池袋小劇場機関紙 No.102
2006年6月 6日発行
発行所 池袋小劇場
発行責任者 関 きよし
編 集 池袋小劇場編集部
〒l71-0014東京都豊島区池袋2-3-5
TEL03-3986−2040
FAX03-3986−1278
No.102
台本外漱石
赤木三郎
夢十夜の台本を、はじめてつくったとき、漱石のほかの短いもので、気になって仕方のないものがあって、「京に着ける夕」という随筆めいた小品。
夜の深まってゆく京の町を、人力車をつらねて駆けていく。つぎの日、宿では早く目覚めて、清冽な朝をむかえる。これだけのことだが、夜の京の、どこまでも暗く、暖かいふしぎさ、早暁の木をつつむ霧の、心を洗いなおすようなふしぎさに、町と、心と、存在との神秘にふれていくような気がしたものである。これが、関きよし演出で、舞台にのったらどんなことになるだろう。
「文鳥」は、よいけれども、三重吉と漱石のキャラクターが、あまりにも魅力的で、芝居になりすぎる。もう一本、気になるのが、漱石がロンドンで自転車の練習を思いたつ、という「自転車日記」。坂の上からころがり落ちてゆくような稽古を、日々かさねて、服はよごれ、なま傷、すり傷ばかりがお手柄。下宿の女主人に気の毒がられながらも、やめない、というもの。日記なので、これは、舞台ですこぶるおもしろいだろう、と考えた。
だが、どちらも台本には作らなかった。
さて、「夢十夜――十一日の猫」の台本ができて、関きよしさんのすばらしい演出に舌をまいた初演いらい、台本構成上ちょっと気にかかっていたのは、猫のはなしの場が短いので、夢との転換がいそがしく、だんだんと息苦しくなって(それは、とてもいいのだけれども)しまいそうなことだった。
それと、漱石家の昼のそうぞうしさで、雑然とした日常性の匂いを、ほんのすこしく加えたいとも思った。俳優さんたちと、ワークショップを、やってみたこともある。
忘れていたこれらのことを、こんど思い出して、再演の機会に関きよしさんに、むりをおねがいしてしまった。四か所ほど、昼の部分が、挿入されている。なんと、手元に台本がみあたらないまま、それをやったので、演出家には、とんでもないご苦労をおかけすることになったが、心ひそかに、たのしみにしている、芝居になりえそうもないものばかりを、よりすぐって、いれましたからね。
「夢十夜」十人の語り手
1… 山内栄治
2…やまだたけし
3…野山みどり
4… 渡辺典子
5… 川島柳一
6… 大橋真琴
7…清水あくた
8… 伊礼妙子
9…前原礼子
10…岡部ささら
台本/赤木三郎 演出/関きよし
音楽/安達元彦・松尾慧・岡部ささら
美術/幡野寛 照明/川崎ひろし
『夢十夜 ―十一日の猫 』
夏目漱石作「夢十夜」「永日小品」より
21場のかたり芝居
夏目漱石がひらいた平明なすばらしいことばの世界を、そのまま台本化して、俳優たちがかたり、また演じることで新しい舞台表現をつくりだします。
| 6 |
火 |
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7時 |
| 7 |
水 |
2時 |
7時 |
| 13 |
火 |
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7時 |
| 14 |
水 |
2時 |
7時 |
| 23 |
金 |
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7時 |
| 24 |
土 |
2時 |
7時 |
| 25 |
日 |
2時 |
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3月18日に舞台を観たあと、台本を読む機会を得た。新しい発見も多く、それらを舞台と照合しながら考えることにもなった。
(1)タイトルにある「思い出」のことばが気になっていた。だれの、何の思い出なのか。姉妹三人が「思い出」に生きるしかない姿を認めることか、また、作品『三人姉妹』はすべてが思い出に転化していくドラマといえるが、その本質の顕示か。さらに、多くの観客がチエホフ・『三人姉妹』に思い出をもつことから、観客への挑戦をねらったとも感じられた。
今のわたしには、どの立場で芝居を享受しても、三つを総合してうけとめてもいいが、それ以上に台本作者のチエホフ作品と「思い出」化する強い意図を通して、日本の現状に向き合おうとするスタンスが理解できる。
(2)四幕の展開は、イリーナの“名の日”からはじまって四年後軍隊が町を去っていくまで、ほぼ原作に忠実である。その変転に添いながら、台本は独自の設定が多岐に、積み重ねられる。若干奇異に感じたり、何となく見過ごした舞台表現をふくめ、主要なものをあげる。
@冒頭と結末に「写真」をとる。「そのときは、おたがい思い出すのもやっとで、つめたいあいさつをかわすぐらいにのところでしよう」「もう一枚、おなごりに」のせりふ。
A外からきこえる(さわぎの声)。「ヴェルシー(ニン)」が飼っている暴れ馬だとわかってくる。あとで「あばれうまにまたがった中佐」、四幕では「ヴェルシーニンが壁を蹴っている」のせりふがくりかえされる。
B一幕のかなりの部分、姉妹は年老いたメークをほどこしている(後でおとすが)。四幕の終わりでもそのメークをはじめる。舞台ではその意義がよくわからず、レディでなく「農婦」「汚い」という役割かなとの印象ももったが、台本では(恐ろしいくらいに年老いたメーク)とある。
Cマーシャは童謡「月の砂漠」を口ずさむ。「月」「砂漠」「ふたつならんで」のもつ役割。
Dアンドレイとクルイギンの人形の活用。実際の人物も登場するので「異化」の効果を深めるためと思ったが、台本では「腹話術人形」とある。それぞれアンフィーサと小間使いの女優が扱ったが、なぜそうなのかを考える。
E「ヴェルシーニン」「トウゼンバフ」は実際に登場もない。後者は舞台に現れるが場面には不参加。主にマーシャとイリーナによって二人のことばが語られる。上演では彼女たちと彼らとのせりふの区別がはっきりとれずもどかしい思いもしたが、台本を読むと、客観的な対話でなく、マーシャ・イリーナの心を動かしつつ沈みこんでいく思いとして男たちのことばが引用されているのがわかる。
F四幕後半には台本作者の数多くの設定がある。A)アンドレイと乳母車――乗せているのは、赤ん坊、アンフィーサ、アンドレイ人形、自分自身と変化する。B)遠くの(にぶい銃声)が間をおいて四回もひびく。C)軍楽隊の音楽、それは(編曲された童謡「歌を忘れたカナリア」。D)原作の最後のオーリガのせりふを姉妹三人がそれぞれ一言だけ語り、アンドレイに本来チェブトィキンの「おんなじことさ!」をくりかえさせ、オーリガに「生活は、おしまいじゃないのよ。生きて生きて行きましょうよ!」といわせる。
それぞれについてのわたしの思いを舞台の印象に重ねて語りたい気もするのだが、余計なことになるだろう。台本作者と演出のもった発想、そうさせずにいられなかった創造意識を感じ、考えること、それこそが読者(観客)の創るはたらきを生むのではないか。
(3)もうひとつ気になったのは、副題としてある「真に愛すべきものの不在」である。この意味するものは何なのか。姉妹にとって「モスクワ」と過去の生活への憧憬は消え去り、教育(オーリガ)、愛情(マーシャ)、労働(イリーナ)への期待は、絶望につながる現実となっていく。他の登場人物にとっても全く同様だ。ヴェルシーニンやトウゼンバフの「未来」についての語りも彼らのおしゃべりに過ぎない。「真に愛すべきもの」は虚像であり「実在」することではない。台本作者はそれらを「思い出」と結びつけ、強調して、形象化した。
だが、それはチエホフ作品がそもそも体現していたものではないのか。するとこの舞台は、チエホフ作品を一層徹底したもの、解釈をより具象化したものだといえようか。そして、もう一歩すすんで、「思い出」としての把握を超え、現在の日本に対する逆説的提起があると、わたしは思えてならない。願望は実らず、求めるものが「不在」であっても、われわれはやはり生きていく。現実と未来を見つめて創る営みを具体的に続ける、そこに芝居のもつ力を見出そうとする。
原作・チエホフ←→台本・赤木←→演出・関←→舞台・役者たち←→観客・われわれという相互のつながりは、そのことを通して一貫した流れとなるだろう。
といっても、意図は簡単に結実するとは思えない。この仕事でも「つもり」が先行し、自己中心の理解をしてしまうことがありそうだ。上演者も観客も、舞台と自分自身のありようを深め、練り上げ練り上げしていく努力が要求されるとも思う。 (5月24日)
3月試演「三人姉妹の思い出」上演台本を読んで
みじかい休憩をはさんで80分のうたしばい。一言で感想を述べると「ミッシュマッシュ」がぴったり。1975年初演され、演出と曲・台本に改版を重ね10演目の息の長い芝居である。キャストは若手。小劇場ならではの表情豊かな役者とアカペラが多く観客は「ほっと」する。そこに、キャロリアンが喜びそうなネタが散りばめられていた。
木の下から始まり、木の下でエンディングを迎えるといえば『不思議の国のアリス』の定番。しかしながらチョッキを着たうさぎは登場せず、落ちた先は「花が話す花壇」……と、いきなり鏡の世界である。ここで、コンセプトは『不思議〜』ではないことがわかり、何が出てくるか『ママ・ミーア』を見るアバのファンのような気分で舞台を楽しんだ。
配られた当日折込より場面展開は以下の通り。カッコ内は私の追記。1、大きな木の下 午後(蝉の声が五月蝿く、暑さを感じさせる。おねえさんがひなげし――ひなぎくではない――の冠を編んでいる) 2、花と汽車(花壇〜汽車〜涙の池) 3、揺すりいすにひつじ(ありすは思い出をタダで買った) 4、あおむしがいた(水キセルのいもむし〜左右のキノコ〜鳥の攻撃) 5、二人のディードル(輪のダンス〜戦い〜大ガラス=ねむり男の夢) 6、公爵ふじん(豚と胡椒) 7、こかげのテーブル(お茶会〜ねむりネズミならぬ「ねむり袋」が話す蜜蜂の井戸の話〜10人の子供の歌) 8、目の気球(ボビーシャフトーとの空の旅) みじかい休憩 8、目の気球 つづき(トランプの世界に落ちる) 9、カードたち(赤いペンキで卵に色を塗る……それはハンプティダンプティ=ねむり男) 10、チェスをするひと(ユニコーンとボビーシャフトーが勝負) 11、発明家白騎士の歌(黒騎士と戦って勝った後にありすと語り合う) 12、おかしな裁判(この世界でのあらゆる素行を罪とされるありす) 13、大きな木の下 夕方(蝉の声が夢の世界を思い出させる)
キャロルファンであれば、どこに何が収まるかの見当はつくはずだが、マザーグースが組み込まれていることにも注目したい。キャロルとマザーグースについて語る人も多いが、作者の意図は「うたしばい」か。アガサクリスティ『そして誰もいなくなった』でも使われた「十人の子供」を帽子屋+三月うさぎ+ねむり袋が歌うのを初めとして、キャロルが使った「牡蠣の歌」など歌はふんだんに使われている。
全体を通して二つの『アリス』を分解しながら繋ぎなおした感じがあるが、二幕は『不思議〜』と『鏡〜』の終盤を比較的多用している。『不思議〜』からは裁判のシーンを、『鏡〜』からはハンプティダンプティが壊れる=夢から覚めることを重ねている。ここまで書いて『鏡〜』はディナーテーブルのシーンで目が覚めるという当たり前のことを思い出した。ハンプティダンプティが壊れたほうが、夢から覚めるのにちょうど良いように思える。キャロルに文句はないが、この芝居のエンディングに繋ぐにはとてもいい。
ちなみにありすの衣装は黄緑のニットドレスに黒のスパッツ。他の役は太さ・色がまちまちな横縞のTシャツに黒のスパッツ。帽子を役代わりに合わせて何種類も使い表情を出していた。セットはほとんどなし。人が重なって木を表現したり、ハンプティダンプティのお腹は人が背中を丸めて5人も横に並んだり膨らんだり萎んだりしていた。ブラックライトを使っているのか? もっと使えるのか? 検討の余地はありそうだ。演出の関氏はまだまだ作りこみたいらしいが、楽しいひと時を過ごしたのは私だけではなく、満員の観客だったと思う。
(日本にルイス・キャロル協会という会があ るとは知りませんでした。戸苅さんどうもあ りがとう。「あ・り・す」を演りつづけるか ぎり、今後もよろしくお願いいたします。I・ S)
期待に応えた「あ・り・す」
成田英世(後援会員)
昨年暮れに、試演を観ていますので、今回は二回目でしたが、一回目よりも良い出来で、その間の稽古の成果がはっきりと表れていたと思います。芸能は二倍稽古すれば二倍上手になるという「稽古比例の原則」通りになったものでしょう。
集団演劇ですから、主役、脇役のある通常の芝居とはことなり、各演者が平均的な力を出して、高度の水準とまとまりを確保することに重点が置かれます。
その意味において、今回の「あ・り・す」は十分に期待に応えてくれました。まとまりが崩れて、焦点の定まらない劇にならないか心配しましたが、杞憂に終わりました。
さて、次には、集団でなく、各個人の演技が上手になるように腕を磨くことです。若い演者たちに期待をかけます。
「あ・り・す」の楽しさ
T・S生(投稿)
なんといっても渡辺典子の「ありす」がかわいくていい。初演でみたときから、そう思った。どこかに元気のいい子どもっぽさと、冒険心があり、おおらかに感じさせる気持ちのよさがあった。
そして、「歌」がいい。次から次へとつながって高揚してくる楽しみがある。俳優の個性がきらりとひかってみえる。歌の苦手な俳優がいたとしても、それほど気にはならない。あおむしを相手にありすがうたう「もしもしかめよよくかめよ、世界のうちでごはんだよ」などは、つい笑ってしまった。
「あ・り・す」の楽しさは何回みても、奥行きの深さにであえるところにあると思う。再演を積み重ねてほしいものだ。
表情豊かな
80分のうたしばい
「あ・り・す」をみて
ルイス・キャロル協会
戸苅康子さんの感想
過去といってもたかだか六十年、あの日の記憶はまだまだ鮮明にのこっている。一九四五(昭和二十)年になってから、学生で十九歳のぼくは「天皇の軍隊」は危うくまぬがれて戦争で人殺しをしなくてすんだが、空襲で殺される危険には何回も出合った。そのころ家は豊島区に隣接する板橋一丁目にあったが埼玉の農村に疎開して寝泊りはそこでしていた。
自転車にのって五粁、北浦和から赤羽のりかえで池袋駅へ。荒川の鉄橋を歩いて渡ることもあった。勤労動員先の海軍工廠で肺浸潤と診断され、短い休暇の後に小石川音羽の大日本雄辮会講談社の「少女倶楽部」編集部に配属され、昭和二十年はじめから八月十五日まで勤務していたのだ。池袋駅から歩いて通う毎日だった。
四月十三日空襲で板橋の家は焼けた。その日は金曜日、記録によれば「B29三三〇機、東京を四時間にわたり無差別爆撃。宮城(皇居の旧称)の一部に火災、明治神宮焼失」とある。ぼくは埼玉から我が家の焼ける真っ赤な空を遠望していた。
そして、ようやく池袋の駅東口に降り立ったのは何時間経った後か定かではない。それまでは望めなかった護国寺の屋根とその右方に講談社の建物(たしか六階?)があってほかにはなんにもない。都電の道の右側を歩いてゆくと、一面のまだ煙の出ている焼跡の残骸、その中に黒こげの人体がいくつも。道路の両側をなるべく見ないよう(といっても眼に入ってくるのだが)青い屋根と高い建物だけを見つめて進んだ。駆けだしはしない、息を殺し息を詰めて、ときどき息を呑んで、息を抜かずひたすら歩いた。それは時間の止まった瞬間(とき)。
満州事変から始まる戦争の十五年はぼくの四歳から十九歳まで、小中大と進学したが、思えばそのころ未来に胸をふくらませるなんてまったくなかった。未来を考えたのは敗戦から。子ども時代に銅貨をにぎって歩いて映画を見にきていた豊島区池袋とは、演劇の仕事をとおして長い年月おつきあいをしてきた。でもやはりあの時の池袋がぼくの原風景でありつづける。
(「私たちの街に大きな空襲があった 4・ 13根津山小さな追悼会―十周年記念文 集」より)
未来のない頃
<わが池袋の原風景>
関きよし
こむろももこさんから
歌芝居ありす、昨年末の試演から四回観たことになります。以下感じたままに―。あの時大変感動しました。それは、空間・時間の広がりを感じ、言葉遊びの面白さが強烈な印象だったから。とにかく脚本の面白さが魅力的でした。
火曜しあたーになって。セリフが明確になり、親切で分かりやすくなっていたけど、なんだかドタバタしすぎて少々疲れました。
楽の日、役者が一人替わっただけで雰囲気は変わるものだと知り、役者の声もメリハリ抑揚が出てきて一場一場の盛り上がりを感じました。ああ芝居というものは、集まった者たちが毎回毎回作り上げて変化していくものだなあと。
そして芝居って観る人に何かを伝える、役者はその媒体役であるけれど、いやその中で自身が毎回成長して、また役について学び、考え、表現に悩み、そうやって個々と集団の成長があることを思いました。(以下略)
記録 06年3月〜6月
3・12「三人姉妹の思い出」試演5回終了
23「あ・り・す」稽古再開
4・4 月例会「…思い出」反省会
11火曜しあたー「あ・り・す」初日
13大空襲追悼の会・南池袋公園
劇塾「あ・り・す」稽古・反省会
18火曜しあたー2日目4Fホール
24「夢十夜」稽古はじめ
25火曜しあたー3日目4Fホール
5・4劇塾「あ・り・す」稽古
9火曜しあたー4日目4Fホール
月例会 年間スケジュールなど
新劇場員参加 久保田ヒデ子さん
23火曜しあたー5日目4Fホールで終 了
25「あ・り・す」打ち上げ会 劇塾
6.1「あ・り・す」反省会 劇塾
6・6「夢十夜」初日 4Fホール 1回
7「夢十夜」2日目2回
9 月例会
第18回池袋演劇祭参加作品
第三帝国の恐怖と悲惨
ブレヒト・作/岩淵達治・訳/関きよし・演出
20世紀を代表する創作家ブレヒトの代表作で、
これまで世界中でもっとも多く上演されている。
ナチス統治下のドイツ国内での日常的な事件を、
異化の目でみた20数景の多場面で構成されている。
今回はその中から「白墨の十字」「法の発見」
「スパイ」「ユダヤ人種の妻」など10篇を上演予定。
乞ご期待!
*前売2500円 当日2800円
9月28日〜10月3日
池袋小劇場
出演 山内榮冶/金子捨次郎/やまだたけし 川島柳一/渡辺美英子/前原礼子
野山みどり/かとうみちよ/ほか
お知らせ
舞台芸術学院の
夏の夢フェスティバルで『ありす』上演
8月14日(月) 7時開演
15日(火) 7時開演
同学院TACホールにて
入場料 2000円
(前売・当日)
よしだはじめ(土の会)
写真さつえい あがたせいじ