歴史の中の尾崎・ゾルゲ事件
石堂清倫
 彼らが処刑される理由はなかった。
 しかし、国家と戦争が餌食にした。

はじめに 尾崎・ゾルゲ事件の見方

 いまお渡ししました印刷物は、五年ほど前の『みすず』八五年六月号に私が書きましたもので、リヒアルト・ゾルゲが、収集した情報をもとに本国ソ連に打電した主なものを紹介したものです。あまり日本では知られていないので何かのご参考になるかと思います。ゾルゲが何を調べて、どういうことを本国に通報していたかが、これをみるとよくわかります。そこでは、当時の日本の政治構造、その中での軍部の役割、そして軍部はアジア大陸への戦争、ソビエト連邦への戦争のどちらに進むだろうかなどの分析を行っている。出来合いの情報をどこかに入りこんで盗み出すというのではありません。沢山の情報を集めてそれを分析している。しかもその大部分は先方からゾルゲのところに転がり込んできた情報です。
 ドイツで出ているゾルゲの伝記(Jurius Mader・Dr.-Sorge Report.1984)には、当時東京でゾルゲに自発的に情報を提供したという人のリストが載っています。まさか彼らが情報活動をしていたとは思わないけれど、東京にいた外国人四〇人ぐらいとともに、日本の政界をはじめとする最高クラスの人たちの名前がならんでいる。なかでも目をひくのが、陸軍省軍務局長の武藤章、これは戦犯としてのちに処刑されますが、陸軍統制派の最も有力な人物です。この武藤が、ゾルゲをたいへん信頼していて、憲兵隊長を呼びつけて「ゾルゲ先生にあらゆる情報を提供せよ」と軍務局長の名で命令しています。軍務局長の命令ですから、軍の各級の参謀将校であれ、軍政関係の将校であれ、進んでゾルゲにいろんな情報を提供しました。ところが、尾崎・ゾルゲ事件の調書を見ますと、そういうことは一行も書いていない。この事件を考えてゆく場合は、調書などに書いてあることだけを追ってゆくのではなくて、書かれていないこと、まだ明らかになっていないことが重要なんですね。なぜ、検察はゾルゲと陸軍の関係を追及しなかったかということは大きな問題です。
 同じようなことでもうひとつ。戦前のコミンテルンの最高幹部であり、戦後ソビエト共産党の最高幹部であったオットー・クーシネンという人がいますが、その奥さんかアイノ・クーシネンといいます。彼女はゾルゲのもとに配属され、三年間、日本で情報活動に従事します。彼女はその後無事ソビエトに脱出するんですが、戦後自伝を書いています。尾崎・ゾルゲ事件の調書をみますと、ゾルゲグループのなかにイングリッド(Ingrid)という名前の人物が出てきます。ところがこのイングリッドが何者であるか、何をしたかということを、あの膨大な調書のどこでも全然追及していない。アイノの伝記(Aino Kuusinen.Der Gott Sturszt Sein Engel 一九七二年 邦訳 アイノ・クーシネン「神はその天使を破滅させる」一九九〇年 事情があって社会評論社は発売中止)が出てはじめてそれがアイノ・クーシネンであることがわかった。何故、当局はアイノ・クーシネンを追及しなかったのか。彼女は当時、毎月ゾルゲから活動資金をもらって活動しているのですが、エリザベート・ハンソンというスエーデン人に化けて、日本の最高層の人々に近づきます。そして彼女が最も親しかったのが秩父宮だった。アイノは秩父宮に何回も会っています。だから検察は彼女を追及することを恐れたものと思われます。
 つまり、検察は、ゾルゲグループと陸軍との関係や宮様との関係を聞くことを恐れた。当局が、あえて問うことを恐れたというところに、ゾルゲがどんなに重要な情報を集めていたかをはっきり知ることができると思います。ですから、尾崎・ゾルゲ事件を研究する場合、調書というのは第一級の資料として重要なんですが、調書に書いていないところにまた無限の意味があるということですね。芸術作品もそうですが、いい落していることのなかに歴史の真実があるということがいえると思います。

戦争の泥沼化と治安推持法事件

 今日は、尾崎・ゾルゲ事件の歴史的意味についてお話します。戦前の日本の反体制運動を対象とした治安維持法事件はいろいろありますが、私はだいたい三つの段階に分かれるのではないかと思います。まず日本共産党が結成され、一定の党員を組絶し、実際に運動を始める、これを弾圧の対象にした時期があります。だいたい一九三〇年代の初めまでは、正式に党組紙に所属する者にたいする弾圧として治安維持法が発動されました。それで共産党が組織的にも、思想的にも弱くなるのが三〇年代の中頃ですが、そうなると、めざす敵の本体が撃ち果たされた後、その周辺の文化運動が治安維持法の対象になります。極端な例では、政治と何の関係もない京都大学の俳句会が治安維持法で迫害される。例えば、秋の俳句のなかに「赤い柿」などと書いてあれば、「赤い」というのは共産主義運動を意味している、といって弾圧した。政治運動の外側の文化全体にたいする拡大解釈がおこなわれた。文化運動そのものが、反体制運動の思想的根拠になるという考えです。しかしこれも三〇年代半ばから四〇年近くになるとあらかたやられてしまいます。
 ところが四〇年代になると、それまでにない新しい治安維持法事件が次々とおこります。企画院事件、尾崎・ゾルゲ事件、満鉄調査部事件、横浜事件などです。

企画院事件と関特演

 まず起こるのが企画院事件です。企画院というのは、戦争経済を遂行してゆく場合の経済調査と立案の最高機関でありまして、官僚のなかでも最も優秀なべテランを配置した組織です。この企画院で一九四一年の四月に大勢の者が逮捕されます。その中には尾崎秀実の親しい友人が何人かいました。なぜ企画院が治安維持法でやられたかといいますと、当時企画院の中には、自由主義・資本主義経済の弊害が激しくなりすぎて、国内の階級対立の激化を防ぐことができない、したがって時局に鑑みて経済新体制をつくらなくてはならないという考えがあった。これは資本主義を廃止しようというのではありませんが、資本主義の部分的修正をやろうという案だった。この背後には近衛文麿がいるわけです。近衛を先頭とした体制内革新運動の政治的考え方はリベラリズムですけれど、これが社会主義的運動の前段階になるという論理で、治安維持法でやられるわけです。
 実際は、近衛文麿の国内改革運動にたいし打撃をあたえるという目的があったものと思われます。「満州事変」以来の日本の戦時経済は、だいたい四〇年いっぱいぐらいで矛盾に逢着するだろう、インフレーションが起こって危機に到達するだろうといわれていましたから、日本の支配層は、経済新体制などというのは危機を促進するだけだという非常に大きな恐怖感でみていました。企画院の調査員の諸君というのは、もちろん社会主義革命をやろうなどということは夢にも考えていなかった。革新官僚としてこれから大いに羽根を伸ばして、体制内で出世することは考えていたかもしれないけれど、反体制ではなかった。しかしこれが治安維持法で捕まると、みんな「私たちは革命運動をやろうと思っていました」といわされる。これが一九四一年です。
 やられた人のなかには、戦後社会党の委員長になる勝間田清一とか、農政の大官僚になる和田博雄とかいう人がいる。尾崎と大学時代から親しかった小沢正元もいました。戦後鎌倉市の市長になる正木千冬もいました。これは学生時代から優秀な経済学者です。なぜ企画院に、学生時代左翼的傾向だった人が多かったのかということですが、多分マルクス主義経済学を勉強した人は、大なり小なり資本主義経済全体をひとつの歴史的過程としてみることができた。ところが他の経済学を勉強した人は、そういう全過程をみることができない。戦時再生産論を研究しろといわれても、どう分析すればいいかわからないという人が多かったから、とくに調査員としての素養を身につけているわけではないのですが、役に立ちそうなマルクス主義を学んだ人が多く集められたのだと思います。尾崎はそのころジャーナリストですが、企画院に行くと、「オーイ、誰々がきたぞー」といって、あっちの部屋からもこっちの部屋からも学生時代の顔なじみかぞろぞろ出てくる。そのうち半分ぐらいは東大の新人会だったなどといっています。官憲も当然注目し、これを意識的な、組織的な共産主義運動をめざしているものというレッテルをはって弾圧します。
 この企画院事件の二ヵ月あとに独ソ戦争が始まります。独ソ戦が始まりますと、日本の軍部の中の主戦派は、ドイツと結んでソビエトに進撃しようという計画をたてます。軍の中にもいろいろ潮流がありましたが、どこでもそうでしょうが、いちばん過激なことをいう主戦派がだんだん強くなってゆく。陸軍の首脳部は、ヒトラーのドイツ軍は疾風迅雷の勢いでソビエト領内を進撃している、たちまちモスクワも占領される、即戦即決でロシアが降伏する、ということを確信していました。そこでこれに遅れないように、「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもとに、日本も戦争を開始して、ソビエトが西からヒトラーに攻められている間に、日本は東から攻めて、シベリアの東半分を占額する、こういう計画をたてておりました。そこで、独ソ戦が始まって一ヵ月後の四一年七月に関東軍特別大演習、略称で関特演といいましたが、を行うために、七〇万の大軍を満州に集中しました。ソビエトと戦争をやる気だった。独ソ戦のちょうどいい時期をみはからってシベリアにこの七〇万が雪崩込む計画でした。関特演は演習という名目ですが、日本全国のほとんどの師団が満州に集中します。日ソ中立条約はこの瞬間に無効になったようなものです。私は石川県の人間で、当時は満鉄にいましたが、自分の従兄弟であるとか、従兄弟の子供であるとか、親戚の者が三人ばかり軍人として満州にきておりまして、「いまごろ何をしに来たのだろう」とびっくりした記憶があります。これがソビエト侵入の具体的な第一歩だった。
 このとき関東軍は、即戦即決で勝てると信じきっていた。シベリアに攻め込んだ後、冬が来るということを予想に入れていなかった。冬になれば七〇万の軍隊に、シベリアの寒さに耐えるだけの防寒具などか必要です。しかしこれを全然用意していなかった。シベリアまで膨大な軍需品や食糧品をどうやって運ぶかも考えていなかった。日本の軍人といいますのは、調査、調査といいますけれども、調査の客観的結果をすこしも尊重しない。自分の主観的願望だけで行動する。勝ちたいということと、勝てるということを、たぶん混同していたと思いますね。しかしともかく七〇万の軍隊を満州に集めました。ほんの一ヵ月でこれをやったのです。ところが、肝心のドイツ軍は途中までは非常なスピードで進撃したのですが、モスクワの手前で頑強な抵抗にぶつかり、パタッとここで停滞します。いつまで待っても、日本がシベリアに攻め込むチャンスが来ない。
 そのうちに秋口にかかります。満州は一〇月になると、ハルビンあたりは寒くてオーバーを着なくてはならなくなる。関特演に動員された兵隊のオーバーはそんなになかったでしょう。そこで、ドイツの即戦即決に望みをかけてきた陸軍はたいへん困って、関特演を中止します。実戦に入れないで、満州に集めた大軍を順次南方に派遣します。戦争途中で主目標を転換させるのは愚策中の愚策で、敗戦につらなることをクラウゼビィッツが主張しており、陸軍大学で参謀の卵たちがみな習ったことです。この目標転換の事実もゾルゲはいち早く報告しています。南方に送るといっても十分な輸送力がなく、敵を欺かなくてはならないから、真っ直ぐA地点からB地点にもっていくのではなくて、AからCにやって、CからDにやって、DからまたAにやるというふうに多くの人がたらいまわしにされて、南方各地に送られるわけです。

日米開戦と尾崎・ゾルゲ事件─中国共産党事件

 そして一二月には真珠湾攻撃で日米戦争に突入します。ですからこの戦争はまったくの主観的冒険主義です。関特演か挫折したにもかかわらず、こんどは真珠湾攻撃をやるわけですから。そしてこの真珠湾攻撃の前の一〇月に、尾崎・ゾルゲ事件が起こります。この尾崎・ゾルゲ事件は、われわれがそれまで経験したことがないような大事件でした。
 次の年の四二年六月になりますと、日本はミッドウェー海戦で大敗します。これで日本は太平洋海域を支配する力を失います。
 その後の太平洋戦争は、アメリカ軍のイニシアティブの下で行われる。日本はいつでも受動的立場をとらされるようになる。ここで日本がアメリカに勝つ見込みは完全に消える。あとは何かの天祐神助によってアメリカが戦争をやめてくれることを期待するだけになります。
 日本は決定的な危機に入るわけです。この海戦でたくさんの船が沈みますと、水兵や将校が乗る船がなくなって陸にあがります。満鉄の石油液化事業にも何人かの将校、少将とか大佐か監督に来ておりましたが、その連中からわれわれ満鉄社員は、ミッドウェーの負け戦の様子を聞きました。
 ここで日本は重要な空母をほとんど失った。造船能力はアメリカは日本の何倍ももっている。時間がたてばたつほどアメリカが強くなり、日本は相対的に弱くなる。そういうことをこの将校たちは率直に話しておりました。もはや何の展望もなく、日本の敗戦はここで決まったわけです。
 ミッドウェーで負けた直後に、上海で中国共産党の諜報団が捕まります。その責任者は李徳生という中国人でした。私よりすこし年上の人ですからもう生きているかどうかわかりません。同じ名前で毛沢東の部下で、瀋陽軍区の司令官をした人がいますが、これはまだ七〇才にならない人で、これとは別人です。この李徳生が、西里達夫とか中西功とかのジャーナリストや満鉄の社長を使って対日諜報団をつくっていたことが発覚します。このとき李徳生は捕まって東京に来ています。スパイ団の首領を捕まえたのに、彼はその後殺されないで中国に帰っています。私は戦後一九四八年にこの李徳生に大連で会いました。何故、李徳生は殺されないで無事中国に帰ることができたのか。おそらくこれは中国側が解放区で捕らえた重要日本人と身柄を交換したのでしょう。ですからたとえ最高のスパイ団であろうとも、条件次第では殺されないですむ。
 ゾルゲが殺されたのは、その努力をスターリンがやらなかった証拠になると思います。

敗戦前夜の満鉄調査部事件と尾崎の調査

 この年の九月に満鉄調査部事件が起こりました。
 この事件も尾崎秀実と非常に深い関係にあります。調査部が関東軍の命令の下に戦時経済の研究をはじめるなかで、人手不足のため私たちのような前歴者も雇われます。関東軍の考えは、赤だろうと黒だろうとかまわない、どうすれば中国の軍隊にダメージをあたえることができるかを研究できる人間なら誰でも使う、要らなくなれば消してしまえばいい、ということです。ということで、私たちも「前科者」とわかった上で採用されるわけです。
 この満鉄調査部に尾崎が関係したものに、昭和一四年(一九三九)から一五年にかけての「支那抗戦力調査」があります。それは重慶政権が日本軍に対してどれくらい抵抗力をもっているか、日本は勝つことが出来るのかどうかを、研究せよというものでした。その結論を申しますと、あの装備の悪い国民党軍、国民党軍に比べても当時まだ弱かった共産軍、この両方に日本は勝利することができない、というものでした。日本軍が軍事的に圧倒的に強かった段階でも、それは点と線の維持が関の山で、あの大陸の完全な制圧は及びもつかない。
 ソ連赤軍の計算では中国大陸全体の支配には四百万の配置が必要だということでした。軍事行動の拡大に比例して、下からの全民族的抵抗がますます強くなる。民心は抗日に集中し、精神的ヘゲモニーは一貫して抗日を主張する陣営にある。たしかに中国には巨大な軍事工業はないが、抵抗は分散したゲリラ戦法で、日本軍が赫赫たる戦果をあげたと謳っても、中国の軍事力は減退しないのです。日本側では占領地経済を運営することができない。生産手段や製品を日本から持ってくる余裕がない。軍事上の消耗を現地で補充することができない。資材や食糧の現地調達は事実上は形をかえた収奪であって、それがますます民衆を抗日に追いやる。そうした詳しい調査を総括して、勝利することができないことを明らかにしたものでした。そこからどういう結論になるかというと、中国におればおるほど日本は破局に近づく、だからいまのうちに中国全休から日本の軍隊を引き上げなくてはならない、華南からも、華中からも、華北からも引き上げなくてはならない。そうするとこんどは満州を維持すること自身が危なくなる。日中戦争の解決は、最終的には満州を明け渡すことになる、アメリカやイギリスも要求しているそういう結論にならざるをえない。
しかしこういう結論になると、軍部は自己の責任をまぬがれるために、調査員の敗戦思想に転嫁する。日本の戦争政策にたいする裏切りだ、かれらは反国家的な破壊分子である、ということにしてしまいます。
 もうひとつ 「戦時経済調査」というのが東京でおこなわれました。これにも尾崎が関係していました。というよりも、こういう立案そのものに尾崎の判断が必要になっていたのでしょう。ここで調査した結論を、尾崎は当然全部知ることができました。尾崎は当時満鉄の顧問、しかもただの顧問ではなく非常に高い地位の顧問で、その背後には近衛がいるということをみんな知っていますから、満鉄の幹部は右であれ左であれ、いかにしてこの尾崎に接近するかということに腐心しています。尾崎に接近することは同時に近衛政権に接近することでもありますから、みんな争って尾崎のところに顔を出す。たとえば尾崎が昭和一六年に大連に来たとき、尾崎を自分のところに泊めたいという重役がたくさん出てきた。重役間の競争が激しくなって、誰も尾崎を自分の家に連れてゆくことができなくなった。しかたがないので尾崎はどこにも行かないで友人の堀江邑一方に泊まりこむということになった。引く手あまた、みんな争って尾崎に情報を提供しようとした。
 たとえば私なども、おまえ尾崎を知っているだろうといわれ、少し知っていますと答えると、それじゃあ俺のことをうまく尾崎にとりなしてくれというようなことをいわれたくらいです。
 尾崎がその気になれば、満鉄の重要な情報は何でも手に入った。ゾルゲにたいして武藤章陸軍省軍務局長を先頭にあらゆる人が情報を提供したように、尾崎にたいしてもあらゆる人が情報を提供したわけです。
 この「戦時経済調査」では、おそらく民間の調査機関では手に入らないデータが集められていました。この「戦時経済調査」の結論も私は知っていましたが、それはもう理論の問題ではなかった。すでに当時の日本の石油の備蓄は尽き果てていた。陸軍も海軍も戦争をするには油がいる。飛行機を飛ばすのにも、船を走らせるにも油がいる。その油がもうなくなった。これはいかに経済調査斑が努力をしてももう手に入れる場所はない。アメリカから買うより他にない。アメリカから買うのであれば、中国の占領を全部やめて、満州を元にもどす、そしてアメリカの機嫌を直してもらう以外にない。つまり敗戦以外にない。「戦時経済調査」は一種の敗戦の行為であると当局は判断しただろうと思います。軍や政府が尾崎やゾルゲに情報を提供しておきながら、具合が悪くなると逆に軍機保護法や国防保安法違反だといいたてる。こうして満鉄調査部事件というのがおこります。まったく勝手なものです。
 そして最後に、一九四四年の横浜事件というのが起こります。
この横浜事件には、細川嘉六を中心として当時の進歩的ジャーナリスト集団と満鉄ではソビエト研究をやっていた二人の人がやられます。全員尾崎と懇意だったろうと思います。細川と尾崎はしばしば座談会などをやってそれがジャーナリズムでもたいへん重視されるというような関係でした。

作られた治安推持法事件

 以上みてきた企画院事件にはじまり横浜事件にいたる一連の事件は、治安維持法事件といいましても、そのなかに共産主義運動の組織的・思想的連関は全然ありません。どんなにたたいても共産党は出てこない。 しかし無理矢理共産党事件に仕立てた、そういう共通点があります。私も満鉄調査部事件で捕まりましたので、ひとつの例を申しあげますと、捕まえた憲兵が厳重な尋問をやるわけです。「おまえたちは満州革命を企図して満鉄に入ってきただろう。このような調査をやり、このような論文を書いただろう」といいます。そして六十何人かを捕まえましたが、もしこれが共産党事件なら組織開係がなければならない。しかしそれは全然ない。だから私はひとりで共産主義運動をやっていることになる。
 私は中国人を誰も知らない。中国語をしゃべることもできない。中国に知り合いもおらず、言葉も出来ないでどうして中国革命ができるか。そこで当局は大部分の被検挙者を単独犯にする。つまり組織行動にできなかったのです。
 しかし、最後になりますと、横浜事件もそうですがたいへん都合のいい人が出てきます。「自分たちは共産主義革命をやるつもりでおりました。誰それの書いているこの論文は、表むきは東亜共栄圏のことをいっていますけれど、内実は革命運動です。誰それの農村調査は農民を煽動するためのものです」などという「志願兵」が出てくる。憲兵隊はたいへん喜ぶ。喜ばせようと思って言い過ぎた人もいます。満鉄などでは出世街道を走っている幹部候補生はヨーロッパやアメリカに派遣されます。そうした人か自分がパリの欧州事務所にいるときにコミンテルンに加入しました、などというものまで出てきた。思いもよらぬ自白に憲兵隊は色めくわけです。ところが、喋らせてみると、当人はコミンテルンが何なのかよく知らない。どこにあるかもわからない。もともと何もないのですから、話はでたらめで支離滅裂。当局も手を焼いて、「精神に障害がある」ということで釈放した例がある。
 ある人は、ニューヨークのアメリカ事務所にいるときに、アメリカ共産党に入ったと言った。これも「精神障害」ということで釈放されました。こういうふうに重要幹部でも迎合しすぎて釈放されるものもいれば、逆に迎合しなかったものは何にもしていないのに片はしから投獄されて何人も獄死してゆくという悲喜劇が起こります。
 なにより滑稽だったのほ、満鉄調査部でも調査をやっているわれわれのような下っばではなしに、指導カードル、中央なり、各級の出先機関の業務主任が年に何回か主任会議を開くわけですが、その主任会議がそのまま共産党の組織会議だという。ひとりがそういえば他の人もみんな同じことをいわなければ具合が悪い。それでこれだけは五人か六人が共犯になります。あとの六十何人はみんなばらばら、ひとりひとりが共産主義革命をやろうとしていたということで起訴されます。
 でたらめな作文を書く人が一人いるとみんな同じことを書かなくてはならない。
 横浜事件もそうです。これは亡くなった人で故人の名前をあげるのはお気の毒ですが、相川博という人が上申書を書いた。これが実にひどい内容でおそらく県警も予期しなかったようなデッチあげだった。
 戦後私は相川上申書を一見しましたが、支離滅裂でめちゃくちゃひどいものでした。たとえば、彼のところの雑誌で猪俣津南雄と中野重治に恐慌下の農村の実情ルポルタージュを書かせたことを、農村革命のための組織運動であったと書いている。 警察もこれは信じなかったとみえ、この二人は共犯として逮捕されていません。相川氏はたまたま運が悪かったのでしょう。それまでにどんなひどい目にあわされたかわかりません。半殺しの目にあって耐えかねて書いたんでしょう。ひとり書けば全員同じことを書かずにすまなかった。ここにおられる木村亨さんなんかも、どんなにご苦労されたかわかりません。
 それ以前の治安維持法の第二期までの事件をみますと、大なり小なり被告に反体制的な気持ちはあった。ところが、企画院に始まって横浜事件にいたる人たちには、そんなものは何にもありません。何にもないのに何故彼らは治安維持法でひっくくられなければならなかったのか。そこに大きな問題があると思います。
 私の高校時代の親友が関東軍司令官兼駐満全権大使の秘書課長をやっていました。関東軍司令官は軍人ですけれど、日本政府との関係もありまして、行政官の優秀な人間を秘書課長にしていました。戦後釈放されてから私はその友人から聞いたのですけれど、ある日、憲兵隊長が軍司令官のところに、満鉄調査部検挙案をもってきて、司令官の決裁を求めた。司令官が書類をみると、その中には自分が直接知っていて信用している調査部員がいる。例えば、戦後九州大学教授となった具島兼三郎がいました。あの人に世界情勢の解説などやらせると、軍人がほれぼれするような名講義になるのです。具島は、関東軍で二度や三度は講演をやっていますから、司令官も感銘を受けている。検挙対象者のなかにそういう人間が何人かいる。軍司令官はそれを見て驚いただろうと思います。しかし自分の部下が、なんらかの証拠に基づいて検挙目録をつくってきたわけですから、検挙をとめるわけにはいかない。
 しかしあの具島が共産主義者だとは思えないから、これは憲兵隊特有のでっち上げだと分かります。しかも憲兵隊は、横浜事件を起こした警察に較ペてももっと酷い拷問をやります。私が奉天憲兵隊の監房にいるときに、朝鮮共産党の地方の指導者が捕まって調べられている。そしてとうとう殴り殺される。ともかくあそこは法律に拘束されない、無法の世界です。日本なら、たまたましくじって殺すことはあるけれど、はじめから殴り殺すということはなかったと思うのですが、あそこはそうじゃなかった。そういうことを軍司令官はもちろん知っていたでしょう。だから条件をつけました。肉体的な取り調べをするな、拘禁中は兵と同じ食べ物を食わせろ、この条件を認めれば検挙は許す、というものでした。
 だから、私たちは、拘禁中も憲兵に指一本触れられませんでした。治安維持法事件で指一本触れられなかったのは、これが唯一だと思います。軍司令官はこれが事件にならないことを知っていたんです。
 しかし満鉄調査部事件が起きた。 ここからが私は重要だと思うんですが、もちろん関東軍憲兵隊の功名心もあったでしょう。よその憲兵隊は共産党を検挙しているのに関東軍憲兵隊はまだ挙げていない。なにをしているんだ、たるんでるじゃないか、という噂もあったでしょう。
 横浜事件をでっち上げた神奈川県警と同じように、それではわれわれも手柄を、という気持ちもあったでしょう。しかし、私はこうした功名心からだけではなくて、この事件に関しては、もっと重要な決定が上の方でなされていたのではないかと思うんです。
 こういう事実があります。昭和一四年に私が満鉄調査部で職務の一つとして新聞記事のチェックと切り抜きをやっていました。その一つに政府とつながりの深い『日本』という新聞がありました。最初は旬刊で、のちに週刊になる札付きの右翼新聞です。そこには、当局でなければ知ることのできない左翼運動の情報が書いてありました。
 ある日、小菅刑務所に服役中の佐野学、かれは共産党の委員長をし、転向した人ですが、この人の検察関係者宛の手紙が載っていました。「時局重大の折、要路の機関はいまなお自由主義に毒されている。ひとつの例は満鉄調査部だ。ここは、前歴のあるものを六十数名をかかえている。こんなことで重要な国策の遂行が出来るわけがない。粛清すべきだ。もし自分に任せてくれれば、自分はたちどころのうちに整理することができる」というものです。私はそれをみたとき大変驚いた。佐野は私が満鉄にいることも知っています。第一次共産党以来の同志である西雅雄が上海事務所で働いていることも知っている。
 しかし問題は、市販もしていない、普通の人はなかなか手に入れることの出来ない、『満鉄調査月報』であるとか、ソ連邦事情であるとかの重要な調査報告をどうして刑務所のなかで、佐野はみることができたか。
 これは誰がいいだしたかわかりませんが、満鉄調査部の出版物を通して、このなかからアカを発見しようという計画が、政府のどこかにあって、その作業を佐野学が引き受けた。そういうことだと思います。後で調べますと昭和一三年からそれをやっている。
 ですから、警察とか憲兵隊とかいう機関の他に、もっと上のほうに政治機関がひとつあって、ここでは、誰が転勤しようと、どんな人事異動があろうと、一貫して革命連動を弾圧する作業を継続している。そこで決めた方針にたまたま小菅にいる佐野に満鉄内左翼の鑑定をさせることになったのだろうと思います。
 いずれにしても、この話が満鉄調査部の幹部の耳に入ります。幹部はびっくりして、関東軍に出頭しまして、「何か調査されているようですが、私たちのところには軍に反抗する者は一人もいないので、お手やわらかに願いたい」といった。
 憲兵隊の方は、さて計画がばれたか、まだリストは完成していないけれどやってしまえ、ということで検挙を始めるわけです。この検挙は誰でもよかったんじゃないかと思います。私は関東軍憲兵隊のあっちこっちの留置場をまわされて、明日は瀋陽第二監獄に送るという最後の日に、「時局柄、監獄の食事は悪いし、防寒設備もない。おまえなんか気の毒だが死ぬだろう。この世の最後に何か望みがあるなら聞いてやろう」といわれました。「最後の望みがひとつある」。「どんなことだ?」といいますから、「この憲兵隊の塀の向こうに、軍司令官の官宅がある。そこに私の友人で、秘書課長をしている人がいるから会わせてほしい」といった。
 そうしたら憲兵隊はびっくりしました。「そういう重要人物に知り合いがあると最初にいってくれれば、その日に帰しただろう。何でいわなかったんだ」といっていました。つまり誰を捕まえるかはどうでもいいことで、他の人でもよかったんです。人数をそろえればよかったのです。
 もともと事実がないわけですから。私など、昔治安維持法でひっかかったという前歴がありますからちょうどいい。転向したなんて嘘をいっているが、またやりだしたのだろう、ということになるわけです。
 では、なぜそんな事件をつくらなければならなかったのか。確かに憲兵隊や神奈川警察に功名心はあったでしょう。しかしそれだけか。いや、それ以上にもっと切実な理由があったのではないだろうか。それは何だろうか。それで私は気がついたんですが、満鉄の調査の結果は、中国と戦争をやっても勝ち目がないから軍はひきあげた方がいい、戦時経済も行きづまってもう打開の道がないから戦争はやめる以外にない、という敗戦主義的なものでした。
 この調査の中心には尾崎秀実がいる。当局は当然尾崎に注目したと思います。あの男は企画院事件にも関係している。満鉄調査部も尾崎の思うままに動いている。上海の李徳生の配下にも、上海で尾崎の指導を仰いだ人間が沢山いる。横浜事件の細川も常に尾崎と交流していた。全部に尾崎が関係している。こういうふうに考えたと思います。

尾崎秀実の思想を恐れた権力

 その尾崎は何を考えていたのか、を考えますと、例の『愛情は降る星の如く』のなかで奥さんにあてて「自分はありきたりの共産主義者ではない」といっています。罪を逃れるための言葉だろうという人もいますが、私はそうではないだろうと思います。
 当時の共産主義の方針と、尾崎の考えは一致しないところがあった。どこが違っていたのかということをこれから調べなくてはならないんですが、例えば尾崎は、「東亜共同体の理論」ということをいっていた。
 これは簡単にいいますと、日本はアジアにおける戦争をやめろ、日本は、侵略し従属させようとした諸民族と平等で対等の関係をつくりあげて、共同で新社会をつくる以外にないというものです。
 この尾崎の考えとかなり似ているのが、哲学者の三木清が昭和研究会に入って書いた論文です。この人の考えもありきたりの共産主義とずいぶん違う。共産主義と違った方向で人類の将来を考えていたわけです。 さきほど紹介しましたアイノ・クーシネンの自伝のなかで、ゾルゲがアイノと話していて、これまでのコミンテルンの革命理論は、まったく無効だ、ということをいっている。 彼は、ソビエトから派遣されたにもかかわらず、ソビエト共産主義というものは有効ではない、新しい方法を考えなくてはならないと考えていたに違いない。
 私は、『異端の視点』のなかでゾルゲが日本の君主制をどう考えていたかを書いています。ゾルゲはモスクワから派遣されたわけですから、当然コミンテルンの日本問題に関するテーゼ、日本の天皇制は絶対主義君主制だ、というテーゼを知っています。
 しかし、彼はそれと違うことをいっている。天皇制は日本独自のもので、外国の絶対主義の類推で考えるのは間違っている。天皇制が力をもつのは、制度としての権力としてではなくて、むしろ国民のなかにある。あるゆる集団のなかにある小さい天皇制の集中的表現として天皇制がある。とすれば、天皇制を打倒する闘争は、街頭における市街戦ではなくて別の方法になる、と。
 尾崎は、ある論文でいっていますが、いまの日本は労働者階級の力が弱くて、共産党もまったく力がない。組織動員の力を失いましたし、精神的・道徳的にも力をもっていない。ギャング事件を起こしたり、リンチ事件があるとか、誰でもひんしゅくするような反道徳的なことをたくさんやりました。しかもそれはスパイが入ってやらせているわけですから、当然国民の間で威信を失った。 共産党はいまでも弾圧のために、党は滅んだといっていますが、そうではなくて国民の間で信用を失ったため衰滅したわけです。
 尾崎は、そういう方法ではなしに、アジアの一角に新しい共同体をつくる、日本はその科学、文化、知識を武器としてアジアに参加する。中国は民族解放の巨大なエネルギーを持っている。一方、ソビエトは社会主義建設の経験を持っている。この三つを結合して、アジアにひとつの諸民族の共同体をつくる。
 ここでは尾崎もゾルゲも同じですが、今までの伝統的共産主義理論よりも、もうひとつ先の新しい社会問題の解決を構想していただろうと思います。
 政府が一番恐れたのは、もう息絶え絶えの共産党ではない。将来日本が敗戦し、国民が変革を求めて立ち上がったときに、ここに変革の道があることを発言する勢力を今のうちに潰しておかなくてはならない。
 そこで、企画院のグループのいろいろな思想、満鉄調査部の主張、尾崎・ゾルゲのグループの理論的方向、細川嘉六の唱えている新しい民族理論が問題になる。
 恐らく日本が敗戦とともに社会的混乱に陥るときは、この連中が力をもって新しい変革の主体になる恐れがある、こう判断しただろうと思います。
 ですからこれを、双葉のうちに刈り取らなくてはならない。それが企画院から横浜事件にいたる諸事件であったろうと思います。
 ここには、いまでいうポスト・コミュニズムの思想に近いものがあったのではないか。支配階級はその階級的本能によって敏感にその危険性を知っていた。ですからこれは、どんなことをしても今のうちに殲滅してしまえ。こういう計画が、どこかでつくられた。
 それを遂行する機関として、あるときは憲兵隊、あるときは神奈川県警が動員された。われわれに見えるのはこの出先の機関だけですが、その上にそこに非常に高度のイデオロギーと高度の見通しをもった権力があっただろうと思います。それが本当の国家権力の中枢だろうと思います。
 例えば横浜事件など非常に非人間的なやり方がとられますが、検挙した方も、これが共産党だなどとは全然思っていません。当時の細川さんに共産党に入ろうなどという気持ちはなかったでしょう。泊りにあつまって、浴衣を着て、宿屋でドンチャン騒ぎをして、記念写真までとっている。
 共産党再建をやろうという連中が、何で記念写真までとるか。なにもなかったから、警戒心もない。調書では、共産党の再建のためとかなんとかいわせていますが、当局はそんなことを信用しているわけではない。ただ、その集団のもっている思想をいまのうちに挫いておかなければならない、殺してもいいから挫け、という方針があったかもしれない。
 こういうことが、一九三六年ころから四三年ぐらいまでの治安維持法事件の共通の特徴だったのではないかと思います。
 私たちの満鉄事件でも、軍司令官が指一本触れるなと命令したにもかかわらず、六十何人のうち六人が死んでいます。
 横浜のように手荒なことをやれば、沢山の犠牲者が出る。犠牲者にしたてられた人は大変な災難です。まったく町を歩いていて、屋根から瓦が落ちてきたようなもので、偶然の災難ですけれども。しかし、政府は誰かを犠牲にしなければならなかった。それによってこの新しい思想の芽をいまのうちに枯らしておかなくてはならなかった。
 これが政府の方針だった。その証拠に、近衛文麿が最後に天皇に手紙を出しますが、そのとき、一番恐ろしいのは共産主義革命だといっている。何をたわけたことをいうのか、そんな革命をやるような勢力が当時の日本のどこにあるか、革命思想がどこにあるか。具体的に革命にむけての方針をもっている人間がどこにいるのか。何にもないのです。
 共産党はリンチ事件やギャング事件で国民から見放されている。だからそれを恐れることはない。しかし、敗戦は必至である。敗戦になれば、いいまでの指導層は国民の信用を失って後退する。政治的真空ができる。そのときに新しい革命がおこっては困る。
 これを近衛は、天皇にむかって共産主義革命が起こるといったわけです。誰が共産主義革命を起こすか。たとえば、軍部を考えていたかもしれない。当時の軍部が、なぜ共産主義かわかりませんが、おそらく革新将校のなごりみたいなものがあって、国民を組織すれば、国民はそれに吸収される恐れがある、とでも考えていたのでしょう。
 私は敗戦のとき、満州で捕虜にならずに帰ったのですが、除隊するときに、昨日までわれわれを犬畜生のように殴ったりしていた将校が、「これからはお前たちの世の中になる」などといいました。
 いままで自分たちが酷い目にあわせていた連中が、こんどは主人公になるという本能的恐怖だと思われます。われわれは、おとなしくて意気地がない転向した人間でしかない。革命なんかできるわけがない。
 しかし、敵さんからみれば、あの連中の世界になるのじゃないかという恐れがあった。
 敗戦が必至だということは、国民よりも要路にいる彼らの方がよく知っていますから、将来社会を設計できるような思想はいまのうちにつぶしておかなくてはならない、と思ったはずです。
 どっちみち尾崎は、殺されたかもしれないけれど、そういうなかで、ゾルゲや尾崎の思想が狙われたんだと思います。
 先に李徳生が大手をふって中国に帰れるのなら、ゾルゲもソ連に帰れたはずだ、といいました。
 それには根拠があります。関東軍の参謀長をやり、日本で陸軍次官までやった富永という中将がいます。これが、満州で敗戦を迎え、戦犯としてモスクワに連れていかれ、モスクワのブートゥィルカという監獄に入れられた。
 ここで、「赤いオーケストラ」という名で恐れられた数百人の規模のソ連大諜報団の指導者のレオポルド・トレッパーと同房に入れられる。
 この人はユダヤ人だったので、スターリンに戦争中の活動を感謝されるのではなく、戦後逆にブートゥィルカ監獄にぶち込まれた。しかし監房が足りなくて富永中将と同じ監房に入れられた。富永というのは監房においてまったく唾棄すべき人物で、食べ物のことばかりいっていた。 自分は関東軍では、毎日バナナを食っていた。だからここでも食わせろという。食糧難で国民が飢えているモスクワで、敵国の将軍に何でバナナを食わせるか。日本の軍人は何たる見下げた奴らか、ということをその人がいっています。
 しかし、富永はフランスの駐在武官をやっていますから、フランス語ができる。それで「赤いオーケストラ」の大将とフランス語で話すわけです。で、その人は富永に、おまえはなんでゾルゲの身柄交換をソビエト政府と交渉しなかったんだ、と訊いた。
 すると、とんでもない。自分は陸軍次官のときに三回やった。日本でもノモンハン事件か何かで捕虜になっている高級将校が何人かいて、軍部としては早く引き取りたい。引き取ってから自殺させるのでしょうが、ともかく引き取りたい。それで三回身柄交換の申し入れをやった。
 しかし、スターリンの返事は、リヒアルト・ゾルゲなどという人間は知らないというもので、三回断ったからあきらめた、というのです。(Leopold Trepper. Legrand Jeu, Memoire du chef del Orchestre Rouge.[レオポルド・トレッパー、大きな賭け。赤いオーケストラの首領の回顧]Paris 1975年。この本にはドイツ訳、ロシア訳、邦訳もある。)
 仮に、取引が成立しても、どうせゾルゲはモスクワに帰って、そこで殺されたに違いないけれど、ゾルゲが日本で殺されずにソ連に帰ったら、尾崎も殺されずにすんだかもしれません。
 何らかの名目で生きていて、われわれ人民の側にもどっていれば、あの人が戦後どんなにいい働きをしたかと思いますね。
 まあ、ゾルゲにしてみれば、革命家として日本の反動権力に殺される方が、同志のはずのスターリンに殺されるより幸せだったでしょうが。
 つまり、彼らは殺されなくてはならない絶対的な理由はなかった。しかし誰かは殺さなくてはならなかった。誰かを殺すということで民衆を威嚇しておき、戦後のポスト・コミュニズムの時代の思想の推進者になりうるような人を双葉のうちに滅ぼそう──それがゾルゲ事件や横浜事件のいちばん重要な意味でなかったかと思います。
 こういうことは私も今まであまり考えませんでしたけれど、この間、尾崎やゾルゲのいろいろな調書や、細川さんの著作集などを読んで感じました。研究しようとおもえば材料はいくらでもあります。これからの若い人たちにはそれをやっていただきたい。それがこれらの事件で亡くなった人たちへのなによりの償いではないかと思います。

講演者紹介(いしどう・きよとも)
一九〇四年 石川具に生まれる
一九二七年 東京大学文学部卒
著書
『現代革命の理論』
『わが異端の昭和史』
『異端の視点」 他
訳書
『マルクス・レーニン全集』
『レーニン全集』
ユ・ア・クラシン『レーニンと現代革命』、『問題別グラムシ著作集』
ロイ・メドベージェフ『共産主義とは何か』
アルド・アゴステイ『「コミンテルン史』

(「国家機密法に反対する懇談会だより」 No.6 1991年8月24日 土曜日)



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