「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」 小嵐九八郎著


小嵐九八郎

1944年、秋田県能代市生まれ。
早稲田大学政経学部卒。在学中から新左翼活動家になり、銃刀法違反などで通算5年余り拘置所、刑務所生活を送る。86年に小説家デビュー。また、歌人としても活躍している。小説に『清十郎』(文藝春秋)、『刑務所ものがたり』(文藝春秋、吉川英治文学新人賞受賞)、『癒しがたき』(角川書店)、『真幸くあらば』(講談社)ほか多数。エッセイに『せつない手紙』(ちくま新書)ほか、歌集に『叙事がりらや小唄』(短歌研究社)などがある。

小嵐九八郎のホームページ

「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」 小嵐九八郎著
書評 かもめのジョナヨン 「救援」
    2003年5月10日 第409号
 
 1960年から2000年まで新左翼史40年をつづった異色の読み物だと感じる。読ませる。ためになる。──小嵐九八郎著「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」の読後感だ。
 本書の第一の特徴は、娯楽小説の文体でもって、新左翼人物伝しいては新左翼史を、ものしたところにあろう。ビートルズを日本語で歌う歌手がいるけども、あるいは30数年前に活躍した女性作家森村桂さんに似るか。娯楽小説家として、勝負を挑んだ著作だと思う。
 第二はさすが元活動家だったというか、その時代、党派の動向、活動家の心境、大学構内の雰囲気などを、他者の追随を許さない水準で活写してることだ。ことに党派抗争で惨死した中原一、本多延嘉、他2名の章は白眉である。
 第三は亡くなるまでの事実経過を、ていねいに追跡していること。墓所を2か月半探した例もある。従来ややもすればあった遺書、遺著、追悼集に頼って手際よくまとめる手法とは無縁である。
 第四は死者の伝説化をしない。神話を創らない姿勢を貫いている。そのうえ、俗なる分野にこそ真実が宿る、という著者の信条で、死者の連れあい、友人、関係者などへ熱心に面談を求めている。だから初めて明かされたと思われるエピソードも豊富だ。金とヒマをかけ手抜きをしてない。
 第五は党派抗争事件(内ゲバ)の取材中、脅迫、面罵と恫喝、取材資料紛失の妨害に遭っている。ここらへん著者の半合法活動の経験が、力を発揮したのかもしれない。許される限りで、死者の墓参りもしている。仁義を切る。この心くばりは当り前のようだけど、意外とできない。ここに元活動家としての、著者の矜持を感じる。
 表紙、カバー、帯、はなぎれとオール黄色の造本だ。章扉にもうすく黄色が載せてある。赤づくめや、黒づくめでないのがいい。レモンイエローは春の色。たんぽぽ、山吹き、れんぎょ、チューリップ。若さ、未熟、嬉しさ、希望もあるか。さて狙いは何か?
 章扉の建て方もユニークだ。1ページ全部を使って、どーんと死者の顔写真がある。裏面に略歴。本文は次ページから始まる。顔を知ることが、コミュニケーションの始まりの原則が押さえてある。ここらへん、著者の文体ともからんでのことだが、読んでもらおう、読ませようという、編集部の熱意を感じる。
 収載された27名を挙げる。──樺美智子、岸上大作、奥浩平、山崎博昭、由比忠之進、望月上史、高橋和巳、早岐やす子、向山茂徳、遠山美枝子、山田孝、奥平剛士、安田安之、川口大三郎、森恒夫、前迫勝士、本多延嘉、斉藤和、中原一、東山薫、谷口利男、戸村一作、佐藤満夫、山岡強一、若宮正則、田宮高麿、島成郎(目次順、敬称略)
▼講談社、03年4月刊。四六版355頁。本体1900円

救援連絡センターのホームページ


「蜂起には至らず──新左翼死人列伝」 三上治の書評 
 新左翼といわれたグル−プが世の中を騒がせていた時代があった。 そんなに遠いむかしではないが、この中で多くの人が死んだ。もちろん死はさまざまだ。
 死者を弔うの生きているものの務めであるが、これは新左翼運動のなかの死者への鎮魂の書である。誰かが書くべきものだった。1960年の安保闘争のクライマックスであった6月15日、国会のなかで死を遂げた樺美智子から、このときのブントの指導者であった島成郎まで20数人が取り上げられている。
 もちろんこうした存在の背後にはおびただしい数の死者がいる。精神的におかしくなったものまで加えればそれはもっと多くなるにちがいない。こうした存在のことを思うと暗い井戸をのぞきこむような気分になるが、著者はよくそこに入って行ったと思う。とりわけ内ゲバの中の死者という誰もが目を背けたくなる人たちの世界に分け入っている。

 樺美智子さんの死が冒頭にあるが当然と言えるだろう。雨の降る南通用門で彼女の死を聞いたときのこころの震えを僕は生涯忘れることはないと思う。もう40年も前も事だが、昨日のことのように思い出す。奥浩平、懐かしい名前だ。別の党派に居た彼女への思いを胸に自殺した彼にはどこか青春の香りがした。そこには言い知れない苦さも含まれていた。山崎博昭。ゲバルト闘争の季節を切り開いた1967年羽田闘争。僕はあのとき、橋を一つ隔てて、機動隊と攻防戦をやっていた。装甲車を挟んで機動隊と攻防戦は緊張に満ちていた。
 長年、機動隊の厚い壁に阻まれていた政治行動。それを突き破った解放感の向こうには羽田の青い空があった。望月上史は僕ら(当時のブント統一派、後の情況派と叛旗派)と赤軍派になる面々との党派闘争の中の死者であった。彼はブントの会議を襲い、その後、僕らに捕まり中大のバリケードの中に監禁されていた。ブントの会議には僕も出ることになっていたが、出ていれば僕も彼らに襲われていたかもしれない。そんな時代の中の死であっても苦い思いが残る。

 ここに取り上げられた人たちには顔みしりもいれば、名前だけ知っていた人もいる。彼らの非業の死は何らかのかたちで知ってはいたと思う。それぞれの事件についての背景や事情については僕の知ることと異なっていることはある。
 僕の記憶違いということもあるだろう。だから、それについてはとやかく言っても仕方がない。僕がこの本に触発されながら、思い浮かべていたことは1960年の安保闘争を起源とする新左翼の闘争とは何であったかということだった。
 蜂起。これは言葉に過ぎないが、フランス革命やロシア革命という歴史的なイメージの付着しているものだ。あの運動や闘争は日本でそれを目指して展開されたものだったのだろうか。多分、この本の表題が「蜂起には至らず」であることを考えれば、それは蜂起を夢みたものだったとは言えなくないし、そういうように思われているのかも知れない。
 革命を権力に対する反逆として考え、それの最高の表現が蜂起ならば、1960年の安保闘争を起源とする闘争が蜂起をめざしたというのは間違いではない、と思う。

 だが、僕らにとって、フランス革命やロシア革命が古典であり、現在の革命ということとはイメージが違うものであるのなら蜂起の中身も形態も違うのも当然だ。それはあの時代の急進的行動(行動的ラディカリズム)はフランス革命やロシア革命のような専制支配を打倒する目的の行動ではなかった。国家と資本制社会が高度化して行く段階での、権力に対して自由と抵抗を試みたものである。しかし、革命概念もイメージもフランス革命やロシア革命のものを借用した。現在では古典的な革命のイメージがそのまま通用するものと考えた。
 僕はこのことに疑念を持っていたけれど、それを突き崩すのは困難だった。
 多分、赤軍派というネーミングからして想像できるように、蜂起もまたそこにイメージされていた。新左翼運動の悲劇といえば、そうだったのだけれど、蜂起をめぐる悲喜劇はそこに起因した。内ゲバの死者はその象徴といっても間違いではないけれど、そこから目を避けないために本書は長く記憶されてよいと思う。
                       (2003.06.14)

三上治の書評

前のページへ
戻る
トップページへ
トップへ戻る
次のページへ
次へ