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はじめまして、どこかでお顔を見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんけれども、池田祥子と言います。
ここで何か喋べろ、という話を三浦さんの方からお電話いただいて、ちょっと困ったなあと言ったんですけれども、一応その時代のなかでヽ その周辺に生きて、うろうろして、それなりに共感しながら生きてきた人間として当時考えたことや感じたこと、そして今思っていることを問題提起として討論の素材にしていただければと思い、とっても厚かましいんですけれどもお引き受けした次第です。
今、「怒りをうたえ」のほんの一寸だけをみて、ああいう風にカメラっていうのは上から人間が集まっているのを鳥瞰的にみるということで、人間の数とか熱気というものを改めて感じて、やっぱりそれなりに凄い時代だったなあと、今更ながらに思いました。
わたしは1961年、安保闘争が終わった後に東京に出てきて、大学の学生になりました。丁度「安後世代」といわれた世代です。1961年に大学に入った時に、聞く話聞く話が全部60年安保のときいかに皆大変だったか、凄く動いたかということで、大学の寮に入ったんですけれども、60年安保たけなわの頃、樺美智子さんが亡くなった前後、その寮の寮生が殆どいなくなってみんなデモに行った、デモも凄かったという話でした。私は当時高三で北九州の小倉でしたけれども、テレビが家にも入っていた時代で、国会の周辺に集まっている凄い数の人間をみて、それでも安保が自然成立してしまうというこの落差と無力感とそれでも人間のエネルギーに何か凄く感動した思いがあります。でも実際に経験しないまま東京に来て聞かされた話が60年安保の凄さという、人間の熱気みたいなものを聞かされて、で、そんな事聞かされても後に来た世代の人間というのは、もうその頃は政治の時代ではなく、どちらかといえば所得倍増計画という池田首相のもとで経済成長に突入していた時代で、学生たちもわりと自分本位で、いま考えるとちょっと今の状況に似た所もあるのかもしれません。
そういう時代のなかで、私は非常に政治的には音痴だったし、デモなんか怖いというのがあったし、大学に入った時にまず正門の前でビラを配られるのを見たときに「日本共産党○○大学細胞」、もっとも細胞、大学細胞というのはずい分時代的な用語ですが、そのビラが配られるのを見て怖いというか、ぎょっとしたのを覚えています。
そういう風に政治に音痴だった私なんですが、デモに行きはじめたのがやはり日韓間争、政暴法、大管法などがきっかけで、自治会がいろんなビラを流したり集会するのに関わったり、たまたlま入ったサークルが政治的な色彩が強いサークルだったんで、その辺の人間のつながりや関わりでデモに行きはじめました。
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