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反戦青年委員会運動の批判的検証と継承 今野求 '94.11.1

大阪、反戦派の闘い 前田裕晤

反戦青年委員会の歴史


反戦青年委員会 今野求、前田裕晤、阿木良


反戦青年委員会運動の批判的検証と継承 今野求 '94.11.1

ベトナム反戦

 反戦青年委員会運動は、65年8月から71年6月にかけて六年間にわたって展開された青年労働者の運動である。71年6月以降も反戦青年委員会という名は残っているが、実際には終わっているので、そこで区切っておきたい。
 それは単に青年労働者の運動ということだけではなく、当時、国際的に展開されていたベトナム反戦闘争、あるいは反帝闘争と言われた闘争の一翼だったし、また学生反乱と言われた世界各国での民衆の叛乱の一翼でもあった。
 反戦闘争としての内容等については別個にやった方がいいと思うので、ここでは労働運動としてみた場合、反戦青年委員会運動とはどういうものだったのかということについて提起してみたい。
 ただ、労働運動史、新左翼運動史の本を読んでも、「反戦青年委員会」というのはほんのわずかな行数しか出てこない。例えば、最近でた労働運動史を読んでみたが、「総評を左から揺さぶった鬼っ子」という評価が少し出ていただけである。
 朝日新聞編集委員だった高木正幸氏の『新左翼運動史』もほとんどが学生で、反戦青年委員会は付け足し的にちょっと出ている程度である。しかし、全然ないかといえば70年前後に出された本にはあり、今はほとんど売ってはいない。
 「怒りをうたえ」の会報に何冊か紹介されているが、それ以外の本としては、東大社研の藤田さんが書いた本ぐらいだ。
 そのように反戦青年委員会運動は労働運動史的にみても、あるいは新左翼運動史的にみても表面にはほとんど出てこない。これにはそれなりの理由があると思う。冗談半分に言っていたが「これが反戦青年委員会運動だ」という典型的な運動をつくっているわけではない。
 学生の場合では例えば、全共闘運動で東大闘争、日大闘争が典型的な運動としてある。
 労働組合という形でみた場合、反戦青年委員会は「鬼っ子」だから総評の陰になってしまい、当然、表には出て来ない。
 70年前後、全共闘・反戦・べ平連と言われたが、全共闘では山本義隆や秋田明大などのスターが生まれ、べ平連では小田実というスターがいる。が、反戦青年委員会ではいなかった。
 僕の場合は、たまたま69年から71年にかけて反戦青年委員会の代表の位置にいたという、「たまたま」 いたということであって、何か理由があったわけではない。

反戦青年委員会

 そのように反戟青年委員会は歴史的にはあまり出てこない。しかし、労働運動史的にはそれなりの位置を持っていいのではないかという気がする。
 正式名称は、「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会」で、略称が反戦青年委員会。そのうちいつの間にか正式名称が忘れられ、略称が正式名称的になってしまっていた。
 そもそもは社会党青少年局のイニシアチブでつくられ、総評青対部、社青同の三者の呼びかけで始まった。当時、この三者が社会党・総評ブロックの青年運動の中心組織であった。しかも、この中でヘゲモニー争いがいろいろあり、社会党青少年局は江田派(いわゆる構造改革派)、社青同は社会主義協会派がそれぞれ握っていた。この両者の対立が後に非常にマイナスに作用するという面が出てくる。
 構成団体は主要単産青年部で、各県段階でもほぼ同じつくりである。学生は革マル全学連、三派全学連、自治会共闘の三団体がオブザーバーで参加している。
 日韓闘争に向けて組織がつくられ運動が始まるわけだが、二つの時期に分けられる。つまり、第一期として65年8月〜68年3月までは運動主体が労組青年部が中心であり、政治的にも運動的にも社会党・総評ブロックの枠の中にいた時代と、第二期として県反戦、地区反戦が主体で自主的に始めてしまった時代とに分かれる。その間の68年に問題がある。
 第一期の運動は、日韓条約批准という時だったので当然、その闘争が中心になる。60年安保以降、政治闘争らしい政治闘争はなかった。日韓闘争は五年ぶりの闘争で非常に盛り上がる。当時、「安保のように闘おう」とよく言われたが、そのような闘いにはならなかったが、青年の運動としては非常に大きな盛り上がりになる。
 それにはいくつか理由があると思う。例えば、10月15日に反戦青年委員会は独自の集会・デモを行い、国会議事堂前に座り込む。そのようなことは五年間なかった。その意味では、当時の青年労働者、学生が持っていたエネルギーを解放する場をつくり出したといえるだろう。
 時代的にいえば、政治闘争でも労働運動でも60年代前半はあまりバッとしない時代だった。労働戦線では三池闘争の敗北以降、停滞している時期だった。
 そして、日韓闘争が終わったあと、66年になると一旦停滞する。が、当時の総評は、今の連合とは違って社会党左派が指導部だったこともあるだろうが、ベトナム戦争でハノイ・ハイフォンが爆撃されたらストライキに入るという方針を出す。
 66年6月にハノイ・ハイフォンが爆撃されて、総評は10・21ストライキ、国際反戦デーを設定した。ストライキといっても中身はストライキにはならなかったが、全国的に労働組合レベルでは非常に幅広く取り組まれた。これを契機に反戦青年委員会はもう一回活発に動き出すという状況だったと思う。

米侵略機をベトナムに送るな

 だから65年は日韓闘争だったが、66年以降はベトナム反戦闘争が主要なテーマとして出てきた。
 各県反戦、地区反戦はかなり自主的に動いていた。その中で67年の10・8、あるいは68年の闘争に引き継がれていったという意味で、特に重要視していいのが砂川闘争。
 これは三多摩反戦が中心に呼びかけて2・26、5・26、7・9と積み上げていき、7・9ではかなり大きな集会になっている。この砂川基地拡張反対闘争のスローガンは「この米侵略機をベトナムに送るな」であった。
 これが当時の反戦青年委員会の全体のスローガンでもあった。例えば、先のビデオに出ていた山田弾薬庫の闘争などもそのような感じで闘われた。
 余談になるが、砂川闘争は60年安保に向かう闘いとして歴史的には非常に大きな意味を持った。当時、僕は学生だったが、55年から57年にかけて、56年には全学連の部隊と機動隊が激突した。のちに映画にもなった闘争である。
 これは基地拡張を実際に阻止してしまったという非常に珍しい闘争。閣議決定されたのをくい止めたのは始めてだったし、その後もほとんどない。そういう意味では非常に意義ある闘争で、全学連はこの闘争を闘うことによって60年安保に向かっていった。
 そのような意味で、70年に向かう過程では反戦青年委員会にとっては66年の砂川闘争は、56年の全学連と同じような意義を持った。
 この後、王子野戦病院闘争などいろいろあるが、もう一つ、反戦青年委員会にとって非常に大きな闘争になったのは、68年の三里塚闘争だった。
 66年に三里塚に新国際空港が突然決まって、67年に三派全学連との共闘になった。
 反戦青年委員会が初めて三里塚に登場するのは、68年3・10闘争だった。直前の2・26には三派全学連と反対同盟との共催の集会があり、機動隊とぶつかって戸村委員長が重傷を負うという事態があった。3・10は全国反戦と反対同盟との共催の集会。

三里塚闘争

 当時、僕は宮城県評で総評オルグという肩書を持っていた。宮城から一四〇名ぐらいがバスで三里塚集会に来たが、仙台では考えられない機動隊のすさまじい弾圧だった。一四〇名のうち一〇〇名ぐらいが負傷した。とにかく、片目失明、骨折などぞくぞく負傷者が出た。どういうわけか宮城が反戦青年委員会の最前列に立たされた結果、そのようになってしまった。そのうえ、成田のグランドで総括集会を行っているところを襲われ、そこでまたやられ、二重三重にひどい目にあった。
 その後、反戦青年委員会内部で対立が前面に出て来る。
 一つは、社会党・総評ブロック内の対立がもろに出てきた。
 その前から社青同は反戦青年委員会をやることに消極的で、66年の段階ですでにやらないという方向にいっていた。
 佐藤首相がベトナム訪問をした時(10・18)、学生は羽田に行ったが、労働者の方は総評も社青同も現地闘争をやらないと言っていたために、反戦青年委員会の立場は非常に苦しくなる。それでも、そんなには大きくはない公園で現地集会を行った。
 11・12佐藤訪米の時は、いくら総評がやらないと言っても、全国の反戦青年委員会はやれという要求だった。そこで日比谷野音で集会を行った。
 現地に行くのは総評は関係ないというから、関東の各県反戦がブロックとしてまとまって現地闘争をやるということで、地方から来ている反戦も同調し、現地に向かった。
 すでにそこでも現地闘争をめぐった対立があり、佐世保闘争でもあった。佐世保の場合は総評も現地闘争を組んでいるから、まだいい。
 この時にもめたのは学生の扱い方で、社共共闘では学生は入れないということだったが、反戦青年委員会が学生を入れたということで問題になったが、それほど大したことではなかった。
 しかし、三里塚3・10闘争後の全国代表者会議で対立がもろに表に出た。しかも、反戦青年委員会推進派の内部でも対立するという状況が起きて来る。

社会党内部の対立

 社会党内的対立でいうと、社青同は非常におもしろい方針を取っており、「改憲阻止・反合理化」が今後の労働者の闘争の機軸であるということで、ベトナム反戦、沖縄闘争はどこかに消えてしまった。
 杜青同大会で社会主義協会派の人たちと論争した。今でもそういうことを言う人がいるかもしれないが、「職場で反合理化闘争を闘うことが、ベトナム反戦闘争を闘うことを意味している」という主張だ。理屈にも屁理屈にもならない感じだった。そんなことで、どうしてもベトナム反戦に取り組まない。
 取り組もうとしてきた内部での対立は、街頭派と職場派との対立というものだった。
 街頭に突っ込んでいくことは労働組合の方の規制がかかるから、労働組合青年部として運動しようとする限りでは街頭ではあまりやれない。その対立が、ゲバ棒を持つ、持たないという対立も含め出て来る。
 杜青同と社会党青少年局の対立は、総評青対部も含めて反戦青年委員会に対する事実上の凍結提案が出された。
 総評が実際に凍結を決めるのは一年後の69年2月だが、事実上、68年3月段階以降は中央の反戦青年委員会は機能しなくなる。
 しかし、各県反戦は機能している。もちろん、協会派が中心につくって来たところはすでに機能しなくなっていたところはあるが、一生懸命やっている。
 ところが今度は、学生の方がメチャクチャに分裂している。
 せっかく66年末に三派全学連ができ統一したかと思ったら、67年10・8の時にはすでにわれていて、各派別々の行動をとっている。なぜ対立したかはよく分からない。
 その対立が反戦青年委員会内部にもろに持ち込まれてくる。典型的にそれが出たのは68年6・15東京反戦の集会(日比谷野音)だった。対立の中身はよく分からないが、中核派が演壇占拠し、そこに革マル派がゲバ棒を持って突っ込むということで集会がすっ飛んでしまう。これで東京反戦も機能停止となる。
 68年は東大闘争、日大闘争を中心に学生運動が一番ピークの時だった。
 69年1月に安田講堂が落ち、続いて日大文理学部が落ちるということで、69年になるとどんどん封鎖解除されていった。
 68年は一番大衆性を持って学園闘争なり反戦闘争が闘われた時期であった。その一番重要な時期に、反戦青年委員会は中央でも東京でも機能しなくなる状況に陥る。
 これは主要には、社会党・総評の責任であり、もう一つは新左翼諸派の責任であると思う。
 しかし、実際には各県反戦は、先ほどのビデオの中でみたような山田弾薬庫闘争(69年暮れの闘争)や、それ以前から北九州反戦は山田弾薬庫闘争で突っ込み逮捕者を出したり、大阪では新明和工場に対する闘争が闘われている。
 ベトナム戦争に直接にかかわる生産・輸送に対する闘争は労働者の方がきちんと取り組んでいた。ところが中央が、東京が凍結していて、その闘いが全体として集約されない。
 そのような意味で、反戦青年委員会の運動が非常に広がったにもかかわらず、どこでも統一しようがない状況になった。

停滞から蘇る

 ここで僕の立場を言っておくと、68年当時は本籍は第四インターで、現住所が社会党・総評、総評青対オルグの肩書を持っており、実際は青対というよりは中小企業の運動をしていた。それに杜青同宮城地本副委員長。
 したがって、新左翼の話も、社会党系の話も全部入ってくる。当時、東京の諸君らも含めて仙台でも何度も討論した。この状況をなんとか突破しないと反戦青年委員会はだめになる。70年はやれなくなるので、なんとかしようという討論をした。
 しかし、東京の諸君にいくら聞いてもどうにもならない。何がだめかというと、仙台から提案しているのは、各県反戦が統一せよという要求だった。
 社会党・総評が動けないというのであれば、東京を中心に各県反戦がまとまればいいではないか、と。
 まとまらない理由は、新左翼諸派の対立であった。そこで、これではしょうがないということで東京に出てきた。
 69年12月にちょうど担当していた争議が解決したことと、共産党からオルグ不信任案が県評幹事会に出されていて、幸い否決されたが、へたをしたら罷免されかねないという状況もあったので、このへんで見切ってもいいだろうということで、東京に出てきた。
 そこで何とか反戦青年委員会をまとめようということで、中核派の陶山健一やブンドの松本礼二らに会って協力要請した。
 中核派、ブンド、解放派の三派がOKすれば、本当はまとまるはずだ。
 ところがこの三派が角を突き合っている。解放派については僕が話したのではウンとは言わないだろうということで高見さんに説得を頼んだ。
 60年安保当時、形成された新左翼の労働者の拠点は、長崎造船と大阪中電の二つ。この二つの力を借りようということで長崎と大阪に飛び、それぞれ協力要請をし、OKをとった。
 ようやく3月に宮城県反戟と埼玉県反戦の名前で全国に呼びかけて、全国代表者会議を開いた。
 三十数県集まった。そこで、ともかくまとまっていこうとなったが、なかなかまとまらない。それでもまだ学生とは違って各県反戦はまだ割れてはおらず健在。学生は三派全学連は割れ、全部党派隊列になっている。
 ともかく最初の集会(4月20日沖縄闘争)を行った。この集会では、例えば石川県反戦は中核派と革マル派は隣同士でスクラムを組んでいる。宮城県反戦も中核派、解放派は一緒だった。このように反戦は割れていない。一万人ぐらい集まり、ともかく県反戦独自に全国結集に成功した。ここから、いわば第二期が始まる。
 その時に、宮城を代表して僕が出て、埼玉県反戦から村上明夫君が出て、この二人が代表世話人となった。
 なんで「世話人」なんてへんな名前なのかと最近若い人から聞かれたが、当時、東京反戦が世話人会というのでやっていたので、その名前でいくことにした。
 最初は、ここを県反戦の連絡会議、恒常的な機関にしたいと思ったが、そこまで意見がまとまらない。
 まとまったのは9月の第二回代表者会議で、ようやく恒常的な機関として動こうとなった。
 そのために、69年6・15闘争、べ平連を中心に日比谷野音に七万人が結集し、日比谷公園全体にあふれた大集会が開かれたが、この時は、べ平連は一つだが、学生はバラバラ、反戦青年委員会もバラバラで参加している。実行委員会でのビラでも各県反戦の名前がズラーと並んでいる。
 この集会が終わってからようやく9月の段階で意思統一をして、全国県反戦の名前で反戦青年委員会は統一して動こうということになる。が、実際はこれが統一して動けたのは数カ月。

労働者も党派隊列へ

 71年にかけていろいろな闘争をやるが、隊列としては、69年10・21の時で終わり。というのは、機動隊と激突する状況がずっと続いており、学生も労働者も党派隊列でまとめてしまう。そこで機動隊とぶつけるという格好になるので、県反戦の隊列はつくれない。
 この影響をもろに受け、事実上、大衆性を持った各県反戦、地区反戦という段階は69年で終わったと思う。その意味では、自ら大衆的な結集を不可能にしてしまったといえる。つまり、党派の隊列に入っていない人は、どこにもいけなくなる。

メンバーは五、六万

 運動史的にみれば、だいたいこのようになる。71年6月まで続くが、6月の明治公園での沖縄闘争の集会で、解放派と中核派の大激突があり、これをもって全部終わりとなる。これ以降も反戦青年委員会の名前でやるが、実際はこの段階で終わりといっていいだろう。
 その当時、公安の発表で、全国の反戦青年委員会のメンバーは五、六万ということだった。
 全国結集を行うと一万人以上は集まる。誇大発表ではなく一万人は集まっていた。だいたい発表する数字は倍ぐらいになっているのが多いが、しかし、実際みると全国結集をやれば一万人という数字が必ず出てくる。
 例えば、68年11月16日の闘争では日比谷野音はあふれた。今の野音は前に比べて入らなくなったが、当時は全員座って五、六千人。ところが立って、演壇に座り込んで、それでもあふれる。間違いなく一万人以上集まっている。
 その意味では、全国で五、六万人の青年労働者が反戦青年委員会の旗のもとで動いていた。

ベトナム戦争の時代

 あの当時、なぜあれだけのエネルギーがあったのかを考えてみたい。一つは時代だろうと思う。レジュメには(ベトナム戦争の時代)と書いたが、ベトナムがアメリカ帝国主義と闘っていたことが中心だろうと思う。
 これについてはゲバラが言っている。“二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!”という有名な言葉は、67年ゲバラが「世界人民へのメッセージ」を発表し、その冒頭に出てくる。
 その中で出てくる文章でいえば「この小さい民族が、あの強大なアメリカ帝国主義と戦って孤立している。これを孤立させるな」というのがゲバラのメッセージだった。それがストレートに学生なり青年労働者に受け入れられていく。そういう時代だったと思う。そういう意味では、ゲバラのアピールは今でも記憶に残るものだ。
 先ほどいった砂川闘争で掲げた「この米侵略機をベトナムに送るな!」というのも同じ意味のものとして考えている。ベトナムを中心にして世界的にあっちでもこっちでも民衆の叛乱があり、その一環として日本でも青年労働者、学生か起ち上かっていったといえるだろう。
 もう一つは、日本でいえば、ベトナム戦争と目にみえる形で直結していたのも事実。例えば、67、68年はへんなことがたくさん起きている。
 67年8月には新宿で米軍の燃料輸送をしていたタンクローリー車が貨物列車と激突し炎上する。これで新宿駅は一日中マヒした。
 米軍のファントム戦闘機が九州大学構内に落ちる。沖縄の嘉手納基地でB52が爆発炎上し、民家が大被害受ける。これも68年11月。まさに本当に直結している。
 だからこそ、直接的にそれに対する闘争が、学生だけでなく青年労働者、市民を含めて盛り上がった。
 もう一つ、労働者の立場でいうと、この時期は高度成長の典型的な時代。50年代後半から日本経済は高度成長に入り、56年の経済自書が「もはや戦後ではない」と有名な言葉を書いている。
 つまり55年の段階で、戦前の生産水準を超えた。その後ずっと高度成長時代に入って、神武景気、岩戸景気、そしてイザナギ景気となる。イザナギ景気は60年代全部にわたる。
 この高度成長の中で労働者にとってはどうなるかというと、民間大企業が典型だが、合理化と直結している。合理化と新しい労務管理が職場に入ってくる。QC運動や小集団の組織が資本の側からかけられてくるということで、従来とかなり変わった状況がこの時代に生まれている。
 しかも職場で資本の側に労働者が直接組織されている過程で、民間大企業の労働組合がほとんどだめになる。
 60年安保以前と以後でものすごくはっきりしている。例えば、鉄鋼労連。56年の砂川闘争の時に、日本鋼管の労働者は学生部隊と一緒に機動隊とぶつかっている。その日本鋼管が60年安保が終わった後は労働組合として完全に機能しなくなる。
 労働組合が全部だめになったかというとそうではない。が、いわゆる労使協調というよりは労使一体型のような労働組合が民間大企業は押さえていく。したがって労働運動の分野では中心が公労協になっていく。
 もちろん賃上げなどは進んでいるが、65年に同盟が結成され、いわゆるIMF・JC(今、金属労協)がつくられ、67年に民間労働者部門では同盟が総評を上回る。つまり労使一体型の方が多数になってしまっている。
 そのような状況の中だから、職場での疎外感が非常に強かっただろうと思う。それが青年労働者が街頭に出てくる一つの理由になった。
 そこでは労働組合は有効に反撃できない。そのくせ統制だけは効かせようとする。それに対する反発が非常に強かっただろうと思う。

街頭に出た労働者

 反戦青年委員会の運動を振り返ってみて、今からみて労働運動と反戦青年委員会との関係で考えてみたい。
 青年労働者運動といったが、従来の青年労働者運動とは明らかに違っている。それまでの青年労働者運動とは、基本的に全部労組青年部であった。したがって、活動の場も企業内組合の枠の中で行っている。
 反戦青年委員会の場合は、出発点は確かに労組青年部から出発するが、途中から個人加盟の地区反戦あるいは職場反戦をつくろうという方針が出され、これによって一気に青年部の枠を超えてしまう。
 そして労組青年部として闘争の場に出た時でも、学生と一緒にやっているケースが多いので、どうしても学生に引っ張られる。佐世保闘争などはその典型である。
 総評は学生との行動を断ち切ろうとするわけだが、反戦青年委員会の労働者からみたら、それはけしからんとなり、集会会場にも学生を入れる。
 その意味では、労組青年部という形でしかなかった青年労働者の運動が、反戦青年委員会という新しい形を得て、それまでとは違った運動になっていくというのが、一つの特徴である。
 二つ目は、闘いの場が変わったことである。
 労働組合だから職場で闘うことが常識で、学生と一緒に街頭でゲバ棒を持って闘うなどということば考えられないことだった。
 60年代はこの常識が壊れ、街頭の政治闘争、現地の政治闘争へとなる。これは従来の青年労働者の闘いとまったく違ったことだ。
 三つ目としては、世界的にさまざまな叛乱、民衆の闘争が起きている中で、例えばアメリカの黒人闘争などと直接の連帯感を持って行動していたことは、60年安保闘争とまったく違ったということを実感した。
 それまでのいわゆる戦後の平和と民主主義の意識とは異なったレベルでの意識だろうと思う。そういう意味でも政治的な質がかなり変わってきた。
 ただ、それまでの青年労働者の運動とまったく違った形で登場してくることによって、実際には労働組合との関係では非常に大きな問題をつくり出してしまう。
 例えば、68年10・21新宿騒乱罪の時までは、街頭に出ることば労働者のエネルギーを解放する場であった。
 69年に入り安田講堂が落とされて以降は、完全に権力の壁にぶつかる。
 職場ではすでに資本の壁にぶつかっている。しかももう一つ、労働組合の壁もある。その状況の中で、青年労働者のエネルギーを労働運動としてどう発展させるのかをかなり真剣に考えなければならなかった。

ヤジと怒号の春闘討論集会

 そこで70年2月に春闘討論集会を行った。これは労働運動として反戦青年委員会を今後どうするかということで開いた。その限りでは新左翼諸派もそのような意識があった。
 しかし、残念ながら、ビデオでも分かったと思うが、八派の大演説会であり、討論などどこにも成立しない。
 ビデオでは全体集会の風景だったが、それ以外に各産別の分科会も行ったが、そこでもヤジと怒号。どこの産別の分科会にいっても議論は成立しない。
 つまり、新左翼の各党派にとっては、反戦青年委員会というものは、あるいは労働運動とは、いわば勢力拡大のための場でしかなかった。これは何派であれ同じだろうと思う。
 労働組合は改良、つまり経済闘争のためにつくられた組織である。ところが当時、反戦青年委員会のメンバーも、あるいはその指導部である新左翼諸派も同じであるが、「改良」という言葉を使うことを非常に嫌い、「改良」と言ったとたんに「改良主義者」となってしまう。「社民」といって軽蔑の対象でしかない。
 ところが労働組合で改良の闘争をやらなかったら労働組合の意味はない。政治団体ではないのだから。そのことをどのくらい皆が理解していたかと思うと、ほとんど理解してはいなかった。残念ながら、指導部も含めてそうであった。一番ひどい例として言っておくと、この70年の討論集会に出た方針の中で、ML派が出したのが「押しかけ春闘」であった。これはなんて表現したらいいか分からない。「どこかの工場に外から反戦青年委員会が旗を持って押しかけてストライキをさせてしまう」というんだそうだ。間違っていたらごめんなさい。とにかく僕はそのように理解していた。
 これなどは典型的に労働組合の「ろ」の字も知らない方針だ。ところが、それをまともに受け止める労働者がいる。
 中核派の例でいうと、70年だったと思うが陶山論文が出た。これは労働組合運動に反戦労働者を取り組ませるという内容の論文だったと思う。しかし、陶山本人に言わせると「これぐらい評判の悪かった論文はない」ということだった。
 それぐらい経済闘争、改良の闘争は聞いただけでもいやだというふうになっていた。まして指導部までがそうだったらどうにもならない。
 だから、せっかく持っていたエネルギーが現にある労働組合という労働者の組織の中でほとんど活かされないままに雲散霧消していったと言っていいだろう。
 これは、新左翼諸派の責任だけではなく、最初に言ったように、総評や社会党から切り捨てられるわけだから、切り捨てられたという側面と新左翼諸派が自らそれを望んでいったという両方があり、両者の責任だろうと思うっ
 ただ、総評の側からみた時、じつは総評はこれによってマイナスを負ったと思う。つまり民間企業ではすでに完全に右派に制圧されており、一番戦闘性を持っていた労働者を自ら切り捨てた。
 また社会党も同じで右派を選んだ。それがやっぱり総評解散までつながっていったとみていいと思う。数万の活動家が切り捨てられるわけだから。
 確かに労働運動の中に残って頑張って活動して、それなりの成果も挙げているが、しかし、それを切り捨てたということば総評にとってはものすごくマイナスだった。


実現しなかった統一

 反戦青年委員会は「創意・自立・統一」というスローガンを合言葉として早くから打ち出していた。創意と自立は実現できただろうと思う。
 新しい運動をつくり出したわけだし、自らの運動を自らが主体となってやっている運動であった。動員費をもらってやる運動とは違い、自立した運動として発展したといえる。
 実現しなかったのは、統一。残念ながら分裂、四分五裂。これは最初からだった。
 総評・社会党という大きな傘があり、その傘の効き目があるうちはまだ統一できている。が、その傘の中でいつのまにか新左翼が大きくなってきた時に、もう分裂してしまうというのが事実。
 この当時、常に総評が集会をやる時にもめるのが学生の扱い。その次に反戦も同じ扱いを受ける。
 その時、共産党が必ず「トロツキスト学生排除」という方針を出している。ゴチャゴチャしているうちに総評がそれを受け入れてしまう。

異分子を排した統一の論理

 共産党の論理は何も難しく考える必要はない。それは異分子を排除した統一だと思う。だけど、同じことを新左翼もやっている。何にも変わっていない。もし、共産党の論理とは違うというのであれば、僕はそれを聞きたい。実際は何も変わらない。
 労働組合の場合などは典型的にそうだが、大衆運動で団結とか統一とかいろいろ言われるが、実質それぞれ異質なものがたくさんいるから統一して敵にあたろうということであって、異質なものを排除した統一など本来ない。ところが異質な部分を排除しようというのだから、これは村八分と変わらない。
 「統一」とか「共同行動」とかは同化したり純化したりすることではない。ところが新左翼諸派はみんな純化したり同化することを要求したと思う。自派のもとに全部純化しようとした。
 これは共産党の論理と同じ。これが大衆運動の中で起こされると、大衆運動は全部ぶっ壊れる。
 「統一戦線」などと何も難しいことは言わなくてもいい。共同して行動ができるだけ。
 さっき言ったように、69年の秋までは、革マル派も中核派も同じ隊列を組んでいる。なんでやれたのか。労働組合の中では一緒だからである。ところが、労働組合の枠を外れた途端にゲバになる。これではどうにもならない。このことが反戦青年委員会運動をぶち壊したものと考えざるを得ない。
 反戦青年委員会にはいろんな敵がある。例えば共産党から攻撃される、あるいは総評ともケンカをする。しかし、権力とぶつかる時ぐらい、せめて一緒にやれないかというのが、当時のまとめ役ばかりやっていた僕の実感だ。
 春闘討論集会で、荒畑寒村さんを呼んだのは目玉で、二千何人くらい入り九段会館は超満員だった。
 僕は基調報告をやるが、これだけ右から左まで主張が違うと、文章の書きようがない。とにかく、俺の責任でやるといってやった。ヤジは割合と少なかったが、その後、いろいろな人が発言することになったが、各派八派全部発言を要求。とにかく八人演壇に並べるしかない。そうしないとまとまらない。なんで八人の演説を聞かなくてはならないかと思う。
 問題は何を代表しているのかということだ。こちらは党派を代表して演説してほしいわけではない。労働組合に対して我々はどう取り組むのかということを目的とした集会のわけだから、現に労働組合の中で闘っている発言を聞きたい。しかし、そうはならない、とにかく八人全部並べる。
 そうするとヤジと怒号で誰も聞いていない。こんなことをやっていて大衆運動が発展するわけはない。


直接の契機は内ゲバだが

 そういう意味では、反戦青年委員会も全共闘もぶち壊れていった直接の契機は内ゲバだが、内ゲバは現象面であって、そうではなく大衆運動を発展させようとする論理を新左翼諸派は持っていたのかどうかということだ。僕は持ってはいなかったと思う。
 中核派の文章の中に大衆団体の指導の系列化が出ていた。指導の系列化だったらまだいいかという気もしないではないが、実際は大衆団体を党の下に全部結集させる。 これが一番典型的に出たのが全学連。革マル派全学連、中核全学連、ブンド全学連……いったいこれは何だとなる。
 全学連とは大衆団体だが、その上に革マルと付いた途端に大衆団体ではなくなる。反戦青年委員会も同じ。それでつぶれたと言えるだろう。
 もちろん同情すべき面はある。実際に街頭に出て激突する場合、党派隊列でないともたないという面がある。ただ、だからといって大衆が結集できないように党派隊列をつくるということは間違いだろう。指導部であれば、大衆自身の発展をどう保証するかということを考えざるを得ない。

反戦青年委から全労活へ

 いずれにしろ、そのような形で進み、71年で終わる。ただし統一した反戦青年委員会としてはそこで終わるわけだが、その活動が一切消えたわけではない。労働戦線の中に引き継がれている。
一つは71年から全国労組活動者会議(全労活)ができる。70年の春闘討論集会が終わった後、これではだめだということになり、何人かの人に相談した。反戦では直接やれないから、労働組合に取り組む別な仕掛けをつくらなければならないということになった。
 それが全労活。第一回の会議の時は、三〇歳以上、労働組合役員に限るという条件付き。社会党の労働組合左派活動家も多くいたので、その人たちも含め全労活を始めた。
 ただ残念ながら路線対立があった。74、75年頃、「少数派労働組合主義」という路線だ。つまり、総評はもうだめだ、そこから割って少数分裂組合でやることこそと言わんばかりの方針だった。これをめぐって全面対立となり、その結果は当然、衰退の道へといく。
 その衰退していく過程で、なんとか全国の反戦の活動家を結集したいと考えついたのが、「労働情報」。
 いま私は労働情報の事務局長ということになっているが、ともかく全国機関誌を出して、党派を超えてつなごうということになった。
 そもそも「労働情報」とは、かつて高野実氏が出していて、その名前を引き継ぐのと同時に、旧高野派の幹部、全港湾の兼田委員長、全金の松尾委員長、あるいはその後、総評議長になった全駐労の市川さん、東京地評事務局長だった芳賀さん、大阪総評の平垣さんらの協力を得て始めた。
 同時に77年から大阪集会を一〇年続け、集会は87年から東京で開くようになった。
 「労働情報」は健在だが、労戦再編の過程で活動家がだいぶ右転回し、ひと頃よりも部数は半分以下に減っている。
 その意味では、中核派、革マル派など内ゲバをやっている諸君を除いて、まじめに労働組合の中で活動してきた諸君というのは、全労活から「労働情報」というところで今なおやっていると言っていいだろう。
 その一つの成果が、「連合」そして共産党系の「全労連」に対抗してつくられた「全労協」である。
 国労が中心に座っているが、右翼労戦統一というところで「総評」を解散させないために、かつてケンカ相手であった太田、岩井の両氏と「労働情報」がかついできた市川さんと三人が代表になり、岩井さんが中心で「労研センター」をつくった。
 最終的に「総評」は解散に追い込まれるが、89年に全労協へと引き継がれる。「連合」にも「全労連」にもいかない労働組合が結集して、そこから新しい労働運動を始めようということで足掛かりとなっている。
 これは、社会主義協会の岩井派と「労働情報」系が組んでつくったと理解していただいていいと思う。いま、前田さんはその常任幹事で、僕は長期政策委員会事務局でやっている。


反戦青年委員会は死んではいない

 ともかく反戦青年委員会という形で始まった65年からの運動、まもなく30年近くになるが、それは死んだわけではない。メチャクチャにされながらも、それぞれの職場で闘ってきた活動家たちがお互いに連絡を取りながらやってこれた。
 問題はこれから先、八〇〇万人という圧倒的な連合に対して、日本の労働者階級全体をどう左へ向けていくのか、これからが本格的な我々の課題だと思う。そういう意味では、先ほど各党派のことを言ったが、我々自身、日本の労働運動全体について、こういう方針で進むべきだ、こういう新しい労働運動でやるべきだという中身を十分提起できるわけではない。しかし、それをやれなければ、やはり連合にやられてしまうことになる。
 現実に国鉄では一〇四七名の解雇者を抱えている。全労協は全力を挙げて取り組んでいるし、あるいは三つに割れた全国一般の一番小さいグループだが、そこでの中小の闘争など、さまざまな芽はあるだろう。
 その意味では、そこでどれだけやれるのか。それによって最終的に反戦青年委員会の成果といえるものが出てくるかどうかということになると思う。
(こんの もとむ・「労働情報」)
(「怒りをうたえ」第10号 1994年11月1日)

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今野求さんを偲んで 三浦 暉

「怒りをうたえ」上映実行委員会の若き友人から、“現代史講座”の会報「怒りをうたえ」のバックナンバーをお借りしたところ、10号に今野さんの文章が掲載されており、改めて読みました。これは、貴重な文献だと思いホームページに掲載しました。1993年12月4日専修大学神田校舎で行われた“'90年代フォーラム”の分科会、「怒りをうたえ」上映実行委員会主催現代史講座「反戦青年委員会運動の批判的検証と継承」の講演記録に氏自身が筆を入れられたものでした。発行が一年近くずれているのは、現代史講座が約一年で終焉をむかえ9号を1994年1月1日に発行して活動を停止していた為と、にもかかわらず今野さんの文章を何らかの形でのこそうと私一人で10号を編集し、当時模索舎にもちこんだものだった。それをどうしたわけか私自身は手元に残さず、半ばあきらめていた。それを若き友人が保存しておられると聞き今回の掲示となったものです。
(「怒りをうたえ」上映実行委員会)

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大阪、反戦派の闘い 前田裕晤 

 今野さんの話を聞いていて、私とは運動の出発点か似ているようで似ていないし、反戦青年委員会運動も出発点が若干違っている。
 私は、大阪中央電報局で1950年から働いてきて去年、定年で辞めた。中央電報局に入ったのは、逓信講習所(のちに電気通信学園と改名)の普通電信科でモールス信号をやっていた時にレッドパージがあった。4月に入学したが10月に最後のレッドパージがあった。ということで全国でレッドパージが行われ、電々の職場でも、大阪中央電報局でもやられた。

大阪中電の労働運動

 大阪中央電報局は戦後、電々の中でも最初の頃に全逓労働組合ができたところ。最初の委員長が村上ひろしという男で、後に共産党の委員長になる。
 その人たち約二五〇名ぐらいが追放されたために、本来はモールス信号の一級をとらないと卒業できないのだが、六カ月で二級で卒業した。二級は一分間で六〇〜八〇までの間で、一級は九〇以上。その二級の技能の人間をレッドパージの後の補充に我々を放り込んだ状態の時に入った。
 そういう職場の中で、また民同(全逓民主化同盟)の発生の地でもあり、職場に入ると民主化同盟と昔の全逓の二つが相争っている職場環境の中に入ったために、若い人間は否応なしに政治の波の中に巻き込まれるという状態があった。
 当時、私は一六歳だった。そして、51年から52年にかけて職場の組織が統一されていく。これは共産党の、後に総評になっていく全電通に統一委員会として頑張っておった人たちが合流していくという過程があって、労働組合が統一される。その段階から職場委員、支部の役員を続けたというのが、私の運動の出発だった。
 ところが、役員選挙の時に、これほどはっきりした選挙というのはないと思うが、必ず支持政党を明らかにして立候補する。だから執行委員に出るというのは、自分の支持政党が当時、GHQの関係で非合法になっていようと、共産党というようにはっきり書くのか、社会党と書くのか、同盟と書くのか、この三つで職場選挙をする。
 当時の右派と左派の対立は何かというと、右派は「議会を通じて労働者の解放をかちとる」、左派は「暴力革命」「プロレタリア独裁」だと言う。これが民同であろうと含めて左右の分かれ方の違いであった。
 意外なことかも知れないが、今の連合の山岸は、52年に富山から転勤してうちの職場に来たという男だから、その彼らも含めて左派と右派の分かれ方の違いはその程度だった。今から考えると、ちょっと意外な感じがするが、そういう状態だった。
 その当時からいうと、一番弱くなった段階から労働運動を強化していくというのは、レッドパージ以後の若い人たちが中心になってやっていくが、ご多分にもれず当時の青年はほとんど共産党に入っていく。
 私もそうだった。ただし、党員であることがバレたら職場は解雇されるから、まったくマル秘で、非合法の党活動を行うということだった。
 当時、私たちは中学校を卒業するか、高校一年を中退して養成所に入る。私は高校一年にちょっと事件を起こしたために入ったが、職場に入ってからもう一度高校二年から行き直す。
 たまたま私の職場が信託通信というところで、相手の局は舞鶴の引き揚げ局や気象庁など特定の所宛に通信するところだった。
 舞鶴にまだ引き揚げ船が入ってきており、その人たちは自宅に電報を打っても構わない、無料で「イマ、ツイタ」という電報を打つ。ところが、電報は字数がそろっていないとその人の責任になる。例えば二〇字ある本文が二五字になるともうだめである。
 引き揚げ者の電報でそういうのがあると、もうどうしようもない。受付が済んでしまったら相手の人は帰ってしまうから。そういう場合にはしょうがないから、電報の後に内緒で「イロハ」を入れたり「ナベ、カマ、フタ」などを入れて字数を合わせる。そうでもしないと電報が打てないというほどの職場だった。もうこういう職人気質の人はいないが。
 そういう中で、レッドパージにはされなかったけれども、今の民同の組合を快く思っていないという人がいる。
 私たちが電報を貼るノリは、テープに印字されて出てくるが、それをニカワを溶いた茶色のノリで電報の台紙に貼っていく。まーるい大きな柱の上の方に四角の形で茶色紙を貼ったようなものが残っている。何回塗っても、その形は出てくる。
 ある時、古い人が「おまえ、これ何か知っているか。じつはここに解雇通知の氏名が書いたやつを、裏にノリをつけて貼ったものだ。そのノリがニカワのために、いくら経っても、いくら白く塗っても、ノリが消えない」という。
 その時は、柱の周囲にタイプライターでバリケードを築いて、レッドパージをされた連中が野球のバットなどを持ち込んで頑張ったんだ。最初のうちは手を出せなかったが、途中から監視員や民同の組合員が乱闘しながら、彼らを外に放り出した。その跡が残っている。
 おれらは自分の友だちが首を切られたのを黙ってみておったが、この恨みだけは忘れないと言って、そのノリの跡を教えてくれた。「だから、おまえらは、今、組合だという奴にものを言ってもだめだぞ」というような言い方をされた。
 その当時、彼らが何をしていたか分からないが、そういう言い方の中で、活動に入っていくという状態だった。
 だから、私たちは、全電通の組合員でありながら、全電通の中では常に反対派だった。なおかつ、にもかかわらず、青年部、青年行動隊はどこの組合でもあったが、今から思うと、この組織が50年代の後半にかけて、すべての闘争とか住民とのかかわりを含めてやっていた。
 例えば、淀川製鋼が鉄鋼合理化でやられる、尼鋼も鉄鋼合理化でやられる、そういう時に暴力団が押しかけてきて、中でストライキをやっている労働者に襲いかかっているという連絡が入ると、総評の方から突然、大型トラックが二台も三台も来る。トラックの上にはたる木が載っていて、動員がかかると直ちに、私の職場は当時組合員は二四〇〇人おり、常時一五〇〇人ほど働いていたから、五〇〜六〇人の動員はすぐきく。
 そうすると、青年行動隊の腕章をはめて、仕事中でも関係なく、組合の指令だということで、トラックの荷台に乗ってこん棒を持ちながら、淀川製鋼の乱闘現場に押しかけて行くという共闘があった。

60年安保闘争

 私はそういう経緯の中で、60年の安保闘争の時にたまたま大阪の代表団として、青年行動隊を連れて東京に来て、羽田に突っ込んだたため共産党も除名されてしまうし、大阪中電から来ていた七名のうち六名が共産党だったが、全部除名されてしまう。
 そういう運動をやってきた中で、青年部なり労働組合の果たす役割は何かとなると、私たちの位置づけとしては階級闘争の中で、労働組合は大衆的に組織された部隊であり、イデオロギー的に組織された部隊ではない。
 しかし、組織された部隊である以上、我々がかちとったものは一般の中小なり市民なりに広がっていくものであるという、そういう先駆的役割を果たすのが、労働者部隊なのだと思い込んでいた。
 だから、社会的にそれだけの影響力を与えることができるのだと思っておった。ところが、それをしているうちに総評の方が変わってくる。ベトナム反戦が始まってくる。そういう段階の時に我々は何をしたらいいかを考えた。
 大阪に一号線と二号線の起点になる梅田新地という交差点があるが、ある人がベトコン(当時皆そう言っていた)の旗をデザインしたものを紙切れに書いてきて、「これがよくテレビに出ているベトコンの旗だ。これを持って座り込んでカンパを集めたらどうだ」という話になった。
 日韓闘争が終わった直後、66年頃から例の赤と青地に星のついたきれいな旗をつくって「ベトナム人民支援戦線」をつくり勝手に座り始めた。
 おもしろかったことだが、青年部が中心になり座り込んでいるうちに、大阪府学連の学生や婦人民主クラブの人、関西主婦連の人達が応援に来てくれたりお金をカンパしてくれたりして、常時、四〜五人座り込んでいるという状態だった。
 たまたまその座り込んでいる現場を見に来たのが、山本マキコというおばさん(今年7月メキシコで亡くなられたようだが)がいて、この人は海軍大臣山本権兵衛の孫娘で、嘘か本当か知らなかったが、キューバのカストロ首相と友だちだというふれこみで、ちょうどゲバラの問題があった時で、「あんたら、そういうことをやってるんだったら、そういう動きのことを知っているか」ということだったが、残念ながら我々は知らなかった。
 そういうことから67年だと思うが、ゲバラが死んだということを含めて、日本で初めてだったと思うが、ゲバラ追悼集会をキューバ大使館の後援も含めて座り込んだ連中がやった経験がある。

関西地区反戦会議

 その頃、砂川闘争をやっている連中の中から、「反戦青年委員会という運動が始まったぞ」というのが関西にも伝わってきた。私は当時、大阪総評青年部の役員をやっていたから、「東京はなんで別にそんなものをつくるんかいな。なんで青年部として運動できないんか」というのが我々の認識だった。
 ところが、王子野戦病院の闘争に動員をかけているうちに、行って来た連中が皆、感化を受けてきて、「東京では青年部よりも反戦青年委員会の方がようやっている。職場の連中も出て来ているぜ」という話だった。私たちは、「それは逆にいうと、労働運動の青年部の活動が十分能力を果たせない代わりになっているのではないか」という捉え方だった。
 そこでいつも論議になったのは、そういう形の運動をやった時にあとあとの運動の責任を誰がとるのだという発想をかなり根強く持っていた。
 ところがやっと分かったことだが、それまでは私たちの運動は、今でいうと大企業内の労働運動中心だった。電通、市職、国労、全逓という連中だった。
 ところが、だんだん職場の締め付け等で出て来れなくなるのと同時に、いつの間にか交通公社の労働者が出て来たり、大阪旭屋の本屋の労働者が出て来たり、広告労働者や、あるいは中小の人たちが出て来た。
 そうすると労働組合でもないとなり、結果的に反戦青年委員会のように課題別にやらなくてはいけないということで、つくった。
 大阪の場合、そのように大阪反戦は各労働組合の青年部が中心となってつくった組織と、それ以外に各地域で生まれてきた地区反戦があり、当初は関西地区反戦青年会議という形で結集していく。
 初めは党派的な形はなかった。やっていくうちに、あれは何派、これは何派ということになった。関西には、関西ブンドと称せられる活動家が非常に多かったので、いつの間にか関西地区反戦は反戦青年委員会になってしまった経緯がある。
 もう一つ、労働組合のデモでも、反戦青年委員会のデモでも労働者部隊はヘルメットはかぶっていなかった。労働組合の部隊で唯一ヘルメットをかぶっていたのは炭労だけで、キャップのついた帽子をかぶっていただけだ。
 労働者部隊が初めてヘルメットをかぶったのは、佐世保闘争のエンタープライズ入港反対闘争をした時だったっ
 傑作だったのは、今でこそ党派の色になっているが、当時はヘルメット自体探すのは大変だったから、極端のことでいうと電々の部隊は配達員のヘルメットをかぶったり、工事現場の安全帽をかぶっていた。
 その後、中電マッセンが69年にあるか、これは.党派の分派闘争との絡みかあるので、ここでの議題ではどうなのかという気がする。
 その当時、べ平連の運動との絡みで彼らと論議をしたことがあるが、基本的にはべ平連も反戦青年委員会運動も時代の状況の中で一定の意味を持ったのは多かったし、この間放映されたベトナム脱走兵の「帰ってきた二五年」を見ていて思ったが、こういう言い方をすると「守旧派」だと思われるかもしれないが、ここの一部の中には労働運動の基本的役割を果たさなかったから、こういう形の運動か輩出してくる原因があったのではないかという気がする。
 だから、自分が反戦青年委員会運動をやりながら常に、この運動の形態はこれだけでいいのかということを、かなりいろいろな場で話してきた。私は初代の関西地区反戦の委員長をやっていたので、そういう問いかけをした。
 本来だったら、こういう形でなくて運動かできる形で多くの共闘戦線をつくるべきではないか、という問題の立て方を、逆説的に出した。
 今になってみると、教条主義的なことを言ったという気がする。
 このような闘争が進行して来る時に、私たちの職場の中でいうと、極端にいうと、61年の羽田に突っ込んだ時、そのメンバーから共産党から除名される人間が出てくる。そういう人たちの中から将来の展望を失って自殺した人間も出てくるし、それから反戦青年委員会運動をやっていて行き詰まって失踪してしまう人間が出てくる。
 そのように労働者か悩んだり苦しんだりしてやってくるわけだから、いつかはどこかで今のような連立政権ができたような状態で、続いてきた運動の積み重ねが、こんなに簡単に切られていいのかどうかということに対する不満が、私の場合、非常に残っている。
 今日の「反戦青年委員会運動の批判的検証と継承」ということだが、突然来て、このような言い方は悪いが、そのことに自分の存在までかけてやれた一つの時代というものが、今の時代だったらどうなるだろうか、ということを対比して考えざるを得ない。
 「やけに腹の立つ今日」という感じがする。
(まえだ ゆうご・「労働情報」)

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反戦青年委員会の歴史

「社研」No.23 1969年10月1日 より

反戦青年委員会の歴史
                                        阿木  良

目次
一、はじめに
二、前 史
三、全国反戦の結成と日韓闘争(以上今号)
四、砂川闘争
五、羽田闘争と反戦反安保闘争の高揚
六、反戦派の決起(四・二八〜)
七、十一月決戦と反戦派労働運動

一、はじめに

 11月佐藤訪米を前に進められつつある、愛知・ロジャース会談は、鳴物入りでブルジョアマスコミによって宣伝された「七二年返還、核抜き、本土なみ」のキャッチフレーズがまったく欺瞞的なものでしかなかったことを暴露しつつある。
 佐藤内閣は、12月解散、1月総選挙のレールをしくことによって四選に自己の命運をかけた。その第一の、又、最も重要な課題である沖縄問題の解決は、その欺瞞的ポーズのはしばしから一層の黒い断面をのぞかせ日本帝国主義の苦悶を露呈しつつある。
 「朝日新聞」九月一六日付がつたえるところによれば、日本政府は、韓国、台湾はもちろんのこと米帝の「ベトナム出撃」を全面拒否せぬ方向で合意にたっしたことを明らかにした。
 11月佐藤訪米のもたらすものが安保条約の実質的大改定にあり、本土の沖縄化、沖縄=韓国=台湾を結ぶ帝国主義の反動的生命線死守のアジア核安保にあることは明らかであろう。
 国際通貨危機と米帝のベトナム侵略の敗北的事態を軸とする帝国主義世界支配体制の根底的動揺、中ソ国境紛争に見られるスターリン主義の分解と抗争は戦後支配体制(ヤルタ体制)の終局を告げつつある。
 ベトナム、朝鮮に示されるアジアの全般的危機は、帝国主義を一層追いつめることによって、又、同時にその必死の反動化を露骨に促進している。沖縄をキーストーンとする帝国主義のアジア支配の再編成のかなめとしての日米同盟の強化を打ち破り、アジアを反帝国主義、反スターリン主義世界革命の根拠地とすることが今こそ我々に課せられている。
 今日の日本帝国主義は、戦後二十数年にわたる自民党独裁の中で、最大の危機を迎えようとしている。大学治安立法の強行採決は、11月決戦に向けた政府=ブルジョアジーの先制攻撃であるとともにその弱さの表現である。
 広島大学における第二の安田とも言うべき英雄的闘争を先頭とする全国学園の反撃は、九・五全国全共闘結成集会の三万数千の大給集として革命的学生運動の勇姿を全人民に示した。
 又、早大における革マル派の全員検挙、関東学院大をはじめとする赤軍派拠点に対する襲撃、全学連書記長水谷君に対する凶器準備結集罪の適用等々、味岡君に対する四・二八破防法の適用等々、国家権力のなりふり構わぬ弾圧のエスカレートは、政府=ブルジョアジーが沖縄・安保問題に行きづまりをきたしておりただ暴力装置=警察力(機動隊出動と破防法適用)と自衛隊の治安出動のみによってしか現在の危機を乗り切れないことを示している。
 10月非常時体制を迎える我々の反戦青年委員会は今日いかなる地点に立っているのであろうか。
 一昨年の十・八羽田闘争以降、常に全学連とともに進撃してきた反戦青年委員会は、四・二八沖縄奪還大闘争において端緒的に武装デモンストレーションを勝ちとった。四・二八に対する破防法の適用が東京反戦世話人の藤原氏に向けられたことも決して偶然ではない。反戦青年委員会がそのような弾圧にも関らず「労働者の十・八に」をスローガンに断固として闘いを切りひらいたことは、反戦青年委員会が11月決戦の最も重要な一翼を任う軍団として階級闘争の最先端に登場したことを意味するだろう。
 「朝日新聞」九月十六日付は「一面」において反戦青年委の「改組・出発」で社会党・総評が合意に達したことを報じ、それに隣り合せるようにして「反戦青年委が団結」し全関東反戦総決起集会が佐藤首相訪米実力阻止で一大結集をしたことが報じられている。反戦派労働運動に対する既成左翼の無力感をその紙面から感じとることは容易であろう。
 九・一五全関東五千五百名の総結集は、一方で杜青同解放派(樋口反戦)の脱落があったとはいえ、11月決戦に向けての全国反戦の結成への決定的な前進を示した。
 九月十九日、全国から結集した反戦派労働者は「安保粉砕・沖縄斗争勝利・11月佐藤訪米実力阻止」の旗の下全国県反戦連合を結成、反戦解体の策動を粉砕し、さらなる大進撃を行うことを宣言した。
 革命的共産主義者を中核とした反戦派労働運動は社民内反戦派(協会太田派をのぞく)をもまきこみ杜共を乗りこえる運動を全国全共闘、あるいはべ平連とともに行おうとしている。十・一〇の闘いは「誰が」七十年安保闘争を任うのかを公然と明らかにするだろう。
 日本共産党は早くも「首相訪米に反対しない」ことを宣言、議会主義、民族排外主義への無残な転落を内外にあきらかにするとともに公然たる武装反革命として登場しようとしている。
 日本社会党もまた「訪米阻止はしない」ことを明らかにし、又、総評(太田派、日共、右派の醜悪三派連合)の反戦破壊策動と結ぶことによって内部危機をも一層深めている。
 社会党、総評の「改組、出発」の内容が、三派、革マルの排除と個人加盟は中央団体(社会党・総評・杜青同)の承認するものに限ると言ったメチャクチャなものである以上、我々はこのような反戦青年委員会の解体策動を粉砕し「佐藤訪米実力阻止」11月決戦の勝利に向かって圧倒的な前進を勝ちとるだろう。
 尚、この論文は、世田谷社研の夏期合宿に使ったレジュメを元にして書く予定であるが闘争に追われ一挙掲載の予定がどうしても不可能になってしまい、又資料にあたる時間がほとんど無く不充分なまま書き進めねばならず、心が重いしだいです。
 何とぞご容赦のほど……


二、前史

 六〇年安保闘争の敗北は、社共既成指導部を乗りこえんと最も激しく闘った全学連=共産同を解体させ、真の労働者前衛党の創設の課題を我々の課題として残した。
 五六年の「ハンガリア革命」の衝撃を契機として開始された日本反スターリニズム運動は、五七年の革共同の結成、その第一次、第二次分裂による「反帝国主義・反スターリン主義」を公然とかかげた全国委員会による新たな前衛党の創設に向かっての闘いは、又トロツキー・ドグマチズム(4トロ派)と学連新党として形成された共産同の反発との闘いでもあった。
 革命的共産主義者同盟全国委員会は、安保闘争のさなかマルクス主義学生同盟を結成、共産同の崩壊によって全学連のヘゲモニーを手中にし、スターリニスト学生運動からの防衛と革命的労働運動との連帯、「反帝・反スタ」を打ちだした。
 一方、安保闘争の敗北の余燼のおさまらぬ六一年マルクス主義青年労働者同盟が結成された。
 六〇年安保・三池の敗北による労働運動の右傾化は、池田帝国主義内閣の高度成長政策下において政策転換斗争=構造改革が全てを席捲するかに突き進んだ。
 しかしながら炭労の闘いの余りに無残な改良主義的本質を暴露したところの政策転換闘争の敗北と資本の体制的合理化攻撃の強化は下部労働者の批判を真向から受けざるをえなかった。
 又、学生運動における大管法、米ソ核実験に対する斗争、原潜寄航阻止斗争の爆発、ベトナム反戦闘争の高揚は青年労働者の深部における闘いと結合し一定の交流を作りだすことに成功した。
 六四年四・一七ストライキの高揚は、日共スターリニストのスト破りと総評民同の裏切りによって一敗地にまみれるとともに「青年よハッスルせよ」(太田)をまに受けて挫折した多くの青年労働者を一層革命的共産主義運動の方向へと引きよせた。
 同六四年八月二日、杜共と訣別した革命的共産主義者同盟全国委員会を中心とした八派が大阪に結集、独自の反戦集会とデモンストレーションが勝ちとられ、不死鳥のごとく大衆の前に登場したのである。


三、全国反戦の結成と日韓闘争

 政策転換闘争の敗北は、社会党内の構改派の影響力を弱める結果をもたらし、とりわけ杜青同内部における凋落はいちぢるしく、東京地本に引きつづき社青同中央が社民内三派(協会・解放・四トロ)にヘゲモニーが移行することによって社民内部の流動化が促進された。
 六五年の夏、社会党構改派(江田派)は熱海会議において新たな青年運動の母体を形成することを確認した。
 江田派の影響力の最も強かった社会党青少年局を中心にして「反戦青年委員会」は提起されていった。
 六〇年以降の日共=民青の水ぶくれ的拡大と青年労働者への浸透と動員力(基地めぐりとおまつり)に恐怖を感じていた社民及び総評民同は内に種々な面惑をかかえながら独自の大衆組織結成へと向かった。
 青年戦線における構改派ヘゲモニーの喪失を突破するという江田派の思惑はかくして社民総体のものとなったのである。
 六五年八月三一日、「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会」(略称「反戦青年委員会」)が社会党青少年局、総評青対部、社青同の三者の呼びかけで各単産青年部、諸団体を結集して結成された。
 又、都学連(三派)、革マル等の学生団休はオブザーバーとして参加が認められ実質的に青学共闘の道を大胆に切りひらいた。
 中央における結成に引きつづき、都道府県さらには地区といった形で「反戦青年委員会」は、日韓闘争の高揚の中を急速に拡大した。
 組織線のされ方は、中央に見合うように社会党、社青同、地区労が幹事団体になるような形式をとりつつも、日本型社民の特質であるところの下へ行けばいくほど党活動が無いといった逆ピラミッド構成のため地区段階における反戦青年委員会は、革命的左翼諸派のヘゲモニーが強くなる。
 今日の総評、あるいは社会党の反戦青年委員会をめぐる論議、および取りあつかいがあたかも自己の下部組織をあつかうようにされているのはその出生にあることは今迄見てきた通りである。
(困ったことにはそうした社民の意識に乗っかってたえずキャップになりたがり勝手に「樋口反戦」などデッチあげられるのには閉口である。)又、反戦青年委員会の現在を作りだしてきたものについて社民反戦派(高見氏)などは青年労働者の自然成長性の中に見る。あるいはブルジョア論評では全学連との共闘による影響力の浸透に見ている。しかし今日の反戦派労働運動の革命性は、社民の高見氏やブルジョアジーからは決して見えない、否見ようとしない革命的共産主義運動の介入によってのみなしとげられた。それは確かに全学連の介入という形体をも含めてではあるが、より重要なことは安保闘争以後の労働運動深部における党のための闘争の成果が反戦青年委によってそのエネルギーを解放されたことにある。
 二節で若干触れているが、即ち六〇年以降における共産同の解体による革共同の学生運動におけるヘゲモニーの掌握とマル青労同の結成が決定的に今日の反戦派労働運動をつかむポイントである。(新生プンド諸派はほとんど労働者の組織実体はなかった。)
 新しい前衛党の建設を目指して、公務員労働者(国労・動労・全逓・……)を中心に既成指導部のしめつけに抗しっつ職場拠点形成の闘いが行われた。米ソ核実験反対の決議を勝ちとり、あるいは原潜闘争の展開、坐りこみといった形で青学の共闘も端緒的に勝ちとられていた。
 かくして革命的共産主義運動は、社民の提起した反戦青年委員会に原則的かつ柔軟な統一戦線戦術をもって関わることによって、反戦青年委をゆるぎない階級闘争の前衛部隊とした。

 もちろん、このことは反戦青年委員会がベトナム戦争に反対し日韓条約の批准に反対する全ての団体と個人に開放され、「自立・創意・統一」を組織原則とするユニークさを軽視することは出来ない。
 否、むしろ今日、社会党、総評の反戦青年委の解体策動を打ち破るために我々はたえずその意義を深く認識する必要があろう。
 全国反戦の結成に引きつづき十月四日、東京反戦が結成された。十月五日、反戦青年委員会に結集した青年労働者は学生とともに固いスクラムのもと国会デモを勝ちとった。
 同日行われた社共一日共闘の闘いを鮮やかに乗りこえ、労働者大衆に新たな階級闘争の部隊の登場をつげた。
 十月一五日のベトナム反戦国際統一デーでは、反戦青年委員会は全国各地から一万七千名の大動員を勝ちとり、学生と連帯して激しいジグザグデモを行い国会前坐り込み闘争を断固として闘いとった。日韓闘争は十・六、十一・九とさらに高揚を示し、反戦青年委員会は全学連とともにその牽引者としての位置を確立した。
 しかし日韓闘争は、社会党、共産党のズプズブの議会主義、あるいは竹島をめぐる民族排外主義(社会党)、「ますます米帝に従属しその肩がわりをする」(共産党)といった反米民族主義に歪曲され、十一月十二日の衆議院における条約批准の強行採決によって敗北した。
 十二月八日、反戦青年委員会は「日韓条約粉砕・佐藤内閣打倒討論集会」を行いながら日韓闘争の敗北の総括と展望をつうだしえぬままに春闘反合闘争へとなしくずしに没入することによって停滞していった。


反戦青年委員会の一時的停滞

 日韓闘争の敗北以降一時的に反戦青年委員会をめぐる問題について若干見ておこうと考える。
 第一の点については総評、社会党がすでに当時も反戦青年委に手を焼いて徐々に引きあげたことが大きく作用しており、まだ革命的翼が、今日のように強力でなくそれをうめることが出来なかった。
 又、当時の主流派であった社青同が、そうした社民内の空気を反映し事実上の任務放棄を行ったことにある。社青同中央をにぎる協会派は、反戦青年委員会の否定的総括にもとづき「改憲阻止青年会議」という自己の綱領的立場を押しつけた、個人加盟方式の活動者組織を提起することによってまず破算した。
 又、社青同解放派は協会派との対立を深めつつも、そのサンディカリズム的本質からコンミューン、ソヴィエトの萌芽なる行動委員会(自派のみしか結集しえぬ)への移行へと進んだ。
 唯一、社民内では構改派が反戦青年委員会を推進する立場をとった(埼玉県反戦の村上等).
 一方、革命的翼においては、革共同=マル青労同が社民との統一行動、統一戦線を押し進めるために組合等の団体加盟と個人加盟という組織原則をふまえながら推進していく立場をとり、ブンドの地区個人加盟方式との論争を生んだ。
(未完)
(付録)
(一九六五年)
 八月三〇日、全国反戦青年委員会が結成された。「社研」(世田谷社会科学研究会)はただちに世田谷反戦青年委員会の結成と参加を決定した。我々は一方でレーニンの「国家と革命」の学習を行ないつつ、日韓間題のより一層の把握を行うべく討論学習を深めた。十月二十七日「日韓条約批准阻止決起集会」(世田谷地区)を闘いとった。集会後、区内で初めての戦闘的デモンストレーションを展開した。
 十一月四日、区内の十数団体の代表三十名を結集し世田谷反戦を正式に発足させるとともに五日以降の連日のデモに東京地区反戦部隊の主要な担い手として闘い抜いた。「闘争速報」を九回にわたり連日のように労働組合に入れた。
 ──中略──
 世田谷反戦の組織化に献身的な努力を傾けることによって社研の組織の存在を一層鮮明にし、又、新たな会員を迎えるにいたった。
(「社研」No.11P14より六六年三月五日号)

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