股間を丸出しにし女であることを証明、窮地を脱した。※確認VTRでは弓月光のオリジナルイラストを使用・・・贅沢!
出典:「故事談」(平安時代の歴史書)
金太郎の(サラリーマンではなく童話の方)モデル、坂田金時の主人ですね。この源頼光、大江山の酒呑童子や土蜘蛛を倒したりと、平安時代の「妖怪退治屋」としても有名です。子孫の源頼政は鵺(ぬえ)を退治してますしね。この一族には何かそういう技とか奥義でも伝わっていたのか? 秘伝書でもあれは安倍晴明と並ぶオカルトネタの格好の題材になっただろうに。(茂木 章 2004.3.25)
☆部屋を貸しただけでノーベル賞を受賞した人がいる(2004.3.25)
1923年、『インスリンの発見』でノーベル生理学医学賞を受賞した当時トロント大学教授で糖尿病の権威であったジョン・J・R・マクラウドのこと。1921年、町医者バンティングがマクラウドの元を訪れ、「犬の膵臓から糖尿病を防ぐ物質を抽出したいので研究生にして欲しい」と頼んだ。マクラウドは激怒し相手にしないつもりだったが、しぶしぶ自分の夏休みの間のみ研究室など提供する事にした。 戻って来て実験に成功したと言う報告を受けると一転、その成果を褒め称え自分の手柄のように学会に報告し、ノーベル生理学医学賞をバンティングと共に受賞した。しかし、受賞後の周りの冷たい視線に耐えられなくなりトロント大学を後にした。近年、迅速な大量精製など治験・治療の面でのマクラウドが再評価されている。
☆数を数える時現在は「正」の字を書くが江戸時代は「玉」で数えていた
(2004.3.18)
漢字の書き順とは異なり、「一」「二」「三」「王」「玉」の順に書いていく数え方。主に商人が使用。
理由1:珠算の「珠(たま)」からきているとする説
理由2:「金銀」=「大切なモノ」⇔「大切なものの象徴」=「玉」という説
出典:藤岡茂元著「算元記」(明暦3年(1657年)に書かれた数学の本)
☆第二次世界大戦中、アメリカでこうもり爆弾が作られていた(2004.3.18)
1941年、ライトル・E・アダムズ、こうもりを使っての日本攻撃を大統領に提案。「アダムズ計画」と命名、研究がスタート。
1942年6月13日、空軍司令部より陸軍化学戦部隊へ本格的な実戦開発要求。
1943年5月15日、カルフォルニア州の飛行場で上層部視察による最初の実験。
しかし、兵隊の不注意によりこうもり爆弾が逃げ、回収を試みるも失敗、爆発。上層部は即刻、計画の中止を決定・・・。計画中止の裏には、B29戦闘機の開発にも拍車がかかっていたため、予算の問題もあったらしい。
出典:「BAT BOMB」
☆大岡越前は痔だった(2004.3.18)
痔の一件は寛保3年(1743年)1月15〜17日の3日間に記されている。15日朝、激痛と共に出血。二日後、徳川家の近親と共に墓参りに行く予定だったので、行事責任者に休みたいと申し入れるも却下される。17日当日、痔が激しく結局休んだ。 14年間の中で痔について書かれていたのはこの3日間だけで、余程痛かったのだろう。
出典:本人著「大岡越前守忠相日記」(元文2年(1737年)正月より14年間書かれた日記)
☆ツタンカーメンの墓を作った人たちの出席簿がある(2004.3.18)
名前、7月の欠席日、欠席理由などが書き込まれている。
 フーイ   :病気、
 サビ    :サソリに刺されて痺れたから
 コンスール :誕生日
 イウミウテフ:二日酔い
 ネフェラグ :兄をミイラにするから
欠席理由ベスト3(大英博物館調査)
 第1位:病気
 第2位:お祭り・誕生日
 第3位:お墓参り
上記のことから墓を作った人々の自由な暮らし振りが伺えるため、「奴隷によって作られた」という定説は覆されるかもしれない・・・。
出典:大英博物館所蔵
☆電話の発明でベルに2時間差で負けた人がいる(2004.3.11)
アメリカの電気技術者エリシャ・グレイのこと。1875年秋頃より本格的に研究を開始し助手のマイクと共に研究に没頭、家賃も滞納しつつ研究費を捻出、「電話が完成すれば大金持ち」が家賃を待って貰うための口癖。1876年2月14日、電話完成! 特許局へ申請に行くも同じ特許局にベルが2時間前に提出済み。グレイ達の申請は却下された。訴訟も起こすが敗訴。その後、FAXの原型となる機器を発明し特許を取得、巨万の富を得た。
出典:「世界大百科辞典」
ベルは「音が聞こえる仕組みの研究」の延長で電話を作ったわけです。ヘレンケラーにサリバン先生を紹介した人もベルですし。ちなみに電話を発明したことはしたけどあまり性能が良くなく、それを改良したのがかのエジソン。エジソン自身も耳が悪かったため、マイク側に炭素粒を使ってより効率よく音声を電気信号に変える仕組みを作り上げます。エジソンの送話器とベルの受話器(こちらは電磁石の振動で電気信号を音に戻す)の組み合わせは長らくスタンダードとして使われ続けます。今はもっと効率の良いマイクとスピーカーの組み合わせですが、代わりに停電になると通話ができません。(茂木章 2004.3.14)
☆ニューヨーク近代美術館で47日間逆さに飾られていた絵がある(2004.3.11)
1961年10月18日〜12月4日、「MoMA」の呼称で有名なニューヨーク近代美術館ではフランス人画家「アンリ・マティス」の個展が開かれていた。その中の一点「舟」が12月3日夕方まで逆さで展示されていた。発見者はジェネベルブ・ハバート、この展覧会に3回入場する程のマティス・ファン。
最後に訪れた際にカタログの絵と見比べて間違いに気づき指摘。それまでにのべ11万6千人もの入場者がありながら誰も全く気付かず……しかも発見されたのが展覧会最終日前日・・・たった1日しか正しく展示されなかった。
☆伊賀忍者の頭領服部半蔵は部下の忍者部隊にストライキを起こされたことがある(2004.3.11)
半蔵と言っても「(初代)服部半蔵正成」ではなく「(二代目)服部半蔵正就」のこと。父の名を継ぎ、家康の姪にあたる松平定勝の娘を妻にした事で徳川家の一族となった正就は調子に乗り配下の伊賀忍に横暴な振る舞いをするようになった。これに不満を持った忍者200人とその家族約1000人が2ヶ月もの間寺に立て籠もり、正就の(幕府職の)解任を求め、幕府は正就に謹慎処分を命じた。これを不服とした正就はストライキの首謀者10名の死罪を要望し決行、10名中2名が逃亡。逃亡を知った正就は1名を探し出し斬殺、が全くの別人であったことが幕府に知れ結局リストラ。再起を賭けた戦いでは戦死を装い敵前逃亡、何食わぬ顔で農民として75歳まで生き抜いた。
出典:「国史大系 徳川実紀」
☆「ひとりぼっち」の「ぼっち」の意味は「お坊さん」(2004.3.4)
「ひとりぼっち」=「独り法師」
意味の変遷:江戸時代「俗世から隔絶されて独りきりで修行を積む法師」⇒「独り暮らしの人」⇒現在「連れを伴わずに独りきりでいる人」
☆童話「3匹の子ぶた」は元々襲ってきた狼を子ぶたが食べる話だった(2004.3.4)
本当は「藁の家と木の家を作った子ぶたは家を壊されただけでなく食べられてしまった。レンガの家を壊しあぐねた狼は煙突からの侵入を試みるも、子ぶたが用意していた大きな鍋に落ち、蓋をされグツグツと煮込まれしまった。そして晩御飯のおかずになりましたとさ」でめたしでめたし・・・
現在のようなお話になったのはディズニーが「3匹の子ぶた」のアニメを作った時で、それが世界中に広まってから。また、藁・木・レンガと建材が異なった理由はそれぞれの子ぶたにそれぞれの建材を持った男が通り過ぎたからであり、「藁・木の子ぶたは運が悪く、レンガの子ぶたは運が良かっただけ」と捉えられる話になっていた。
出典:「イングリッシュ・フェアリー・テールズ」(イギリスの古い民話を集めたモノ)
☆原宿でナウマン象の化石が発見されたことがある(2004.2.26)
昭和46年(1971年)4月12日、地下鉄の明治神宮前駅のトンネル工事の際に発掘される。ほぼ1頭分まるまる発掘され、非常に稀なケース。ちなみに、ナウマン象の発見者であるナウマン氏の孫にタモリは会ったことがある。
化石には古さでは及ばないけれど、京都市営地下鉄を作った時は平安京の遺跡が出まくったおかげで工事が遅れに遅れ「刷毛とへらで地下鉄を掘った」と揶揄されたとか(笑)。 
(茂木 章 2004.2.26)
☆シンデレラは人を殺したことがある(2004.2.26)
「シンデレラ」は1634〜1636年に書かれた「五日物語」の「灰かぶり猫」が起源。
イタリア・ナポリに母親(1番目)を亡くした娘が父親と二人で暮らしていた。やがて父親が再婚、義母(2番目)は意地悪で娘は酷い仕打ちを受けるようになった。娘は自分の家庭教師に相談、家庭教師は「大きな衣装箱にしまってある衣装を出してと頼み、探している間にあなたが支えていた蓋を手放し、首をへし折りなさい」「そして、お父様に甘え『先生をお母様にして』と頼みなさい」と囁いた。娘はその指示通りに行い、母親を殺してしまった。そして家庭教師は母親になり(3番目)、以降「シンデレラ」のストーリーになっていく。ちなみに、「灰かぶり猫」は2番目の母親を殺すシーンから始まり、家庭教師は6人の子持ち、ラストは「シンデレラ」同様、王子と結婚してハッピーエンド。
出典:バジーレ(イタリアの作家)著「五日物語」より「灰かぶり猫」
☆世界遺産アンコールワットには江戸時代の武士の落書きがある(2004.2.26)
寛永9年(1632年)正月に肥州(熊本県)の住人、森本右近太夫が書いたもの。内容は「仏教の悟りを開く事を志し、数千里もの海を渡り、この世の中を浄めるがため ここに四体の仏像を奉納します」。しかし、彼はアンコールワットをインドの仏教の聖地を間違えて訪れていた。その上、鎖国政策が布かれたために慌てて帰国、「森本」姓を捨て、京都・山崎に引き籠り、隠遁生活を送らなければならなかった。
☆力士が食べるものはすべて「ちゃんこ」と呼ぶ(2004.2.26)
由来1:中華鍋が輸入されてきた際、中華鍋の事を「チャウ クォ」と言っていたためという説
由来2:江戸〜明治初期にかけ「尊敬する人」や「父親」の事を「ちゃん」と呼んでおり年配のおすもうさんが当時食事当番をしていたことから、その名残で名付けられた説
現在は「相撲部屋で食べる食べ物」「力士が作った食べ物」を「ちゃんこ」と言い、外食などでは「ちゃんこ」とは言わなくなった。
出典:財団法人日本相撲協会監修「相撲大事典」
☆忠犬ハチ公は野犬狩りで何度も捕まっていた(2004.2.26)
昭和初期、渋谷周辺には野犬が多く治安維持の為、野犬捕獲人が野犬狩りを行っていた。ハチ公が有名になったのは晩年の昭和7年(1932年)朝日新聞が取り上げてからでありそれ以前では渋谷駅周辺でもハチ公を知らない人が多かった。その上、安産のお守りとして胴輪を奪われ、長時間主人を待つ間に薄汚れた姿をしていたハチ公は野犬に間違えられ易かった。それで、捕まっては撲殺寸前に事情をよく知る警察官に救われる、と言うことを繰り返していた。ちなみに、ハチ公は全世界にも紹介されており、ヘレン・ケラーも日本に来た際にハチ公に対面している。
出典:林正春著『ハチ公文献集』
正確には初代ハチ公像ですね。ヘレンケラーが初来日した昭和12年の2年前に、すでにハチ公本人(本犬!?)は亡くなっています。ただその後ヘレンケラーは秋田犬がお気に召したのか、日本から秋田犬を贈ってもらってとてもかわいがったそうです。しかも2回。(茂木 章 2004.2.26)
ただ、ヘレン・ケラーが対面したのは2代目の方です。初来日の昭和12年ではハチ公の話を聞き感銘を受け秋田犬を貰っただけで、実際の対面は昭和23年の再来日時だったようです。
 昭和23年8月15日 ハチ公像再建
 同年   8月29日 ヘレン・ケラー再来日(化和尚 2004.2.27)
☆ヨーロッパでは昔、紅茶をカップではなく受け皿で飲んでいた(2004.2.19)
17世紀までの欧州では熱い飲み物を飲む習慣があまりなかったため、お茶を冷ますためと茶殻が口に入らないために受け皿に移していた。当時、この飲み方はお洒落で優雅な一般的な作法であったので、アイルランドの一部の地域では今でもこの飲み方をしている。
☆モーツァルトは「おれの尻をなめろ」という曲を作ったことがある(2004.2.19)
原題は「Leck mich im Arsch」(独語)。1782年、ウィーンで作られた。日本語訳すると、「おれの尻 尻なめろ 尻なめろ つまらぬ小言をブウブウ言わず 愉快に楽しもう愚痴やボヤキなどは無駄なこと さぁ愉快に楽しもう この今のひととき」これを輪唱で歌う歌。宮廷のエンターテイメントとしてバラエティ豊かな曲を作ることで自分のパトロンを確保していったと見られている。この曲もその一つであろうと思われるが、果たして?
出典:国立音楽大学所蔵「モーツァルト楽譜集」
☆遠山の金さんは痔だった(2004.2.19)
文政4年9月当時、将軍の世話役に就いていた33歳の遠山金四郎は痔となり、馬での登城が困難になった為に籠での登城が出来るよう起請文を幕府に申請していた。金さんは籠での登城が可能な役職ではなかったが、病気が理由であれば籠が使用出来たのでその使用願いとして起請文を提出した。
出典:江戸東京博物館所蔵「籠使用の起請文」
☆バスケットボールは昔50人対50人でやっていた(2004.2.12)
バスケットボールは1890年初頭、米・マサチューセッツ州のジェームス・ネイスミスによって多人数で行える屋内球技として考え出されたのが始まり。対戦相手と同数であれば何人でプレーしても良かったため、このような状態が発生したらしい。実際に100人が1個のボールをめがけて殺到する凄まじい試合に、また体育館の耐久性にも問題が起こりかねないとして、1893年に5〜9人、1897年には5人のチーム編成がルールとして決まった。
出典:ナット・ホールマン(米)著「HOLMAN ON BASKETBALL」(バスケットボールの指導書)
☆ピカソは「ゲルニカ」を描いている時「勝った方と付き合う」と言って愛人2人に喧嘩させた(2004.2.12)
1937年のある日、「ゲルニカ」を製作していたピカソの側には、その製作過程を写真に収めるべく愛人である写真家のドラが居た。そこへもう一人の愛人マリー・テレーズがやって来て言い争いを開始、ピカソは打開策として「勝った方と付き合う」と提示、取っ組み合いの喧嘩が始まった。
その時の勝者は不明、ピカソは何事も無かったかのように2人とも付き合い続けた。しかも、「あんなに面白いことはなかった」と述べている。
出典:フランソワーズ・ジロー(ピカソの愛人の一人)著『ピカソとの生活』
☆指揮棒が刺さって死んだ人がいる(2004.2.12)
17世紀、ルイ14世に仕え「フランスオペラの父」と呼ばれた作曲家リュリのこと。当時の指揮棒は長い杖のような物で床を叩く事で指揮していた。ルイ14世を愛していたリュリ(♂)は王が手術を受け回復した際の演奏会で必死になって指揮する余り、指揮棒の先端で爪先を刺してしまった。その傷口が化膿し悪化、2ヵ月半後の1687年3月22日、パリで54歳の生涯を閉じた。
出典:『王立音楽アカデミーの歴史』(フランス)
☆コンタクトレンズは昔10円玉と同じ大きさだった(2004.2.12)
昭和25年(1950年)、日本初のコンタクトレンズが造られたが、現在の大きさの約3倍の大きさだった。造ったのは名古屋大学医学部 水谷豊教授。
☆水戸黄門の旅、最大の遠出は鎌倉だった(2004.2.12:今回は茂木さんの投稿を元に記事を作成しました
水戸黄門こと水戸光圀はドラマや時代劇の中では世直しの為諸国を漫遊したが、光圀の旅に関して書き残された『鎌倉日記』や『甲寅(このえとら)紀行』という書物によると、大きな旅は9回しかしていない。水戸藩では藩主は江戸に常駐する決まりがあって、水戸に帰る際には幕府の許可が必要だったため、光圀は水戸と江戸の往復の際に寄り道したり領内を視察で回ることぐらいしかできなかった。
1回目 江戸〜日光東照宮の130km
2回目 江戸〜筑波山〜水戸の91km
3回目 江戸〜勿来関〜水戸の210km
4回目 水戸〜鎌倉の225km(房総半島から水路)
5回目 水戸〜藤代〜江戸の80km
6回目 江戸〜藤代〜水戸の80km
7回目 江戸〜板久〜水戸の112km
8回目 西山荘〜江戸の98km
9回目 江戸〜銚子〜水戸の165km
光圀は旅をする時は歩きではなくほとんどがカゴや馬などに乗って移動していた。
水戸藩主は江戸常駐が決まり、よって、日本漫遊など不可能。江戸−水戸間の移動の際に寄り道する程度の旅で、水戸光圀の主な遠出は9回。日光東照宮や筑波山、銚子などへ赴いた内で最も遠い距離となったのが鎌倉。しかも、ルートは房総半島経由。また、徒歩ではなく籠または馬で移動していた。
出典:「甲寅紀行」,「鎌倉日記」(化和尚 2004.3.3)
☆桜の木を切ったと正直に言ったワシントンは桜の木を切っていなかった(2004.2.12:今回は茂木さんの投稿を元に記事を作成しました
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の頃、桜の木を切って父親にそのことを正直に話したという桜の木の話は、アメリカの牧師ロック・ウィームズが書いた『逸話で綴るワシントンの生涯』という本に載っている。ところが、掲載されたのは1806年に出版された第5版からで、1800年に出版された第1版から第4版には掲載されていない。ウィームズは本の売り上げアップを狙ってこの「桜の木の逸話」を勝手に付け加えた。そのことはウィームズは様々な文献を参考に本を書いているとしているが、どの文献にもこの逸話は一切書かれていない。しかも、本の中でウィームズは自分を「マウント・バートン教区の牧師」と言っているんですが、そのような教区は今も昔も実在していない。※嘘つきの人が書いた正直者のお話。
ウィームズは上記書籍を出版し好調な売り上げを記録していた。気を良くしたウィームズは更に売り上げを伸ばそうと第5版からワシントンとは全く関係の無い勝手なエピソードを盛り込んだ。その増量分、約3倍!(本の厚さより推定)。しかも、牧師と称していたが、その事実はかなり疑わしい。
出典:ロック・ウィームズ著「逸話で綴るワシントンの生涯」初版(1800)及び第5版(1806)(化和尚 2004.3.3)
☆「ベルサイユのばら」の舞台となった18世紀のパリはウンコだらけだった (2004.2.12:今回は茂木さんの投稿を元に記事を作成しました
「ベルサイユのばら」の舞台となったのは18世紀のパリ。当時は街が整備されておらず、おまけに一般家庭にトイレがなかったため、市民は毎日おまるの中身を窓から通りに投げ捨てていた。そのため街路や広場はあらゆるごみの溜まり場に。1608年に国王のアンリ4世が「家の窓から糞尿を夜であっても投げ捨てない」という法律を制定し、さらに1677年には、初代パリ警察警視総監ラ・レニーが「1ヶ月以内に町中の家の中にトイレを設置すること」という命令をトイレ業者に勧告した。
 しかしそれでも状況は改善される事はなく、100年後の1777年にはルイ16世が「窓から汚物の投げ捨てを禁止する」という法令を再度制定したが、どの法律も全く守られることはなくあらゆる所に汚物が捨てられ続けた。19世紀半ばのナポレオン3世の時代になるまでそんなパリの街が腐敗臭から逃れられなかった。「花の都」は「鼻の曲がる都」でもあった。

これについては私が知っているトリビアを少し。
 ・あまりにも道が汚いため、スカートの裾を汚さずにするために考えられたのがハイヒール。
 ・汚物を窓からばらまく時は「水にご用心!」とかけ声をかけていた。
 ・パリのあまりの臭さ、汚さに耐えかねてパリから逃げ出して作ったのがかのベルサイユ宮殿。しかし元の木阿弥になったのは言うまでもない。
 ・「ベルサイユ宮殿にはトイレがなかった」と言われるが、実際にはおまるのような簡易トイレがあった。ただし、その数「274脚の腰掛け便器」!!(注1)圧倒的に数が足りないため皆庭のそこら辺で用を足していた。
 ・女性も立ちションをしていたが、実際にはし瓶のようなものを中に入れてしていた。そしてあの特徴的な釣り鐘スカート、女性の立ちションのためという説の他に、妊娠した時のお腹のふくらみを隠すため(私生児隠し)という説もあり。
 ・余りに庭のあちこちで用を足して汚いため、「ここで用を足すな!」という立て看板が立てられた。これが「エチケット」の元祖。
注1:参考文献:『トイレは笑う』(TOTO出版 プランニングOM編・著)
18世紀当時のパリの街にはトイレというものが無く、皆おまるで用を足し汚物は道端に毎日捨てられていたため、次第に糞尿で一杯になった。以前からも1608年アンリ4世が法律を、1677年初代パリ警察警視総監ラ・レニーが命令を出すも効果無く、時の国王ルイ16世が1777年に上記の法律を制定したが、やはり効果無し。ナポレオン3世の御世、19世紀半ばまでこの状態は続いた。
出典:「フランス法令集」より「フランス法令 第5条」(化和尚 2004.3.3)
★缶切りは缶詰ができてから48年後に生まれた (2004.2.12:今回は茂木さんの投稿を元に記事を作成しました
缶詰は1810年イギリスの商人ピーター・デュラントがガラス瓶の代わりにブリキ缶を使うことを考案し誕生。空ける方法を考えるのは二の次だったのか。発明当時は缶詰のフタに「ノミとハンマーで上面を丸く切ること」や「オノとハンマーで開けてください」という注意書きがされていた。兵士は鉄砲で穴を開けたりしたが(TVで色々な缶詰を銃で撃って開けていたが、はっきり言って中身が飛び散って実用に堪えなかった)、さすがに不便と思ったのか、缶切りは缶詰が誕生した48年後の1858年にアメリカのエズラ・J・ワーナーが発明し特許を取得した。当時は缶切りを缶の縁に突き立て力ずくで縁に沿って回す少し危険なものであった。

※関連トリビアとして、ビン詰めは缶に遡ること6年の1804年に、フランス人のニコラ・アペールによって発明されました。だから今年2004年は200周年。ナポレオンが戦線において食料を長く保存できる方法を懸賞金つきで募集し、その時ニコラ・アペールが考えついた、「コルクで栓をしたガラスびんに加熱滅菌した食品を封入する」保存方法が見事1等に輝き、懸賞金1万2,000フランをGetしたのでした。
缶詰の発明 :1810年、英国商人のピーター・デュラント、ガラス瓶の代用品として
缶切りの発明:1858年、米国、エズラ・J・ワーナー
缶切り発明までの代用品:カナヅチやノミ、戦場では銃(化和尚 2004.3.3)
☆新撰組の土方歳三は「モテてモテて困る」という手紙を親戚に送ったことがある(2004.1.28)
お相手の紹介だけ……京都・島原:花君太夫、天神、一元、京都・北野:舞妓の君菊、小楽、大阪:若鶴太夫、他にも2、3人、大阪・北の新地:もうかなり居過ぎて書き切れないって感じ。余談。結成当時、貧乏だった新撰組が島原で遊ぶことなどとても出来なかったが、土方だけは別格で「島原の太夫」という最高位の女性に自分が遊んだ代金を負担してもらって遊んでいた。
出典:土方歳三の書簡(文久3年(1863年)11月付け 小島鹿之助宛)
☆東京都葛飾区「亀有」は昔「亀無」だった(2004.1.28)
「亀の甲羅のように隆起した土地の形を為している」⇒「亀為し」⇒「亀無(亀梨)」。1398(応永5)年「葛西御厨文」や1559(永禄2)年「小田原衆所領帳」などにも記載が認められる。「亀有」になったのは1644(正保元)年、幕府の国図作成に当たり「なし」という言葉を嫌って「有り」に変えてから。
☆美男子コンテストは明治時代にも行われていた(2004.1.21)
1910(明治43)年9月22日、毎日新聞の前身である毎日電報が新聞紙上で募集したところ、1000通もの応募。優勝したのは加賀前田家の末裔、前田利彭(としちか)。この後、理由は不明だが前田家から追放されている。開催理由は日露戦争に勝利した日本が海外に向け「日本にはこんな立派な男子がいる」と知らしめようとしたため。
☆水戸黄門は7人いた(2004.1.21)
もともと「黄門」とは「中納言」と言う役職の別名。歴代水戸藩主が中納言職を得れば「水戸黄門」となる訳である。頼房、光圀、綱條(つなえだ)、治保(はるもり)、齋脩(なりのぶ)、齋昭(なりあき)、慶篤の7名。戦隊シリーズ風に歴代水戸黄門を紹介する番組に脱帽……ちなみに、中国古代、役所の門の扉が黄色に塗られており、そこから「黄門」という言葉が生まれ、その後「門下省」という政府の最も重要な機関で働く人を指す意味の言葉になっていった。日本では「中納言」の役職が「黄門」の役職と類似するために「中納言」に就いた人を指すようになった。
☆15代将軍徳川慶喜は大政奉還した後カメラマンを志した(2004.1.21)
……説明省略。ちなみに、彼が最も評価された写真を加納典明に観て貰ったところ、「ダメです」
☆古代のオリンピックの選手は全員全裸で競技していた(2004.1.15)
観戦していいのは男性と未婚の女性のみで、既婚女性が観ると死刑(絶壁から落とされる)という法律があった。競技中はコーチも全裸でいる事が義務付けられていた。確認VTRでは上手く隠しながら全裸で競技・・・(w。柔道家・吉田秀彦からのトリビア。
出典:パウサニアス(西暦200年頃の人)「ギリシャ周遊記」(参照したのは18世紀の復刻版)
☆日本人女性が下着を着けるようになったのはデパート火災のせい (2004.1.15)
1932年(昭和7年)12月、東京・日本橋のデパート白木屋の火事で逃げ遅れた女性店員が命綱を作りそれを使って降りようとしていた。当時の日本人女性の普段着は着物で下着を着ける習慣が無かったため、突然の突風に着物の裾を抑えようとして綱を離してしまい落下してしまった。この事件は新聞に大きく取り上げられ「下着を着けろ」との空気が高まり以後、女性下着の着用が急速に広まった。
☆一休さんは自殺しようとしたことがある (2004.1.15)
師匠の死にショックを受けた一休は石山観音に篭ったが、悟りの境地に達することが出来ず、自殺しようとした。
出典:「一休和尚年譜」
☆「面白い」という言葉がある 「面黒い」という言葉もある(2004.1.15)
「面黒い」は江戸時代に生まれた言葉。
1:一般の人が「面白い」という意味で単にシャレで使う場合
2:川柳・俳句の世界の人が「面白くない」という意味で使う場合
十返舎一九も1802(享和2)年に書いた代表作「東海道中膝栗毛」の中でも「面黒い」という言葉を使っている。
☆織田信長は豊臣秀吉を「サル」と呼んでいたが、「はげねずみ」とも呼んだことがある(2004.1.15)
秀吉が側室(って言い方に語弊を感じるが)との間に先に子供を作ってしまいそれを知って不安と嫉妬に悩まされていたねねを励ますために信長が書いた手紙の中での表記から。
出典:信長がねねに宛てた手紙
☆浦島太郎は玉手箱を開けておじいさんになったあと鶴になった(2004.1.11)
「日本書紀」の頃から登場している浦島太郎であるが、江戸時代頃まではこんなオチだったらしい。
☆1ドル紙幣のワシントンは入れ歯が飛び出ないように噛みしめている(2004.1.11)
極度の歯槽膿漏を患っていたため、スプリングを利用した入れ歯を使用。復元し実際に使用してみた処、口を開く度に飛び出す勢い!
☆ロシアの最高指導者は髪の「薄い人」と「ふさふさな人」の繰り返し (2004.1.11)
え〜煮える兄さん、捕捉トリビアお願いします。m(_ _)m
☆神様を数える単位は「柱」 (2004.1.11)
北条姐さんにお任せしたいと存じます。m(_ _)m
☆森鴎外の好物は饅頭茶づけ(2004.1.11)
評価員も試食していましたが、結構イケる味だそうです。確認VTRでは永谷園のお茶漬けのCM風にかきこんで食ってました(w
☆江戸時代にはオナラをした人の身代わりになる役職があった(2004.1.11)
江戸時代の「屁負比丘尼」の紹介なのだが、確認VTRの屁負比丘尼役がなんと小川眞由美!!姫君の放屁音を聞こえるや否や「必殺!仕事人」の殺しのテーマ!すかさず「(オナラをしたのは)私ですが、何か?」の一言!!
☆チャップリンのマネージャーは日本人(2003.12.22)
日本びいきだったチャップリンは運転手を募集したところ、当時留学生だった高野虎市さんの応募に即採用、真面目な仕事振りにマネージャーへと昇格。1916〜1934(大正5〜昭和9)年までの18年間勤めた。1932(昭和7)年「五・一五事件」当日、犬養毅首相と会食の約束をしていたが、高野さんがキャンセル、歌舞伎鑑賞に連れ出したおかげで事件に遭遇しなかった。
☆「フランダースの犬」が初めて和訳された時、主人公のネロは清、パトラッシュは斑(ぶち)と訳された(2003.12.22)
1909年(明治42年)日高柿軒(しけん)によって和訳。
☆第二次世界大戦中アメリカ軍には富士山をペンキで赤く塗りつぶす作戦があった(2003.12.22)
CIAの前身、戦略情報局内「神経戦部」で日本人の戦意を下げる作戦として立案、即刻受理されそうになったが作戦費用が莫大になると判明した直後、即却下された。ちなみに、ペンキが約12万トン必要、B29のガソリン代だけで約600億円なり〜。
☆「グレる」の語源は「はまぐり」(2003.12.14)
平安時代後期:「貝合わせ」。江戸時代:「貝と貝が合わない状態」⇒「物事が本来の状態と食い違っている状態」に例え「ぐりはま」と呼ぶようになり、それが訛って「ぐれはま」、さらに動詞化して「グレる」となった。
☆勝海舟は犬にキンタマを噛まれて死にそうになったことがある(2003.12.14)
詳細は既にUP済。 ちなみに説明VTRに使用されたイラストは「銀牙〜流れ星 銀」「白い戦士ヤマト」など犬漫画の巨匠、高橋よしひろのオリジナル!(笑)
出典:勝小吉著「夢酔独言」
勝海舟の父、勝小吉は、大事なところ(さすがにストレートな表現は恥ずかしいです…)を崖から転落して強打したことがある。14歳のとき、養家の祖母にいびられたことに怒って家出を決行。狼が出るという山中で野宿をした際、寝返りをうったとたんに崖から転落し、大事なところを強打して気絶したらしい。親子揃って、災難ですのう…(先日のトリビアの泉参照)
(ほなサイババ 2003.11.20)
「親父よ! オマエもか!!」海舟の方は結構有名ですね。それで勝は犬恐怖症になったとかならないとか(笑)。『トリビアの泉』の裏番組(関東の場合)である『その時歴史は動いた』で勝海舟の銅像がTVに写っていました。募金を集めているとかつてここで書いた記憶がありますが、7月には完成していたんですね。情報…『すみだ区報』2003/7/21号

http://www.city.sumida.tokyo.jp/info/kuhou/backnum/030721/kuhou01.html


まだ見に行っていないので機会があればそのうちに。ま、関連ネタで田町駅には勝と西郷の会談の様子を描いたレリーフがありますが、抽象的すぎてよく分からないという(笑)。
(茂木章2003.11.22)
☆バターは元々塗り薬だった(2003.12.13)
バターが最初に作られたのは紀元前5世紀頃、皮膚のひび割れを防ぎ、傷口にばい菌が入らないようにするために使用。当時のバターは馬乳で作製していた。ちなみに大仁田参議議員に塗らせて貰った処、感想は「気持ち悪いよ」。さらに、バター塗っても傷口は治りません!
出典:ブリタニカ国際百科事典・初版(18世紀)
☆忠犬ハチ公の鳴き声のレコードがある(2003.12.13)
昭和9年。当時、小学校の教員であった岸一敏らが生前のハチ公の声を録音していた。レコードタイトルは「純情美談 忠犬ハチ公」。ちなみに、鳴き声を翻訳すると言われる「バウリンガル」にかけると「さみしいよお」。
☆国旗が緑一色の国がある(2003.12.13)
その国は社会主義人民リビア・アラブ国、通称、リビア。元々、リビアの国旗は同盟国であったエジプトと同じものを使っていた。しかし、1977年12月エジプトのサダト大統領がリビアと敵対関係にあったイスラエルを訪問、これに激怒したリビアのカダフィ大統領は同盟を破棄、さらに政府幹部達に「翌朝までに国旗を変えろ!」と指示した。緊急会議を開くも「一晩で作れる国旗は柄のない無地のものしかない」との結論に達し、イスラム教徒の中では神聖な色とされている緑を採用した。
☆「アルプスの少女ハイジ」が和訳された時、「ハイジ」は「楓」だった(2003.12.13)
1925年(大正14年)に山本憲美によって和訳された。タイトルも「楓物語」。キャスト:アルムおじいさん=爺(おやぢ)、ペーター=辧太(べんた)、クララ=久良子(くらこ)、ロッテンマイヤーさん=古井(ふるゐ)さん。アニメの絵を思い出しながら、名前のギャップを楽しんで下さい(笑)
☆大日本帝国憲法は泥棒に盗まれた事がある(2003.12.13)
明治20年、横浜市の東屋旅館で金子堅太郎、伊東巳代治、伊藤博文らは憲法の文案を作成していた。その年の8月、思いの他作成が進み、気を良くしたメンバーはある夜宴会を開き、盛り上がり過ぎて酔い潰れてしまった。そこへ泥棒が忍び込み、憲法の草案の入った鞄を盗み出してしまった。しかし、文書だけしか入っていなかった為、鞄ごと塩田に捨てられていた。そして運良く発見され、以降一般人の入れない密室で作成が続けられ、明治22年、大日本帝国憲法が完成した。施行は明治23年。
出典:金子堅太郎著「憲法制定と欧米人の評論」
密室というより神奈川県の夏島、今の横須賀市夏島町にあった伊藤博文の別荘のことですね。今は埋め立てられちゃったんで島じゃなくて地続きですけど・・・(笑)。
しかし、実体はこうだったのではないかと・・・。

http://dewey.sfc.keio.ac.jp/tobae/tobae/1152.html#

(茂木章 2003.12.14)
☆水戸黄門は思春期の頃かなりグレていた

詳細は「小野諌草」「玄桐筆記」などに記されている。光圀の教育係、小野角右衛門著「小野諌草」によれば、「本格的にグレていたのは15〜18歳の頃」で「18歳の頃、司馬遷の「伯夷伝」と言う史記を読み、兄弟の家督相続を譲り合う内容に大変感銘を受け、自分の身勝手な行動を悔い改め」更正した。

さて、そのグレ具合であるが……
【その1】派手な服装で(カブキモノ?)江戸の街を仲間達と我侭に闊歩していた
【その2】町人達の相撲大会に仲間達が参加したが、尽く負けてしまうのに腹を立ていきなり刀を抜いて暴れまくり、相撲大会を台無しにしてしまった
【その3】遊郭に上がって遊ぶようになると弟達を捕まえてあれこれといやらしい話をしては教育係を困らせた

☆卒塔婆専用のプリンターがある
直接関係無いけどね、もう最高だったんで(大笑)。現物はコレ! 梵字が印刷出来るってのが凄い! 
http://www.oterasan.jp/html/01_01_otoba.html
☆天気予報の「177」は昔、大隈重信の自宅の電話番号だった
現物はコレ!

http://www.digital-lib.nttdocomo.co.jp/mobile_lib/tsusin_lib/4/tsushin_con4_5.html


他にも前島密(248)、後藤象二郎(247)などが紹介されましたが、クローズUPしても確認し辛いです。
☆小便小僧がおしっこをしているのは爆弾の導火線の火を消すため
14世紀、ベルギー政府は反政府軍のテロに悩まされていた。反政府軍はブリュッセル破壊の為に爆弾を仕掛け、街はパニック状態と化した。そんな中、ジュリアン(後の小便小僧)だけが爆弾に近付き導火線の火を小便で消したのである! その後、反政府軍は鎮圧されジュリアンの勇気ある行動は後世にまで語り継がれ彼のような少年を多く育てたいと1377年、ブリュッセルの街に「元祖」小便小僧が造られた……っと!

これとて諸説あります。放火、あるいは火事の火を消したという説や、城壁を登ってくる敵兵に向かってとしたいうのもあります。また異説では伯爵か誰かのひとり息子が森で迷子になってしまい、町中の人たちが総出で探したところ、見つかった時の決定的瞬間を模したものというのがあります。出典は昔うちにあった雑学の本なんですが、今ちょっとどこに行ったかは分かりません。

日本の有名な小便小僧と言えば「DAKARA」のCM…ではなく(笑)東京・浜松町駅の小便小僧でしょう。ボランティアの人たちによって四季折々に色々な着物を着せてもらえる「元祖コスプレイヤー」として有名ですよね。

実は「小便小娘」というものも存在するとか、女性用立ちショントイレがある(=女性も立ちションができる)というのも「トリビア」で扱われたネタでしたね。(茂木 章 2003/11/13)

コレですね。

http://www.leaftech.co.jp/hatumis/berg.html

(化和尚2003/11/14 )