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第二章 日本書紀と倭人伝等の照合
『日本書紀』は周知のように編年体の歴史書です。従って『神武天皇の建国』が、西暦のBC660年にあたることも、判るわけです。当然、他の年代も西暦に換算できます。
しかし『日本書紀』の古い部分の年代は総て誤っていると考えられていました。「大和朝廷」の成立は四世紀である。と麗々しく書いている歴史教科書がありますが。そのような考えが生まれてきたのも、この『日本書紀』の年代が誤っている、という思い込みが、その根源にあるのでしょう。
断るまでもありませんが、「大和朝廷」の成立は四世紀だ、という説には根拠などありません。まったく無責任な妄説であります。
さて『日本書紀』の古い部分の年代は総て誤っている、という考えは見当違いですが。総て正確と言うわけでもありません。しかし『日本書紀』の記事には中国の歴史書と照合できる記事もありますから。その照合により年代を訂正できる箇所も幾つかあります。それらを訂正することにより、我が国歴史の大筋をほぼ明らかにできると考えます。
まず「その照合できる箇所」を年表で示しておきます。
| 西暦 | 中国 | 韓国 | 日本 | ||
| BC1200年頃 | 殷帝国滅ぶ 西周王朝始まる |
箕子朝鮮始まる | |||
| BC770年 | 周王室の東遷 後の長安の地から後の洛陽の地へ移る |
||||
| A | BC690年 | 紀候、その国を大いに去る | |||
| A | BC663年 | 五瀬命、紀国にて薨去 | |||
| BC660年 | 神武天皇、橿原宮にて即位す | ||||
| BC386年 | 姜斉滅び田斉始まる | ||||
| B | BC221年 | 秦が田斉を滅ぼし、中国を統一した。 | |||
| B | BC211年 | 崇神七年、「大田田根子ヲ以テ、吾ヲ祭レバタチドコロニ平ギナム」ト神ノオ告ゲアリ。大田田根子ヲ以テ、大物主大神ヲ祭ル主トス。 | |||
| BC210年 | 秦の始皇帝死亡 | ||||
| BC209年 | 中国中に反乱起き、斉の田F自立する | ||||
| BC206年 | 秦滅び、漢始まる | ||||
| C | BC202年 | 漢高帝五年、田横、誅殺を恐れ海上に逃げ島にいるも。漢高祖に呼び出され自殺す | |||
| C | BC201年 | 十七年、七月、詔シ「船ハ天下ノ要用ナリ。今、海辺ノ民、船無キニ由リ甚ダ歩運ニ苦ム。其ニ令シ、船舶ヲ造ラシメヨ」ト曰マウ。 〃 十月、始メテ船舶ヲ造ル |
|||
| BC196年 | 漢高帝十一年、燕王盧綰が匈奴に亡命 | 盧綰の部下、衛満も箕子朝鮮へ亡命 | |||
| BC190年頃 | 衛満が箕子朝鮮を簒奪 箕準は脱出して南朝鮮に韓国を始める |
||||
| BC107年 | 漢が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡を設置 | 楽浪海中ニ倭人有リ、分カレテ百餘國ヲ為ス、歳時ヲ以テ來リ献見スト云ウ(前漢書、地理志) | |||
| 25年 | 後漢王朝始まる | ||||
| D | 57年 | 倭ノ奴国、奉貢朝賀ス | |||
| D | 61年 | 垂仁九十年、田道間守、絶域へ使いす | |||
| 107年 | 倭国王、帥升等、請見ヲ願ウ | ||||
| 238年 | 倭の難升米等、朝見す | ||||
| 240年 | 魏の梯儁等、倭国へ詣る | ||||
| 243年 | 倭王、使大夫を魏へ派遣 | ||||
| 247年 | 魏の張政等、倭へ遣す | ||||
A.孔子が編纂した歴史書『春秋経』の荘公四年の条に「紀候大去其國」とあります。荘公四年とはBC690年です。紀候の国すなわち「紀国」とは現在の中国山東省寿光県です。「大去其國」とはみなれない言葉ですが。大勢の国人を引き連れて其の国を去った。ということでしょう。紀候の行く先は判りません。中国史では行方不明ということになっています。
さて片方の『日本書紀』「神武天皇即位前紀乙卯年五月」の条に、「進ミテ紀國ノ竈山ニ到リテ五瀬命、軍ニ薨リマシヌ。因リテ竈山ニ葬リマツル。」と神武天皇の長兄、五瀬命が戦死され紀国竈山の地に葬られたという記事があります。
当時(前七世紀初頭)の中国に「紀国」という国が存在したのは間違いありませんが。そのころ日本列島にも「紀国」という国が存在したとは考えられないでしょう。また『神武東征神話』から推測しますと、神武東征の最高指導者は「五瀬命」で同命が戦死されたから後継者である「神武天皇」がその後を継いだ、と推測するのが合理的ですから。「五瀬命」を葬ったのち同命を偲んで葬った土地を『紀国』と命名したのでありましょう。
すなわちBC690年に、中国本土の紀国を大去された『紀候』と、BC663年に日本列島の紀国に葬られた五瀬命とは同一人物でありましょう。この点は『記紀神話』から見ていったほうが、理解しやすいでしょうから、後章で詳しく述べます。
『記紀神話』には「天地創造神話」のように、純然たる神話もありますが、大部分は日本民族が日本列島へ渡ってくるまえの歴史。言わば、日本民族前史であったと推測されます。この点について見て行けば、日本民族東遷の事情や動機も判明してくるわけですが、これは次回以降からに説明いたします。
B.次に崇神天皇七年とは、BC91年にあたりますが、これに出てくる「太田田根子」とはおそらく「王田・田根子」といったもので、BC221年に滅びた「斉国王田建」の子であったと推測されます(史記、始皇本紀二十六年、)。この『崇神紀』の一連の記録は干支二巡、すなわち120年の取り違えがあったのでしょう。
古代の中国社会では、ご先祖の祭祀を何よりも重要としていました。自分達の生命をかけても、ご先祖の祭祀は絶やしてはならない。と考えられていたのです。
従って一国が滅亡するときには、ご先祖の祭祀を奉じて友好国へ逃れて行くのが通例でした。
しかしBC221年に斉国が滅ぼされたときには、頼っていく友好国は中国本土にはなかったのです。だがこの国にはBC378年以来の「不老不死の三神山」捜索についての知識や経験がありました。
百五十年間、渤海の中を探し回った末、「不老不死の三神山」は渤海の中にはなく、渤海の向こう側だ、と見当をつけていたのでしょう。
斉国滅亡に際して、当時の斉国王田建は、わが子にご先祖の祭祀を託して、海中の三神山へ逃れるよう命じたのでしょう。
その託されたのが崇神天皇紀に出てくる「太田田根子」。おそらく『帝紀・旧辞』とよばれる原記録には「王田・田根子」となっていた人物であろうと思われます。
周知のように、「秦の始皇帝」及び「漢の武帝」の時代が、この海上の「三神山捜索ブーム」の最盛期でした。しかしこの捜索は始皇帝の時に始まったわけではありません。
『史記封禅書』によれば「威宣燕昭ヨリ人ヲ使イ海ニ入リ蓬莱・方丈・瀛州ヲ求ム」とあります。
すなわち斉の威王、宣王。燕の昭王の時代から三神山の捜索は、始まっていたのです。斉国では威王のときから探し求めたのですから、百五十年の歳月をかけているのです。
斉国は、最後には秦に滅ぼされますが。それまでは秦に勝るとも劣らぬ富裕な大国でした。その大国が官営で船を造り、部下を乗り組ませて、いわば国家事業として神仙捜索を行ったのです。始皇帝や武帝に、取り入らねば満足に船も入手できない、という怪しげな方士たちとは違うのです。ですから、「始皇帝」らに取り入ろうとした方士たちの知識は、「斉国」の官営捜索隊から漏れて来た、断片的な情報に自分達の想像や憶測を加えたものだったのでしょう。
しかし「斉国王家」の情報は、方士達の怪しげな知識と違って、質量ともに相当なものだったでしょう。歳月も、人員も、また船舶も充分投入していたのです。おそらく渤海には、三神山はない。と知っていたのでしょう。
「大田田根子」は最初から朝鮮半島へ渡って、その海岸沿いに「三神山」を探してきたのでしょう。 かれはついに、日本列島を見つけたわけです。その島々が黄帝が行ったという、蓬莱・方丈・瀛洲の「三神山」であると直ちに判ったでしょう。しかし間もなく、そこには「不老不死の神仙」が住んでいないことも、判ったわけです。
彼は落胆したでしょう。だが気を取り直し、倭人を征服して新しく王国を建設しょうと方針を変えたのであろう。と思われます。
これより二十年ばかり後になりますが、「箕子朝鮮」が燕国からの亡命者「衛満」に乗っ取られます。大田田根子も「衛満」と同様に、倭国を乗っ取ろうとしたのでしょう。
『日本書紀』には、
崇神天皇五年、國内ニ疾疫多クシテ、民死亡レル者有リテ、且大半ギナムトス。
〃 六年、百姓流離ス。或ハ背叛スル有リ。其ノ勢、徳ヲ以テ治メ難シ。
とありますがこの条は『古事記』では「G病多起、人民死為盡」です。おそらく原文字は「G」であったのでしょう。記紀編纂者は疫病と誤解釈したわけですが。「G」は「役」の古字。ここでは戦争の義でしょう。大田田根子の部下と倭人との間で、戦争が頻発したのです。
しかしその倭国を乗っ取ろうとする方針を、再変更せねばならなくなりました。すなわち『史記秦始皇本紀』三十二年の条に出てくる「盧生」が、彼の後を追うようにしてやって来たのです。これが『崇神天皇』十年九月の条に出てくる「武埴安彦」でしょう。
「盧生」と「武埴安彦」とは同一人物である、と言えば。大抵の方は「牽強付会の憶説」との印象をもたれるでしょう。
しかし『崇神天皇紀』五年から十二年までの一連の記事を通してその原史実を考えてみれば、これは中国本土における「不老不死の三神山」捜索事件に対応する日本列島内の動き、と推測しないわけに行かないでしょう。
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崇神天皇の時代
| 西暦 | 史記 | 日本書紀(120年遡らせた年) | |||
| BC378年 | 斉威王、神仙捜索を開始 | ||||
| BC221年 | 秦が田斉を滅ぼし中国を統一した | ||||
| BC219年 | 始皇帝28年、徐福三神山捜索を願い出る | ||||
| BC215年 | 始皇帝32年、始皇、碣石に之き燕人盧生に羨門高を求めしむ | ||||
| BC213年 | 崇神天皇五年、國内ニ疾疫多クシテ、民死亡レル者有リテ、且大半ギナムトス | ||||
| BC212年 | 六年、百姓流離ス。或ハ背叛スル有リ。其ノ勢、徳ヲ以テ治メ難シ。 | ||||
| BC211年 | 七年、「大田田根子ヲ以テ、吾ヲ祭レバタチドコロニ平ギナム」ト神ノオ告ゲアリ。 大田田根子ヲ以テ、大物主大神ヲ祭ル主トス。………是ニ疾疫始メテ息ミテ國内漸ク謐リヌ |
||||
| BC210年 | 始皇帝37年始皇死亡 | ||||
|
二世皇帝元年陳勝ら反乱を起こす斉田F自立する | 九年、三月、天皇ノ夢ニ神人有リ「赤盾八枚・赤矛八竿ヲ以テ墨坂神ヲ祠レ、黒盾八枚・黒矛八竿ヲ以テ大坂神ヲ祠レ」ト曰ウ。四月、夢ノ教ニ依リ、墨坂神・大坂神ヲ祭ル | |||
| BC208年 | 十年九月、四道将軍ヲ遣ス。詔シテ「若シ教ヲ受ケザル者有レバ、乃チ兵ヲ擧ゲテ伐テ」ト曰ウ。 武埴安彦ノ謀叛。大坂ニテ吾田媛ヲ殺シ、悉ク其ノ軍卒ヲ斬ル。山背ニテ埴安彦ヲ射殺ス。其ノ軍衆ヲ追イ、首ヲ斬ルコト半ニ過グ。 箸墓ヲ作ル。 十月、群臣ニ詔シテ「今、反者悉ク誅ニ伏ス。畿内無事ナリ。唯シ海外ノ荒俗、騒動止メズ。其レ四道将軍等、今急ギ発テ」ト曰マウ。丙子、将軍等、共ニ発路ス |
||||
| BC207年 | 秦帝国滅ぶ | 十一年、四月、四道将軍、戎夷ヲ平ゲタル状ヲ以テ奏ス。 是歳、異俗多ク歸シ、國内安寧。 |
|||
| BC206年 | 漢高帝元年 | 十二年、三月、詔シ「朕、初メテ天位ヲ承ケテ、宗廟ヲ保ツコト獲タレドモ、明モ蔽ル所有リ徳モ綏スルコト能ハズ。是ヲ以テ、陰陽謬リ錯イテ、寒サ暑サ序ヲ失ヘリ。疫病多ニ起リテ、百姓災ヲ蒙ル。然ルヲ今罪ヲ解ヘ、過ヲ改メテ、敦ク神祇ヲ禮ウ。亦教ヲ垂レテ、荒ブル俗ヲ綏シ、兵ヲ擧ゲテ服ハヌヲ討ツ。是ヲ以テ、官ニ廢事無ク、下ニ逸民無シ。教化流キ行ハレテ、衆庶業ヲ樂ム。異俗モ譯ヲ重ネテ來ク。海外マデモ既ニ歸化ス。此ノ時ニ當リテ、更ニ人民ヲ校エテ、長幼ノ次第及ビ課役ノ先後ヲ知ラシムベシ」トノタマウ。 九月、始メテ人民ヲ校シ、マタ調役ヲ科ス。此ヲ男ノ弭調、女ノ手末調ト謂ウ。是ヲ以テ天神地祇共ニ和亨シ、風雨時ニ順イ、百穀用成、家ハ給シ人ハ足リ天下太平ナリ。故、稱シテ御肇國天皇ト謂ス也。 |
|||
| C | BC202年 | 斉国の田横自殺す | |||
| C | BC201年 | 十七年、七月、詔シ「船ハ天下ノ要用ナリ。今、海辺ノ民、船無キニ由リ甚ダ歩運ニ苦ム。其ニ令シ、船舶ヲ造ラシメヨ」ト曰マウ。 十月、始メテ船舶ヲ造ル |
|||
| BC196年 | 漢高帝十一年燕王盧綰が匈奴に亡命、盧綰の部下、衛満も箕子朝鮮へ亡命 | ||||
|
衛満が箕子朝鮮を簒奪 箕準は脱出して南朝鮮に韓国を始める |
||||
以上の『崇神天皇紀』の記事には、軍事に関した言葉と、海外に関係ある言葉が異常に多いことに、ご注目いただきたいと思います。
例えば「赤盾八枚・赤矛八竿」「黒盾八枚・黒矛八竿」「四道将軍ヲ遣ス」」「兵ヲ擧ゲテ伐テ」「武埴安彦ノ謀叛」「四道将軍、戎夷ヲ平ゲタル状ヲ以テ奏ス」等は、軍事に関係した言葉であり。
「海外ノ荒俗、騒動止メズ。其レ四道将軍等、今急ギ発テ」「四道将軍、戎夷ヲ平ゲタル状ヲ以テ奏ス」「是歳、異俗多ク歸シ、國内安寧」「異俗モ譯ヲ重ネテ來ク。海外マデモ既ニ歸化ス」 等は、海外に関係ある言葉です。
前にも述べましたが、紀元前の東アジア史のなかで、日本列島まで海外からの軍事的脅威を与ええたのは、始皇帝の「三神山捜索事件」以外にはないのです。大陸側でいかなる大革命、大動乱があったとしても、海を渡る力を伴わない限り、日本列島に脅威をあたえることはありません。
その海を渡る力を伴った、唯一の事件がこの事件です。
更に、「十七年、十月、始メテ船舶ヲ造ル」という記事があります。
これは大変重要な記事であることは言うまでもありません。『舶』とは外洋船のことですが、このとき始めて外洋船を建造したのです。
特に戦後の歴史学では、東アジア全体のなかで倭国の歴史を見なければならない、と言われ。その意味でも中国側の歴史書が重要視されるわけですが。その中国側歴史書に記録されている、倭国と中国間の交通は、すべて倭国の船舶によっているのです。
従ってこの「始メテ舶ヲ造船ス」という記録が、中国側歴史書に記載されている倭人の渡航記録とどのような関係にあるか、を見なければ。東アジア全体のなかでの倭国の歴史は、分かりません。
『日本書紀』と神仙捜索
前に述べましたように、大田田根子とは「斉国王」田建の子でしょう。
崇神天皇七年の条に大田田根子は、神浅茅原で天皇と会見するわけです。崇神天皇七年とはBC91年です。この120年前はBC211年となります。
斉国が始皇帝に滅ぼされたのは、BC221年です。おそらく大田田根子が中国本土から脱出してきたのは、その時でしょう。
かれは船を残しておいても「秦の始皇帝」に利用されるだけですから、斉国の所有している大船を洗いざらい持ち出した大船団を引き連れてきたのでしょう。
大田田根子はその大船団をもって、朝鮮半島の西海岸から南海岸に沿い、島々を探索してきたのです。やがて日本列島を発見し、BC211年になって畿内に到着したわけです。
ですから、倭国乗っ取りを途中で諦めざるを得なかったのは、後から「盧生」が追いかけてきたからであろうと思われます。
「盧生」は『史記始皇本紀』によれば、始皇帝三十二年(BC215)に、始皇帝の命を受け神仙捜索を開始したのです。同じく三十五年(BC212)に、盧生が始皇帝に説いた、という記事がありますから、彼は一旦、中国本土へ帰って始皇帝に拝謁したうえで、準備を整えて再出発したのでしょう。その後彼は逃亡した、と史記は伝えるのですが。おそらく彼は朝鮮半島西海岸で「大田田根子」が通った痕跡を発見して、その後を追ってきたのであろう、と思われます。
大田田根子らは、追跡されるとは夢にも思っていませんでしたから、痕跡を多く残していたのでしょう。盧生はその後を追って、一気に差を詰めたわけです。
『日本書紀』崇神天皇十年(BC208)九月の条に「武埴安彦ト妻吾田媛ト、謀叛逆セントシ、師ヲ興シ忽ニ至ル。各道ヲ分リテ、夫ハ山背ヨリ、婦ハ大坂ヨリ、共ニ入リテ帝京ヲ襲ハントス。」とあるのは、『史記』始皇帝三十五年に逃亡したとされる「盧生」と『侯生」でしょう。
大田田根子らは「盧生」らが逃げ帰って、始皇帝に報告すれば、始皇帝の大軍が日本列島まで攻め寄せて来るのは必至と考え、一人も逃がしてはならない、と殱滅作戦をとったわけです。
中国本土では、その二年前のBC210年に始皇帝は死去していました。その翌年二世皇帝元年に早くも「陳勝」らの反乱がおこります。その後三年にして『秦帝国』は滅亡してしまうわけです。
『日本書紀』崇神天皇十一年(BC207)に「是歳、異俗多ク歸シ、國内安寧」とあるのは、始皇帝が「三神山」捜索のために、新しく建造してあった大船を奪って、日本列島まで亡命してきた多くの人々がいたのです。よく言われる「徐福」が、日本列島まで亡命してきていた、とすれば、この歳の帰化人のなかの一人でしょう。
C、 しかし、中国本土では、始皇帝の死去後、秦帝国の弱体化を好機として「斉国」の再興をはかった人々もいました。
『史記』田F列伝によれば、「陳勝」らが反乱を起こした時、田Fも自立して「斉王」となりました。だが、秦の将軍「章邯」に敗れて死にます。田Fの弟、田栄は敗残部隊を率いて逃げました。
斉の国人は、もとの斉王「田建」の弟「田仮」を立てて斉王とし、「田角」を宰相に「田間」を将軍として、外国軍を防ぎます。
そこへ「田栄」が引き返し、「田仮」を撃って逐い出し。「田F」の子「田市」を立てて斉王とし、自分はその宰相となり、弟田横を将軍とします。
こうして一時は田氏が斉国の王となるわけですが。項羽が秦帝国を滅ぼして、天下の支配者となりますと、項羽に敵対していた田栄は、項羽に破られ、田栄は殺されます。
田栄の弟、田横は敗残の斉兵を集め大軍を編成して、項羽に反撃します。項羽は田横と戦っているうちに、後方を「漢の高祖」に攻撃されるわけです。
項羽が引き返して「漢の高祖」としきりに戦っているうちに、斉国は田横に平定されます。 田横が斉国を支配できたのも三年ばかりで、「漢の将軍」韓信に破られます。田横はその後、梁の地に逃げていましたが。その一年後、漢の高祖が項羽を滅ぼして、皇帝となると、誅殺をおそれ海上に逃れ島にいた、と『史記』にあります。結局、「漢の高祖」に呼び出されて、自殺してしまうわけです。
田横は海上に逃れ島にいた。のですから当時の事情から考えますと、「海中の三神山」へ行きたかったのでしょう。しかし敗残の身には大船を建造できなかったわけです。
これは「漢高帝五年」(BC202)のことでしょう。秦の二世皇帝元年以来、約七年ばかりの間、「旧斉王」の一族は、斉国の支配権を取り返そうと、秦や項羽ら、他国人と戦う一方、同族間で骨肉相食む闘争を繰り返し、最後は「漢帝国」に平定されてしまうわけです。
斉国の国人達は、田横ならずとも絶望的な思いをしていたでしょう。
C、 『日本書紀』崇神天皇紀に
崇神十七年、七月、詔シ「船ハ天下ノ要用ナリ。今、海辺ノ民、船無キニ由リ甚ダ歩運ニ苦ム。其、諸国ニ令シ、船舶ヲ造ラシメヨ」ト曰マウ。
〃 十月、始メテ船舶ヲ造ル。
とあるのは、斉国の国人達が、山東半島の先端付近まで逃れてきましたが、海を渡る大船がなく立ち往生していたのでしょう。
それらの人々を救出するために、諸国に命令して船舶を造ったのでしょう。
こうして造られた船舶は『筑紫太宰』に配属され、山東半島まで難民の救出活動にあたったのでしょう。
『始造船舶』の条と朝鮮半島の古代史
倭人は山東半島から亡命者を救出したのちも、その対岸の甕津半島に監視所を設置していたのでしょう。まだ亡命者が逃げてくるかもしれないし。何と言っても、「三神山の捜索」が、再燃する心配があったのです。
山東半島から渡海してくるルート、遼東から朝鮮半島へと陸上を来るルートの双方を見張れる地点はここです。
さて次に「衛満」が箕子朝鮮へ亡命したのはBC196年です。従って遼東にあった箕子朝鮮を簒奪するのは、その数年後でしょう。
衛満の亡命を受け入れた箕子朝鮮王は、恩を仇で返されるとは夢にも思っていませんでしたから、不意打ちを食って命からがら、近臣に守られて、朝鮮半島へ脱出してきたのです。
この甕津半島付近で倭人と会い。その勧めで倭船に乗って朝鮮半島南部へ移遷したのでしょう。この時期に倭人はすでに多くの船舶を所有していましたから、支援できたわけです。
私が『崇紙天皇紀』の一連の事件記事を、干支二巡、百二十年取り違えていると。推測する理由の一つはここです。
そうでなければ、中国側歴史書に載せられている、倭国や朝鮮半島の歴史が整合的に繋がりませんし。疑問点や矛盾点は解決しません。
『漢書地理志』によれば、倭人は前漢時代から楽浪郡への通交を開始し、後漢時代さらに三国時代も楽浪または帯方郡へ、通交を続けてきているのです。判っているだけでも約四百年間、朝鮮半島の南海岸から西海岸に沿って沿岸航行を続けてきたのです。
これは「日本古代史上、最大級の謎」でないでしょうか。楽浪帯方と日本列島間という遠距離、しかも朝鮮半島という外国の沿岸を航行せねばならないのです。どうしてそのような事ができたのでしょうか。
それについて古代史学界は、何の不思議とも思わずに、しごく当たり前のことと考えておられたのかも知れません。
あれほど「邪馬台国論争」がさかんであった時期にも、この点で論争されることはありませんでしたから、どのように考えておられたか、よく判りませんが。
あるいは北九州の諸国が、強力な水軍の威力を背景に朝鮮半島沿岸を航行した。とでも考えられていたのかも知れません。
例えば、大和朝廷が日本統一したのは、四世紀の初頭という考えが定説とされていました。その前はよく知られているように「卑弥呼」を女王とする邪馬台国政権があったと考えられていました。
「卑弥呼」が女王となる前に「倭国大乱」があり、その前は男の王があった、と「魏志倭人伝」にあります。更に『前漢書』によれば、当時の倭国は「分レテ百余国」の状態であった。とあります。
すなわち倭国内の権力はたびたび変わったと考えられていたわけですが、「楽浪帯方」への通交は一貫して続いたのですから。これは北九州あたりに強力な水軍があり、政権が変わってもその水軍に援護されて通交を続けることが出来た。とでも憶測されていたのかも知れません。
しかし、言うまでもない事ですが、その「アメリカ第七艦隊」の古代版のようなものを、当時の倭国が持っているわけが無いのです。
倭船は「楽浪帯方」と日本列島間を往来していたのですから、当時としては優秀な性能をもっていたと思えますが、「楽浪帯方」まで無寄港で往復できる性能をもっているわけはありません。
朝鮮半島沿岸に、たびたび寄港して休養をとり船の故障を修理し、飲料水や食料を補給して、天候を見定めたうえで航行を続けたのでしょう。
朝鮮半島が無人地帯に近かった時代は、船に食料さえあれば、相当な遠距離の航行も可能であったでしょう。
しかし『魏志韓伝』によれば三国時代の朝鮮半島南部には「馬韓」「辰韓」「弁韓」の三集団があり「馬韓」だけで五十余国、十万余戸。「辰韓」「弁韓」合わせて二十四国、四、五万戸あったとあります。一戸あたり五人としても西海岸の「馬韓」だけで、すでに五十万人の大人口となります。
実際には、当時は大家族で、一戸あたりの人口は現代より相当多かった、と推測されていますから。三韓全体の人口は百万をはるかに超していたでしょう。
片方の倭国の船は、それに対抗できる兵力を持っているわけがないのです。朝鮮海峡や倭の北岸と言われる狗邪韓国の近くであれば、倭の水軍は現代で言う「制海権」を持つことも可能であったでしょう。
しかし遠く朝鮮半島の西海岸、すなわち馬韓五十余国の沿海までの制海権を持てるわけはありません。
当時の船は、一日あたり五十(中国)里(約22キロメ−トル)航行したと考えられます。晴天続きでも、狗邪韓国から楽浪・帯方までは一ケ月以上かかったわけです。
倭人船は昼は航行し、夜は入り江で停泊するのが常態であった、と推測されますが。仮に彼らは昼夜兼行で航行していたとしても。荒天のときは入り江や湾に避難して、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったのです。
その時に圧倒的に優勢な陸上勢力と争いが発生すれば、狗邪韓国や対馬の倭軍が救援にかけつけても、間にあわないのです。
第一、救援を要請する手段もないのです。
陸上兵力を上回る強力な攻撃力や防御力を持ち、遠距離の航行能力をもつ護衛艦隊が常に付き添っていなければ、守れないわけですが。当時の倭国がそのような海軍力を持っているわけがありません。
しかし「アメリカ第七艦隊」の古代版が、北九州にあった。と考える人も少ないでしょう。
そうしますと、当時の朝鮮半島の沿岸は武力がなくとも倭人船が航行できる社会状態であったと、考えられていたのかも知れません。
それについて、次の二通りが考えられます。
A、当時の朝鮮半島の諸国は、高度な文明国家であったから、通行する船を略奪するような道義に反した行為はしなかった。
B、当時の朝鮮半島は、未開状態であって、領土意識や領土防衛思想も芽生えていなかったから。倭人は自由気儘に朝鮮半島沿岸を航行することができた。
の二通りが考えられるでしょう。
例えば、戦後の古代史学に大変影響があった津田左右吉博士は。
漢書地理志にある「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云、」という倭人も。後漢書、光武帝紀中元二年の「東夷倭奴國王遣使奉献」の倭人も。魏志倭人伝に「今使譯所通三十國」とある倭人も。すべてツクシ(北九州)の小国の君主であって、大和朝廷の支配下になかった。と考えておられました。(『日本古典の研究』第一篇第二章、「我々の民族とシナ人及び韓人との交渉」)
同章には「ツクシ舟はイキ、ツシマ、を経て狗邪へゆき、そこから半島の海岸をぬって遠く帯方の海濱、即ち今の仁川灣方面、へ往復したのであるから、其の道に當る弁韓馬韓地方の國々には、いろいろの交渉が生じたであろうが、云々」(同書P25、第7〜9行)
という記事もあります。
津田博士は肝心なことになると「言語明瞭、意味不明」になることの多い方で。交渉とは具体的にどのようなことを考えておられたか、分かりませんが。あるいは朝鮮半島の南海岸から西海岸へかけての弁韓馬韓の数十国にのぼる諸国と通行料(税)の交渉をしながら、往来をしていた。とでも推測されていたのかも知れません。
博士は弁韓十二国、馬韓五十四国の國々も、我が北九州の諸国と同様に、まだ統一されていないバラバラの状態であった。と考えておられたわけです。
それでは、倭人はどのような目的で楽浪や帯方へ行ったか、と見てみますと。「一體に貢献とか朝貢とかシナで稱せられることも、通常の場合には何等かの財貨を得るのが目的であったろうが、云々。以下略」(同書19ペ−ジ11行〜12行)
とありますから。朝貢すれば危険な遠路の航海に報われる莫大な財宝を賜る、とでも考えられていたのでしょう。
一時期、松本清張氏などが「朝貢貿易」という珍説を盛んに主張されましたが。それもこの津田博士説あたりから出ているのでしょう。
しかしそれでは、行きはよいとしても帰りはその財宝は狙われたでしょう。多くの国々のなかには、僅かな通行料より、その財宝をそっくり頂戴しょうとする国も出てきたでしょう。
あるいはこれらの馬韓五十四国らは、小国であったから略奪する力もなかった。と考えていたかも知れません。「大国萬餘家、小国數千家」というのですから、これらの国は小国であったに違いありません。しかし、こちらはさらに弱小であったのです。
「ツクシ舟」というのですから、大船ではないと考えておられたのでしょうが、乗組員も数人かせいぜい十数人でしょう。
戦力らしい戦力もなかったのです。長い帰り道でその莫大な財宝が強奪されずに無事に日本列島にたどりつければ、奇跡でしょう。
もちろんその奇跡が四百年間も続くことは、ありえないでしょう。
津田博士も、それくらいのことは考えられたでしょうから、やっぱり南朝鮮の馬韓五十四国、弁韓十二国等は、高度の文明国家であった、と考えられていたのかも知れません。
しかし博士は『三国史記の新羅本紀について』という論文のなかで、
「韓地に関する確実な文献は、現存のものでは、魏志の韓伝とそれに引用せられている魏略とが初めのものであって、それによって、三世紀の状態が知られ、並にや丶遡って、一・二世紀ごろの大体の様子が想像せられる。・・・中略・・・(新羅紀は)建国の年を前漢の宣帝の五鳳元年(BC57)としている。さうして、それから後の年代記がずつとできている。これが既に怪しいことであって、こんな年代記が後に傳はるくらいならば、一・二世紀に於いてシナの文化は、よほど深く新羅に植えつけられていなければならず、従って辰韓の他の諸国も同様でなければならぬ。更に広くいふと、三韓全体がほぼ同じ程度の文化を有っていなければならぬ。韓地全体の文化がそれほどに開けていたならば、シナもしくは楽浪のシナ人との交渉が、よほど密接でなければならず、従って、シナの史籍に韓地の記事が多く現れていなければならぬが、そんな形跡は少しも無い。のみならず、それほどの文化を有するものとしては、政治上の状態があまりに幼稚である。」(岩波書店版『日本古典の研究下付録』P553〜P554)と述べられています。
津田博士は、お若いころ満鮮史を専門に研究されたそうで、そのときの先生が「邪馬台国九州説」で有名な白鳥庫吉博士であったとのことです。従ってこのあたりの見解は、両博士は同じであったようですが。戦後の古代史学が、この権威ある両博士の見解に大きく影響されていることは周知の通りです。
さて博士は、韓地すなわち朝鮮半島南部は政治上の状態があまりにも幼稚であった。と考えておられたわけです。幼稚であるから領土意識や領土防衛思想も芽生えておらず。倭人を始め他国人が自由気儘に、その土地を通行したり、根拠地を設置することができる状態であった。と考えておられたのでしょう。
しかし、当時の朝鮮半島はそれほど幼稚であったでしょうか。
前に述べましたように、「衛満」が箕子朝鮮へ亡命したのはBC196年です。従って遼東にあった箕子朝鮮を簒奪するのは、その数年後でしょう。
遼東の領土を簒奪された箕子朝鮮王準が、朝鮮半島南部に逃れて、その地に定着したのはBC190年前後でしょう。それ以前の朝鮮半島の事情を伝える資料はありませんから、あるいは幼稚な状態であった、と推測してもよいかも知れません。
しかしそのBC190年頃の時点をもって、朝鮮半島の事情は截然と分かれます。箕子朝鮮王準が入ってからは、幼稚な状態であるわけはありません。
当初、箕子朝鮮王準に従って南朝鮮に入った人。また王準を慕って、遼東を脱出して南朝鮮入りした人々。これらの人々が、三韓、すなわち「馬韓」「辰韓」「弁韓」の地に分散して入植したのは、これらの地から『遼寧式遺物』が多数出土していますから、疑う余地はありませんが。
それより約四百年後の『魏志韓伝』には、「馬韓」五十余国、十万余戸。「辰韓」「弁韓」合わせて二十四国、四、五万戸。という状態になっているのです。
これは箕子韓国が、最初から国家経営の高度な、完成されたノウハウを持っていたから、国づくりが順調に進んだわけでしょう。
政治状態が幼稚であれば、このように三韓が順調に成長するわけはありません。
あるいは現代から見れば幼稚だ、というような反論があるかも知れませんが。現代から見れば、漢帝国も魏帝国も幼稚です。ここで問題になるのは、そのようなことではありません。
問題は、当時の三韓が領土意識や領土防衛思想も持たず。外国人が自由気儘に朝鮮半島上に根拠地を設置したり、半島沿岸を自由に航行できるほど幼稚な状態であったか、ということです。
もちろん、そのような状態であるわけありません。彼らは領土や防衛には、厳しすぎるほどの強い意識を持っていたに違いありません。
それ以前の、遼東での「箕子朝鮮」は紀元前十一世紀の初めに建てられ、約九百年続いたわけですが、三韓が四百年間に人口百万以上の大国に成長していることから、考えますと。遼東の箕子朝鮮も末期には大人口を擁する大国であったに違いありません。
たかが亡命者の集団である「衛満」一味に、敗れるような国ではなかったのです。(史記朝鮮列伝によれば、衛満の兵力は「聚黨千餘人」となっている)油断なく防衛に努めておれば、国境近くの部落が略奪をうけることはあっても、国土を根こそぎ奪われるような国ではなかったのです。
亡命受け入れを懇願され、温情をもって受け入れた、その油断の隙を突かれて。不意に王の宮廷めがけて襲撃され、パニックに陥り逃げ出したのでしょう。
ですから南朝鮮に定着してからも、「衛満」に対しては、騙し討ちした不倶戴天の仇敵視していたに違いありません。
「衛満」が築いた王険城(平壌)は、『史記朝鮮列伝』によれば、難攻不落の堅城でした。これは漢の元封二年(BC109)に初めて漢の攻撃を受けていますが。それまでは漢帝国からの攻撃をうける心配はなかったのです。ですからこの城は箕子韓国からの反攻に備えて築いたものでしょう。
もちろん箕子韓国も遼東の領土奪還を熱望していたに違いありませんが、当初は人口も少なく力不足で奪還できなかったわけです。
「衛氏朝鮮」は漢の武帝のときに、何度も漢軍の攻撃をうけますが、王険城はそれを撃退します。しかし部下の裏切りなどがあり、BC108年に滅ぼされます。「衛氏朝鮮」はわずか八十数年の短命でした。それに対して「箕子韓国」では「ざま見ろ、天罰覿面だ」という心境だったでしょう。
王険城のあとに漢帝国は「楽浪郡」を設置します。箕子韓国はこの楽浪郡に対しても、強い不信感や警戒心を抱いていたのです。「衛氏朝鮮」を滅ぼした漢帝国の強大な矛先が、次にはこちらに向けられはしないか、と戦々兢々としていたのです。
この「楽浪郡」に、倭人が遠路はるばる献見していたこと、はよく知られているとおりですが。おなじ朝鮮半島内の隣国である、箕子韓国が往来していないのは、そのような事情からでしょう。
津田左右吉博士は「 一・二世紀に於いてシナの文化は、よほど深く新羅に植えつけられていなければならず、従って辰韓の他の諸国も同様でなければならぬ。更に広くいふと、三韓全体がほぼ同じ程度の文化を有っていなければならぬ。韓地全体の文化がそれほどに開けていたならば、シナもしくは楽浪のシナ人との交渉が、よほど密接でなければならず、従って、シナの史籍に韓地の記事が多く現れていなければならぬが、そんな形跡は少しも無い。のみならず、それほどの文化を有するものとしては、政治上の状態があまりに幼稚である。」
と述べられていますが、三韓が楽浪郡と交渉がなかったのは、以上に述べたように中国人に対する不信感や警戒心によるもので。文化が開けていないとか、政治上の状態が幼稚だとかいう考えは完全な見当違いです。
しかしこの点については、他の学者からも指摘や非難がなかったのですから、これは当時の東洋史学の定説だったのでしょう。
津田博士のみではなく戦前の東洋史学全体のレベルは、このようにヒドイ状態であったのです。朝鮮半島の事情を軽視して、頭から幼稚だときめつけて怪しまない風土が東洋史学界にあったのでしょう。
朝鮮半島への見方が杜撰であった点は、それだけで終わっておれば、ごく狭い東洋史学内部の問題であり。いつかは見直し、修正がされたでしょう。
ところが見直すまえに、占領軍が津田史学や『魏志倭人伝』等の中国側史書を強力に推進したために。見直さないまま、杜撰な定説は日本史の方にプーメランのように跳ね返って。このようなデタラメな定説の上に、日本古代史を構築することになってしまったのが実情です。
楽浪郡の設置を,風のたよりに聞きつけた北九州の未開人が、ボロ儲けのチャンスとばかりに朝貢貿易を開始した。とか中国の冊封体制に組み込んで頂くために、朝貢した。という信じられないような説が生まれてきたのも、朝鮮半島にたいするこのようなデタラメな考えが、定説となっていたからです。
津田左右吉博士は、清貧に甘んじて研究一筋に打ち込む、という人格的には学者の鑑のような方であったそうですが。博士の学風は「科学的・実証的な歴史学」とは、無縁のものであったようです。
ところが周知のように、津田博士の学説は「科学的・実証的」なものだ、と誤って信じられました。これが戦後の古代史学を見当違いの方向へ押しやった一つの原因であろうと思われます。
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さて遼東にあった「箕子朝鮮」が、燕からの亡命者「衛満」に国土を奪われ、南朝鮮へ移遷して来たわけです。
その「箕子朝鮮」は紀元前十一世紀の初めごろ、建国されたと考えられますが。『史記』によれば「箕子」は殷帝国でも、最もすぐれた賢人の一人でした。
殷帝国の文化の高さは、殷墟の発掘により明らかにされていますが。その文化を受け継いでいる「箕子朝鮮」は、建国時から極めて進んだ国であったに違いありません。
その後、中国本土では、西周・春秋・戦国と大変な勢いで進歩しましたから、箕子朝鮮も中国本土に比べると後進国ということになっていたでしょう。
しかし中国本土をのぞけば、東アジアで最も進んだ国の一つであったに違いありません。
「箕子朝鮮」は遼東で約九百年続きました。朝鮮半島南部へ移遷したのちの「箕子韓国」は約五百年続いたと考えられます。その永い歴史のなかで、「衛満」に国土を奪われ、脱出してきた時が最も苦しかったでしょう。
その苦しい時の倭人の支援は、文字通りの「地獄で仏」で彼らにとっては本当に有り難かったでしょう。それがあったから、その後、五百年間一貫して倭人船の通交を支援してくれたのでしょう。
それ以外に倭人船が数百年間も、朝鮮半島沿岸の航行を続けることができた理由は考えられないでしょう。
また倭の北岸「狗邪韓国」は洛東江の河口付近にあり、「箕子韓国」すなわち三韓の首都は洛東江の中流付近にあった、と推測されますが。「狗邪韓国」が洛東江の河口付近にあるのは、倭の北岸といわれるように、倭国と朝鮮半島間の渡海のための施設ですから、対馬の対岸である洛東江の河口付近に設置するのは、当然と言えます。しかし遼東から逃れてきた「箕子韓国」が、わざわざ遠い洛東江の流域まで来て落ち着いたのは、倭人から勧められた、以外には考えられないでしょう。
またあべこべに、韓人が先に定住していて。その後に、倭人が洛東江の河口付近に根拠地を設置しょうとしたとすれば、これは円満には行かなかったでしょう。
せっかく遼東から逃れてきて、やっと築いた安住の地の、のどもとに海の向こうから海賊がやって来て根拠地を造ろうとしている、これを追い払わなくては安心して住めない。「撃退か、しからずんば韓民族の滅亡か」とばかりに死に物狂いになって抵抗したでしょう。
衛満への対応が甘かったために、それに付け込まれて国土を奪われた彼らは、二度とその悲劇を繰り返すまい、と決意していたでしょうから。倭人が後から来たとすれば、それを許すわけはなかったのです。
『日本書紀』の崇神天皇十七年の条に、「冬十月始造船舶。」とあります。私がこの一連の記事を、干支二巡、百二十年取り違えたものだ、と推定する根拠はここです。
崇神天皇十七年とはBC81年です。箕子朝鮮王が朝鮮半島南部へ移遷してきてより、百年以上を経ているわけです。
この時期に倭人が、舶(外洋船)を始めて造って、朝鮮半島へ出ていったとすれば、必ず箕子韓国と衝突したに違いありません。「狗邪韓国」を円満に設置するのは不可能であったのです。
もちろんこれより後になりますと、尚更、円満に設置する機会はありません。
それではそれ以前、干支一巡、六十年前はどうかと見ますと、BC141年ですから、「箕子韓国」が建国してから五十年ばかり後になります。やはり円満には設置できなかったのです。
ですからこの、『始造船舶』の条は百二十年前のBC201年でなければ、朝鮮半島の情勢と合わないのです。
「狗邪韓国」は洛東江の河口付近、後の「金海」であろう。と推測されています。ここは対馬の対岸であり、船舶を停泊するに適した良港であったのでしょう。
しかし「三韓」すなわち「馬韓」「辰韓」「弁韓」側から見れば、ここは国内交通の要衝でした。入植した当時は陸上には道路がなかったわけですから、連絡や物資の輸送はほとんど舟運にたよっていたでしょう。
「箕子韓国王」から地方への命令も、地方から「箕子韓国王」への報告もこの地を経由したのです。もちろん人や物資もこの地を通ったわけです。
この「金海」の地は「箕子韓国王」の、のどもとの地であり、連絡網、交通網の扇の要の位置を占めていたわけです。本来であれば、外国人に委ねる土地ではないのです。
その地を倭国が自国の領土としていたのは、『魏志倭人伝』に明らかですが。これは倭人が韓人より一足早くBC201年に、舶(外洋船)を始めて造船した直後に、渡海用の基地として設置してあったからでしょう
「箕子朝鮮王」は「衛満」に騙し討ちされて、南朝鮮へ逃れてきたわけですから。当然、疑い深くなっていたに違いありません。
「人を見れば泥棒と思え」という格言がありますが。当時の彼らには、外国人はすべて韓の土地や財産を狙う泥棒に見えたでしょう。
しかし彼らも倭人は信用していたわけです。洛東江の河口付近に倭の根拠地を維持できたのも、三韓の領海を通って、楽浪帯方へ往来していたのも、韓人が倭人を全面的に信用していたからに他ありません。
倭人が朝鮮半島の沿岸を四百年間も往来できたのは「古代史上最大級の謎だ」と述べましたが。考えてみますと、それは謎ではないわけです。往来できたのは「箕子韓国」と倭人が同盟関係にあったからです。「箕子韓国」が傘下の諸国に「倭人船の航行に協力せよ」と指令を出していたから、往来できたわけです。
飲料水や食料も、嵐のときの避難にも、常に韓人側の支援をうけることが出来たから、四百年も五百年もの間、朝鮮半島沿岸の航行をつづけることが出来たのです。
それ以外の理由はあり得ないでしょう。
謎はそのような両者の同盟関係が、なぜ生まれたか。という点です。
しかし、その謎は崇神天皇紀の「始造船舶」の条を、干支二巡、百二十年前に戻すことにより、容易に解けます。
おそらく最初の事情は、遼東から逃れてきた「箕子朝鮮王」と、甕津半島のあたりで出会った倭人は、その悲運に同情して、洛東江の流域には居住に適したよい土地がありますよ。と勧めて、定住を支援したのでしょう。
それくらいだから、朝鮮半島に対する領土欲はない、と韓人側にもよく判っていたわけです。領土欲があれば、勧めるわけはありません。
すなわち倭人を全面的に信用できたのは、そのような経緯があったからでしょう。
『日本書紀』崇神天皇紀の一連の事件記事を、百二十年前に引き戻すと、『史記』の三神山捜索事件と対応することは、前に述べましたが。「始造船舶」の条も同様に、『魏志韓伝』の箕子朝鮮王の南遷の事情。及び『漢書地理志』や『魏志倭人伝』の倭人渡航の記事と対応し、その謎が、解けるわけです。
『日本書紀』『史記』『魏志韓伝』『漢書地理志』『魏志倭人伝』等の別系統の記事が、整合性をもって結びつくということは、これらの記事の正しさを互いに証明しあっていると判定してよいでしょう。
日本歴史のあらすじ
神武天皇がBC660年に、大和橿原の地で即位されたのは間違いないでしょう。
その様なことを、捏造しなければならない動機などあるわけはありません。それを否定する津田博士らの説は、一度読み返して頂ければ判りますが、学説と言えないほどの支離滅裂な憶説で、根拠など何一つないのです。
さて当時の日本列島は平和であったでしょう。
もちろん喧嘩口論ていどはあったでしょう。ときには殺人事件も発生したかもしれません。しかし戦争と言えるほどのものは、なかったでしょう。
始めて日本列島に戦乱が訪れたのは、BC213年『崇神天皇五年』に斉国からの亡命者「太田田根子」が来たときでしょう。
しかしこの戦乱は無事に収拾されました。
当時の倭国は「太田田根子」一派とは、桁違いの大人口を擁していましたし。戦争の経験はなくとも、狩りは日常行われていましたから、弓矢の使用は上手であったのです。「太田田根子」も次第に苦戦となっていたでしょう。
しかし彼が降伏しようと考えたのは、「『盧生』が追いかけてきている」という報告を受けたからでしょう。
仮に倭国を征服できたとしても、「秦の始皇帝」の軍隊に来られては、万事休すです。倭人は助かっても、「太田田根子」一派は助からないでしょう。
先ず「盧生」を捕らえて、「秦の始皇帝」を防ぐ手だてを立てねばならない。それには倭人と和睦するより他ない、と判断したわけです。
それ以後の『崇神紀』から窺える、倭国の防衛体制は「太田田根子」らの献策によるものでしょう。
朝鮮半島まで偵察隊を出したのも、彼等の献策によるもので。倭人のみではそのような考えは出なかったでしょう。また崇神十七年に「全国に命令して船舶を造らした」のも、彼等がいたからで。当時の倭人社会では「外洋船」を必要とする環境など無かったに違いありません。
また倭人が海外からの脅威を恐れるようになったのも、この時に「太田田根子」らが来たからでしょう。彼等が来ていなければ、おそらく後の『元寇の役』まで、海外の脅威を感じることは無かったでしょう。
ドーバー海峡は四十数キロ、朝鮮半島と日本列島との間は二百数十キロ、とよく比較されますが。この海を越えて軍隊を送るのは、古代では大変な難事業であったに違いありません。中途半端な軍隊ですと全滅させられるわけで。それかといって大軍隊を送るとなると、輸送船や兵糧などたいへんな難題が発生します。
最盛期の元帝国でさえ成功しなかった難事業です。
『元寇の役』以前には、日本列島まで大軍隊を送れそうな国は見つかりません。
しかし「秦の始皇帝」だけは例外です。この人物は自分の「不老不死」のためには、いかなる犠牲を払っても、強力な軍隊を日本列島まで送ることを辞さなかったでしょう。
そのように始皇帝の時代は、倭国の歴史としては唯一、海外からの脅威を感じて、それに備えようとした時代でありましたが。歳月とともにその脅威も衰えてきたでしょう。
だいたい『不老不死の神仙思想』さえなければ、倭国は海外からの脅威を恐れる必要は無かったのです。『不老不死の神仙思想』が衰えれば倭国への脅威はなくなるわけです。
前漢時代の前半は、「漢の武帝の神仙捜索」などがあり。倭人の緊張も続いていたでしょう、しかし前漢の終わりに近くなると緊張感もなくなってきていたのでしょう。数百年も平穏無事な年月が過ぎますと、外敵が現れそうもないのに、どうして取り越し苦労を続けねばならないのだ。という意見も出てきたに違いありません。
いつまでも天皇のお耳に入れて、煩わせるのは畏れ多い。万事、筑紫太宰が責任をもつて処理することにして、天皇を悩ませ奉ることはなくそう。しかしそのためには中国本土まで行って、『不老不死の神仙思想』の状況を視察して、確認する必要がある。
D、そういうわけで天皇の特命をうけて、視察に行った使いが、垂仁天皇九十年(61年)の田道間守であり、D、『後漢書倭伝』の「建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。」とある使者でしょう。
年代には数年の誤差がありますが、この二人は同一人物でしょう。
田道間守はその十年後に帰ってきますが。垂仁天皇が崩御されているのを知り。
悲嘆きて「命を天朝に受け、遠く絶域に往く。萬里浪を蹈みて、遥か弱水を度る。是の常世国は、神仙の祕區、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来う間に、自ずから十年を経ぬ云々」とまうす。
とあります。「萬里浪を蹈み」といっても、当時はハワイや台湾へ行くわけはなく、これは朝鮮半島へ行った以外にないわけです。さらに弱水とは鴨緑江のことでしょう。
すなわち「萬里浪を蹈み」楽浪郡へ船で行きました。そこで上陸して鴨緑江を渡り、遠く絶域の地である洛陽へ行き、後漢の光武帝に奉貢朝賀しました。「光武賜うに印綬を以てす。」と後漢書倭伝にありますが、田道間守の目的はそのようなもの、を貰いたくて行ったわけではありません。神仙道を学びたい、ということであったに違いありません。
「神仙祕區」とは、神仙道の大道場、神仙道の総本山のことでしょう。しかしそこは俗人を入れるところでありませんでした。
入門を受け付けてもらう前に、先ず修行を積まねばならなかったのでしょう、その後ようやく入門を許されましたが、奥義をきわめるまでさらに数年かかりました。そのために往来に十年かかり、天皇の崩御の間に合わず、残念だと泣き叫んだ。のでしよう。
田道間守が、持ち帰った「非時の香菓」(ときじくのかくのみ)とは、垂仁紀九十年に「今、橘と謂うは是なり」とありますが、それではつじつまが合いません。
おそらくその十年間、「昼も夜も、時をかまわず、目を見開き、耳をそばたたせ、鼻で嗅ぎまわって集めた情報」のことでしょう。
彼が集めた情報によれば、当時の中国本土では「不老不死の神仙」は中国本土から、はるか西方の高山に住んでいると信じられており、東海中に神仙が住む、という説をとなえる人は無くなっていました。
「不老不死の神仙捜索」を心配する必要は、現在のところ全くない。ということでそれ以後、海外の情報収集や、外交交渉は『筑紫太宰』に全権一任され、天皇をわずらわすことが無くなったのでしよう。
そういう次第で、後漢の安帝、永初元年(107年)洛陽を訪れた「倭國王帥升」以降の使者は、すべて筑紫太宰の部下であり、大和朝廷に報告されることはなかったのでしょう。
照合年表を再掲しておきます。
照合年表
| 西暦 | 中国 | 韓国 | 日本 | ||
| BC1200年頃 | 殷帝国滅ぶ 西周王朝始まる |
箕子朝鮮始まる | |||
| A | BC690年 | 紀侯其の國を大いに去る | |||
| A | BC663年 | 五瀬命、紀國にて崩御 | |||
| BC660年 | 神武天皇橿原宮にて即位する | ||||
| B | BC221年 | 秦が田斉を滅ぼし、中国を統一した。 | |||
| BC219年 | 始皇帝28年、徐福三神山捜索を願い出る | ||||
| BC215年 | 始皇帝32年、始皇、碣石に之き燕人盧生に羨門高を求めしむ | ||||
| BC213年 | 崇神天皇五年、國内ニ疾疫多クシテ、民死亡レル者有リテ、且大半ギナムトス | ||||
| BC212年 | 六年、百姓流離ス。或ハ背叛スル有リ。其ノ勢、徳ヲ以テ治メ難シ。 | ||||
| B | BC211年 | 崇神七年、「大田田根子ヲ以テ、吾ヲ祭レバタチドコロニ平ギナム」ト神ノオ告ゲアリ。大田田根子ヲ以テ、大物主大神ヲ祭ル主トス。 | |||
| BC210年 | 始皇帝37年、始皇死亡 | ||||
| BC209年 | 二世皇帝元年、中国中に反乱起き、斉の田F自立する | 九年、三月、天皇ノ夢ニ神人有リ「赤盾八枚・赤矛八竿ヲ以テ墨坂神ヲ祠レ、黒盾八枚・黒矛八竿ヲ以テ大坂神ヲ祠レ」ト曰ウ。四月、夢ノ教ニ依リ、墨坂神・大坂神ヲ祭ル | |||
| BC208年 | 十年九月、四道将軍ヲ遣ス。詔シテ「若シ教ヲ受ケザル者有レバ、乃チ兵ヲ擧ゲテ伐テ」ト曰ウ。 武埴安彦ノ謀叛。大坂ニテ吾田媛ヲ殺シ、悉ク其ノ軍卒ヲ斬ル。山背ニテ埴安彦ヲ射殺ス。其ノ軍衆ヲ追イ、首ヲ斬ルコト半ニ過グ。 箸墓ヲ作ル。 十月、群臣ニ詔シテ「今、反者悉ク誅ニ伏ス。畿内無事ナリ。唯シ海外ノ荒俗、騒動止メズ。其レ四道将軍等、今急ギ発テ」ト曰マウ。丙子、将軍等、共ニ発路ス |
||||
| BC207年 | 秦帝国滅ぶ | 十一年、四月、四道将軍、戎夷ヲ平ゲタル状ヲ以テ奏ス。 是歳、異俗多ク歸シ、國内安寧。 |
|||
| BC206年 | 漢高帝元年、 漢始まる |
十二年、三月、詔シ「朕、初メテ天位ヲ承ケテ、宗廟ヲ保ツコト獲タレドモ、明モ蔽ル所有リ徳モ綏スルコト能ハズ。是ヲ以テ、陰陽謬リ錯イテ、寒サ暑サ序ヲ失ヘリ。疫病多ニ起リテ、百姓災ヲ蒙ル。然ルヲ今罪ヲ解ヘ、過ヲ改メテ、敦ク神祇ヲ禮ウ。亦教ヲ垂レテ、荒ブル俗ヲ綏シ、兵ヲ擧ゲテ服ハヌヲ討ツ。是ヲ以テ、官ニ廢事無ク、下ニ逸民無シ。教化流キ行ハレテ、衆庶業ヲ樂ム。異俗モ譯ヲ重ネテ來ク。海外マデモ既ニ歸化ス。此ノ時ニ當リテ、更ニ人民ヲ校エテ、長幼ノ次第及ビ課役ノ先後ヲ知ラシムベシ」トノタマウ。 九月、始メテ人民ヲ校シ、マタ調役ヲ科ス。此ヲ男ノ弭調、女ノ手末調ト謂ウ。是ヲ以テ天神地祇共ニ和亨シ、風雨時ニ順イ、百穀用成、家ハ給シ人ハ足リ天下太平ナリ。故、稱シテ御肇國天皇ト謂ス也。 |
|||
| C | BC202年 | 漢高帝五年、田横、誅殺を恐れ海上に逃げ島にいるも。漢高祖に呼び出され自殺す | |||
| C | BC201年 | 十七年、七月、詔シ「船ハ天下ノ要用ナリ。今、海辺ノ民、船無キニ由リ甚ダ歩運ニ苦ム。其ニ令シ、船舶ヲ造ラシメヨ」ト曰マウ。 〃 十月、始メテ船舶ヲ造ル |
|||
| BC196年 | 漢高帝十一年、燕王盧綰が匈奴に亡命 | 盧綰の部下、衛満も箕子朝鮮へ亡命 | |||
| BC190年頃 | 衛満が箕子朝鮮を簒奪 箕準は脱出して南朝鮮に韓国を始める |
||||
| BC107年 | 漢が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡を設置 | 楽浪海中ニ倭人有リ、分カレテ百餘國ヲ為ス、歳時ヲ以テ來リ献見スト云ウ(前漢書、地理志) | |||
| 25年 | 後漢王朝始まる | ||||
| D | 57年 | 倭ノ奴国、奉貢朝賀ス | |||
| D | 61年 | 垂仁九十年、田道間守、絶域へ使いす | |||
| 107年 | 倭国王帥升等請見ヲ願ウ(後漢書) | ||||
| 238年 | 倭の難升米等、朝見す(魏志) | ||||
| 240年 | 魏の梯儁等、倭国へ詣る(魏志) | ||||
| 243年 | 倭王、使大夫を魏へ派遣(魏志) | ||||
| 247年 | 魏の張政等、倭へ遣す(魏志) | ||||
「垂仁九十年、田道間守、絶域へ使いす」以後、海外への偵察や外交はすべて『筑紫太宰』に任せることになったのでしょう。
『日本書紀』に、それらの『魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』の外交記事に対比できる記録がないのは、そのためと推測されます。
『古代韓国の歴史』の末尾で述べましたように、天皇が再び関与されることになったのは『箕子韓国』が滅亡するときでしょう。
後漢の光武帝のとき、我が国では垂仁天皇の時代に、田道間守が「不老不死の神仙思想」の視察のために、中国本土を訪れたわけです。
その結果、「東海中の三神山捜索」は今後、二度と起こることは無い。と判断されて、大規模の防衛軍はその時に廃止されたのでしょう。
「東海中の三神山捜索」はその後、再燃することはなかったのですから。そのときの判断は正しかったわけです。
さて、我が国最初の防衛軍は、崇神天皇の時代に作られたものでしょう。
崇神十年(BC208)九月、四道将軍ヲ遣ス。詔シテ「若シ教ヲ受ケザル者有レバ、乃チ兵ヲ擧ゲテ伐テ」ト曰ウ。
とは、この時に四道に将軍を派遣して兵を募ったのです。始めてのことでうまく募兵できるか分からず、「若シ教ヲ受ケザル者有レバ、乃チ兵ヲ擧ゲテ伐テ」との詔を出されたわけです。
同年の翌十月「唯シ海外ノ荒俗、騒動止メズ。其レ四道将軍等、今急ギ発テト曰マウ。丙子、将軍等、共ニ発路ス」
とは、海外からの侵略に備えて、四道将軍等に出動命令が下りました。丙子の日に、将軍達は急募した兵を引き連れて出発したのです。
それらの軍勢は、九州から瀬戸内、畿内をはじめ西日本の防衛上、重要と思われる地点に配備されたのでしょう。
翌、崇神十一年(BC207)四月「四道将軍、戎夷ニ平ケタル状ヲ以テ奏ス。」
とは、外敵に向けた防衛軍の配置が完了しました。との報告があったわけです。
この軍隊はBC208年から田道間守が帰朝するAD65年頃まで、約二百七十年間、当時としては大規模の防衛軍として維持されていたのでしょう。その間、外国の侵略はなかったのですから、この軍隊は「無用の長物」であったわけですが。
多くの若い人々が集められて、集団生活をするのは、倭国では始めてのことでしょうから。当時の倭国社会に大きい刺激を与え、社会の活性化を促したと思われます。
おそらく中国の、若者に対する教育法や訓練法が取り入れられ、倭国社会には有益なことが多かったでしょう。
しかし二百七十年間も続きますと、末期には弊害も多くなり、防衛軍の維持は倭国社会に重い負担となっていたでしょう。
ですから田道間守の帰朝報告があった後、間もなく廃止されたと思われます。しかしある程度の軍隊は残して、『筑紫太宰』に預けられていたでしょう。
『筑紫太宰』はその軍隊の監督権と、すべての外交権を握っていたでしょう。外交権は本質的には情報収集のための権限で、我が国の安全が脅かされることはないか、と偵察するのが眼目であったに違いありません。
彼等は、代々楽浪郡や帯方郡、また後漢や魏の都へも使節を送りましたが、それらの外交交渉は情報収集のための視察団で。
国威を発揚するためでもなく、朝貢貿易を行うためでもなく、中国の冊封体制に組み入れて頂くため、でもありません。
もちろん田道間守が後漢の都を訪れた目的も、情報収集以外にあるわけがなく、彼が光武帝から「金印」を頂いてきたことは、大いにあり得ますが。その金印の威力で、倭国内に領國を頂ける、ような荒唐無稽なことはあるわけはありません。
彼の子孫が、その「金印」を家宝として、伝えていたこともありえますが。「これは我がご先祖が大旅行したときに、先方の王様から頂いた貴重な土産物だ」と自慢の種になるていどのものです。
後漢が日本列島の上に領土の支配権を持っていた、という考えが出てくる自体。我が国の東洋史学のレベルが、いかにひどいものであったか、を示す証明と云わざるを得ないでしょう。
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魏 志 倭 人 伝 の 謎 解 き
さて、後漢の次の時代は「三国時代」です。すなわち『魏志倭人伝』の時代です。この『魏志倭人伝』が注目されるのも、理由があるわけで、中国歴史書の倭国に関した記録では最も長文の記録です。
また魏の使者が日本列島まで、二度訪れた見聞記録も有ります。
それ以前は『前漢書地理志』に「楽浪海中倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り、獻見すと云う。」とあり。
『後漢書倭伝』には、「建武中元二年(AC57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。」とか「安帝の永初元年(AC107)倭の国王帥升等、生口百六十人を獻じ、請見を願う。」と倭人が中国の都、洛陽を訪れた記事はありますが。
中国人が倭国を訪れた記事はありません。
これから考えますと「前漢」「後漢」時代を通じて、倭人が中国本土や、楽浪郡を訪れたことはありましたが。中国人が倭国を訪れたことはなかったのでしょう。
どうして三国時代になって、中国人が日本列島を訪れることになったのでしょうか。
三国時代に入り、「楽浪郡」や新設されたばかりの「帯方郡」は魏国の支配下に入ります。
その帯方郡などへ倭人の使者は訪れたわけですが。この時は「後漢」時代の延長の軽い気持ちで。倭国の都は大和で、君主は「日の御子」です。などと正直にのんびりした会話を交わしていたのでしょう。
ところが急に、魏人は倭国の事情を根掘り葉掘り、問いただし始めました。さらに倭国を訪問したい、と言い出したわけです。
これは、おそらく中国本土での軍事戦略の進歩と関係があるのでしょう。
この時代は云うまでもなく「魏国」「呉国」「蜀国」の三国の鼎立時代です。後漢末から戦乱続きの時世でした。また、『三国志演義』で知られるように、名将、名軍師が、続々と輩出しました。
三国の主戦場はもちろん中国の中央部でしたが。戦線が膠着しているときは、力任せに戦線突破をはかるだけではなく、相手の背後に手をのばして、挟み打ちを図るとか、後背部を攪乱するとか、戦略も複雑化していたのです。
当時、「呉国」は「魏国」の背後にある遼東の「公孫淵」と連携して挟み打ちを企てました。それが失敗に終わると、次には「高句麗」との同盟を結びます。
また「蜀」の名軍師である諸葛孔明が、背後の蛮族を平定して心服させた『七縦七擒』の故事も、魏国からの後方攪乱を防ぐためです。
そのように、戦争も次第に高度化していました。魏国では出先機関である『帯方郡』や『楽浪郡』に対して、背後の東夷諸国を徹底的に調査せよ、と厳命を下していたのでしょう。
後漢から魏に代わって、倭国まで使者を送ることになる根本的な原因は、そのような中国側の事情があったわけです。
片方の倭国では、その事情は直ちに「筑紫太宰」に報告されたでしょう。報告を受けた「筑紫太宰」は、それをチャンス到来と捕らえたわけです。
魏国の使者を受け入れ、日本列島が平凡な人間のすむ島々であることを、よく見せておけば。将来「東方海中の不老不死の三神山思想」が再燃しても、日本列島にその疑いがかかることはない。と考えたのでしょう。
この際に禍根を根絶しておこうと考えたわけです。
『魏志倭人伝』には「其の死には棺あるも槨無く、土を封じて冢を作る。初め死すや停喪十余日、時に当たり肉を食わず、喪主哭泣し、他人就て歌舞飲酒す。」とか「其の人寿考、或は百年、或は八・九十年。」とあるのは、これを魏使に見せるのが、日本列島まで招いた真の目的であったと考えられます。
倭国には死人も出ます、老人も多数住んでいます。「不老不死」の地ではありません。と実見させ、確認させることが目的であったのでしょう。
しかし日本列島が平凡な人間が住む島である。ことを魏の使者に見てもらうのはよいが。これらの使者は、将来魏国が倭国へ軍事侵攻する場合に備えた偵察員でもあるわけです。
防衛上、日本列島の地理は、知られては困るのです。また何よりも天皇や皇居がある「大和」の場所は知られてはならないのです。万が一にも「大和」が奇襲攻撃を受けてはいけないのです。
しかしかつて、「倭国の都は大和で、君主は『日の御子』です。」と馬鹿正直に答えていたために、これを何とかカムフラージュしなければなりません。
そういうわけで、創作したのが「邪馬台国」と「卑弥呼」です。すなわちこれは「大和の国」や「日の御子」(天皇)への奇襲攻撃を避けるためのダミー(囮り)でしょう。
『邪馬台』と「大和」、『卑弥呼』と「日の御子」はそれぞれ同音でしょう。古代の日本列島に、偶然にも同音の君主を頂く同音の国が存在した。とは一寸考えられないでしょう。
すなわち片方は本物ですが、、片方はイミテーション(模造品)であったに違いありません。なぜ当時イミテーシッン(模造品)を作ったか、だれがそれを必要としたか、と考えても。どちらが本物であり、どちらがイミテーションであるかは、自ずから分かります。
また、古代の日本では「大和」が首都であり、天皇が日本の君主であったことは疑いないのですから、「邪馬台」や「卑弥呼」の方がイミテーションであることは自明の理です。
論争が発生するような問題ではなかったのです。
ところが、前章の序論でも述べましたが。明治時代になり、東京帝国大学教授の「白鳥庫吉博士」が『邪馬台国九州説』を発表しました。
「白鳥博士」は東京大学の教授を務めるほどの方ですから、優秀な頭脳の持ち主であったに違いありませんが。少々そそっかしくて空想癖の強い人物でした。
博士は『魏志倭人伝』を読んで、大和朝廷が隠していた日本列島の秘史を発見した。と早とちりしたわけです。これは大和朝廷と別系統の王国のことに違いないと、思い込んだわけです。
「邪馬台国九州説」とは、白鳥庫吉博士の幻想からの産物です。
『魏志倭人伝』を文字通りに読めば、「邪馬台国」は九州はおろか日本列島上に存在するわけはありません。その場所は日本列島よりはるか南方の海上以外には考えようもないのは、万人の認めるところでしょう。
対 照 年 表
| 年代 | 中国 | 韓国 | 日本 | |
| 220年 | 後漢滅び、魏帝国始まる | |||
| 238年 | 邪馬台国の使者、難升米が魏に朝献 | |||
| 265年 | 魏滅び、晋帝国始まる | |||
| 313年 | 高句麗が楽浪郡を滅ぼす | |||
| 314年 | 高句麗が帯方郡を滅ぼす | |||
| 316年 | 晋帝国滅亡 | |||
| 晋の一族が後の南京の地で東晋を起こす | ||||
| 324年頃 | 箕子韓国が滅亡 | 仲哀天皇二年、箕子韓国より救援の要請あり 救援に失敗、神功皇后の指揮の下に倭の北岸、狗邪韓国を撤退 |
||
| 364年頃 | 百済との国交を開始 | |||
| 369年 | 百済が高句麗軍を破り五千余級の首をとる | |||
| 371年 | 百済が高句麗王を討ち取る 百済が旧帯方郡の地に都を置く |
田道間守が後漢の都を訪れた以後、倭国の防衛は『筑紫太宰』に一任されていましたが。彼等は防衛問題で深刻に悩むことはなかったでしょう。
倭国は朝鮮海峡と玄界灘という天然の城壁に守られていますから「東方海中の三神山捜索」さえ再燃しなければ、大海を越えて日本列島へ軍隊を送り込んでくる国が現れるとは思えなかったでしょう。
従って324年頃になって、箕子韓国から救援の要請があったときには、困惑したでしょう。彼等は、朝鮮海峡と玄界灘という天然の城壁のこちら側で戦うのが絶対に有利だ、と考えていたでしょうから。天然の城壁の向こう側、朝鮮半島へ出かけて不利な戦争をする、など考えたこともなかったに違いありません。
それで大和朝廷の指示を仰いだのでしょう。(これは日本書紀では仲哀天皇二年であったと推測されます)
しかし大和朝廷も困惑したに違いありません。田道間守以来、三百年近く、戦争など念頭に無い平和な生活を送って来ていましたから、大和朝廷内には有能な武人も少なくなっていたでしょう。
『仲哀紀』二年三月に「浮海して穴門に幸す」とありますから、とりあえず天皇は船で穴門すなわち山口県へお下りになったのです。また『仲哀紀』には仲哀八年になって「筑紫に幸す」とありますから、山口県では数年にわたって、軍議や船、兵糧の準備、軍勢の徴募やその訓練に明け暮れたのでしょう。
仲哀八年に筑紫に行かれたのは、、いよいよ軍隊の輸送に取りかかったのでしょうが。その途中で仲哀天皇の急逝があったのでしょう。
また『韓国の歴史』でも述べましたように、箕子韓国王の戦死もそのころにあり。箕子韓国は滅亡したのであろうと思われます。
箕子韓国の滅亡により「狗邪韓国」の維持は無理と考えて、この時に撤退したのでしょう。その指揮を神功皇后がとられた、という記事が『帝紀・旧辞』の中にあったのでしょう。
後年、『日本書紀』の編纂ににとりかかった大和朝廷は、種々の資料を調べましたが、『魏志倭人伝』に、卑弥呼女王の記事があることを見つけたました。
彼等は、卑弥呼女王とは神功皇后のこと、と誤解したのでしょう。『神功皇后紀三十九年及び四十年の細注に、「魏志に曰く」とある記事は。彼等がそう誤解した証拠です。
これはまた、『帝紀・旧辞』のなかには「卑弥呼女王」に相当する女性の天皇が存在しなかった証拠でもあります。
すなわち「卑弥呼女王」とは、中国人と外交交渉を行っていた「筑紫太宰」が、作り上げた架空の女王であったのでしょう。
これは「筑紫太宰」が、九州に独立国をつくろう、というような野心をもっていたわけでなく。
中国との折衝事に天皇を巻き込みたくない、ご面倒をかけたくない、ということで「卑弥呼女王」という架空の王を作り上げただけで。当時の九州に、大和朝廷と別の独立国があったというような考えは、まったく見当違いの妄想にすぎません。
さて、箕子韓国を救援できなかったことは、大和朝廷も、『筑紫太宰』も深く反省していたでしょう。自分達の優柔不断な決断力のなさが箕子韓国王を救えなかった。と後悔していたに違いありません。
ですから『韓国の歴史』でも述べたように、364年頃になって百済国王から救援要請があったときには。熟慮せずに、早々に救援軍を派遣したのです。
以後の百済との国交については、日本書紀の記事を、干支二巡、一二〇年繰り下げることにより史実を推測できます。
また中国との交流は、隋書以後の記録と、日本書紀とが整合性をもって繋がることは周知のとおりです。
以上が日本歴史のあらすじです。
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