|
目 次
六月には重い霖雨(りんう)が降る 色川大吉
記憶への旅 1960年6月15日(その壱) 三上 治
|
 |
六月には重い霖雨(りんう)が降る 色川大吉 |
|
フランスで“五月革命”なるものが起った。ドゴール体制に反抗した学生、労働者たちの自然発生的な実力行動からはじまった頑強なゼネストであった。フランス全土は麻痺(まひ)し、ドゴールの失脚は確実かと見られた。
当初この立上りに反対し、むしろおさえようと努力していたフランス共産党と総同盟は、このとき出直し、おいつめられた政府と取引し、制限選挙法に従って民主連合政府の樹立、政権の合法的奪取をねらった。私はこの方針をきいて歴史状況への盲目ではないかと思い、革命の高揚を退潮させる裏切りだと感じた。選挙の結果は予想を上廻る左翼の大敗北。ドゴールは大勝して“五月革命”を乗り切った。
こうなることは分りきったことではなかったか。私たち日本人には八年前にとうに経験ずみだ。「革命」というものが、「前衛」などの思うようになるものではなく、人民自身の自発的必要によって生じ、消滅する、きわめて流動的な、自立的な法則性をもつものであることを、そして、その短時日の上げ潮の機を逸したら、何びとの手でも決してそれを取戻すことはできないものであることを、傲慢(ごうまん)な既成左翼は、またもとらえそこねた。私が「安保」のことを想い出したのは、そのためでもある。
一九六〇年安保闘争から八年をへて、また安保改定の年が目前に迫っている。
私にとって“安保”とは、六月の霖雨(りんう)のように重く、暗くしめった印象である。小雨かとおもっていると昼ごろ強い陽が射し、またとつぜん激しい雨ふりに変るという日々。六月十五日もそういう一日で、“泥と血にまみれ”という言葉がぴったりしていたようにおもう。
私はそのころわけがあって、ひとりでくらしていた。私たちが関係していたある会社が破産し、私は失業者のような立場になって、週に一度職安にゆく以外には、妙に自由で孤独の身であった。私はそれこそ自分で弁当を作り、通勤するように毎日国会に通った。
五月がすぎて六月に入り、安保自然発効の日が近づくにつれて焦躁感が高まっていった。安保反対国民会議の統一デモは、スケジュール通り幾回となくくりかえされたが、岸内閣は少しも痛痒(つうよう)を感ずる様子がない。そのうち共産党が立上るだろうと囁(ささや)ものもあったが、共産党は、“ブント”という全学連指導部のトロツキスト攻撃に熱中していて、決定打を放つ用意も考えもない。その全学連ははなばなしく突撃をくりかえしていたが、労働組織と結びつくことができず、これもきめ手になりえないでいた。
空しく時間が流れる。私たちはにがにがしい想いをかみしめ、あるときはそのバラバラなデモのまわりを走り廻り、あるときは止むなく国民会議の統一行動、“お焼香デモ”に加わらざるをえなかった。
五月二十七日、十万を越える大デモのなかで、私ははじめて、こんどの抗議行動は本物だぞという感動をえた。こんどのは上からの指導によるものではない。まったく新しい民衆の自発性が活気となって下からあふれている。なにかしらがふっきれている。世論の水脈があきらかに変ったのだ。
六月四日、この早朝、私はラジオ放送記者のつたえるゼネスト成功のニュースを聞いて“光”をつかんだ。有史以来はじめて、日本の労働者階級のゼネストが、大多数の日本国民に支持されたというのだ。こんなことは、かつてなかったことだ。それが確認された以上、この日から前衛部隊の突撃行動は許されると思った。
国民の支持がとれたかぎり、もはや非合法は合法に転じたのだ。正義は権力の側にではなく、民衆の側に移行している。この情勢が保持されている短かい間に、中央突破行動にでよ、上げ潮の波頭を激浪に変ぜよ、戦術を変更せよ。
私はこの日から自分の判断に確信をもった。六月四日以降、私たちは国民会議のマンネリ・デモに参加することはやめ、極力、全学連と労働者組織との連結をつくりだす方向へ力をふりむけた。余裕は二週間しかない。こうなってはもはや既成組織をあてにすることはできない。戦意のある集団なら思想の違いを越えて中核にせざるをえない。
私たちは、このころから、六、七人の歴史家によって自立した組織をつくり、独立行動をとるようにした。旗もたいそう個性的な“歴史家の旗”を大急ぎで作製した。この旗は、横長の濃いえんじの布に黄色で「史」という大文字をそめ出し、その下に人型模様化した小さな「史」が七人ほど、スクラムをくんで前進しているようにデザインした。このひときわめだつ大旗をかかげて各部署に自由に移動し、行動した。私たちのしごとは全局面を冷静に観察し、現状を正確に把握すること。デモ隊のエネルギーを霧消させる流れ解散をくいとめ、少しでも全学連を孤立から防いでやること。労働者市民組織を戦列にそろえることに協力すること。その他記録などであった。
そうしたある日の参議院会館前の路上でのこと。日本共産党本部の大型宣伝カーが、国会南通用門付近にたむろしていた一団にトロツキズム攻撃を浴(あび)せたため、憤激した学生や市民などデモ隊に身動きもできないほど包囲され、抗議されるということがおきた。私たちも近寄ってその言いあいを聞いた。ところが突然、スピーカーが「裏切り者去れ!」と叫んだと思ったとたん、車が、急発進し、前にいた人垣をはねのけ、あわや数人をひき殺すところであった。(このとき死傷者が出なかったのはまことに偶然というほかない。)
私たちはこれを目撃して言いようのない痛烈な衝撃をうけた。宣伝カーには党最高幹部の袴田里見が乗っていたのである。このとき、この党にわずかばかり残されていた期待が、さいごの一片までこなみじんに砕け散るのを感じた。私たちは、かれらが、もはや人民の前衛などというものではなく、党利を至上とすろ一種の爬虫類集団であることを知った。
一九五五年の六全協ごろから、私たちの間では、日共のスターリン主義的な常任活動家型人間像のことを、「爬虫類」という言葉でよびならわしていた。皮が硬く頑丈なばかりで、触覚がにぶく、頭脳は柔軟でなく、そのため国民から好かれず、官僚的、教条的で、救いようのないタイプだとでもいう意味であった。だが反面この言葉には、人間はお人好しで鈍感でも、いざとなれば「爬虫類」のごとく頑強に敵と闘うだろうという若干の期待もこめられていたのである。
ところが、六月の行動を通じて、この「前衛」は、眼の前で何万という学生や市民が権力と衝突して血まみれになっていても、自分の指導に服しない者は平然と見殺しにするばかりでなく、かえって一般大衆を、かれらから引離し、打撃をくわえるような仕打をするものだということを知らしめたのである。
これはかのロシアのポルシェヴィキが一九〇五年、血の日曜日にとった行動とは正反対だった。あのときロシアの「前衛」は、挑発者に煽(あお)られた何万という大衆がツァーの銃剣のまえに行進していったとき、その大衆を非難したり、見殺しにしたりするのではなく、大衆の前面に立って、かれらを自分の背後にかばいながら後退させたのであり、そのため、まず多くの党員が銃弾にたおれたのである。そしてそのことによって、「ツァー」 の正体を知らしめ、合法主義の足かせから大衆を革命的反乱へと解き放ったのである。
六月十五日、私たちは午後、研究所や大学教員たちのデモ隊に参加していた。デモが参議院前にさしかかったとき、数名の学生が殺され、学生たちが国会構内へ突入したという情報が入った。そこでこの大学教授団 (?)のデモはストップし、これからどうするかで一時間余りも小田原評定をしたのである。指揮者のある者は、このまま引返すことを提案した。私たちは怒声を放って断じてこれを許さなかった。結局、学生たちの後衛=友軍の形をとって南通用門前にすわりこんだ。そこで徹夜したのは、組織としては、この数百人の大学教員、研究者のデモ隊だけとなったのである。
その未明、デモ隊は南通用門前の機動隊の急襲に逢い、私たちの誇る“歴史家の旗”も彼らに奪われた。そのときもひどい雨で、炎上する警備車の赤い光に強い雨脚(あまあし)が浮び上り、青色の鉄かぶとが走り廻って、散乱したデモ隊を叩きのめしていた。
私はそのとき国会内にいたが、機動隊の急襲直後、外にとびだし友人たちの姿を求めた。鉄かぶとの間を縫って、坂をかけおり、外務省前まで走り、ずぶぬれの一隊に追いついた。はだしの大学教員、傷ついている研究者、服を裂かれたもの、眼鏡をうしない泥まみれの顔、言葉少なく重く沈んでいたが、かれらは隊を離れてはいなかった。
その直前、国会構内の全学連の抗議集会、樺美智子にたいする黙祷の瞬間にも雨は学生たちの(まだヘルメットをかぶっていない)黒髪の上に容赦なく落ちていた。それをびっしりと囲んでいる鉄かぶと姿の機動隊員。私は、黒い二種類のその異様なかたまりを見おろす会館内の一室にいながら、そこでもむなしく時の流れ去るのを感じていた。
大きなテーブルをはさんで、社会党委員長の浅沼稲次郎が、共産党幹部会員の志賀義雄が(かれはこの会合に出席したかどで、宮本顕治から電話で叱貴されたときいた)、各大学の教授団の代表が、東大の茅総長と早大の大浜総長が、総評の其々が、駆けつけてきていた。しかし、再度の激突まで小半時(こはんとき)、かれらはなんの指導方針も出すことができなかった。
志賀は神経的に焦立(いらだ)った高い声で人権侵害を叫ぶだけ。茅と大浜は知人だという警視総監に電話連絡して、これ以上の実力行使をやめさせるようにしてくれとたのむ、それとひきかえに、突入した全学連を朝四時までに国会構内から外に出すことを約束するという無原則な妥協をはかるだけだった。「安保反対国民会議」の総指揮者などはどこにもいない。もちろん規定方針通り流れ解散して、どこかでビールでものみながらテレビでもみていたのだろう。この間、浅沼稲次郎はただ、顔一杯に苦痛を浮べ、目をしばたたかせながら押し黙って、時を耐えていただけであった。
私はこのシーンを皮肉な眼で観察していた。議員会館から構内へおりようとすると、階段や地下室は、傷を負って手錠をはめられた学生で埋まっていた。重傷者もココンクリートの上にころがされている。ちょうど戦争中の捕虜と同様だ。教授団がこの措置に抗議し、長椅子などにかれらをのせて救急車にはこび入れた。
私はこのとき、国家権力と激突している大衆だけがあって、「指導」も「前衛」も全く存在していないこと、急流のごとく進む情勢になんらの策ももちあわせていないことを痛いほど目撃した。この無策と見ぐるしい周章狼狽の数刻が経ったころ、警視庁機動隊は喚声(かんせい)をあげて学生集団に突入した。照明弾がうちあげられ、怒号と罵言と撲声とがいちどきに上った。強い雨脚が紫に照らしだされ、ふたたび血がふきだした。やがて正門付近から、車の燃えあがる火炎と爆発音が起り、銃声のような激しい音がこだました。私はこの時、「事態は確実に変るぞ」と心につぶやいた。
一九六○年の六月は私の人生の画期となった。
翌六月十六日、学生、労働者の怒りは絶頂に達し、全学連の隊列はいちやく数倍にふくれ上った。雨中のデモは十何万の数に達し、それはまた日本中の都市という都市のデモにはねかえった。一瞬、革命的情勢に似た急迫した人民のうねりが出現した。
夜通し行われたテレビの生中継やラジオの実況放送がこれを全国に伝えた。この報道を見聞きして多くの人民が国会周辺に駈けつけてきた。
岸内閣は狼狽し、アイゼンハワー米大統領の訪日中止を決定し、自衛隊に緊急待機の命令を下した。二、三日間ではあったが、政治危機が国家権力を恐怖におとしこむところまで達した。
だが、この期にいたっても共産党と国民会議指導部は「整然たる大抗議運動を!」「極左分子の策動排除」「流れ解散」を叫ぶだけであった。
私は六月十八日、デモ隊を駅前広場へ誘導しては即時解散を命じているかれらのやり方に遂に激怒し、日共本部の大型宣伝力ーの上にかけ上った。
「マイクをわたせ!」東京駅、八重洲口前広場のまん真中。三十万といわれた大デモンストレイションをそこに導き入れては、流れ解散を強制していたマイクを奪い取り、「デモ隊は国会に戻れ」と叫ぼうとした。車の上で私は二、三の党員ともみあった。「武装解除」に等しい解散指令をうけて、デモ隊員の不満が渦巻いていたことは、痛いほど私たちには分っていた。だから、これを拒否して「統制」をふっきらせるには、ほんの些細(ささい)なキッカケさえあればと、直感したのである。
なぜ、終始冷静な態度を失うまいとしていた私が、最後にいたってエキサイトし客観的な大局観を見失うような行動をしたか、という人があるかもしれない。しかし、私は興奮などしたのではない。このときほど冷静に計量しっつ行動していたことはなかった。このときほど深く自分の思想の自立性に確信と自制心をもっていたことはなかった。
私の動きは完全に意識的だった。一日一日の動きを予言し、一瞬一瞬判断し、それをかなりのていど的中させ、めざす方向へ歴史の歯車を少しでも廻そうとつとめた。私は真の意味で「行動」し、決定的瞬間に歴史に働きかけ、そして目の前で国家権力が狼狽し、擬似前衛が崩れてゆくすがたを見とどけた。その間、なによりも歴史家としての眼を見開いていた。
私には歴史における人間の「行動」とはどういうものかという難問が心底からなっとくされた。この体験がなかったら、私の歴史学というものは成り立たなかっただろう。十五年前の私の戦争の痛恨もこのときを境にふたたびよみがえらなかったであろう。いわんや“前衛”と大衆との乖離(かいり)の悲劇を扱った『困民党と自由党』(『歴史学研究』一九六○年十一月号)の論文や、『明治精神史』も生みだすことはできなかったろう。
私はそのとき生活的には失業者であった。いまは黄河書房の専務である佐藤氏と三鷹の職安に通っていた。だが、このときほど精神的に自由で確信にみちていたときはなかった。それをおもうとあの六月の充実感がよみがえってくる。
一九六〇年十一月、浅沼稲次郎が右巽の青年によって刺殺された。
それは星の輝くきびしい晩だった。ふたたび昂揚(こうよう)が起るかと期待されたが、予想通りテロでは人民の波は立たなかった。だが、全学連の余熱はまだ凄(すさ)まじく、その夜、警視庁は完全に怒りの渦に包囲された。怒涛(どとう)のような渦巻デモが、終夜、あの傲然(ごうぜん)と人民を見おろす「権力の牙城」の正面玄関の石だたみの上をうねり、荒れ狂った。
私は黙然(もくねん)と腕をくんでその小高い車よせの石塀の上に立ちつくし、眼前を迸(ほとばし)ってゆく怒涛の流れに自分の魂をさらした。そのとき、私は激動を自己の内面の深い部分に受けとめ、「歴史とはなにか」をまざまざと凝視した。殺された浅沼の、六・一五の夜の苦渋の表情を想い浮べながら……。
私が「歴史学」を、やり甲斐のある第一義のものかもしれないとおもうようになったのはこの時からであった。それから私はどうしたか。私は戦後十五年にして、ようやく一切のものから離れ、自由に「自分」に還っていった。はじめて、ひとりの「私」に帰った。さまざまな幻想が霧のように消え、擬制が私のなかで崩壊すると同時に、軽くなった肩をおろし、重い心をひきずって、自分を専門家として確立する道にと入っていった。同時に、まったく翳(かげ)の世界、頽廃(たいはい)の渦中に足を突込みもした。
片方で異常な研究・調査活動、他方で泥まみれな“賭け”が孤独のうちに続けられた。私は二重の生活を生きる人間となり、思想的には抵抗と頽廃を同居させ、深部でせめぎあわせた。緊張した静かな激闘の日々がつづき、自己放棄と自己試練の潜行がくり返された。「痛覚を耐える」、こうした言葉がぴったりする長い時間が流れた。
この間の経験の“うわべの静けさ”を人は背徳的だということができるか。急落感がたえず私の実存をおびやかし、夢の中で私はなんども底なしの虚空を落ちてゆくよぅな墜落感を味わった。この「痛覚」の経験がなかったら、私は私の「北村透谷」をとらえることはできなかったろう。民権運動敗退期の透谷が、いかにして蘇生していったかの奥深い内面過程をとらえることはできなかったろう。
私はいま近代日本の思想史家、いや精神史家だとみられている。透谷学者だといわれている。だが、ここまできてはっきりいえることは、私の思想史の原質は、一九四五年八月十五日と一九六○年六月十五日を貫ぬくところに形成されたものであるということだ。八・一五では私は「転向」した。だが、六・一五では深まりこそすれ揺らぐことはなかった。
一九七○年がまた数年後に迫ろうとしている。私には国内の情勢の見通しは甚だ暗い。組織の頽廃はいっそう進行している。だが、ひとつだけ光りがある。こんどは幻想に欺(あざむ)かれない、はっきりと見開かれた眼が幾万とあることを、「敵」も「味方」も知らねばならぬ。だが、その醒めた眼が、私には七○年までに真の組織に結集できるとはおもえぬのだ。
(1968年9月『明治の精神』筑摩書房 初出)
(『自分史──その理念と試み』 色川大吉著 講談社学術文庫 1992・10・9刊)
|
|
記憶への旅 1960年6月15日(その壱)
三上治 6月30日
|
|
雨に煙る国会周辺の光景が昨日のことのようによみがえる。もう45年も前のことか、そんな嘆息が思わず漏れてしまう。僕の記憶の奥深くにあり、忘れようにも忘れることのできない日である。このような忘れがたい日々を想起しながら僕の経てきた時代について語りたい。時代への旅ということになるのだろうか。誰の記憶にも濃淡はある。記憶にはまた潤色がある。だから記憶がどこまで当時のことを正確に再現しえているかは定かではない。でもそんなことはどうでもよい。記憶があてにならことが問題ではない。記憶によってしか僕らは過去を再現はできないのだからである。記憶が現在から潤色されて個々人の中に保存されているものでしかないとしてもそれを誰もとがめようはない。それよりむしろ記憶は現在から再生されることで、豊かになっていくことがあることを認めたほうがよい。なぜならかつては見えなかったものが、見えてくると言うことが有りうるからだ。記憶は意識として存在するが、この意識は無数の拘束を受けていて、無意識や潜在的意識もあり見えなくしている要素もある。意識それ自身が意識を遮断していることがある。それらが拘束を解かれ、見えなかったものが見え始め、意識が変容し包括的になっていくことがある。意識が潤色されることにはそのようなこともふくまれている。この問題には経験という事柄が存在している。経験は絶対的なことのように信じられているが実は経験もまた変容するのだ。変容して存続するのだ。僕等が経験したこととして取り出したり、思い込んだりしていることは、ある時点での経験に過ぎない。経験としてある事柄を取り出す時そこには言語が介在している。経験を経験として取り出す時には、経験を媒介する言語(言葉)が介在しており、それは制約を持っている。制度的な、または他者の言葉という制約がある。とりわけ、無意識や潜在意識が取り出しにくいということもある。生理的身体に信頼を置くアジア的な経験思想では忘れがちであるが、経験ということの中に含まれている制約が存在するのだ。だから経験が再生して現在から取り出される時、かつて経験したものとして思い込んでいたものが相対化され、別のものが見えてくることがある。経験を取り出す媒介が制約していたものから、解放されるとき経験も異なってあらわれる。経験も記憶も現在から再生されること、そのように存在しているということが大事なのだ。再生されてあることが経験や記憶の存在条件なのである。
1960年6月14日の東京学生会館の雄飛寮で開かれた会議は異様な雰囲気だった。6月15日の闘争方針が提示される日だったからだ。雄飛寮は中央大学の闘争前夜の宿泊所として借りたものだが、そこで深夜の会議がもたれたのだ。僕の所属していた大学の組織では大きい闘争の前夜には旅館や大学の寮などで深夜の会議がなされた。それが恒例だったらしい。1960年の4月26日闘争(学生たちが装甲車を乗り越えた初めての闘争)の前の日は本郷の旅館であったが、この日は東京学生会館の寮だった。この会議の最後の方でブンドの島成郎書記長が発言をした。彼は主要な大学を回り、ブント中央の方針を伝えていたのである。もちろん、具体的な行動は語らなかったが、その発言からは相当な決意が読み取れた。僕は安堵感とともに緊張感も抱いた。緊張感は出入りの時と同じものだが、なかなか寝つけなかった。いつの間にか安保闘争にのめり込んできた日々のことが走灯馬のごとく頭の中をかけめぐっていた。安保闘争は終盤を迎えていたが闘争は停滞気味で僕らは暗い気分にあった。当時、全学連の闘争は戦術的失敗と孤立の中で行き詰まっていた。下部の活動家だった僕らは焦燥感にとらわれていた。急進的闘争で運動の高揚を切り開いてきた全学連は後退状況になすすべもなく立ちすくんでいた。僕にはそう思われた。「もう爆弾闘争しかない、血判書を回すから加わってくれ」「今度だめだったブントももう終わりだ。俺は見限るよ」などの声もあった。僕はこのまま終わるのかと焦りの中で何とかしたいという思いにとらわれていた。闘争方針を考えたというわけではない。そんなことは僕にはできるはずはなかった。下部の活動家だった僕は現場で頑張るという以外に方針の立てようはなかった。何かしなければという内心の声に突き上げられていて焦っていたのだ。ブントの方針に安堵感を感じた。明日は何かやれるかもしれないと思ったのだ。
僕が1960年の安保闘争に加わったのは高校を卒業したばかりの19歳であって、その闘争の意味など本当はわかりようがなかったのかもしれない。この闘争の意味を自分なりに考え、語ってもいたつもりだが、その頃,上級生や組織の言葉を模倣していたのであると思う。僕が最初にデモに参加したのは4月の23日であるから、6月の15日まではわずか2ヵ月余りに過ぎない。それでもこの2ヵ月の間には様々のことがあった。この時期に生じたことを取り出せるようになるのは、その後の長い時間を経てからである。無意識も含めて悩み、惑いながら闘争に加わっていたのだと思う。本当は今もわからないところがあり、振り返るたびに違った風にイメージされることもある。僕は当時、全学連の主流派に加わり活動していた。それは、全学連の呼びかける行動に参加していただけでなく、それを組織する活動もしていた。中央大学の自治会は全学連の主流派を支持していたが、僕は個人的にもこちらを支持していた。高校生のころから世間的には孤立する全学連の主流派にシンパシーを抱いていたし、やるならそちらだと思っていたのだ。親からは学生運動だけはやるな、もしやれば送金は止めると脅かされていた。だから、逮捕され親にばれることは心配していたが、運動から引返すことはできないところにのめりこんでいた。高校生のころはあれもやりたい、これもやりたいと思っていた。大学に入ればやりたいことがいっぱいあるように思っていたのだ。それで安保闘争に加わり,活動に打ち込んでいれば、やることは狭まっていた。段々、下宿と自治会室の往復の毎日になっていた。学校に行っても授業にはほとんど出なかった。そんな生活には不安も掠めていたが、結構楽しかったのである。学校に言って授業にも何回かは出たが教養関係のものは退屈でつまらなかったし、語学の授業は高校の延長でうんざりした。それから見ると授業に出ずに活動にのめり込んでいるのは解放感があったのだ。下宿は東中野にあったが、デモの帰りなどは友達と新宿により「歌声喫茶」などにも寄ったこともある。五木寛之の『青春の門』に出てくるのと同じである。下宿は賄いつきの3畳半で確か10人位が住む専用の棟であった。下宿ではデモに参加する学生も2,3人はいて議論になった。幼稚な議論だが熱心に語りあった。あのころ僕らはまだ誰もテレビは持っていなかった。学生が持っていたのはトランジスターラジオであった。ラジオからは歌謡曲とともにアメリカンポップスが流れていた。『悲しき16歳』や『恋の片道キップ』などが流れていた。深夜放送もあり、甘い囁きが聴こえていた。はじめて1人で生活することの解放感が僕をとらえていたのだろう。
6月15日の朝からの行動については明瞭な記憶はない。記憶という意味では1960年の4月26日の朝の方が鮮明である。この日は全学連の主流派を支持するグループと反主流派を支持するグループが対立していたからだ。小競り合いのようなものもあり、緊張はあったのだ。こんな風にデモは組織されるのだというはじめての経験でもあって記憶に強く残っている。6月15日は機会あれば国会に突入すると決意していたが具体的にはどうなるかはわからなかった。国会の周辺を3度ほど回っていたころだろうか、顔見知りの全学連の中執(中央執行委員)の1人に中大と明大の部隊を先頭に出しておいてくれといわれた。そろそろやるのかと思った。当時、大体、デモの先頭は中大や明大の部隊がやっていたからだ。当時、国会正門には板張りしたトラックがバリケード代わりに並べられていて突入は無理だった。南通用門の方から突入するという指示がきた。南通用門にも門の内側にトラックが並べられていた。それは国会の正門と違って門の内側にあった。僕らはまず門をこじ開け、トラックを引っ張りだしはじめた。ロープやペンチも用意されていた。中から警察は放水で妨害し、僕らはびしょびしょになりながらトラックの排除をやっていた。やがて、トラックは運動会の綱引きのように歓声の中を引っ張りだされた。そして僕らは隊列を組み国会構内に突入した。この突入は警察との激しい押し合いとなった。先頭の近くにいた僕は後からデモの圧力と警察の間で苦しい状況にあった。僕らはスクラムで相互にかばいあいながら必死に前に進もうとしていたのだ。足を浮かせることは危険であり、浮き上がるようになる中で足だけは地面から離さないようにしていた。体が浮き上がり転倒すれば他の人に押しつぶされるが、それを誰も救えないのである。これは推察であるが、樺美智子さんが亡くなったのはこうした状況での圧死であったのかもしれない。僕には詳しいことはわからない。当時の状況から推察すぎない。このことは警察とデモの構内への突入が激しい攻防であったことを物語る。素手の闘争としては極限的なものであり、転倒すれば誰でも圧死しかねないものだった。僕らはかなり奥深く警察を押し込んだように思う。あるいは警察は立て直すようにいったん引き上げたのかもしれない。警察は構内で集会を開こうとしていた学生たちに襲い掛かり僕らはちりじりばらばらになりながら構内から退散した。この過程で樺さんは殺されたことも考えられる。もちろんこれも推察である。構内から外にたたき出された僕らは隊列を建て直し再度の突入を試みようとしていた。このころには女子学生を含む5人の学生が殺されたという流言飛語が飛び交っていた。異様な雰囲気であった。暮れなずむ光景に小雨も降り始めていた。警備の警察は再度のデモの構内突入に対してはさしたる抵抗も見せなかった。多分、これは樺さんの死を警察は知り再度の衝突を回避したのかもしれない。彼らもまた、警備の体制の立て直しをしていたといえる。小雨の振るなか構内では集会が開かれていた。記憶にあるのは僕らが樺さんに追悼のための黙祷を捧げ、警察にも帽子を取ることを迫ったことだった。ヘルメットか帽子であったかの記憶は定かではないが学生たちの警官への激しい怒りに満ちた要求だった。構内では宣伝カーを中心に集会が持たれていた。吉本隆明の演説は記憶にある。あまりよくは聞こえなかった。そうこうするうちに警察は襲撃を開始し僕らは外にたたき出された。小雨降る暗闇のなかであった。南通用門の外に出された僕らは正門前に移動して体制を立て直そうとしていた。その過程で警備のバリケードとしてあったトラックを引き出し燃やしていた。引き出されたトラックは横転させればガソリンがもれ始めそれに火をつければ簡単に燃え始めた。学生たちの歓声の中でトラックは次々と炎上していた。雨のために正門の前の窪みには水がたまりそこにはトラックの油が溜まっていた。南通用門は大学の教授たちが座りこみ再度の衝突を避けようとしていた。かなり時間も経ったころに警察は催涙弾を打ち込みながら国会周辺の学生を追い散らし、僕らは逃げた。僕が逃げたのは有楽町駅の朝日新聞前だった。朝日新聞は当時はここにあった。ここには救護班も居たが、僕は片足は裸足で爪がはがれていた。痛さは意識しなかったが手当ては受けた。騒乱罪の適用で全員逮捕だといううわさが流れていたが、僕は始発を待って有楽町駅にいた。南通用門での最初の攻防から有楽町駅への逃げ帰りまであっという間に時間は経ていた。ここから安保闘争の最終局面の闘争は始まっていった。 |
|
記憶への旅 1960年6月15日(その弐)
三上治 7月4日
|
|
6月15日の国会構内での集会を僕は当たり前のこととして考えていた。これには前段がある。1959年の10月27日に既に国会構内での集会は行われていた。この集会は政治的に組織された結果というより、国会正門が空いていたので入って中で抗議集会を開いたということだったように思われる。ある程度は偶然的な要素もあった。ただ、この結果に対する反響はすさまじかった。新聞や自民党などはこの行為を暴挙として批判した。「神聖な国会を汚す暴挙である」「民主主義を冒涜するものである」などの批判が起こった。これに慌てたのは共産党や社会党(総評)などで弁明と逃げを打ち始めた。全学連のせいにして自分たちは逃げ出したのである。だから、当然のことながら、学生たちは孤立していた。僕は当時、田舎の高校生で当初はマスコミの論調を間に受け何とひどいことをする連中だと思った。民主主義に反する行動だと思ったのである。しかし、自分なりに考えて行くと非難の論調の方がおかしいと思うようになっていた。この構内集会の責任者として二人の学生が東大の駒場寮に立てこもり、その籠城の問題が新聞などをにぎわしていた。誰かに影響されたというわけではない。僕は新聞の論調などに反発し全学連のシンパになっていた。彼らの政治主張などは知らなかったわけだから一種の判官ひいきみたいなものであったのだろう。この年の暮れに吉本隆明の「戦後世代の政治思想」を読み驚いたことはあるが、吉本の思想的影響を受けるのはもっと後の方である。学生たちの急進的な行動を僕は当たり前のことと考えるようになっていた。
この事件を契機にして全学連主流派と共産党や社会党の対立は激化していた。日本共産党は全学連の反主流を作り、社会党などの安保反対国民会議は全学連主流派を締め出し、全学連は孤立しながら独自行動を取るようになっていた。共産党は秩序の枠内での合法的な表示行動をすべきであると主張していた。実力的行動は国家権力の側の挑発を招くだけでなく国民の支持を失うとしていた。これに対して全学連主流派やブントは政治的意思表示の自由な展開が国家権力によって抑圧されるならこれを撥ね退けるべきであると主張していた。共産党や社会党は議会で多数をうるための政治戦略から安保条約に反対する闘争を考えていた。選挙に向けての党勢拡大が最大の政治戦略であるとしていた。共産党は1951年の武装闘争路線の後遺症のためか、合法的な枠にこだわっていた。政治行動が合法的秩序を超え、その結果国民的反発の出てくることを恐れていた。武装闘争で権力の奪取を試み、惨憺たる結果になったことの恐怖があったのだろうか。権力の弾圧の下で大衆的に孤立することを極度に恐れ実力闘争の抑圧者に転じていた。これに対して全学連主流派は実力的な政治的意思表示を展開することを主張していたがその位置づけは明瞭ではなかったように思われる。安保闘争を党勢拡大や選挙のために利用することを拒否していた。運動の政治的利用主義を否定することは明確であったが、その運動が国家や権力との関係でどのように概念化されるか、あるいはイメージされるかははっきりしていなかった。僕らは当時は今はその時期でも段階でもないと思っていたが、その後にこのことは大きな影響を与えることになった。議会外の政治的な意思表示が、合法的で秩序だって行われなければならないという主張への批判はあった。それは政治的意思表示が時の秩序を超えて展開されるのは問題ではなかったのだ。共産党や社会党の秩序遵守や議会主義に反対することは明瞭であったが、自らの行動を位置づける概念ははっきりしないところもあった。
1960年の6月15日の国会構内を占拠し抗議集会を開くことを反民主主義的行為と僕らは見ていなかった。既存の政治勢力からの反民主主義という批判は問題外だった。政治的意思表示として当然の行為であるとしていたのだ。むしろ、強行採決などの行為も含めて国会で展開されている事柄を非民主的なものと見ていたし、それに比べれば僕らの行動は民主的のものと思っていたのである。6月15日は樺美智子さんという犠牲者をだしながらではあったが、僕らの政治的意思表示としては成功であった。力による意思表示をやりぬいたという実感は存在した。デモに参加した学生たちの意識は日本の政治権力の非民主制への怒りであり、その集合としてあった。多分、安保闘争に参加し、それを支えた学生や市民の意識は大雑把に言えば二つの契機を有していたように思う。これは安保闘争を構成した大衆的意識といっても言いと思う。学生や市民の意識の基盤に降りてみればである。
その一つは戦争に反対という意識である。反戦というより、非戦の意識である。戦後の日本の国民的意識としてこれは存在してきたと思われるが、安保反対の背後にあったものである。当時も言葉でいえば戦争に巻き込まれることに反対するということだが、この巻き込まれたくないという言葉は消極的に聞こえるが、第二次世界大戦のあとに朝鮮戦争を含めた冷戦が激化していくことへの国民の反応であった。米ソ間の緊張の激化は、絶えず米ソから自己の立場の容認と加担を要求してくる。正しい戦争の側はあり、そちらに加担することの要請である。日本の国家は世界の政治関係に連なっており、どちらに加担するかを強いられるのは避けられない。それはアメリカの立場を容認するか、ソ連の立場に立つかである。日本の国家権力を構成する保守派の政治勢力はアメリカの立場を容認していたし、その陣営に立ってきた。他方、日本共産党や社会党はソ連の陣営に立っていた。アメリカ側の戦争のソ連側の戦争のどちらも支持しないと。日本国民の非戦意識はどちらの陣営にも立たないことを意味していた。米ソが世界性を代表する限り、国民の非戦意識は世界的に見れば孤立していたが、これは独立性を意味していた。この独立性は孤立性と表裏であった。日本共産党や社会党は国民の非戦意識を平和主義として表現しようとしていた。それは冷戦下のソ連が政治戦略として、平和路線へ転換していたからである。武力革命による敗戦革命を展開するという路線はスターリンの死後に転換していた。これには中国共産党などの反対もあり、中ソ対立も含めて、アジアでは複雑な展開を遂げる(これについては後のほうで詳しく述べる)。米ソの冷戦が朝鮮戦争のような代理戦争の激化かとしてあった時期から、平和共存路線に転換するに沿って、共産党などは平和路線に転じた。1951年の武装革命路線から平和路線にである。この平和路線という転換した政治戦略に国民の非戦意識を利用する(取り込む)というのが社会党や共産党の政治戦略であった。国民の非戦意識は世界的には孤立しているが故に、共産党や社会党の平和勢力論(反米論)に取り込まれたように見えたかもしれないが、そこには距離感は存在したように思われる。共産党は1951年綱領で武装革命を掲げ、朝鮮戦争では北側に加担していた。スターリンの敗戦革命の武力的展開という考えを推進しながら、何の総括(反省)もなく、平和路線に転じても本当の意味での国民的支持を得ることはできなかったのである。国民の非戦意識は共産党や社会党の平和戦略の出所と中身を知っていてそれなりの距離をとっていた。だから、共産党や社会党が国民の非戦意識を代表し、保守派が敵対したというのではない。むしろ、この国民の非戦意識は保守陣営にも大きな影響力を持ち、その政治戦略に規定力を発揮してきた。この非戦意識は保守陣営の内部ではアメリカとの関係意識として働いた。
アメリカの世界戦略に同伴する立場に立つが、そうはいってもそこに様々の立場が在る。アメリカの軍事戦略からは距離を取って行こうとする立場と軍事同盟的な同調を志向する部分まで幅がある。この幅を生み出した要因はこの国民の非戦意識である。当時の新聞は、国民の「戦争に巻き込まれたくない」という意識を取り上げていたが、この意識の集合が「安保反対」の構成要素であったことは疑いない。通俗的には安保闘争は日本がアメリカ側に立つか、ソ連側に立つかを決めたというが、これは間違いであると思う。日本がソ連側に立たないことはもっと以前に決まっていた。1952年のサンフランシスコ条約の以前なら、まだしも、1960年安保はそんな段階ではなかった。ナショナルは非戦意識は世界のあらゆる戦争、米ソの代理戦争に巻き込まれたくないという意識として噴出し、反安保の意識となった。だが、共産党や社会党の「平和論」(政治的平和論)と自民党の「自由陣営論」(アメリカ加担論)への距離と異議を持っていた。
安保闘争を構成した大衆的意識のもう一つは国家権力の権威主義に対する反感であった。日本は戦後、天皇統治の国家から、主権在民の国家に変わった。民主主義国家になったのである。しかし、官僚の主導する国家であり、官僚主義が跋扈してきた事には変わりはなかった。天皇の威を着て権力にあるものが威張り散らす、その官僚主義がソフトなものに変わったのが戦後民主主義である。歴史の逆コースと呼ばれたのは、戦後民主主義に基づくソフトな官僚支配がハードな支配は変質していく事への警戒であり、批判である。国民は天皇の名による官僚たちの権威主義に反感を持ち。戦後の民主主義をそこからの解放に見出していた。安保闘争に先立つ1958年には警察官の職務規定の改正(警職法改正)が提出されたが反対の声が強く廃案になった。このとき、言われたのが「おいこら警官の復活」である。警官や軍人が威張り散らしていた事を戦後の世代は実感はないとしても、これに対する国民の反感と警戒心は強い。日本の統治権力のあり方に対する反発は戦前の軍隊や官憲と結びついていたが、それは根強くあり、安保闘争の内的推進力となった。これは安保闘争の過程では岸信介首相に対する反感として存在した。岸がA級戦犯であり、戦前の官僚であったことは官僚的権威主義の復活を象徴する人物として格好のキャラクターであったのだ。岸への反感は強かった。岸はナショナリストで日本の独立を志向していたというが、権威主義の匂いを紛々とさせていたという意味では戦前型の政治家であった。国民の民主主義意識は伝統的な官僚的権威主義への反感としてあった。権力(権限)のあるものが権威を笠にして威張り散らすことへの反感が民主主義意識の実態であつた。共産党への反感もまたその権威主義から来ていたと推察される。戦後世代の自由な感覚は権力の閉じられた性格と権威主義への反感としてあった。
こうした国民の反安保意識は集合的意識として存在していた。この国民の意識とそれを国民の共同の意志として展開する言説の間には大きな乖離が存在した。反安保闘争をその時代の共同意志の表現として析出することの困難さは、その闘争を構成した諸個人の意識と共同的言説(反安保論)の間の乖離にある。政治組織からマスコミ、知識人にいたる安保闘争をめぐる言説は多く存在した。僕らはこの言説を媒介してしか安保に対する表現をするしかなかった。諸個人の意識とその時代の共同の言説の間の矛盾の意識は大きな問題であるが、そのことに気がつくのはかなりあとのことである。
|