目 次
反戦青年委員会運動の批判的検証と継承 今野求 '94.11.1
大阪、反戦派の闘い 前田裕晤
反戦青年委員会の歴史
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反戦青年委員会 今野求、前田裕晤、阿木良 |

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反戦青年委員会 |
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そのように反戟青年委員会は歴史的にはあまり出てこない。しかし、労働運動史的にはそれなりの位置を持っていいのではないかという気がする。 |
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米侵略機をベトナムに送るな |
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だから65年は日韓闘争だったが、66年以降はベトナム反戦闘争が主要なテーマとして出てきた。 |
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三里塚闘争 |
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当時、僕は宮城県評で総評オルグという肩書を持っていた。宮城から一四〇名ぐらいがバスで三里塚集会に来たが、仙台では考えられない機動隊のすさまじい弾圧だった。一四〇名のうち一〇〇名ぐらいが負傷した。とにかく、片目失明、骨折などぞくぞく負傷者が出た。どういうわけか宮城が反戦青年委員会の最前列に立たされた結果、そのようになってしまった。そのうえ、成田のグランドで総括集会を行っているところを襲われ、そこでまたやられ、二重三重にひどい目にあった。 |
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社会党内部の対立 |
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社会党内的対立でいうと、社青同は非常におもしろい方針を取っており、「改憲阻止・反合理化」が今後の労働者の闘争の機軸であるということで、ベトナム反戦、沖縄闘争はどこかに消えてしまった。 |
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停滞から蘇る |
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ここで僕の立場を言っておくと、68年当時は本籍は第四インターで、現住所が社会党・総評、総評青対オルグの肩書を持っており、実際は青対というよりは中小企業の運動をしていた。それに杜青同宮城地本副委員長。 |
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労働者も党派隊列へ |
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71年にかけていろいろな闘争をやるが、隊列としては、69年10・21の時で終わり。というのは、機動隊と激突する状況がずっと続いており、学生も労働者も党派隊列でまとめてしまう。そこで機動隊とぶつけるという格好になるので、県反戦の隊列はつくれない。 |
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メンバーは五、六万 |
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運動史的にみれば、だいたいこのようになる。71年6月まで続くが、6月の明治公園での沖縄闘争の集会で、解放派と中核派の大激突があり、これをもって全部終わりとなる。これ以降も反戦青年委員会の名前でやるが、実際はこの段階で終わりといっていいだろう。 |
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ベトナム戦争の時代 |
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あの当時、なぜあれだけのエネルギーがあったのかを考えてみたい。一つは時代だろうと思う。レジュメには(ベトナム戦争の時代)と書いたが、ベトナムがアメリカ帝国主義と闘っていたことが中心だろうと思う。 |
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街頭に出た労働者 |
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反戦青年委員会の運動を振り返ってみて、今からみて労働運動と反戦青年委員会との関係で考えてみたい。 |
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ヤジと怒号の春闘討論集会 |
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そこで70年2月に春闘討論集会を行った。これは労働運動として反戦青年委員会を今後どうするかということで開いた。その限りでは新左翼諸派もそのような意識があった。 |
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実現しなかった統一 |
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反戦青年委員会は「創意・自立・統一」というスローガンを合言葉として早くから打ち出していた。創意と自立は実現できただろうと思う。 |
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異分子を排した統一の論理 |
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共産党の論理は何も難しく考える必要はない。それは異分子を排除した統一だと思う。だけど、同じことを新左翼もやっている。何にも変わっていない。もし、共産党の論理とは違うというのであれば、僕はそれを聞きたい。実際は何も変わらない。 |
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直接の契機は内ゲバだが |
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そういう意味では、反戦青年委員会も全共闘もぶち壊れていった直接の契機は内ゲバだが、内ゲバは現象面であって、そうではなく大衆運動を発展させようとする論理を新左翼諸派は持っていたのかどうかということだ。僕は持ってはいなかったと思う。 |
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反戦青年委から全労活へ |
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いずれにしろ、そのような形で進み、71年で終わる。ただし統一した反戦青年委員会としてはそこで終わるわけだが、その活動が一切消えたわけではない。労働戦線の中に引き継がれている。 |
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反戦青年委員会は死んではいない |
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ともかく反戦青年委員会という形で始まった65年からの運動、まもなく30年近くになるが、それは死んだわけではない。メチャクチャにされながらも、それぞれの職場で闘ってきた活動家たちがお互いに連絡を取りながらやってこれた。 |
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今野求さんを偲んで 三浦 暉 |
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「怒りをうたえ」上映実行委員会の若き友人から、“現代史講座”の会報「怒りをうたえ」のバックナンバーをお借りしたところ、10号に今野さんの文章が掲載されており、改めて読みました。これは、貴重な文献だと思いホームページに掲載しました。1993年12月4日専修大学神田校舎で行われた“'90年代フォーラム”の分科会、「怒りをうたえ」上映実行委員会主催現代史講座「反戦青年委員会運動の批判的検証と継承」の講演記録に氏自身が筆を入れられたものでした。発行が一年近くずれているのは、現代史講座が約一年で終焉をむかえ9号を1994年1月1日に発行して活動を停止していた為と、にもかかわらず今野さんの文章を何らかの形でのこそうと私一人で10号を編集し、当時模索舎にもちこんだものだった。それをどうしたわけか私自身は手元に残さず、半ばあきらめていた。それを若き友人が保存しておられると聞き今回の掲示となったものです。 |
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大阪中電の労働運動 |
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大阪中央電報局は戦後、電々の中でも最初の頃に全逓労働組合ができたところ。最初の委員長が村上ひろしという男で、後に共産党の委員長になる。 |
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60年安保闘争 |
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私はそういう経緯の中で、60年の安保闘争の時にたまたま大阪の代表団として、青年行動隊を連れて東京に来て、羽田に突っ込んだたため共産党も除名されてしまうし、大阪中電から来ていた七名のうち六名が共産党だったが、全部除名されてしまう。 |
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関西地区反戦会議 |
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その頃、砂川闘争をやっている連中の中から、「反戦青年委員会という運動が始まったぞ」というのが関西にも伝わってきた。私は当時、大阪総評青年部の役員をやっていたから、「東京はなんで別にそんなものをつくるんかいな。なんで青年部として運動できないんか」というのが我々の認識だった。 |
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反戦青年委員会の歴史 |
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「社研」No.23 1969年10月1日 より |
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一、はじめに |
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11月佐藤訪米を前に進められつつある、愛知・ロジャース会談は、鳴物入りでブルジョアマスコミによって宣伝された「七二年返還、核抜き、本土なみ」のキャッチフレーズがまったく欺瞞的なものでしかなかったことを暴露しつつある。 |
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二、前史 |
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六〇年安保闘争の敗北は、社共既成指導部を乗りこえんと最も激しく闘った全学連=共産同を解体させ、真の労働者前衛党の創設の課題を我々の課題として残した。 |
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三、全国反戦の結成と日韓闘争 |
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政策転換闘争の敗北は、社会党内の構改派の影響力を弱める結果をもたらし、とりわけ杜青同内部における凋落はいちぢるしく、東京地本に引きつづき社青同中央が社民内三派(協会・解放・四トロ)にヘゲモニーが移行することによって社民内部の流動化が促進された。 もちろん、このことは反戦青年委員会がベトナム戦争に反対し日韓条約の批准に反対する全ての団体と個人に開放され、「自立・創意・統一」を組織原則とするユニークさを軽視することは出来ない。 |
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反戦青年委員会の一時的停滞 |
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日韓闘争の敗北以降一時的に反戦青年委員会をめぐる問題について若干見ておこうと考える。 |
