未完の画家・宮城与徳の場合
尾崎 秀樹
尾崎ゾルゲ事件五〇周年記念特集
未完の画家・宮城与徳の場合
          尾崎 秀樹

 今年(1990年)の10月に沖縄で宮城与徳の遺作展や講演会などをやりましたので、その報告かたがた、宮城のことを話します。

生まれ故郷での遺作展に大きな反響

 沖縄での宮城与徳についての講演会や遺作展は、名護市の市長が革新派のときに計画され、その後市長が保守に変わってしまいましたが、遺作展だけはやろうということになっていました。しかし、那覇の保守派から圧力がかかって延び延びになっていました。
 そこで市民の実行委員全形式でやろうということになり、募金と前売り券の販売でお金を集め実現しました。名護での遺作展は90年10月18日から24日まで開かれましたが、実行委員会の方式がかえっていい方向にいき、4500人もの人が見に来るという予想以上の大盛況でした。さきほど見ましたビデオ(琉球放送制作『ひとみの奥でみたものは』宮城与徳の生涯を追跡取材したドキュメント)には大阪の梅田画廊で展示した与徳の遺作が映っていましたが、このとき展示したのは日本にある17点の作品でした。名護での遺作展にはアメリカにある十数点も取り寄せて、写真も合わせると三十三点を展示しました。それがこの本(『宮城与徳遺作画集』沖縄タイムス社編)に納められています。この本の前のほうにアメリカ時代の作品があります。彼の作品の全部ではありませんが、十数点がこんど初めて日本で展示されました。
 名護でやったあと一週間をおいて那覇市で、大城立裕さんが実行委員長になって同じ連作展をやりました。こちらも名護以上にたくさんの方が見に来てくれまレた。
 宮城与徳の遺作展を、名護でまずやったことには意味があります。宮城は名護で生まれたのですが、尾崎・ゾルゲ事件で逮捕されたということで、戸籍からも消されてしまいました。そののち沖縄戦で焼け野原になってしまい、役場にあった戸籍簿も焼けてしまいます。戦後になってそれぞれの申請で復活します。しかし、宮城は「売国奴」ということで抹殺されたままという事実があり、そのことを調べて、なんとか復活したいと思ってきました。
 沖縄では日本の本土以上に厳しい弾圧があります。当時から沖縄にはアメリカ帰りのいろいろな人達がいました。1920年代には離島から移民した人達も帰ってきていました。しかし、与徳と同じ境遇にあったその人達も、手を差し延べることもできませんでした。手を差し延べようにも、そんなことは出来ない状況があったのです。
 尾崎・ゾルゲ事件も来年で、逮捕から50年になります。事件の歴史的評価を見直そうという機運も、ある面では進んでいますが、依然として「ゆがみ」というべきものが残っています。現在の政治状況の中では、その「ゆがみ」を一層大きくしようとする傾向があります。これを少しでも押し返して、犠牲者の復権を図ろうというのが、遺作展の意味です。大きな反響があり、たいへん嬉しく思っています。

宮城与徳の生い立ちと活動

 宮城は正確には「みやぐすく」と呼ぶのでしょうが、一般には「みやぎ」と言っています。彼は1903年(明治36年)に、沖縄県の国頭(くにがみ)郡の名護町大字名護で生まれます。父は与正(よしょう)といい、兄さんは与整(よせい)といいます。母はカマドといいます。・与徳の生家跡は、東江(あがりえ)という海岸に近い所に残っています。徳田球一の生まれも名護ですが、与徳の生まれた所から歩いてすぐの所です。父の与正は日露戦争の前に南洋開発に手を出して、フィリッピンに出ていきますが、この時はすぐに帰ってきます。つぎに北米に行き、ロサンゼルス近郊の農園で働きます。この時は長くいて、沖縄に帰ってくるのは1919年(大正8年)末です。与徳は1919年6月、16歳のときにアメリカに渡ります。ですから与徳は父親と一緒に暮らしたことはほとんどありません。
 与徳は1915年に名護の尋常小学校を卒業して、那覇の県立師範学校の予科に進みます。さらに本科に行きますが、一年で健康を害して中退しています。彼は小学校時代から、絵画や彫刻が非常に得意でした。いろいろな展覧会にも入賞していて、その記録も残っています。絵画の研究をつづけたいという、かねてからの希望をかなえるために、1919年の6月に、先にアメリカに渡っていた父と兄を頼って海を渡ります。そして、カリフォルニアの州立美術学校をへて、サンディエゴの官立美術学校に学び、卒業します。その頃から、胸部疾患に悩まされます。結果的に彼の命取りになったのはこの結核でした。この病気を抱き続けながら、戦列に立って闘い続けます。
 このころ、ガーデナーとして働いたり、四人の共同出資の「アオル」(ふくろう亨)という名のレストランを営んだりします。この四人のなかには生き残っている人もいます。沖縄に帰ってきて沖縄戦史に名が出てくる人もいます。出資者のほとんどの人がアメリカでの社会主義運動、労働運動に関わっていました。
 与徳は再び画業を続けるために、ロサンゼルスのマクドナルド・ライト・アーチストリーグ(絵画研究所)に学んでいます。1925年には八巻千代(やまきちよ・宮城県仙台市出身)さんと結婚しますが、この人とは別れます。八巻さんは今もアメリカで健在です。別れた後で北林トモ夫妻と親しくなります。この北林トモは後に与徳を追うようにして日本に帰ります。
 この北林トモのことを伊藤律が、特高に漏らしたと言われています。伊藤が北林のことを言ったのがもとで、組織の人が次々に挙げられていくという不幸な結果をもたらします。これは後のことですが……。
 与徳はアメリカでサークル運動をとおして、北林トモといろいろな行動を一緒にします。そして、それは政治的な方向に向かって動き始めます。ちょうど1929年頃、赤色救援会の日本人部に加わるわけですが、コミュニズムを信じるようになるのも、この頃からです。マルドナルド・ライト絵画研究所にいた頃から、傾向性の強い文学書や思想書などを読み、無政府主義的な考えを持ち、しだいにコミュニズムに向かって行きます。彼は検事の尋問に答えて、「共産主義に関する本はあまり読んでいませんが、1929年(昭和4年)頃に共産主義を信じるようになった頃の基本観念は、働く者が食える社会にしなければならないということです」と言っています。これははっきり確認できることです。その裏には、幼少期から沖縄の現実を見聞し、肌にしみて感じてきたことがあります。本土によって沖縄が様々な形で収奪される過程を、実際に見てきたことが大きかったようです。幼少期に受けたうっくつ感は、アメリカに渡ってからも続きます。彼がアメリカに渡った時は、アメリカ社会の階級的な問題だとか、移民に対する色々な差別が強く出てきた時期です。民族的な屈辱の体験が、彼がコミュニズムをさらに強く信じるように動かしたと思われます。彼が渡米したのは排日移民法が制定される少し前ですから、有色人種に対する圧迫が強まり、それに対する日本政府の外交面での弱腰や、また出先の官憲の横暴さなども目に余るものがあったのでしょう。
 1931年(昭和6年)の冬に、彼はアメリカ共産党の第13区(カリフォルニア支部は第13区)の東洋民族課日本人部に入党します。この名前の呼びかたはいろいろありますが、与徳の使った呼び方で言います。与徳はアメリカ共産党で活動しますが、この間も画筆をとり続けます。遺作集にある絵は、わりとおとなしいものが多いのですが、労働者の絵などを多く描いたこともあったようです。アメリカの東と西に別れますが、ちょうど同じ時期に国吉康雄とか石垣栄太郎たちが、絵画運動に打ち込んでいます。国吉さんたちは東海岸ですが時期的には同じで、国吉の傾向と似ています。竹下夢二がアメリカに行ったときにも、宮城がちょうど絵画活動をしていた時です。夢二はその後ヨーロッパに行きますが、思想的にはかなり近いものがあったようです。夢二の日記の中に、宮城の名前が出てきます。

宮城のアメリカでの活動

 宮城のアメけカでの活動の掘り起こしが進んでいます。それに非常に熱心なのは、法政大学の袖井林二郎さんです。袖井さんはアメリカ共産党日本人部の研究を進めていて、名護での遺作展にもわざわざ東京から来てくれました。彼の研究などで、カリフォルニアでの日本人部の人たちの組織名の解明なども進んでいます。メリイとかいろいろな名前が付いていますが、1930年代には日本の外事警察でかなり正確に特定されていたことも判明しています。その資料が海を渡って日本に送り付けられていました。この情報が横浜事件などのでっち上げりの端緒などにも使われます。宮城も北林も全部そのリストに載っていますから、アメリカで活動していたときから洗い出されていたようです。それまでは日本への情報は、上海経由でした。しかし、この上海ルートは国民党の反動化にともなって困難になり、4・12クーデター以降はほとんど役に立たなくなります。それで、非合法文書などを、アメリカから太平洋を経由して日本に送るようになります。それは横浜に上陸するわけですが、それを日本側の特高警察が、水際作戦であげようとします。その手ロがリストをつくることで、横浜事件にまで続きます。宮城の同士たちの名前の入っているブラックリストの控えを私も見たことがありますが、かなり正確です。沖縄出身で宮城と行動をともにした人達の名前もそこに出てきます。
 宮城は1931年にロサンゼルスのアメリカ共産党日本人部に入ります。そのときロングビーチ事件(1932年1月15日)などのアメリカ側の弾圧が起こります。いちおうアメリカ共産党は合法性を保持していますが、弾圧があり、いろいろ揺れ動きます。とくに日本人部の方は有力メンバーが少なく、一時は壊滅状態になります。翌年、組織は回復しますが、指導者がいなかったので、具体的な戦術が十分でなかったという状態があったようです。一世の移民と二世の移民の間に政治的な意識の格差があり、二世はなかなか組織できなかったようです。一世の方もそういう問題意識を持たなかったようで、そこのギャップをどう埋めるかが大きな問題でした。そういう時期に宮城は党に入っていました。
 サンフランシスコの邦字新聞でわりに大きな会社があったのですが、そのストライキ事件を日本人部が指導してやったことがあります。それからロサンゼルス方面の農園労働者の賃金低下反対の闘争とか、有名なファン・キャンプという漁業会社がありますが、この会社の労務強化反対運動などに関与します。その実情はというと、だんだん組織が拡大するというものじゃなくて、むしろ少数の精鋭分子のひとりよがりの運動という面があったようです。人数などもそんなに多くなかったようです。このへんのことは、カール・ヨネダが書いています。カール・ヨネダはこのころに労働連動をやっていて、最後には港湾労働者の組合の書記長にまでなります。カール・ヨネダは宮城ももちろん知っていて、回想のなかにも書いています。
 アメリカでの宮城の活動については、かなり批判的な見方もあります。また、日本人部の活動はある時期からだんだん下降線をたどり、最終的にはアメリカ共産党の地区組織に再編入されます。しかし、彼らがこの時期一番考えたのは、日本のアジア侵略、軍事的な侵攻に対して、アメリカにおいて反対運動を展開するということでした。その思いは日本に帰ってきてからも宮城のなかにはずっとありました。宮城のアメリカでの運動はいろいろありますが(プロレタリア美術家としての活動と、赤色救援運動と、共産党日本人部としての動きとがあります。宮城のアメリカでの活動の掘り起こしも進んでいますので、機会を作って詳しく話します。

日本での活動

 アメリカで活動していた宮城がコミンテルンから指示を受け、日本に派遣されて、レポとして尾崎とゾルゲの連絡を復活させる役割を命じられます。これは1933年のことです。ロイという人物と矢野努という人物が宮城の前に現れます。太平洋を渡って東京に行き、尾崎とゾルゲの連絡をつけることが最大の任務で、それが終わったらアメリカに戻っていいということでした。この指令を受けて、1933年10月に海を渡りますが、宮城はその仕事が終わってもアメリカに帰りません。当時の日本は、共産党にたいする大弾圧が行われていて運動自体も抑えられていました。反戦・平和のための活動はたいへん難しい状態にありました。しかし、誰かがやらなければならないという思いで、彼はあえてアメリカに戻ることをやめて、日本に留まります。誰かがやらなければならないのなら、自分でやりたいと思うようになった大きな変革があったと思います。
 しかし、宮城は日本の本土はこれまでぜんぜん知りませんでした。沖縄からいきなりアメリカに行ったわけですから。アメリカでの日本人の運動は、相対的にですが合法性を持っていました。そういう開かれたところでの活動と、極限的に弾圧されて非合法化されていて、ちょっとした動きでも特高警察に狙われるなかでの動きには、格段の差があるわけです。そのことに間もなく気がついたでしょうが、始める時には分からなかった。宮城の日本での動きはさきほど言いました、尾崎とゾルゲとの間の連絡をとることと、宮城自身が組織を作り、それを通して情報を集め、政治的な判断をゾルゲに伝えるということです。実際の行動としてどんな仕事があったのかは、非常にわかりにくいところがたくさんあります。ただ、川合貞吉さんは、戦争反対のための兵器の問題などを宮城と話合っています。ここのへんのことは、川合さんの話だけでは十分ではありません。北海道に行って、軍事的な問題を含めていろいろ調べてもらいたい、そして、それにともなう組織作り、反戦のための人民戦線づくりをやってもらいたいというようなことや、万一のときにはどう対応するかというようなことを話し合っています。
 宮城は、一般のちまたの情報から、政治的な情報、さらにまた軍事的な情報を収集するという点で、実際に一番動いています。尾崎、ゾルゲは、いろいろな情報をもとにして、それを政治的に判断して日本がどう動くかとか、国際情勢がどうなるかというような高度な情勢判断を話し合っています。それは、スパイ活動というようなものではなく、むしろ情報源であり、正確に判断するということに重点があります。
 宮城の場合は「すこしちがって実際にいろいろな情報を集めています。ノモンハン事件の後に、彼は現地まで行っていろいろな人に会い、軍隊内部の人にも会っています。小代好信という人がいますが、この人は軍隊内のことを話したと言っています。宮城と親しかった喜屋武由放さんのお父さんや、小代さんから情報を集めています。この過程で、宮城の病状はだんだん悪化していきます。

宮城の逮捕と残された問題

 宮城は1941年(昭和16)10月10日に逮捕されます。一連の逮捕のきっかけになった北林トモは、9月28日に逮捕さています。北林を特高がマークし監視を始めるのは、41年の早い時期からです。この前に、例の伊藤律の自供があったわけです。
 宮城の関係で今日でも問題になっていることはいろいろあります。その一つは、コミンテルンのロイという人物のことで、これが野坂参三だということです。野坂の自伝的な本のなかでは、この時期にはモスクワに帰っていたことになっています。しかし、宮城に指示したときに立ち会った人が名古屋にいます。戦後にアメリカから帰ってきた人で、いろいろな経緯があって、今は共産党から離れています。その人は、野坂はアメリカに居て、宮城に指示したその場に立ち会ったと言っています。私はその人から直接聞きました。また、ジェームス・オダという人もアメリカ共産党日本人部のことを研究していますが、野坂間題を追究しています。それによると、ロイは野坂だということです。なぜ野坂はその時期のことを、つまり宮城を東京に送るための指示のことを否定、または隠蔽しているのか、ここに問題があると言っています。野坂はその後、延安に行きますが、ジェームス・オダはこの時期の野坂のことも批判しています。野坂はちょっと特高警察から逃げたところがあります。野坂はコミンテルンの指示でアメリカから日本に文書を送ることで、動きました。このとき、あと二人の人が野坂と一緒に動いていて、このあたりのことはかなり洗い出されています。しかし、ロイは野坂だということについて、彼はノーコメントを通しています。もうかなりの歳月も経っているのだから、ひとこと言ってくれればいいんですがね。
 それから、宮城が日本での非合法運動の経験がなかったことが、組織の思わぬマイナスになった、ということがあります。これは宮城の責任でもなんでもないのですが。宮城は日本で、三・一五事件や四・一六事件で捕まって、ある程度の刑期を終えて出てきた人たちと連絡をとって組織を作っています。九津見房子さんなんかも、そのひとりです。これは、うかつだった、という気がします。」宮城はあまり警戒しないでやっています。九津見さんは秘密を漏らすというようなことはないのですが、九津見さんが紹介した人、その人からまた紹介された人のなかには、あやしい動きをする人が何人かいました。
 その一人は沖縄出身の真栄田三益(まえださんえき・松本三益)です。彼は戦後に共産党の幹部になります。宮城は彼を組織したのですが、調書では彼の奥さんが組織されたことになっていて、彼は関係ないことになっています。安田徳太郎さんは、あのとき真栄田三益は逃げたんだと、戦後はっきり言っていました。真栄田三益は逃げたのではない、自分は関係ないといっています。
 もう一人は、高倉テル。高倉は戦後に、おれはゾルゲ事件に関係したと言った時期がありますが、アメリカ陸軍省の発表以降は口を閉ざしています。高倉のことは横浜事件の木村亨さんも問題にしています。高倉は逮捕され、釈放されてまた逮捕されますが、その過程でおかしな動きがあります。再逮捕されたときには、警察から逃げだしたということになっていますが、そんなことがあるでしょうか。そして逃げ込んだ先が、三木清のところなどです。高倉が逃げ込んだ先の人が、みんな捕まってしまいます。三木清はそれで獄死してしまいます。
 北林トモへの特高警察の内偵は早くから行われますが、これは伊藤律の証言からです。伊藤と宮城が直接に交渉していたかどうかははっきりしません。伊藤が宮城のことを知るのは、尾崎のところに出入りするようになってからだと思われます。北林のことを伊藤がしゃべったことは、確かです。伊藤が特高に、このくらいのことをしゃべってもいいだろうということで、漏らしたことが思わぬ大検挙に発展したことは、特高も認めています。伊藤が問題なのは、むしろその後のほうです。彼自身は否定していますが、つまり特高との関係が出来て、保釈になって出てきた伊藤は、こんどは満鉄に勤めます。そこで、尾崎秀実の周辺を洗うようになります。伊藤が満鉄調査部に入るのは、1939(昭和14)年です。そして尾崎のところに出入りするようになり、尾崎の仕事を助けたりします。満鉄という組織は半官半民の国策会社で、誰でも行って勤められるものではありません。伊藤が「転向しましたから」と言ったって、身柄を引受てくれるような甘い組織ではありません。伊藤は満鉄に勤めるようになって、尾崎のところに出入りするようになり、再逮捕されます。これが、北林の逮捕の翌日です。
 このころ北林は、和歌山県の粉河にいました。北林は粉河では、なんの動きもしていません。特高は東京から北林を追って、ずっと監視していたのですが、なんの動きもありません。こういうときの特高のやり方は、一回逮捕してみるということです。このやり方は今でも生きています。特高は北林をあげて、身柄を東京に持ってきます。北林はなぜ逮捕されたかまったくわからないのですが、たまたま宮城が住んでいる所に一番近い麻布警察に身柄を移されました。それで、宮城が逮捕され、自分もやられたんだと思ったのでしょう。特高はすでにあるリストをもとに北林を追及しました。北林のほうも、まずいという気があるから、宮城の名前をしゃべってしまった。これが宮城逮捕の直接のきっかけです。
 宮城は築地の警察にもっていかれ、伊藤猛虎という刑事に調べられます。厳しい追及をうけ、いろいろ証拠もつきつけられて、これでもうだめだと思って、築地警察の二階の窓から飛び下り自殺を図ります。しかし、表の庭木の枝にひっかかって一命をとりとめます。宮城を追っかけて飛び込んだ刑事がいますが、こちらはまともに落ちて重症を負います。宮城は柔らかい心の持ち主でもあり、周りから動かしようのない証拠を固められて、自供するようになります。
 いろいろ申しましたが、宮城の行動は日本に反戦の組織がないなかで、必死に日本の侵略を止めようとした反戦活動といえます。長いあいだ宮城は、沖縄でも本土でも、ゾルゲ事件の犠牲者というだけにとどまった評価しかなかったのですが、彼のアメリカ時代からの行動を見てきますと、けっしてなまやさしいことではなかったと思います。
 宮城を追悼していくためにも、まだ完全に発掘されていない問題がたくさんあります。それを掘りおこしてゆかなくてはなりません。いずれきちんと書いておくつもりです。
(おざき・ほつき)
「国家機密法に反対する懇談会だより」No7 199年11月7日



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