| 12/19、絵本作家の関屋敏隆氏の絵本『やまとゆきはら』(福音館書店)と、白瀬南極探検隊記念館嘱託職員の佐藤忠悦氏による『白瀬南極探検隊と2人の樺太アイヌ』(自費出版)が相次いで出版された。両書とも探検の様子と、アイヌ隊員・山辺安之助、花守信吉の2人とカラフト犬にスポットを当てている。(2002.12.21) |
さきがけ新報 2002/11/4 |
| 11/19、京都府の食品加工業・中井勉氏は、千利休が所有していた名品「茶壷橋立」を題材にした歴史小説「橋立の壷は残った」(叢文社)を刊行した |
京都新聞 2002/11/24 |
| ●三重県楠町の井上文雄氏は、終戦前後の満州の様子などを記録した『最後のお召し列車』を中日新聞社から自費出版した。四六判200ページで、実費送料込みで2000円。井上氏は、1942(昭和17)年5月に、政府命令で満州鉄道・新京機関区へと職場を替わり、終戦後の1946年10月まで機関助手として働いた。同書には、満州国の皇帝溥儀(ふぎ)を乗せた「お召し列車」の先発車両に鉄道兵として乗務した時の話や、戦後、多くの日本兵をシベリアに送った機関車を運行した時の話などを掲載している。(2002.4.2) |
| ●京都市は小冊子「観光アイデアヒント集」(A5判、32ページ)を作製した。独身女性を対象に着付けや京料理、茶道、華道のけい古を盛り込んだ「玉の輿(こし)修業プラン」や社寺を舞台にしたダンスイベントの開催など、全国から寄せられたユニークな企画を盛り込んだ。(2002.4.2) |
| ●京都市右京区の財団法人ロームミュージックファンデーションは、戦前戦中に国内で録音された西洋音楽のSPレコードをCDで復刻した「日本の洋楽1923〜1944」(5枚組)2000セット製作した。収録曲は東京・歌舞伎座で録音された山田耕筰指揮でJ・イベール委嘱作『祝典序曲』、近代イタリアの作曲家ピツェッティの代表作『交響曲イ調』のほか、R・シュトラウス、近衛秀麿らの作品を収録。ピアニスト澤田柳吉、木琴奏者平岡養一ら日本で草分けの演奏家の名演も収めている。元教諭・杉浦利之氏が亡父から譲られて、所蔵していたSPレコードを原盤とした。杉浦氏の父・雅太郎氏は戦前、中京区で呉服問屋を営む傍ら、バイオリン奏者としても活躍。クラシックを愛好し、SPレコードのコレクションは4500枚に上った。(2002.4.2) |
| ●京都市右京区の元中学教諭・堀江満智氏は、ロシアの日本人居留民社会の様子を記した『遙かなる浦潮(ウラジオストク)』をこのほど新風書房刊から出版した。四六判、263ページで1500円。祖父の堀江直造氏は舞鶴市出身で、1892年に勤め先の商店がウラジオストクに移転したことから、訪ロ。日露戦争で帰国した後、再びロシアに戻り食品製造工場を経営した。日本のシベリア出兵に伴い、1921年に京都に引き揚げ、1942年に亡くなった。同書では、直造氏の半生を通して、経済活動を中心にロシア人と日本人の交流や、日本人居留民会の活動、日本語新聞「浦潮日報」などを紹介。残された日記などを元に日本人居留民の日常生活も盛り込み、居留民が革命に翻弄され、シベリア出兵に協力していく姿を記している(2002.3.11) |
| ●福井県の元小学校長・高橋利男氏は、県内嶺南の288集落を訪ね歩き、神社境内などに眠る力石の現状調査や当時を知るお年寄りの証言を聞き、冊子「若狭の力石」にまとめた。A4判。64頁。「力石」は若者らが持ち上げて力を競ったもの。力石が過去に存在した集落が52%、実物が確認できたのは67集落で計133個。昔はあったというが石を確認できなかったのが83集落、存在したかどうかも不明なのが138集落という結果がでた(2001.9.24) |
| ●徳島県元神山町の大粟玲造氏は、四国霊場十二番札所の焼山寺(神山町下分)から十三番大日寺(徳島市一宮町)までの間にある道標を紹介する『遍路道の道しるべ』を自費出版した。B5判、121頁。32キロの間にある丁石や石仏など279基について、刻まれている文字や大きさを図入りで一つ一つ紹介している(2001.9.24) |
| ●徳島県市場町文化財保護審議会は、町内に残る遍路石など石造文化財についてまとめた冊子『市場町の文化財 道しるべと丁石』を刊行した。B5判、105頁。十番札所切幡寺(同町切幡)から十一番藤井寺(鴨島町飯尾)までの間と八十八番大窪寺(香川県長尾町)と切幡寺を結ぶ沿道に現存している51基を調査。1基ずつの写真と素材、大きさ、造られた時代などを記している(2001.9.24) |
| ●静岡県天竜市教委は、『天竜市史 続史料編3 田代家文書三』を発刊した。同市二俣町鹿島の田代家は、北鹿島村の名主を務める一方、天竜川のいかだの受け継ぎ問屋として栄えた旧家。天竜川水運にかかわる古文書を中心に数多くの資料が残され、それらは市に寄贈されている。1冊1500円。市教委、内山真龍資料館、田代家休憩所、中央公民館で販売中(2001.8.23) |
| ●藤井一行・富山大名誉教授は、ロシア革命の指導者トロツキーの代表作『ロシア革命史』(1932年)の完訳を行い、岩波書店の文庫本として刊行し、このほど全5分冊が完結した。北海道大学に保存されていたトロツキーの生原稿のマイクロフィルムから翻訳を行った(2001.7.24) |
| ●1900(明治33)年に和歌山県田辺市で創刊された地方新聞「牟婁新報」の復刻版が不二出版から刊行された。「牟婁新報」は、新宮市出身で田辺市稲成町の高山寺住職だった毛利柴庵(僧名・清雅)が、社長と主筆を務めた新聞。幸徳秋水や堺利彦、大石誠之助など社会主義者をはじめとする多くの革新思想者が論陣を張り、荒畑寒村や管野すがらも記者を務めた。明治天皇暗殺計画の名目で、政府が社会主義者らを弾圧した大逆事件(明治43年)とのかかわりもあり、国内外で知られるようになった。また、神社合祀(ごうし)明治三十九年では、宗教の自由や環境破壊の問題に取り組み、南方熊楠が筆を振るうなどし、国際的な支援を求めた(2001.7.6) |
| ●名古屋大の大学史資料室は、同大の歴史をテーマ別にまとめた「名大史ブックレット」の刊行を始めた。A5判で、『これまでの大学院・これからの大学院』『名古屋大学キャンパスの歴史1(学部編)』『名古屋大学スポーツの歩み』の3冊を出版。名大の歴史を通じて、大学院の歴史、都市計画と大学キャンパスの関係、大学スポーツの流れが分かる解説書にもなっている(2001.7.4) |
| ●日本古来の武術に魅せられたベルギー人男性モル・セルジュ氏は「古流武術」のルーツや各流派の特徴、歴史などをまとめた英語の本『CLASSICAL FIGHTING ARTS OF JAPAN』(B5判、242ページ)を出版した。氏は9歳から地元で柔術を習い始め、徐々に日本古来の武術に秘められた文化的な魅力にとりつかれた、という。大学卒業後の1993年に初来日。以後、何度も日本を訪れ、全国各地の流派の宗家の門をたたいている。これまでに、本門円心流居合据物斬剣法(ほんもんえんしんりゅういあいすえものきり)や伯耆(ほうき)流柔術などを究め、現在はベルギー国内の三道場で柔術を指導している。1冊3800円(税別)。問い合わせは講談社インターナショナルへ(2001.7.1) |
| ●栃木県小山市大行寺の早乙女伸氏は、小説「世界で初めて公害に挑んだ男」(東京図書出版会)を自費出版した。田中正造の生い立ち、闘い、足尾鉱毒事件、国会議員を辞職し、天皇への直訴状など26章で構成している。今年は足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造が明治天皇に「直訴」してからちょうど100年を迎える(2001.6.18) |
| ●山口県東和町沖家室島の同郷誌「かむろ」が、同島の泊清寺住職新山玄雄氏が自費出版で約60年ぶりに復刻される。「かむろ」は1914(大正3)年9月5日、海外移住により異郷の地で必死に生きる仲間の現況や彼らへの励まし、沖家室島の暮らしぶりなどを伝えるために創刊された。ハワイなどへも送られ、太平洋戦争直前の1940(昭和15)年3月まで通巻で158号を数えた。沖家室島は周防大島の南に位置する1平方キロに満たない小島。瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えたが、耕地はわずかで発展を島外に求める伝統が、多くの海外移民を生み、「かむろ」発行の背景になった(2001.5.22) |
| ●静岡県浜松市の郷土史家・小楠和正氏は、浜松まつりのたこ揚げ起源や歴史を考察した結果を小冊子「検証・浜松凧揚げの起源と歴史」にまとめ上げた。A5判82ページ。これまでに浜松まつりのたこ揚げ合戦の起源は、江戸永禄年間に引馬城主の長子が誕生した時、お祝いとして入野の住人が大きなたこを揚げたことに始まるとされていた。しかし、小楠さんは原資料を見直した結果、「浜松城記」の記述には間違いが多く偽古文書と確信。浜松地域に残る古文書の中で最初に初たこの記述が見られたのは1789(寛政元)年だが、たこ揚げ祭りが行われたという記述はどこにも見られなかった。糸を切り合うたこ合戦の様子が記述された史料は明治15〜16年の新聞記事から。今回の小冊子は非売品。問合せは小楠氏 電話:053-447-4753(2001.4.23) |
| ●沼津市の歴史民俗資料館は、同市魚町での県道沼津港線工事で出土した明治・大正期と推測される多量の陶磁器を分析し、結果を冊子にまとめた。大正2年の沼津大火で陶磁器商「いせう」が消失し、がれきを一括廃棄したと推定して、出土物の考察を行った。当時の食生活について、磁器の飯碗が大量に出たことから穀類の種類や調理法の変化、食膳様式の変化などが関連していると推測し、「沼津でも磁器碗による食生活が浸透していたことを物語る」とした。洋食器の数量が極端に少ない点は「沼津周辺で洋食は浸透していなかったことを示す」としている(2001.4.16) |