
池袋小劇場機関紙 No.99
2005年9月28日発行
発行所 池袋小劇場
発行責任者 関 きよし
編 集 池袋小劇場編集部
〒l71-0014東京都豊島区池袋2-3-5
TEL03-3986−2040
FAX03-3986−1278







前原礼子
山田たけし
渡辺典子
金子捨次郎
山内榮治
大橋真琴
坂井浩
「悪戦苦闘しています。悪戦苦闘というのは楽しいだけではありません」。おだやかだった顔がひきしまります。「クサンチッペと…」の三演目、初演からのミレナ役にみたび挑みます。「最初に台本を読んだときのミレナのイメージがあって、そのイメージをけいこを通して、ああもできる、こうもできる、と、ふくらませながらやってきた。それが初演、再演でした。今回は逆に、イメージにしばられてししまって…。だから、いまは台本に立ち返って、台本の構造をもう一度とらえなくてはいけないと思っているところです。台本の中味を深めて、自由なバージョンアップしたものにしていきたいですね」 ミレナは、ときの支配者ケファルの愛人、だが、青年フェドンからも恋されている。そして、ケファルと対立する哲学者ソクラテスの間をとりもつ難しい役どころ。素直な演技で注目されました。


「クサンチッペと…」の出演者





神本十兵衛
川島柳一
コーラス
ソクラテス
クサンチッペ
ゴールギー・牢番
アギッリィー
ケファル
ソクラテスの弟子
フェドン
ミレナ
関きよしインタビュー
愛と相互理解を
――このところロシア演劇をつづけて上演されていますが、何かきっかけがあったんですか?
「クサンチッペとあの男――何と言ったっけ、ほら」は、八〇年代はじめのロシアの芝居ですけどね、何か発見があるのではないかと思って、やってみるとお客さんにも好評で、俳優さんも乗ってくれているので、じゃあもう一回やろうということになったんですよ。八〇年代のソ連への批判みたいなものはあったかもしれないけど、やはり、時代性を越えて「芝居としての」面白さをもっていますね。
――十年二十年前の作品でも現代劇として通用するということですかね。
昨年の四月にやったときには、ソクラテスの「反戦論」がイラク戦争と重なってしまって、時事劇的な受け取り方をされたという点はありましたね。今回は、劇場というのは、他人への思いやり、「気遣い」の気持ちを呼び起こす場であるというアリョーシンさんの言葉をあらためて意識して、「愛と相互理解」という点がしっかりと伝わるようにと思って稽古をつんでいます。
――翻訳劇ということに対しての意識は?
外国の物語を日本で再現しようとするのではなくて、大事なのはそこにあるドラマトゥルギーを、いかに演劇的であるかということを取り出してみせることなんでしょうね。だから劇としてうまくできているなあ、という手本なんです。今度の「クサンチッペ…」でも、コーラスの役割が面白いんで、そこは前回の台本を改めていますから、ぜひもう一度観てほしんですが、芝居づくりのテクニックという点でロシア演劇にはおおいに学ぶところがあります。ぼくが翻訳ものの戯曲を読むときは、芝居づくりのエッセンスを探してるということはいえますね。なかなかいいものに巡り合えないですけど。「クサンチッペ…」や「ドストエフスキーの妻を演じる老女優」などを紹介してきた宮澤俊一・五月女道子夫妻への追悼という意味もこめてやっています。
(「ロシア文化通信 GUN 群」25からの抜粋)
*観客の創造性
……ぼくは純粋、観客です(笑い)。だけど、観客がもっている創造力はものすごく重要だと確信しています。――それは演出家や俳優たちに匹敵するくらいの重さを感じているんです。ですから、ここでお話するのも、観客の印象と思ってください。関さんにいうと批評しているといわれるが、ぼくは観客として、こういう印象をもった、ということを、それを自分の中で深めたいということだけなんです。
えーと、池袋小劇場の舞台を意識して見始めたのは、2000年9月の「玄朴と長英」からですから、調べてみると、それから14本をみているんですよ。「玄朴と長英」は真山青果の作品ですが、ぼくは青果にすごく関心をもっていて、すべての作品をはじめ、もちろん読めるものはみんな読みつくして一冊の本(『真山青果論』法政大学出版局刊)を書いたことがある。
それで、ぼくも役者をやっていたころ、舞台でも長英をやりましたから、そういう思い出もありまして舞台をみせてもらいました。――面白い部分と欲求不満の部分があって、演技についてとくに俳優さんの、ぼくの願望というようなものがむらむらと感じてね、……そこから池袋小劇場とのかかわりが始まったわけなんです。
*演出家の表現
そうして、池袋小劇場の創造というか演劇づくりをみていて、ぼくは関きよしさんの演出力がかなり大きいと思う。だけれども関さんの演出で、評価できる部分と、逆に不満をいだくときがあるんですね。最近、彼とずっと話していて感じていることは、舞台づくりから役者との関係で大事なのは役者だ、役者だといいつづけてる。ところが、作品をこんなふうに表現したいんだということを、あまり語らないんだなー。(笑い)
ここずっとみていてすべてに共通しているのは、役者としての資質というか、それぞれの個性というか、あるいは役づくりの俳優なりの認め方というか方法論かな、そういうものをかなり認めて大切にしている。俳優たちはそれぞれに役づくりに挑戦し形象化していくわけだけど、ぼくが不満というのは、「それじゃ、関さん、あなたは本当に、これでもってどう表現したいのか」ということなんです。演出家としては、「こういうふうにつくりたいから、お前たちとさしちがえるぞ!」というくらいの勝負を役者としているのかがみえない。
つまり、役者との関係の中でドラマを追い込んでいく、舞台を追い込んでいくというのはよくみえるんですけど、演出としては、ある意味で安定している、あるいは安住している。それが池袋小劇場の表現の特徴だとみています。
*俳優の勝負は
……舞台をみていて、舞台全体からも役者からも表現がはじけてくるっていうのかな、ハッと思うようなことが強烈に伝わってこない。いま、この地点でこういう社会状況とまともに向き合っているわけだから、そういう問題意識、そこから、グサッというか、そういうものを感じとれない、というのが、ぼくの全体の感じです。
俳優のことでいえば、山内榮治さん、やまだたけしさん、前原礼子さんたち中心人物を何年かみてきて、それぞれ資質を大事にして、それぞれの役づくりを大事にしていることはよくわかるけれども、なんだか、そこにとどまった表現、あるいは演技づくりをしているんじゃないかという感じがする。
たとえば、山内さんとやまださんがどんなに勝負を挑んでいるのか、「俺はこれだぞ。お前はこれだな」というような対抗意識がでているのか、ということですね。つまり、作品との勝負、演出との勝負、役者同士の勝負、現実の観客との勝負、そんななかではじけとばすようなものが、どんなふうにつくられているのか、観客としてはそういうものをみたいような気がしている。奇想天外な、こっちがはじきとばされるようなものを、もっとみせてほしい。――ということです。
*新鮮な演技を
ところで、ドラマとして、ぼくは「夢十夜」はとても面白かった。これは役者の表現もふくめて大変面白かった。山内さんが語る人間とみられる人間という二つの役の表現、あれはとてもよかった。それは、作品とか、ドラマとかの制約の中ではなくて、もう一つ突き抜けていく表現があったのではないだろうか。漱石そのものが透けてみえてくるものがあった。だから文で読んだときにはできなかったイメージをもたせてくれた。
それから、同じようなことでいえば試演の「永遠と海」も全体的にきわめてエチュ−ド(習作)であったがよかった。「井上印★場面缶詰」は、ことばとの勝負で舞台全体をどう表現するか、ちょっと足りない部分がまだあると思った。
「セチュアンの善人」と「クサンチッペ…」は二回(01年10月・02年9月)みたが、どちらも二回目の方が演技もふくめて新鮮だった。なぜかというと、それは関さんの演出のプラスの面が生きていた。つまり、役者がとりくむ、役者が形象化する、かなりの部分が役者にゆだねられているし、それが本当に大事なんだ。「セチュアン」にしても役者は何日か挑戦されていけば表現というのは変わりえるし、深まるんだということを、ぼくはつくづく実感として思ったんですよ――。
*ここから俳優との対話・問答となって、関演出の最近の変化やら、俳優同士のやりとりでどう乗り越えるかなど微妙な部分に入り込んで、二つの試演のことになってたところで、いちおう糸口がつかめたということで、つづきは次回まらとなりました。(文責K・S)
よしだはじめさんが語る
池袋小劇場の演出と俳優への挑戦





夢十夜
セチュアンの善人
貧乏物語
永遠と海
玄朴と長英
二つの試演で――
依田英助さんと
かとうみちよさんのこと
関 きよし
六月・七月とつづけて「アンティゴネー」「ハムレット」と試演をやった。二本とも古典戯曲、赤木三郎アレンジ台本によるもので、ともに二〇年前すでに準備され、上演してみた作品である。二作で延べ三〇人の俳優が出演した。ダブルキャスト、そして連日日替わり配役によるもので、いま思えばずいぶん思い切った冒険をしたものだ。
前者では、依田英助さんに「コロスの長」をやってもらった。架空の――だが実際にでもある稽古の(演出家)である役。ぼくは俳優訓練の実習用台本の演出・稽古の半分を依田さんに委したわけだが、彼は当然のことのように、彼より若い、初心のものをふくむ俳優たちの側に立った。稽古の二ヶ月間、それはてっていして見事に一貫していた。ぼくは稽古の間「交通整理をやるからね」といって、できるだけ観客の側で見ていた。
依田さんは表情を変えたり声を荒げたりもせずひたすら「自分」でありつづけていた。六人のコロス=俳優たちには指揮も挑発もしなかった。俳優たちのはやる心を静めるようでもあった。稽古とは、心を静めて内なる心を見つめ問いつづけよ、というように。そして最後には、上演のときには、孤独なコロスの長として終始立ちつづけていた。観客にはやさしいほほえみ、俳優には寛容のいたわり、当の演出者つまりぼくにはつねに冷静をしめして。決して感情移入をせず、人にもそれをもとめず(ゆるさず)、たしかな内的リアリティをもとめる俳優として、変わらずにいた。
さて、オーバーラップして「ハムレット」の稽古。「七人の、一〇〇分の」とは、とくべつな主張によるものではない。小劇場での条件に合って、しかも原作に対して新しい趣向(おもむき)を付け加える工夫の台本であった。ハムレットを演じる、かとうみちよは病気休演がつづいていたが今回はなんと四年ぶりの出演だった。元気いっぱいでやりとおしてくれたのには、さすがにホッとした。彼女の復帰を希願したのもこの企画の一因であったのだから。
演出にはブレヒトの見解・解釈にヒントを得た。「劇塾」の若いメンバーをふくめてダブルキャスト十二人の共演者はすべて日替わり出演としたのは、これも一興という遊びのつもりはなかった。俳優はたいへんだった、同じ顔ぶれで稽古したことのない組み合わせもあった。そのためアンバランスがあったことも想定外であった。六回の上演はまったく“試演”というにふさわしい“錯誤”も生まれたり、余分な“緊張”もあった。すべて“集中力”不足のせいにはできない“統一”の乱れもがあった。
二つの作品の質のちがった実験は、たしかに“活力”をもたらして終了したが、課題は片付かない。やはり古典を軽々しく扱ってはいけないということか!いやそんなことではない、さらに新たな挑戦をつづけよう。★記 録(05・6〜9)
6・13「ハムレット」稽古再会
7・1「ハムレット」通し稽古
6 月例会15〜18「七人の俳優で演じる二部100分のハムレット」試演6回
21劇塾「ハムレット」反省会
25 月例会・「アンティゴネー」「ハムレット」反省会
8・19池袋演劇祭前夜祭CM大会
25NHKテレビ稽古風景と関取材
31やまだたけし東京芸術座客演
(〜9・4紀伊国屋サザンシアター)
9・1劇塾「あ・り・す」はじまる。エチュードなど。
5「クサンチッペ」稽古始め
9 月例会
13スタッフ会議
15スタッフ会議
20スタッフ会議・06年企画 その他
28〜10・4「クサンチッペとあの男…」 4Fホール 10回
試演(新作おひろめ)と
06望年のつどい
12月23日 午後6時より
24日 午後5時より
参加費 1000円
会場・池袋小劇場