
池袋小劇場機関紙 No.96
2004年8月15日発行
発行所 池袋小劇場
発行責任者 関 きよし
編 集 池袋小劇場編集部
〒l71-0014東京都豊島区池袋2-3-5
TEL03-3986−2040
FAX03-3986−1278



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26(日) |
27(月) |
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小島満靖
小川敦史
やまだたけし
山内栄治
福島崇行
金子捨次郎
森脇アキラ
岡田啓壱
田崎紀子
前原礼子
川島柳一
佐瀬佳明
大橋真琴
渡辺美英子
川上なつ美
井上印★場面缶詰
井上印★場面缶詰
再演にあたっての口上 関きよし
コントでつづる二部二〇景のオムニバス劇『井上印★場面缶詰』は、井上ひさしの十七作品の断片を構成した舞台です。一九八五年に池袋小劇場で初演されました。せりふの洪水ともいうべき井上戯曲の日本語のラッシュアワー。その大混乱と格闘してなんとかフィナーレに辿りついたときはみんな汗みどろでした。ここに構成された十七作品の題名は何と何でしょうか? 八五年の初演ですから、それ以後の作品はありません。三十数年前のなつかしい作品もあれば、若い方の知らないものもあるでしょう。でも、これは何、あれはどれという詮索は無用です。たしかなことはすべてまじりっけなしの井上ひさしのせりふだけですから、それがどんなふうにつながってドラマを紡いでいくのか。まがりくねり、空をとび、トンネルをくぐって、たねもしかけもあるこの曲芸でわたしたちの行きつくところは、やはり「人間の未来に期待をもとう」ということなのです。この奇想天外、前人未踏の綱渡り芝居の構成仕掛け人はおなじみ台本作者赤木三郎です。この冒険芝居見事やりおほせましたら、十六人の出演者にどうか御喝采を!むろんこの奇妙で風変わりな上演は作者の諒解を得ているものであることを申しそえます。念のため。対話を積み重ね
『クサンチッペと…』
秋葉裕一(早稲田大学教授)
『クサンチッペとあの男―何といったっけ、ほら』は、作品が約束してくれるように、おもしろい舞台だった。まず目にとまったのは、情景の組み立て方である。登場人物は十人を越える。しかし、舞台上には二人づつしか登場しない。アテネ市民の集まっている(と想定される)「広場」の場面や、ソクラテスが若者たちと議論をする場面などを除けば、舞台は特定の二人のために確保されている。いきおい話題は絞られる。二人だけの対話であるところから、より直接的に各々の思いが語られ、相手への要求やら要望が持ち出される。ソクラテス、妻のクサンチッペ、為政者ケファル、愛人ミレナ、ミレナを恋していた(いる)青年フェドンなどが、それぞれに相手を代えながら、対話を積み重ね、ソク
ラテスの死に至る展開を形づくる。レニングラード「ロシア美術館」に置かれた彫像「ソクラテスの死」の場面から、時空を二千五百年前のアテネに移して劇中劇が展開し、もう一度、彫像場面に戻る展開。そして、リストラの結果(?)一人だけになってしまったコーラスが孤軍奮闘、コメントを加えたり、エピソードを物語ったりして、劇中劇を現代に引き込み、逆に現代を歴史化=対象化するシーンの挿入は適切な工夫と見えた。
歴史を振り返れば、あるいは振り返るまでもなく、いま眼前で起こっている出来事を見れば、内政の矛盾を解決できないために、外部に敵を作ることで、政治危機を乗り切ろうとする事例に事欠かない。為政者も戦争を始めるには、それなりの大義名分や雰囲気の醸めるには、それなりの大義名分や雰囲気の醸成が必要だ。そこで、世論をリードする人物の動向が、関心事とならざるを得ない。為政者は権力維持ために、これらの人物を取り込まねばならない。さもないと、権力基盤を揺るがしかねないからである。アリョーシンの戯曲は、哲学者ソクラテスと政治家ケファルの対立に、知識人と権力との関係の一つモデルを呈示している。一方、ソクラテスと妻クサンチッペの心に通い合いが描かれる。世に「悪妻」として名高いクサンチッペは、この戯曲では、一途にソクラテスを愛する妻である。自分のために、また子どもたちのために、ソクラテスを何としても救おうとする。けれども、ソクラテスはソクラテスであった。どれほど妻と子どもたちへの愛情が深くとも、権力者の誘いに乗って金を受け取ったり、逃亡したりすれば、それは自己自身を裏切ることになる。ソクラテスは死刑を受け入れることによって、自己自身を貫き通す。死ぬことによってしか、ソクラテスは自己を生きられない。これは、ソクラテスの悲劇であるが、それ以上にクサンチッペの悲劇であろう。
ちなみに、ベルトルト・ブレヒトにもソクラテス夫妻の夫婦愛を描いた作品がある。「傷ついたソクラテス」という小説で、『暦物語』に収められている。一読をお薦めしたい。
ロシア演劇二本連続公演に参加して
田代紀子(文芸助手)
「これを読んだらやらなきゃいけないんだよ」という脅し文句付きで、関さんから「ドストエーフスキーの妻を演じる老女優」の台本を受け取った。ロシア語学院を卒業したばかりの私は、単純に目の前に差し出されたロシアの戯曲に興味が沸いた。ドストエフスキーの小説を読みまくり、アンナの日記へ焦点をあてた。作家自身も戯曲の書き出しに書いている《内容は、芝居の稽古》と。さらに《もしも戯曲に書かれたもとの出来事が芝居の中で起こるならば、それこそ演劇の勝利だ》という一文が私を駆り立てた。なにもロシアでなくてもこういう芝居を創ることは可能なのだ、という思いが一層強くなった。
稽古のとき頭から離れなかったのは「芝居の稽古をしているときが人生で一番幸せ」といったあるロシア人女優さん。作家ラジンスキイは、そんな女優と演劇の相思相愛の関係を書いたのかもしれない。
次に手にしたの台本は「クサンチッペとあの男、何と言ったっけ、ほら…」。このユニークな日本語のタイトルをつけたのは訳者五月女道子さんの夫で「ドスト〜」の訳者である宮澤俊一さん。実際に五月女さんにお会いする機会はなかったが、同じロシア演劇に携わる者としてこの繋がりを大切にしたかった。正直いって、この戯曲と出合うまで「哲学」は難しいものと思っていたし、「クサンチッペ」が悪妻の代名詞だということも知らなかった。だから私はまたもや本を読みまくった。芝居をやるたびに知識が増えていくのは面白い。
八〇年代に書かれた戯曲「クサン〜」は、アテネを舞台にしながらも、いまの社会をしっかりと批判している。戦争と平和、思想の自由、夫婦の愛情、メディア、生と死の問題。日本語の曖昧さ、言葉を使って理解し合うことの大変さを痛感した事件でした。
そして、その「言葉」を巧みに使ってソクラテスは権力に立ち向かう。それは目に見える力ではなく、一休さんのような頓知ものでもなく、やんわりとスリリングに権力の内側を暴き出す。このドキドキ感をどうやって創り出すか、これが無性に面白かった。頭の中で想像しているうちはとても魅力的なのに、実際に言葉(台詞)をしゃべりだすと上手くいかない。上手くいかないときは「ドスト〜」に立ち戻って「稽古」を考える。まるで夫婦の対のような二本の戯曲であった。多くのことを教えてくれたこの二本の戯曲に心から感謝している。

演じることの本質
『ドストエーフスキー…』
岡田恒雄(明星大学教授)
初演からほぼ十カ月が過ぎた今年の四月中旬。『ドストエーフスキーの妻を演じる老女優』が再演された。老女優役は沼田恭枝、ドストエーフスキーと同じくフェージャという名の、かつて郵便屋であった癪癇患者、実は演出家? の役は小川敦史。初演と同じ配役だ。
障害者と老人のためのホームに身を寄せる老女優に、女優としての白鳥の歌を歌わせるのが、フェージャだ。老女優は、ドストエーフスキーの二度目の妻アンナの書いた手紙を読む。演出家はアンナに宛てたドストエーフスキーの手紙を読む。賭博熱に取り付かれた彼を無私の愛情で包み込むアンナの姿が、手紙の中から、あるいはその行間から読み取れる。
手紙を読むことで、老女優の人生が最後の輝きを放つ。沼田恭枝の演技は、そこに彼女自身の人生を投影しているかのようだ。
それをフェージャになりきった小川敦史が、手助けする。年齢差を超えた共同作業。ドストエーフスキー夫妻の人生と、二人の俳優の人生が重なり合って、その結節点から、演じることの本質が見えてくるのだ。
ソファーの位置など、舞台装置は基本的には前回と同じ。前回と違うのは、スタニスラフスキーやチャイコフスキーの写真が背景に飾られたことだ。それによっていささか説明的になった嫌いもある。もっと抽象的な何もない空間で、もう一度この劇を見てみたい。
ロシア演劇二本連続上演
サムイル・アリョーシン作 五月女道子訳
「クサンチッペとあの男、何と言ったっけ、ほら…」
エドクルド・ラジンスキー作 宮沢俊一・雪山香代子訳
「ドストエーフスキーの妻を演じる老女優」
4月8日〜12日 16日〜19日
二つの舞台をみて
成田英世(後援会員)
★「クサンチッペ…」について
演出が冴えをみせたのは中盤からでした。哲人の主義・主張に生命がかけられていることが、本人たちに分かってからの二人のやりとりには、哲人の「静」とクサンチッペの「動」が、息詰まる対照的なからみあいを演じどうにもならぬ運命的な終焉を迎えるまで盛り上がりをつづけました.。
哲人の山田さんは、長期間のブランクを感じさせない見事な復帰を飾りました。クサンチッペの前原さんは、好演ながらも珍しく気負いが目立って本来の力が少し滅殺されたように見受けました。そして。台詞は多くありませんでしたが、山内さんが冷然・冷酷なケファルを表現し、秀逸でした。観客席としては生身の人間としてのソクラテスと哲人としての同人との間で、深く苦悩する姿と、クサンチッペの悪女の深情け敵な濃厚な愛情表現がもう少し出せたら…と思いました。
★「ドストエーフスキー…」について
過去と現在、仮定と現実という四局面をモンタージュした不思議な内容ですが、二回目とあって、右脳の動きもスムーズでした。
それにしても、あの膨大な量の台詞を緩急強弱を駆使して、流れるようにこなしてゆくことは容易なことではありますまい。台詞劇ですから口跡のよさは必須条件です。とくに失礼ながら沼田さんの年齢を考えるとき最大級の敬意を表します。
50回をこえた劇塾
関きよし
劇をよむセミナーの勉強会「劇塾」をはじめて一年が過ぎた。週一回、木曜日を定例として、若い俳優たち数名から十数名が集まって「演技の実習」をやる。通称セキジュクとよんでいるように関きよしが主宰。特別なときしか休みがないから、これまで50回をこえている。主宰者は一回も欠席・遅刻をしたことがない勤勉さがつづいている。
昨年八月、塾生(といっても資格はない、つまり常連)のうち四人で、木下順二作『瓜子姫とアマンジャク』(一九五三年作)を試演してみた。秋から、その上演をもとに、あらためて戯曲を読み直す。まず劇構造をたしかめ(つまりどう組み立てられているか)、台本で30ページの劇を24の部分に「分割」、その小さな片(ピース)ごとの「事件」と「行動(アクション)」を見つけ出し、それぞれのつながり・関連をたしかめてきた。
三月一八日に、「真似をめぐって」実演公開を一夜開いた。使ったテクストは、菊池寛『真似』、加藤道夫『まねし小僧』『天邪鬼』(あまのじゃく)、木下順二『瓜子姫とアマンジャク』の四本。十名の男女が出演した。観客は六〇名くらい、大いに励まされ楽しんだ。
四月二二日から、正式に課題を「劇の構造と仕掛け」としてまず木下順二作『巨匠』(一九九一年作)をテクストにしてはじめた。そして、この困難だが興味深く、謎の多い読み解きに熱中し興奮した。「マクベス論」にもななった。
よくまあつづけた、といってもたかが一年、毎週一回一回、筋道をつけながらの「探求」であった。この探求は迷路に入ることなく、やがては「叙事詩的演劇」という大きな山脈に、えっちらおっちら登っているのだ、と手前味噌ながら手ごたえをたしかめつつある。そして次々出てくるテクストは、木下順二の「民話をつくる」から『山の背くらべ』を手はじめに、『でれすけほうほう』『わらしべ長者』『かにむかし』などなど。そのうち『木下順二作・民話かたり芝居・赤木三郎台本』の、いくつかを舞台にのせてみようかと思いはじめているのだ。また六月、七月の猛暑の中を『ソフォクレスによるアンティゴネー』のワークショップをつづけたのも収穫のひとつだった。これも上演計画に入れよう。と夢はふくらむ。
