第6日目 平成15年8月14日(水)
(地図)

積算計 7019KM

 朝七時、昨日とばした大宝寺(44)(ダイホウジ)からスタートした。
写真ご朱印 大宝寺は明治7年含めて過去に三度の焼失にあっている。その都度再建されたが、地元の人たちの 寄進に寄り大正時代に再建されたのが一番近い。病気平癒、とりわけ脳の病気にご利益があるといわれていて、 鬱蒼と木々の生い茂る山の中のお寺を訪れる人は多い。

浄瑠璃寺(46)(ジョウルリジ)までは約19キロでついた。
写真ご朱印 浄瑠璃寺は、薬師如来が住むところが瑠璃光浄土であること、また薬師如来の別名が瑠璃光如来で あることからきている。長いお寺の歴史の中では、荒廃と中興の繰り返しがあったようだ。またこの寺は 別名、「ご利益のよろずや」といわれ、境内にはご利益をもたらすものがある。仏足石の上に裸足で立って 健脚を願ったり、仏手石や仏手指紋などもろもろのご利益が言われている。

八坂寺(47)(ヤサカジ)までは1キロちよっとしかない。
写真ご朱印 八坂寺は八つの坂を切り拓いたことからその名がついた。高台にあり、松山市外を見渡すことが出来る。 本尊の阿弥陀如来は平安中期の作の秘仏であり、開帳は50年に一度で、次は2034年だそうだ。

西林寺(48)(サイリンジ)までは約5キロでつく。
写真ご朱印 西林寺の本堂は1707年に雨乞いの祈願成就のお礼として、村民からの浄財で建立したのだという。 大師がこの地を訪れたとき、民衆は旱魃で苦しんでいた。大師が錫杖で水脈を探り当て地面をつつくと 水があふれ出たという。この水脈の一つが現在、杖の淵公園として整備され、水はかれることが無い。

次の浄土寺(49)までは約3キロでついた。
写真ご朱印 浄土寺には平安中期に空也上人が3年間滞在したことで知られる。空也上人は南無阿弥陀仏の念仏を 広めたことで有名。ここの空也上人像は、京都の西国六波羅蜜寺とここにしかない貴重なものらしい。 ここではちょっとしたハプニングがあった。駐車場にバイクを止めようとして、バイクを倒してしまった。 止まっていて倒す、バイク用語でいう「タチゴケ」というやつだ。すぐにお遍路さんたちが寄ってきて、 たちまちのうちに起こしてくれた。あまりの暑さにぼっとしていたのだろう。

繁多寺(50)(ハンタジ)までは約2キロと短い。
写真ご朱印 繁多寺は地元では「ハタジ」或いは「ハタデラ」と呼ばれ親しまれている、という。17世紀頃は 66坊と数百の末寺を持ち、大寺院として人々の信仰を集めた。四国霊場の成立に深く関わった 一編上人が若いときに修行したゆかりの寺でもあるという。

石手寺(51)(イシテジ)まで約3キロでついた。
写真写真 ご朱印 石手寺には66000m2の広大な敷地と、四国霊場でも随一の寺宝や文化財を有している、という。 お遍路の元祖といわれる「衛門三郎」が托鉢の僧に心無いことをする。その報いで8人の息子が亡くなる。 後で托鉢の僧が大師であることを知り、四国巡礼の旅に出る。21回も回るが、大師に会えないまま、徳島の 焼山寺で倒れる。死ぬ間際に大師が現れ、彼の手に石を握らせ、彼は息を引き取る。その後愛媛の領主の河野氏 に嫡男が生まれるが、手が開かない。願をかけたところ、手が開き、「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきた。 以来、寺は石手寺と名を変えた。

太山寺(52)(タイサンジ)までは約13キロあった。松山市内の市電の通りをを抜けてきた。 伊予灘に面した所にある。 写真写真 ご朱印 太山寺は聖徳太子が訪れた寺として有名。境内には聖徳太子堂が建ち、法隆寺の夢殿と同じく聖徳太子像が 祀られている。本堂は1305年に領主の河野氏が修復したもので、札所の中では二番目に古いのだという。

円明寺(53)(エンミョウジ)までは約2キロでついた。
写真ご朱印 円明寺では日本最古といわれる銅製の納め札が見つかっている。大正三年に霊場を巡礼していた アメリカのスタール博士が本堂の厨子にあった縦24センチ、横9.5センチ、厚さ1ミリのお札を発見した。 慶安3年(1650年)「四国仲遍路同行二人」「今月今日平人家次」とあるという。

延命寺(54)(エンメイジ)までは約38キロと離れている。
写真ご朱印 延命寺は平安時代に大師が再興し、近見山円明寺と名づけた。明治時代までこの寺名は使われ、つまり 五十三番と五十四番は同じ名前だった。明治時代に郵便制度が出来て、誤配を避けるため、寺の名を 変えたという。

南光坊(55)(ナンコウボウ)まで約4キロ
写真写真 ご朱印 南光坊は四国霊場で唯一坊のつく寺である。縁起は1300年前にさかのぼり、明治初年まで 大山祇神社の別当寺であった。本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失、戦後再建された。

泰山寺(56)(タイサンジ)まで約4キロ
写真ご朱印 泰山寺は大師が、地蔵尊を刻んで本尊とした。寺名は延命地蔵十大願の第一「女人泰産」から 泰山寺と名づけたという。田園の中にあり、山門が無く、石垣の白壁塀に囲まれた珍しい寺である。

栄福寺(57)まで約4キロ
写真ご朱印 栄福寺は海陸安全の信仰を集めていた寺であるが、病気平癒の祈願をする人も多い。昭和8年に 足の立たない少年が、石段で転倒したところ、足がすっかり治った由来による。1800年に 九州からやってきたお遍路さんの納経帳が残っているという。当時3ヶ月かけて一巡していたらしい。

仙遊寺(58)まで約4キロ
写真ご朱印 仙遊寺の寺号は718年まで40年間ここに住んでいた阿坊仙人という僧からついたという。仙人はある日 突然消えてしまった。そして寺はいつしか仙遊寺と呼ばれるようになった。二層屋根の本堂は昭和22年の 山火事で焼失。28年に再建されたもの。境内への石段には大師が錫杖をつついて湧き出たという井戸が ある。「弘法大師御加持水」として諸病に効くとされている。

国分寺(59)まで約8キロでついた。
写真写真 ご朱印 741年に聖武天皇が全国に国分寺を建立された。四国にも各県に国分寺があり、四国霊場になっている。 創建時は七堂伽藍が並ぶ大寺院で、今の場所から東に100メートルの所にあったらしい。国の史跡として 礎石が残っている。

   次の横峰寺(60)は山の中をかなり入るのでとばして、先に町に固まっている 64番までをお参りすることにした。 香園寺(61)(コウオンジ)まで約18キロかかった。
写真写真 ご朱印 香園寺の境内に入ると、目の前に昭和51年に造られた「褐色の大聖堂」と呼ばれる鉄筋コンクリート の大きな建物が出現する。一階が大講堂、二階が本堂と大師堂となっている。異色のお寺と思った。 この寺は「子安の大師さん」と親しまれ、境内の一角には子安大師像がある。霊験に寄り子宝に 恵まれた人々から奉納された写真が飾ってある。

宝寿寺(62)(ホウジュジ)までは約2キロでついた。
写真ご朱印 宝寿寺はもともと川の近くにあって氾濫で何度も被害を受ける。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、 明治10年に再建され、現在の地に移ったのは大正10年、予讃線の開通に伴うものだったという。 境内には美しい日本庭園があり、また安産観音もある。

吉祥寺(63)(キチジョウジ)までは約2キロ 写真ご朱印 吉祥寺は八十八箇所で唯一毘沙門天を本尊とする寺である。毘沙門天は「米持ち大権現」と呼ばれ、 農家から厚い信仰を集めている。ここには成就石、くぐり吉祥天女、また珍しいマリア観音様がある。

前神寺(64)(マエカミジ)までは約3キロでつく。
写真ご朱印 前神寺は長い間、石鎚山の別当寺であったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。明治11年に再建され、 現在の地に移された。現在も石鎚神社とともに石鎚信仰の二本柱になっている。

 今日は、途中 ヤマハ1300に乗る大阪の川端氏と合流し、一緒にお遍路してきた。
途中土砂降りの雨にあう。川端氏は足に水が入らないようにそれなりに準備していた。やはりこちらは 経験不足だ。しばらく一緒にお参りした。
 前神寺から横峰寺までは10キロくらい。横峰寺(60)のふもとの人里はなれた「京屋旅館支店」に泊まる。 明朝横峰寺に向かうとしよう。(¥8700、地酒四合、ビール二本)  夫婦のお遍路さんと川端氏と飲み会食した。そして白い温泉に入る。今回のお遍路では温泉に縁が無く、 ここだけだった。四国は温泉が少ないのだろうか。どうも札所と温泉は縁が無いみたいだ。 若い人と飲んだせいか、調子よく飲みすぎた。
      給油 湯の浦SS 9.4L @98 ¥967 

今日の走行193KM

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