70年ウーマンリブからの糾弾とフェミニズム運動 池田祥子


政治音痴だった私

 はじめまして、どこかでお顔を見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんけれども、池田祥子と言います。
 ここで何か喋べろ、という話を三浦さんの方からお電話いただいて、ちょっと困ったなあと言ったんですけれども、一応その時代のなかでヽ その周辺に生きて、うろうろして、それなりに共感しながら生きてきた人間として当時考えたことや感じたこと、そして今思っていることを問題提起として討論の素材にしていただければと思い、とっても厚かましいんですけれどもお引き受けした次第です。
 今、「怒りをうたえ」のほんの一寸だけをみて、ああいう風にカメラっていうのは上から人間が集まっているのを鳥瞰的にみるということで、人間の数とか熱気というものを改めて感じて、やっぱりそれなりに凄い時代だったなあと、今更ながらに思いました。
 わたしは1961年、安保闘争が終わった後に東京に出てきて、大学の学生になりました。丁度「安後世代」といわれた世代です。1961年に大学に入った時に、聞く話聞く話が全部60年安保のときいかに皆大変だったか、凄く動いたかということで、大学の寮に入ったんですけれども、60年安保たけなわの頃、樺美智子さんが亡くなった前後、その寮の寮生が殆どいなくなってみんなデモに行った、デモも凄かったという話でした。私は当時高三で北九州の小倉でしたけれども、テレビが家にも入っていた時代で、国会の周辺に集まっている凄い数の人間をみて、それでも安保が自然成立してしまうというこの落差と無力感とそれでも人間のエネルギーに何か凄く感動した思いがあります。でも実際に経験しないまま東京に来て聞かされた話が60年安保の凄さという、人間の熱気みたいなものを聞かされて、で、そんな事聞かされても後に来た世代の人間というのは、もうその頃は政治の時代ではなく、どちらかといえば所得倍増計画という池田首相のもとで経済成長に突入していた時代で、学生たちもわりと自分本位で、いま考えるとちょっと今の状況に似た所もあるのかもしれません。
 そういう時代のなかで、私は非常に政治的には音痴だったし、デモなんか怖いというのがあったし、大学に入った時にまず正門の前でビラを配られるのを見たときに「日本共産党○○大学細胞」、もっとも細胞、大学細胞というのはずい分時代的な用語ですが、そのビラが配られるのを見て怖いというか、ぎょっとしたのを覚えています。
 そういう風に政治に音痴だった私なんですが、デモに行きはじめたのがやはり日韓間争、政暴法、大管法などがきっかけで、自治会がいろんなビラを流したり集会するのに関わったり、たまたlま入ったサークルが政治的な色彩が強いサークルだったんで、その辺の人間のつながりや関わりでデモに行きはじめました。


60年代の学生運動

 60年安保の後の60年代前半、東京オリンピックの前後ですか、そのころのデモというのは本当にショポイという言い方をすると変ですが、東京全部でも二〇〇人集まればいい位で、機動隊のほうが凄く多くて機動隊が道を作っている間を殴られたり蹴られたりしながらショポショボとデモした時代が続いていました。
 それが大管法の辺り、それから早稲田の学費値上げ反対の辺りから少しづつデモに行くと数が増えて、何年だったかきちんと調べてきませんでしたけれども、大管法の最後の時はそれでも東京都で学生が三〇〇〇人くらい集まって、人がたくさん集まるということがこんなにも頼りになることか、頼もしいことかということで凄く感激したのを覚えています。
 そういう時代を通って、60年代の後半、いわゆる全共闘時代といわれる時代の学生たちの立ち上がりとかエネルギー、盛り上がりというのは、人間の一つの時代の流れ、そのなかに乗った時の人間の凄さみたいなものを感じて、誰がどう指導して、誰がどうこうアジったからということよりも、やはりあるその時代が持っていた、普遍的といったら変ですけれど、爆発する必然性があったのかなあと今思っています。
 したがって、そういう時代を通ってきちゃうと、なんかわりと後ろ向きになって、今の時代、私の子供たちも上が大学院で二番目は途中ふらふらしている大学生がいるし、高校生は高校生で何やら遊び呆けていますし、中学生もいるんですけれども、そういう子供たちをみているとやっぱりイライラするんです。何かもうちょっと性根を入れて何かしろ! っていいたくなるようなそういう世代に属している人間なんだけれど、まあ、昔みたいにっていうと変ですが、動いてほしいとか社会のことを考えてほしいという思いが先走ってて、ついつい、まあいつもこれは繰り返されるのかもしれませんが、今の若い者はダメだあみたいなため息をついたり、時代に絶望したりしかねない自分がいるんです。
 けれど、考えてみれば人間のエネルギーとか人間の思いとか、動きなんていうものは、いつどういうふうな形で起こってくるか分らないし、今の時代は今の時代なりに重い課題を背負っているんだろうなあと思いなおして、絶望しきらないで、どこかに人間への希望を持ち続けたいなあと思って生きている人間です。
 何かちょっと前置きが長くなってしまいましたが、そういうわけで私は時代からすると68、69年というのは大学を卒業して小学校の教師になりたくてずっと教育学部に行っていたんですけれど、教師は嫌だと非常に勝手に思って、教育制度そのものを問題にしたいなあとか教育行政学を勉強したいと思った。
 それからそのころグラムシ、今も時々思い出されて名前が挙がりますけれども、グラムシ研究会などにちょっと顔を出したりしてこれも勝手なんですけれども有機的知識人という社会の進歩や革命に役立つ知識、あるいはインテリゲンチャの役割などをつまみ食いした。
 そういうことで自分を正当化して現場の教師になるよりは、というか、ならないで勉強したいなあと、もう少し教育行政の変革に役立つような理論を勉強したいなあという、非常にそのころ若さの傲慢さとでもいえるのか判りませんけれども、大学院に行っていた時期です。
 そういう意味で全共闘世代から見ると歳を取っています。今年でちょうど50歳で、半世紀丸々生きたことになるんですけれども、教育学部の大学院に籍をおいて大学闘争に関わったんですけれども、女だったこともあるし、歳を取っていた大学院生だったこともあって、セクトに入っていなかったということで、大学闘争の流れから見れば非常に外側をうろうろしていた人間です。
 それから60年の1月18、19日が終わったあと、私はお腹に子供ができて、1970年3月30日はちょうど「よど号」が乗っ取られたその日なんですけれども東大病院で出産しました。
 そういう事もあって、いわゆる日本のウーマンリブの動きが激しくなった時期、私は家にこもって子育てをしていたということもあって、肝心の全共闘運動にしても、女たちの動きにしても直接その渦の中に入ってやっていたという人間ではないんです。けれどもそういう動きに全部共感しながらうろうろしていた人間なんです。
 今日頼まれたテーマは全共闘運動そのものをもう一度歴史的に位置づけたり、振り返ったりするという大きなテーマなんですけれども、その中からでてきた女たちの運動、リブあるいはフェミニズムという運動がいったい何なのか、と言うことを問題提起してほしいと言われたんです。


政治・教育批判

 主なテーマはそちらなんですが、ちょっと前半に、私自身が周辺にいて何を考えていたかということを話させていただきます。
 最初に政治・教育批判ということです。
 私も大学の学生のときに、サークルを通してある政治セクトに関わって、そして自治会に入ったりしていました。その時にどのセクトを選ぶかということは、自分の大学でたまたま多数派だったりサークルの多数派だったり、自分の親しい人があるセクトだったりという繋がりで、たまたま入っていくんです。しかし、一旦あるセクトに入ってしまうと他のセクトとの権力闘争の凄さ、その渦中にいて反対するセクトに対して非常に悪辣なといえば悪辣なんですけれども、そういう事を全部やりました。
 自治会主催の集会、学生集会なども、全部根回しして発言者も全部決めて司会もこちら側の味方の人をつけるとか、議長もそういうふうにするとか、反対派の人が手を挙げても指さないで無視するとか、そういうとにかく権力が絡むということはそういう事もやってしまうということを身にしみて感じたし、自分もそういう事をやってきたんですね。
 一番最初に、東大安田講堂に医学部の学生達が立てこもったのです。それが何だというふうに初めは無関心だったんですけれども、その時に言われていたことは、あいつらは医学部の自治会の決定に反して、背いて、極々少数で行動を起こした。あれは非民主的で決定違反だし、少数の跳ね上がりだ、という意見が飛び交っていたんです。
 その時に、そういう言説のおかしさというか、納得できないものを私は感じました。世の中のいろんなことというのは多数派に属していると見えないことが多いんです。色々な問題が起きるというのはいつだって少数部分に問題が起きてくるんじゃないか、少数だから少数だけで問題提起したり、行動したり意思表示したりするのを、それを封じ込めていたのでは、いつまで経っても問題は見えて来ないはずだ。
 だから、例え少数であって決定違反であっても、何をいいたいのかまず聞かなくてはわからないし、私には何が問題なのか見えていないけれども、まず言い分を聞こうじゃないかみたいな形で私の属していた自治会で問題提起をしたんだけれども、それが圧倒的な拍手でかき消されてその時にいわゆる多数決主義としてまかり通ってきた戦後民主主義の横暴さ、権力主義みたいなものを身にしみて感じて、私自身もこちらが権力を取ってきたときにはやってきたことなんですけれども、とにかく多数をでっち上げて決定しこれは自治会決定だ、それに従わない人間たちは糾弾するというか批判していくということを自分もしてきたのに、その時にはじめて逆にその論理で押さえ込まれるということの問題を感じました。
 私がたまたま関わっていたセクトが構造改革派なんていってもみんなにはよく判らないかもしれませんが、そのセクトの中で考えていたことは、数の上ではこの社会は労働者階級、階級なんていう言葉が使われていました。その労働者階級が多数なんだ、その多数の人間がいるのにごく一部の資本家階級が労働者階級を搾取している、こういう社会はおかしいんだということで多数が多数として当然の権利を主張して多数派による権力を確立すれば、もっといい社会ができるんだという非常に単純ですけれどもそんな事を考えていました。権力を支える多数という信仰は私のなかにもあったのです。
 しかし、その医学部問題や学生たちの動きをみているなかで、必ずしも多数派に転化していかない問題、少数が少数としてしか存在しない問題とか矛盾というものもこの世のなかにはあるだろう、そういうものをどう考えていけばよいかというときに民主主義の多数決主義ではあまりにも解決しえないことなのではないかということを考え始めました。
 どんなに少数派であろうと嫌なものは嫌、納得できないものは納得できない、そして力を持たない弱者というのは、いつだってそうなんですけれども、代案をだせとかそれに変わる政策をだせとか、権力を持っている側は常にそういうんですけれどもそのトータルな代案なんかはだせない。だが、取り合えずいま、やられようとしている事に対して、私たちは嫌だとか、困るとか、やってほしくないとか、止めてほしいとかいう拒否権とか不服従とか、それは大事なんじゃないか。
 決められた規律は守りましょうと私達は習ってきました。つまり、理性ある人間としては多数で決められたことは止むを得ないんだ、取り合えず従わないと民主主義が守れないと思わされてきたんですが、そうでもないというと変だけど、そうじゃないやり方だって保証されなくてはならないのかな、ということを漠然と思いだしたんです。
 したがって、闘うというのは多数、もちろん人間が多数集まると凄く心強くなるし、ある種興奮するし頼もしいと思うけれども、闘うというのはぎりぎり最後一人だって拒否するというか不服従、あるいは逃避といってしまってもいいかと思いますが、昔むかしの農村の百姓たちの逃散というのも一つの逃げであって、不服従の一つの現れかなあと思うんだけれど、力を持たない人間の闘い方というのはぎりぎりそんな形で確保していいのではないかということを考え始めました。
 そういう点で、全共闘運動というのは必ずしも自治会決定で自治会代表で集まっていくというのではなくて、一人でも本当にどこからでも参加できて、それはべ平連でもそうだったんですけれど、そういう運動のあり方にどこか共感、というものを持っていたのかもしれません。
 ただ、私が所属していた教育学部というのはこれはどこの大学でも面白いんですが、教育というのはやはり、何でしょう、ロマン、ロマンじゃないか。やはり、なんか教育学部というのは総体として全共闘には馴染まない学部でした。
 なぜか分からないけれど、教育学部と法学部というのはわりと馴染みが薄い。例外ももちろんありますけれど、それはなにか社会とか教育とかというものをやはりある理想的な形態に秩序付けられていくのをよしとする、そういう価値観や癖とかそういう事を嫌だど思わない人間が、集まっているのかな。そこはよく分からないんですけれど、まあ、教育学部のなかでは非常に少数派でしたし、最終的にはもう教育学部にいられなくなって、教育学部というか教育そのものに半分以上脱落していってしまった人間なんです。


教師の権力性

 それともう一つ。全共闘運動というのは、もう一つ大学を頂点とする今の日本の教育制度のあり方に対する批判だったと思います。
 私なども教育学部に入って、よい教師になりたいと思った人間なんですけども、どんなにいい教師であろうとも結局社会のなかの教育、学校教育というのは適応ですよね。今の社会の経済的な問題、あるいは文化的な問題、文化やそういうものに適応して今の社会が良しとしている価値観、そして今の社会が要求している能力というものをいち早く先取りして自分の主体的な中身に取り込んでいく。
 非常に大衆化されていた日大と、エリートとされていた東大の、この二つの軸を中心にしてそういう単純な社会的な再生産のメカニズムのなかにある学校制度そのものを、そうではない学校制度が欲しいというものだったと思います。
 では具体的にどうすればよいか、というのは全然イメージとしてはないんだけれども、とにかく今のまま一生懸命学校にいって自分の内的な要求に合っているか、あっていないかに関わらず、取り合えずすべての教科をいい点をとって、そしていい大学に入ってなるべくいい社会的な主体として生きていこうとする、そういう自分自身を含めて学校が持っている最先端機能というのも、やっぱり批判を受けざるをえなかったし。
 そこで、一生懸命教師として有能な教師として優しい教師として色々な生徒に依怙贔屓もなく平等に関われる教師になろうと思っても、そこでもやはり今の学校に有利な能力を持つことを養成せざるを得ないという教師の置かれている状況みたいな問題が、問題提起としてはだされていたと思います。
 そこで多くの教師たちも悩んで、それこそ自らの権力性を問うなんていう問いを立てて、ただひたすら真面目に進路指導して、勉強を教えていくような教師ではない教師を目指していこうとしたのです。
 でも、その先が非常に難しい。どこだって権力性はある。私なんかもそうですけど、子供を持って家庭を築いてしまったら、親なんて正に一つの権力で、子供と今、争っていることは全部私のほうが秩序維持なんだ。子供はその秩序を壊してアナーキーだし遊びたい放題遊ぶというのに対して、やはりこちらは権力的な立場に立たざるをえないなと思っているんです。
 どんなところにいたって、権力というのは当然あるし、秩序というのはあるわけだけど、自分が権力的な立場に立つことの難しさ、学生だったり子供だったりしてた時代というのは単純なんですね。批判すればよかったんです。
 自分が片方権力を持ちながらなおかつ対象化して問いながら生きていく事のしんどさと難しさというのも、今、私は短大の教師をしていますし、親ですし、そういう立場でも感じ続けています。


全共闘運動と女たち

 さて、本題なんですけど、全共闘運動とリブやフェミニズムの女たちの問題。それは政治やセクトに絡む権力や暴力や思想と同じようにこれまでの左翼といわれる思想集団のなかにずっとあり続けた問題が70年、60年代の終わりから70年にかけて初めて問題提起されたのかもしれません。
 私自身も、60年の初めに大学に入ったんですけど、政治にかかっわていくときも例に違わずサークルがきっかけだったんですけど、やはり恋人がきっかけなんですね。
 たまたま好きになった男性がいろいろな左翼の文献を読んでいて、政治運動していて恋愛がらみでオルグされて洗脳され、そしてデモにいったり政治にかかっわていくと本当にパターン化しているんです。
 だいたいその当時どこを見ても男の政治闘士がいて恋人がいてリーベと呼んでいたんだけど、いきなりある日突然ビラまきを始める友達がいるんです。どうしたのどうしたのと言ったら、あの人のリーベになったんだってよ、みんなに囁かれ、結局誰とくっつくかということで女の人の思想性までが変わっていく、そういうのが嘘ではなくてかなり一般的なパターンでありました。
 男が指導して女が感化されたり洗脳されたりしていくのも、元々の出会いや出発点からしてもそういう関係でした。
 そこがやはり、議論とか言論とか口が達者だとか全部そうですけど左翼的な文献をいかに読んでいるか、知識の量、理論的な問題を言い合ったりするときに弁舌が立つ、こっちが上手くいえなかったりして、口ごっもたりしてよくわかんないけれども、違うとか黙ってしまうとか、そういうことが一つ客観的な差ですね。
 女は賢くない、どんなに大学出ていようとも同じでしたね。関係の作り方としては同じでした。
 そういう関係の作り方やあり方が、問題だったんでしょうし、全共闘運動に関わった時に思ったのは、機動隊に向かって石を投げるときに、今は全部舗装されてレンガはなくなりましたけど、本郷のあの辺りは全部、四角い正方形の石がずっとあってそれをほじくってハンマーで割って、こういう石のかけらにして運ぶんです。
 武器ですけれども、武器の調達というのはほとんど全部、女性たちがやりました。
 私も一、二度石を叩いたり、割ったり、運んだりしたのですが、やりながらやはり戦争中の日本の女たちを思ったし、そういう動き方の歴史的な習性の問題性みたいなものを感じながらやったんですけれども。
 それと、一番自分で本当に意識したのは、安田講堂の前で集会があったとき、とにかく人間が生きていて、運動していても人間の生理というのはあるし、戦争中でももちろん食事、食料団というのも大変だっただろうし、従軍慰安婦なんてセックスの問題であって、そういうあらゆる問題が出てきたんだろうなと思うんです。
 戦いのさなかでも人間は、生理かかかえておなかがすいて、おなかがすいたら戦さができないって、結局集会のときに、女の人たちが全部、もちろん持参でおにぎりなんてみんな持ってくるんですけど、安田講堂のガスの所でお米を炊いておにぎりを作ってそれに総動員されてしまって、女たちみんな集まっておにぎりを作って、その時に五目ごはんを作れということになって、そこでにんじんをきざみだしたりしたんですけど、まさに銃後の女というか戦時下の焚き出しそのものだというのを実感として感じました。
 機動隊が入ってくるなんて聞いたときも、女たちが救護班といって、すぐ赤チンと包帯とバンドエイドをもって右往左往するのを義務づけられちゃって、それまでの長い歴史のなかで戦争なんていうときに、いつも女達はこういうふうに動いてきたのかなと思ったんですけれど、そういうところに女と男の歴史的な関係性そのものが今なお全共闘運動のなかにも存在していた。
 私も含めて、女たちだって初めのころは当たり前のようにして、全員集まれって女の人がおにぎりせっせと作ったり、救護班といったらとにかく怪我した人を連れてきて赤チンつけたり包帯巻いたりしているとなにかやっているような気になっていたんです。そういうあたりでなにかクエスチョンマークがだんだん膨らんできたんです。
 それと、私自身まったく個人的なんですけれど一緒になったパートナーが労働組合の専従で仕事をしていました。
 そのころ、今でこそ労働運動なんていうのもそんなに革命的だとか労働運動をしていれば世の中が変わるって思われていなくなっているけれども、そのころは学生達動をやったあとはかなりの人間が労働連動に入って、労働運動の延長上に世の中を変える革命が起こる、そういうような幻想がありました。私自身も中小企業の個人加盟の労働組合を作ったり、解雇されている人の解雇撤回の活動をしている彼の仕事に対して期待をもっていましたし、そういう仕事に邁進する彼に拍手を送っていたし、そういう仕事をすることを評価していたんです。
 労働組合の専従なんて24時間まるまる仕事をして中小企業の組織化だったりするとだいたい夜の9時か10時くらいから話し合いが始まって、ビラ作りとかストをうつとか深夜になるし、早朝だしほとんど帰ってこない日が続いたり、帰ってきても夜中だったり朝はずっと寝ているとかそういう仕事をずっと続けていて、私自身はそれをよしとしていたんです。


ウーマンリブからの糾弾

 秋山洋子さんも本のなかに書いています。お茶の水駅のところでビラが配られていた。そのビラが非常に衝撃的でいまだにそのビラはファイルしているって。
 私もたまたま偶然だったんですけれど、丸の内線のお茶の水駅を降りて山手線のお茶の水駅に行こうとしたときに女の人たちがビラをまいていた。そのビラが本当に衝撃的でした。
 そのころビラっていうのはしょっちゅうもらっているから、ビラに全部目を通してそれに感激するとか心を動かされるなんて事はほとんどないですね。もらって捨ててしまうか、チラッと目を通すみたいな、ビラにそういう意味での力はあるとは思っていなかったのに本当にガーンっときたんです。
 つまり、「女たちは便所じゃない!」「男たちの便所じゃない!」と非常に過激な言葉で書かれていたんですけれど、左翼の運動のなかに根強く残る女と男の歴史的な関係でそれに男たちも当然ながら鈍感なんだけれど、女たちも鈍感じゃないかと、同じこと繰り返しているのではないか。
 日頃、権力に刃向かっている男だけれど結局は最終的には女のもとで甘えて、癒されている。そういうもののなかに関係性がはめ込まれている。それ自身がインチキじゃないか、おかしいんじゃないか、もうちょっと男たちも一人で取り合えずしっかり生きて欲しいし、女たちは取り合えず、まず自分で生きてその上での関係を持っていこうじゃないか、そういう問題提起でした。
 私なんかは実際にはほとんど動けませんでしたけれど、仕事と二人の子育てで家のなかにいただけだったんですけれど、よく覚えています。
 ここにいます松田さんの社会評論社から出た『女、エロス』なんて本も、一生懸命読んだし、田中美津さん達の動きに対してもとても関心があったし、政治とか国家権力に向けて闘うといっておきながら足元で、ある女たちを自分の都合のいいように使っている、こういう関係性を認めている問題性をここでもきちんと問題にしなくてはならないということを、非常に共感しながら現在に至っています。
 ただ、それが今、フェミニズムという形で大学のなかで認知され公認されて学問になって、女の視点からいろんな学問の問い返しといわれているんですけれど、ただ、そこにまた忍び込むというか、そのなかに入ってくる知識主義というのかな、全共闘が問うていた大学制度、教育制度そのものの問題提起というものとは女たちの問題が上手くかみ合っていないなと思っています。
 それと今、フェミニズムといってもいろいろな立場がありますし、いまだに男を許していない女たちの集団もあります。
 それから男と女といつも括ってしまうんだけれど、それもまた一つの社会通念、私なんかも批判されたんですけれど、ヘテロというセクシュアリティが全部じゃないですよって。
 社会のなかでそうではない人間だってたくさんいるので、女と女、男と男の関わりのセクシャリティの問題、それを今までの女の問題はネグレクトしてきてしまっているという問題もあります。
 今の社会では、結果としては女性が子供を生むことを、どちらかというと邪魔に考えているように世の中が動いていますし、そこから子供を生むこと育てることを抱え込むということは、何らかのちょっとした介護も含めて、手助けもお互いに支えあって生きているのが、人間だっていうことは通じると思うんです。
 子供の問題というのは、「障害」を持った人達の生きていく状態ですとか、年をとって生きていく人達の問題とつながることです。
 高齢化社会とは、福祉だ福祉だといわれているんですけれども、男女って性別に振り分けることなく、男女を含めて社会そのものが子供とか「障害」を持った人、年をとった人を含めてそういう人達をふくめてどういう風に抱え込んで、その人たちとの関わりのなかで生きていけるのか、すべての人間が、そういう人を抱え込みながらそれで自分も勿論お互いにそういう自分も介護されながら生きていく人間の一人なんだけど、そういう生き合っていく視点というのがうまく女の問題とかみ合っていないかな、女の問題が女の問題だけで止まっているのかなと感じています。
 だからそういう意味でいえば、30年もの長きに渡って、未だに宿題をこなしていないと思うんだけれども、出されている問題はいまにつながっているなとしみじみ感じています。
 ちょっと話がまとまりませんでしたけれど、そんな事を考えながら今現在に至っています。ありがとうございました。
                (いけださちこ)
(「怒りをうたえ」第9号 1994年1月1日)




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