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ゾルゲの著作集の翻訳にかかられている勝部元氏よりおたよりをいただきました。
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拝復
『ゾルゲ「新帝国主義論」の意義と現代資本主義分析』大変ありがとうごさいました。興味深く読ませていただきました。そこで二、三感想を、1、訳者の不破倫三という人の本名が朝日新聞の益田豊彦氏であることは、石堂さんがたびたび指摘されているのに(石堂清倫「異端の視点」勁草書房一三三ページ)いまだに不明、不明といわれていることに奇異に感じました。
2、上田兄弟とは、一九五〇年代にわりと親しくつき合っていましたので、不破哲三というペンネームの由来も大体見当がつきます。
もちろんブハーリンでは具合が悪いので、スターリン(鉄の人)になぞらえて哲三としたものでしょう。不破哲三名で最初に書いたものは「前衛」の論文で五一年綱領の理論的基礎について論じたものです。
まったく間違ったスターリン綱領を合理化するため苦心した論文です。しかしそれでさえ当時の主流から修正主義として大分やられたようです。
3、ゾルゲ新帝国主義論の背景には、石堂さんがさきの本で指摘されているようにKPDの戦略論争があり「民族ポリシェヴイズム」──ラデック、タールハイマーのシュラーゲター路線があります。
わたくしも石堂さんにいわれて「民族ポリシェヴイズム」については調べて、社会学論集という桃山学院大学社会学部の機関誌にまとめました。のちに「現代世界の政治現状」(勁草書房)という論文集の中に公表しています。
またイヴァール・リスナーという、ドイツ国防軍情報部長カナリスの情報マンがゾルゲと同時代に日本にいて、ゾルゲと親交を結び、手記を残していますので、それをまとめました。同封してお送りします。
目下は「ゾルゲ、尾崎と中国」の研究には欠くことの出来ない「ソーニアの報告」にとりかかっています。この女性は中国とスイス(ラドー・グループ)でソ連の情報機関の連絡係をつとめた女性で、アイノ・クーシネンと並んでゾルゲ研究には絶対欠かせない重要な人物です。
ゾルゲ著作集の翻訳は石堂さんにいわれて構想をつくりました。
──略──
「五〇周年記念」には間に合いません。
残念です。
先ずはとりあえず御礼まで。
十月五日
勝部 元
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リスナーとゾルゲ
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勝部 元
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イヴァール・リスナーは、リヒアルト・ゾルゲと極めてよく似た活動をしている。ともに外国生まれのドイツ人であり、ほぼ同時期に日本を中心に、中国東北部や上海で活動している。最初は著作家として名声を博し、それぞれ新聞特派員として極東へ派遣されたことも同じである。またドイツ大使館で大使オットの親友となり、絶対的な信頼をかちえ、そこであらゆる機密情報に接することが出来た。さらに日本の上層部にくいこみ、とくに軍部の信頼をかちえて、最高の軍事機密に接することが出来た。両人とも金や利益につられて片々たる情報を売るいわゆる「スパイ」ではなく、自己の確信・思想から情報マンとして活躍したのである。またかれらはその入手した機密情報を自己の論理で分析再構成することにより世界史の動向、日本やドイツやソ連の動向をぴたりと予見することが出来た。もちろん片やコミニズム片やナチズムという確信の違いがあり、ゾルゲは赤軍第四部のため、またリスナーはドイツ国防軍情報部のために活躍したという大きな違いはある。一方はみるからに線の太い豪放な偉丈夫だったのに他方は線の細い神経質なインテリだった。また二人とも日本の官憲(ゾルゲは特高警察、リスナーは憲兵隊)に逮捕されたが、一方のゾルゲは処刑され、リスナーは無罪放免されている。しかし二人とも逮捕直前の頃から自己の信奉していたスターリン主義やナチズムに深い違和感をもち、自己の前途に絶望感をもっていた点でも共通点がある。一般にあまり知られていないゾルゲについてこの点をのべておくと、アイノ・クーシネンはその回想録でつぎのような情況を記している。〔一九三七年一一月末のある日〕「翌日、打ち合わせどおり花屋で例のアシスタントと会って、ゾルゲの住居へ向かった。ゾルゲはソファの上に酔いつぶれており、すぐ脇のテーブルには明らかにグラスを使わないで飲んだらしいほとんど空のウィスキー瓶があった。ゾルゲがいかに多くの責任を背負って耐えているか、見るにしのびなかった。ゾルゲは、われわれ、彼自身をも含む『われわれ全員』がモスクワ行きを命ぜられたと語り、私はウラジオストックに行くこと、そこで次の指示があると告げた。……
もしこの時、ゾルゲが帰還命令を聞き入れていたら、彼は疑いなく処刑されていただろう。」(アイノ・クーシネン島谷逸夫、島谷謙訳『神はその天使を破滅させる』社会評論社一七六〜一七七ページ)
そしてそのことをゾルゲははっきり見通していたらしい。「しかしその前に〔ゾルゲは〕ブーケリッチに言っているように、「自分は、帰れば必ず殺されるだろう。なぜならば自分たちはレーニン派の最後の人間だから』。(石堂清倫「異端の視点──変革と人間』勁草書房一六ページ)
ゾルゲがアジアでやった仕事をヨーロッパで果しゾルゲの資金源かつ友人であった「赤いオーケストラ」のグラン・シェフ、レオポルド・トレッパーの運命が、日本での仕事をすべて終えてソ連に帰国したならどうなったであろうか、ということを明示している。ヒットラーとの闘いであれ程大きな成果をあげたトレッパーが、パリ解放後、モスクワへ引き上げたとき彼をまっていたのはスターリンの賞賛や感謝などでなく、強制収容所だったのだ。詳しくは翻訳はよくないがトレッパーの『ヒットラーの恐れた男』(三笠書房)を参照していただきたい。しかし何ともいいようのない恐ろしい運命ではないか。毎日を死と向き合いながらいうにいわれぬ努力の末集めた貴重な情報を一顧だにされず、恐らくモスクワで待っているのは牢獄だけだとは。このときのゾルゲの絶望感を思い至ると暗たんとした気持になる。
さてもとにかえるが、ゾルゲとリスナーの対比は誰の眼にも明らかなようで、リスナー『私の困難な道』の見開きにある「この本について」という紹介文には次のような言葉がある。
「カナリス将軍につかえる中で、彼は有名なスパイ・ゾルゲ博士の文句なしの相手役(Gegenspieler)であった。一方ゾルゲは秘密情報をソ連に伝えていたのに、リスナーの方はロシアの軍需産業や軍隊の移動をベルリンへ送っていた。」
さて、リスナーの眼にうつったゾルゲは如何なるものであったろうか。前に触れたようにそれはリスナーの回想録中「帝国ホテルでの出合い、リヒアルト・ゾルゲ」の章に画かれている。そこでのこの章から若干を紹介してみよう。
「(帝国ホテルの)玄関のホールには、いつも茶色の背広を着、何を考えているかわからない様な表情で、同時にたくさんの交錯するしわで少しゆがんだ顔をした一人の男が座っていた。彼の姿は群を圧していた。彼は荒っぽい仕草で、自分のこぶしでテーブルを打ち、両脚をのばし、大きな声で政治のコメントをしていた。そして突然小声になってバーへ行くといって席を立った。バーでほしい銘柄のウィスキーが手に入らなかったときには怒りを爆発させてののしった。またその場のほとんどすべての人々と握手していう。
『わたくしは貴殿のためにやってきたのだ』この言葉で彼は一人の日本人を側にひきつけ、小声で会話に夢中になる。他の人は長い間待たされてしびれを切らし他の重要人物と話を始めるのが常であった。ついで彼は一人のドイツ人から挨拶をうけ、その男が彼を食堂に連れて入る。そこでは新聞社の特派員、外交官、商人、通訳たちが待ちうけていて、この遠慮のない、思慮深い男と一言話そうとするのだ。」
たしかに、リヒアルト・ゾルゲは政治、新聞、実業界の中心にいて、また東京の国際関係の核心を握る男であった。彼はまた東京のドイツ大使オイゲン・オット陸軍少将と親密な関係をもっていた。ゾルゲはボクサーと教授の類まれな結合体だった。彼は「フランクフルター・ツァイトゥンク」の特派員だったが、高度の知識人で、酒好きでしかも深謀遠慮の人だった。彼は狂信者であったが彼が真に信じていたのは何かというと誰もそれを詳しく知らなかった。だがしかし彼の議論に反対すれば怒り狂って、感情を爆発させた。彼は東京におけるドイツの秘密外交の重鎮であったが、ひっきりなしにまったく公然とナチスを笑いものにした。
、誰もがびっくりした──そして彼はそんな話が出来る唯一のドイツ人だとみなした。それでも彼には何事もなかった。というのは彼の忠誠と誠実さの疑わしいとみなされたことは決してなかったからである。彼の姿はいたるところで見られた。彼は大使の名で声明をだし、自らをドイツの代表部の頂点においた。彼は自分の解説でオットの報告を代行していた。
ゾルゲが日本人の女性と暮らし、彼が彼女にピアノのレッスンをしているという噂が専らであった。彼のオットとの交友はオットの名古屋時代〔オットは大使になる前の一九三三年に中佐として名古屋の第三砲兵連隊に派遣されていた〕にまでさかのぼり、人々は、ゾルゲは大使の右手だ、とみなしていた。すべての重要な決定はゾルゲの確認を必要としたし、すべてがこの神秘的な不可欠の遍在する神のようなゾルゲの手を通して行われた。ゾルゲはゾルゲで地位の高い日本の官僚、ドイツの商会、ジャーナリストと緊密な関係をもっていて、オットに利用価値の高い情報をあてがっていた。その若干のものは軍事的情報だったが、やはり政治的、経済的なものが多かった。
或る日(帝国ホテルの広間で)彼は私の前に腰掛けていった。「戦争がおこるぞ」と。私は聞いた。「誰がその戦争で勝利するだろうか」。この私の質問は彼のおどすような大笑をひきおこした。ホール全体に響き渡る一種の吠えるような哄笑であった。「もちろんロシアさ」という。私は言った。「しかし今のところ、ロシアはそんな風になりそうに見えないが」「ただ待つてみたまえ、一寸の間待ってみたまえ」とこの巨人は答えた。そして再び大笑を始めた。今度は彼の笑いの中に何か酷しさがあるように見えた。
これは一九三九年九月一日東京でのことだった。〔ナチス・ドイツのポーランド侵入・第二次大戦の開始〕この時代に.は誰もがリヒアルト・ゾルゲは善良なドイツ人だとみなしていた。彼は享楽主義者だが、悪意はもたず、将来についてほとんど考えていないように見えた。しかし実際はゾルゲは並みはずれて聡明な男だった。
ある日、私はロシア語の新聞をもって広間に入って、それを机の上においた。私はロシア語に堪能だった。その瞬間には私はゾルゲがロシア語が理解できないとは考えていなかった。
「これを読んだかい」と私は言った。
ゾルゲは一五杯以上のウィスキーを飲んでいた。ロシア語は彼の母国語だった。ゾルゲはドイツ語と同様にロシア語が話せたが誰もそのことを知らなかったし、彼もそれを決してもらさなかった。
「これを読んだかって、それができれば私はこの上なく非凡な人だ」
そして彼の哄笑がいつものように壁に響いた。
ゾルゲは私の良い友だった。私は東京にくるといつもゾルゲに会った。そして彼は私と会うことによって真の友をもったことになった。これは数年間にわたってそうだった。ゾルゲの功績は時が立つにつれて当然の根拠からますます高く評価されてきた。先ず一九四四年〔一一月七日〕にゾルゲを絞首刑に処した日本人が、彼のスパイ活動の最大の重要性を評価している。何故なら日本はドイツと枢軸を通して結びつきゾルゲはドイツ大使オット将軍の最良の友であったからである。そして今日、ロシア人たちは、まったくおそすぎたことだが、外国にいる数千人のスパイたちにこの破滅した同僚を英雄化することで大きな輝かしい励ましにしているのである。〔ゾルゲは一九六四年五月ソ連最高会議幹部会によって「ソ連英雄」の称号を得た〕
ゾルゲの二つの主要成果は、一九四二年にヒットラーの侵入の警告をロシアに伝えたこととロシアに対して攻撃しない、という日本の決定に関する報告である。スパイ活動において、一つの件にかんしてつねに数百または数千の情報員が働いている。ソ連が東アジアに二〇〇名のスパイをもっていると仮定しよう──この数は実際には少なすぎるが──すると普通つぎつぎと二〇〇の異なった見解を入手することになる。だからつねに再現されるつぎのような考え──ゾルゲはスターリンに正しく警告したがスターリンはこの警告をとりあげなかったという考え──はばかげたものとなる。
何故なら二〇〇または五〇〇、あるいは一〇〇〇通の報告の中から正しいものを取り出すことは、決して簡単なことではない。この困難をすべてのスパイ活動は被ることになる。この外ソ連は東京に大使館をもち、五〇人〜一〇〇人の従業員が活動していた。だから小さな魚のようなとるに足らぬ事実と、日本はロシアへの侵入を抑制したというような重大なことをソヴェト大使館員が楽々とは片ずけ得なかったとわれわれは想定する必要はない。ロシアへの侵攻軍については彼はロシア人をよく知っていた。侵入の約一〇目前にドイツのタンクの侵入にかんする報告が上海のソ連領事館から届いていたことは明らかである。ロシアの友好国のすべてからヒットラーに直ちにウクライナを譲るかそれとも戦争かという報道が届いていた。グルジアの狐、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュンガシヴィリ〔スターリンの本名〕は自分の軍隊には告げずにおく気になっており、私の友人ティグラン──チェスの名人位を獲得しスターリンの同国人であった──のような頭脳のもち主にしか説明するきになっていなかったのだろう」(Lissner;Mein gefahrlich Wegs. 166-168)
以上のように立場のもっとも異なったリスナーもまたリヒアルト・ゾルゲを非常に高く評価していたことがわかる。
もちろん同じ陣営の仲間たちもまたそれぞれに肯定的なゾルゲ像を画き出している。さきにふれた同じ赤軍第四部の同僚で日本にいたアイノ・クーシネン(島谷逸夫・謙訳「神はその天使を破滅させる」社会評論社 Ainno Kuusinen; Der Gott sturzt Seine Engel)も、ヨーロッパで「赤いオーケストラ」のグラシ・シェフとして活躍したレオポルト・トレッパー(「ヒットラーが恐れた男」三笠書房 Leopold Trepper; Le Grand Jeu, Albin Michel 1975)も、上海で活躍したルート・ウェルナーも(「ソーニヤの報告」(邦訳なし Ruth Werner; Sonjas Rapport, Verlag Neues Leben 1977)ゾルゲのコミンテルン時代にくわしいルート・フォン・マイエンブルク(大島かおり訳「ホテル・ルックス」晶文社『イカと極東』一〇五〜一四四ページ Ruth von Mayenburg; Hotel Lux 1978)もそれぞれに好意的にゾルゲを画いている。
ただ「不注意で愚直だ」という若干否定的な面をあげて批判しているのはエリザベート・ポレツキー(根岸隆夫訳「絶滅された世代」みすず書房 Elisabeth K. Poretski; Leivotros, Edition Deuoel Paris 1969)第七章リヒアルト・ゾルゲ六四〜八二ページ)だけである。
このようにゾルゲと他の人々とのかかわりやゾルゲ像については、新しい資料を探そうともしない不勉強なわが国のゾルゲ専門家の中にあって唯一人、大先輩の石堂清倫さんだけが早くから指摘し紹介しているので是非参照して頂きたい。(石堂清倫「異端の視点」勁草書房中「リヒアルト・ゾルゲについて」一二五〜一七三ページ)
ごくさいきん、すぐれた問題提起「ゾルゲ研究の諸問題」(共同研究「日本とロシア」第一集一九九〇年六月ナウカ杜一五二ページ)の中で笠間啓治氏は次の様に述べている。
「一九三八年八月、べリアが内相に就任、国内治安を統括すると共に、緊迫化する国際情勢に対応してソ連諜報機関組織を一手に握ってその再編成に着手し、当然赤軍参謀本部第四部の責任者には内務人民委員会より腹心が送り込まれる。第四部はもはや赤軍としての独自の活動は許されず、補助的な下部機関としての役割を果たすに過ぎないものとなった。参謀総長の手を離れて、スターリン書記長直轄となり、海外から送られてくる情報の処理と分析は、専らベリヤ内相の責任において行われる。今やゾルゲの知っているベールジンの第四部とは全く異質の世界が出現していたのである。ゾルゲ問題を論ずる場合、彼を送り出した赤軍参謀本部第四部のこのような変質を先ず第一に考えておかねばならない。つまり、日本派遣当時のゾルゲと、一九三八年以降のゾルゲとでは、その支持基盤が全く別のものになっていたことを考慮に入れて論じなければならないのである。」(一五二ページ)
(著者は桃山学院大学教授)
(桃山学院大学『総合研究所報』第一六巻 第三号一九九一年三月 掲載より)
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「スパイ・ゾルゲ」処刑記録を発見
東京新聞 2004年10月17日(日曜日) 12版
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「皆さまご親切有り難う」
初の公式文書 最期のやりとり明らかに
太平洋戦争開戦直前の一九四一年十月、ソ連(当時)のスパイ組織を警視庁が摘発したゾルゲ事件。その主犯格、ドイツ人記者リヒャルト・ゾルゲ=写真=と評論家尾崎秀実の処刑記録が、十六日までに見つかった。
死亡時間や処刑前のやりとりなど、二人の最期に関しては研究書によって諸説があり、公式文書が明らかとなるのは初めて。二人が処刑されてからちょうど六十年になる十一月、東京都内で開かれる講演会で処刑記録の詳細が発表される。
この記録は社会運動資料センター(東京・三鷹)代表の渡部富哉氏が、東京の古書店で入手。戦後、同事件を再調査した連合国軍総司令部(GHQ)の英文リポート(四七年八月)の末尾に添付されていた。
「市谷刑務所」の公式便せんに手書きで、本籍、罪名、裁判経過、死刑執行の言い渡し状況などが記入されている。
それによると、尾崎の処刑は四四年十一月七日午前九時三十三分から同五十一分。「瞑目(めいもく)し職員に謝礼し、南無阿弥陀仏を二唱し執行を受く」とある。
続いてゾルゲが同日午前十時二十分から同三十六分に死刑を執行された。「職員に対し『皆さまご親切有り難う』を繰り返し」刑場に進んだ。
渡部氏は「当時、一部ではゾルゲ生存説がまことしやかに流布していた。米国はこの公式記録によって死亡を確信したはず」と話している。
講演会は十一月六日午後一時から、東京都品川区の杉野学園で開催される。
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