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御祭神

●八大龍王神 はちだいりゅうおう


1[八大龍王の御名とおはたらき]

 難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、沙伽羅(さがら)、和脩吉(わすきつ)、徳叉迦(とくさか)、阿那婆達多(あなばたつた)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはら)の八大龍王の総称。法華経の会座に列した護法の龍神。

 八大龍王は、釈迦生身の眷属で、釈迦生誕の砌、彼等が天より甘露を降らせ祝福したともいう高い神格をもつ龍神。水を司どる神、水分の神でもある。その勝れたるものは、自由に雲を起してその中を飛翔し、殆ど天と等しき威徳あるものとして顕教、諸教に多く説けり(密教大辞典)とある。

 「妙法蓮華経」の中の観世音菩薩普門品の別称を「観音経」といい、我国では聖徳太子により最初に講じられているが、釈迦がこの中で観音に帰依すれば「観音が身を三十三身に変じてあまねく衆生を救い、願いを叶え、教化して下さること」を説いている。十六弟子を始め、諸仏、諸菩薩と共に、生きとし生けるものの代表として八首の龍王が幾千万の眷属をひきつれて、この経を聴聞した結果、観音の教化によって、仏道に向かわれた神でもある。従って観音菩薩の宝珠(魂)をその身に宿されて、観音と一体となり、観音菩薩の守護神となって霊山の「神々と諸仏、諸菩薩」との橋渡しの役割をされた神ともいえる。異質なもの(神と仏)との和合を願った「釈尊、聖徳太子、役行者」の共存共栄の大きな世界実現に大きな使命をもたれている神であることが解る。

 奈良時代前後に成立した霊場には、例外なく○○龍神や八大龍王、又はこの中の1、2首の龍王が祀られ発展してきた歴史がある。しかし八大龍王全首奉斎されてたり、神格の高い神々と習合しているところは意外と少ない(明治維新時にかくされてしまった神々だが、時の要請に従ってあちこちで復活の話も取り沙汰される昨今である)。

 密教大辞典(法蔵館)には、各龍王の神徳について次のように記されている。「難陀」は歓喜、「跋難陀」は賢喜、亜歓喜、難陀の兄弟。「沙迦羅」は海の意、請雨法の本尊。印度無熱池に住し密教の守護神。「龍女成仏」はこの龍王の女の成仏を説く。「和脩吉」は宝有、多頭、九頭龍のこと。「徳叉迦」は、多舌、毒視、和脩吉と同胞。怒って凝視すれば、人畜直ちに命を終える、と。「阿那婆達多」は無熱。雲山頂の池に住み、四大河(東ガンジス、南インダス、西オクサス、北シーター)を分けて、人間世界を潤す、一切馬形、徳が最も高い。「摩那斯」は大尉、高意、慈心、大力大身、雨を降らさんとするとき、七日衆事の終わるを待って、それから雨を降らす、故に慈心と那尽く。「優鉢羅」は青蓮華と訳す。青蓮華池に住する故にこの名あり・・・と。


2[龍の起源]

 難陀(なんだ)はサンスクリット語「ナーガ」からきている。インドのナーガ族が、蛇を神格化して蛇神崇拝をした。日本にきて、イザナーギ、イザナーミになったという説もある。大海に棲み、雲を呼び、雨を降らす秘力を持つ。神格の高い龍を龍王と称えた。「龍神は『カ(火)とミ(水)』で「神」の語源とも。水は潤いを意味し、恵みに通じる。水と観音菩薩の『恵みと慈悲』は、万物の命を支え育むところからも『不離一体』といっても過言ではないだろう。」(天台宗元宗務総長川*長徳寺住職江田廣典師、埼玉タイムス、平成8年)とも言われている。


3[龍泉、龍樹、龍穴の信仰と和脩吉、沙迦羅]

 龍神への祈願については、桓武天皇の御代(824)に空海の請雨により神泉苑の龍上天し、雨振る(江談抄)とか、「弘法大師早魃の時神泉苑にて請雨経を修するに、天竺の阿耨達智池より善女龍王きたりて雨を降らす」とかは、我国最大の古代説話集の今昔物語に記されている。善女龍王とは沙迦羅の第三女善女龍王。やや前だが、役行者開創の宝生寺の龍穴神社で、宝亀年中(770〜780)、皇太子時代の桓武天皇の病気平癒が僧侶により祈願されたと続日本書紀にある。又、鎌倉時代橘成季の成した古今著聞集には、澄憲、災早の時龍神に祈りて雨を降らすともあり、神泉や龍穴と共に龍神への信仰の大きさを知ることができる。  奈良県天川村の龍泉寺も、圭室文雄編「日本名刹事典」によれば、「開基の役行者が八大龍王を祀ったことに始まる。」と記されている。ここには「竜の口」の伝説がある。この泉は今も大峯山修験者の清めの水として清冽な流れをこの寺の林泉にたたえている。

 この外、奈良県吉野山の金峰山修験本宗の総本山は、役行者が、蔵王権現を感得した寺として有名だが、傍らの行者堂を下った処にある「龍王院」では、先代五条覚澄師が八大龍王と共に脳天大神を祀られている。愛媛県西条市石鎚神社の「八大龍王社」(成就社)。高野山の八大龍王は弁天さんとして祀られている。一は天川系、二は高野山系である。二は、独自で山の周辺にいくつか祀られている。御神体は木彫りの二つの蛇体で、その上に頭があり、顔は人面で翁と嫗である。(奥の院維那日野西真定師談)。そして千葉県市川市の「法華経寺」には文応元年(1260)になって日蓮により、八大龍王が祀られている。

 九頭龍の名は比較的多くの人に知られている。この龍王は、八大龍王の中の一首で「和脩吉龍王」のことである。諸龍の王、細龍の類を食う密教擁護の善神といわれ、水天の眷属でもある(望月仏教大辞典)。長野県「戸隠神社」、(元比叡山延暦寺末寺)「箱根神社」の湖上祭の御祭神も九頭龍である。金龍山の山号に輝く浅草寺の境内にも九頭龍権現が祀られている(浅草寺参照)。又、福井県の九頭龍川野流域には、九頭龍権現の小祠が多くみられる。

 次に、清龍権現で知られるのが沙迦羅龍王の第三女善女龍王である。密教では如意輪観音の化身として崇められている。弘法大師帰朝の祭、青龍寺から勧請して青瀧と改め、聖宝の代醍醐寺に移した。現山上の清瀧堂は国宝。沙迦羅龍王と「龍女伝説」で名高いその女を祀っているのが、山形県鶴岡市の善宝寺。庄内札所一番でもある。明治維新直後から八大龍王の御名を秘して、「戒道大龍女」の別称で祀られている。沙迦羅は海の神、請雨法の本尊で、現在も神職の参詣も多いという(住職斎藤信義師談)。


4[八大龍王と役行者]

 八大龍王は役行者=役小角(624〜710)が奉斎したことで知られる。役小角は聖徳太子没して12年後、*明6年に葛城山の麓、茅原の里(現御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘との間に生れ、仙道、道教、古神道、仏教を学んだ。これに満足せず、人間完成への探究と実践こそ神仏の境地到達の道であり、国家安泰、万民幸福の道である(今宮神社資料集、平成7年)、と悟り、更に難行苦行し、箕面山で龍樹から乱れた世を救う悲報を授かった。吉祥草寺、蔵王堂をはじめ、関東では日輪寺(茨城)、大平山三吉神社(秋田)、金嶺神社(山形)、熊野神社(山形、温海町)など、役行者開基や何らかのかかわりをもったと伝えられる寺社は四十余ヶ寺数えられるという。それ程に力を持った役行者については、「超人、役行者小角」(志村有弘、角川書店、平成8年)に、「神変不可思議、得体の知れぬ謎の超人」と述べられている。

 その役行者が11才の時(645)に、大化改新を迎えている。38才の時には、壬申の乱(672)で天武軍を援け、その後天武帝に重く用いられたといわれている。真剣に国家安泰、万民幸福への道を探り、衆生を教化して、人々を仏の道に誘うことを願って「行学」の限界を修め、遂に神仏習合の神々を時と処に尋ねて、祀っていった。その結果、農耕国家かつ仏教国家にとって「水から生れる発想や自然の摂理」を祀ることと共に、「国家安泰、万民幸福」を国家的規模で祀る重要さを感じていたことが推定できる。「水と観音」が一体となった姿、それが八大龍王でありそれは、万物の生命の根元であり、愛でもある。そして生きる力でもあり、真理である。


5[役行者はなぜ八大龍王を秩父に祀ったか]

 699年に伊豆に流された役行者は、701年に罪を許されている。その後箕面に住んだが、その頃知々夫(713年に秩父となる)の地に訪れている。その地には既に御巫八神が祀られていたからに他ならない。そして八首の龍王(八大龍王)を合祀して八大宮と称した(御巫八神の項参照)。神界で最高の神格をもたれた八神と、仏界で大日経系の胎蔵界の最高尊格を持たれる大日如来との橋わたし役をされる使命を八大龍王にみたのであろう。観音菩薩と不離一体であるという八大龍王の(御神徳=力=教え)に、役行者は、将来の希望即ち国家安泰、万民幸福の願いをたくされたのではなだろうか。「・・・その後相州の八菅山(703)そして和銅3年(710)に入定した。」(志村有弘、超人役行者小角)という。果たせるかな、秩父はほどなく、行学を修め、人間探求と実践並び神仏の境地到達の道を求める修験道の一台拠点(聖護院直末寺、大先達)となり、その後500〜800年を経て天文五年(1536)観音札所34ヶ寺が整えられた。そして江戸の発展に伴い、多くの巡礼を受け入れ、観音札所と八大現社(今宮八大宮)は共々盛んとなった。しかし、明治維新と太平洋戦争敗戦の荒波と、観光商業主義の世情の中に、御巫八神と八大龍王を祀る八大宮はしずまられ、およそ130年の間、お隠れになる日々を余儀なくされたのである。


6[明日を拓く水分の神]

 明治維新から130年、再び「水」の神徳を求める人が増えて、八大龍王はあらためて水の神として、又、神と仏の橋わたしの使命をもたれて顕れ出られる時を迎えようとしている昨今である。

 このような時を迎えることが出来たのは、昭和から平成にかけての観音信仰、札所めぐりの復活である。特に百観音めぐりを世に出された浅草寺清水谷孝尚師、満願寺平幡良雄師の尽力は特筆されていくだろう。かつては御巫八神→八大龍王→観音菩薩という順序で祀られた神仏だが、激動の明治→平成を経て観音菩薩→八大龍王→御巫八神の順で光があてられていくのだろうか。三者が揃った時、いかにすばらしい世になるのか想像して見たくもなる。いずれにしても、時代が大きく動くとき、価値観の移動がなされる時に働かれた神であったらしい。時代の要請で平成九年*サミットが長野の上田市の提唱で開催された。そして平成11年は奈良県の舟生川上神社で開かれるという。

 しかし、時代のうつりかわりをよそに、龍神信仰の珍しい神事の一つに秩父今宮神社の水分祭がある。これに先立って毎年4月4日、龍神木前で、龍神を称える龍神祭。続いて今宮神社の「水分祭」が行われる。この水は武甲山の伏流水がわき出しているところである。この日は秩父神社のお田植祭(祈年祭)でもあり、秩父神社から神官、伶人、神部(かんべ)(農家の代表)、市や町会の代表者が「水乞い」に来られる。今宮神社から秩父神社に八大龍王並びに八神の御神徳=※生きとし生けるものの生命の源、生成発展の力=を「水幣(みずぬさ)」に託して授与する日である。水幣は八大竜王(明治期以降は●(おかみ)の神)即ち「水」と「自然の法に則した教え」の象徴でもある。この恵みによって秩父神社のお田植え祭が行われる。そして秋になると稲が収穫され、新殻が秩父神社から今宮神社へ奉納され、そして水は山(武甲山)へ返される。神々を称え、そして感謝するおまつり、それが12月3日の秩父神社の夜祭で、豪華な付祭はあまりにも有名である。

 龍神様の卵好きはよく知られる。この外、神共には毎夜丑の刻、米3升を炊いて供え又、特に梨を好まれる。

 「時により過ぐれば民のなげきなり、八大竜王雨止め給え」(金槐集、源実朝)は、建歴元年7月洪水天に漲(みなぎ)りて土民苦しみしかば右大臣実朝が詠じた歌として知られる。


  • 【参考文献】
  • 志村有弘「役行者小角」(角川書店、平成8年)
  • 野村敏晴編「異端の神々」(志村有弘、八大竜王、新人物往来社、1995)
  • 圭室文雄「日本名刹事典」(雄山閣)
  • 銭谷武平「役行者伝記集成」(東方出版、平成6年)
  • 宮家 準「修験道辞典」(東京堂出版、昭和61年)
  • 志村有弘「秩父今宮神社と役行者」(かたりべB、平成6年)
  • 室生寺資料(平成古寺巡礼展)
  • 戸隠神社編「戸隠信仰の歴史」(戸隠神社、平成9年)
  • 今宮神社取調書(明治28年、秩父市立図書館蔵)
  • 「密教大辞典」(法蔵館)

(塩谷 治子)

※この文章は平成11年秋出版の「日本説話伝説大事典」収録のために作成されたものです。

●=雨かんむりに龍という字で(おかみ)と読む。

●八大龍王について

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


●宮中八神(御巫八神) きゅうちゅうはっしん(みかんなぎはっしん)


 天皇家の守護神。宮中において祀られてきた玉体(天皇大護身)を守護する神。毎年宮中で鎮魂祭が行われる。

 「八神」とは、「延喜式」に見える御巫祭神八座、即ち「?神皇産霊(かみむすひ)神」「?高皇産霊(たかみむすひ)神」「?玉積産霊(たまつみむすひ)神」「?生産霊(いくむすひ)神」「?足産霊(たるむすひ)神」「?大宮売(おおみやめ)神」「?御食津(みけつ)神」「?事代主(ことしろぬし)神」である。

 この八神は、実在する皇室の祖、ないし、関係者の中で功労者としての神と理念を神格した神と混在しているのは、八神同時に祀られたのではないからであろう。実在の祖と考えられるのが、邇邇芸命(ににぎのみこと)の外戚である高皇産霊(たかみむすひ)神と神武天皇の皇后である媛蹈韃五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の父にあたる事代主神である。


 まず理念上からみると、「?神皇産霊(かみむすひ)神」は守りの神、子孫をつくる女の神。消極的集約を意味する。「?高皇産霊(たかみむすひ)神」は、天照大神の孫邇邇芸命(ににぎのみこと)の外戚にあたる。積極的に高く伸びる神、男神を意味する霊力、拡張を意味する。集約は還元、拡張は発顕。両者によって生命が誕生。この二神の根本的働きは不二一体である。天地万物創生の神で、天御中主(あめのみなかぬし)神が宇宙に顕現される名でもある。中心があっても、この二神の発展、元に引き寄せる力がなければ、生物は生成化育されないし、逆に二神があっても、中心がなければ、この二つの力が絶えず働くことができない。(秩父のことを例にとると、秩父神社に天御中主(あめのみなかぬし)神が、今宮神社に高皇産霊(たかみむすひ)神、神皇産霊(かみむすひ)神が祀られている。この土地の名である「ちちぶ」の「ち」は「霊」の意であると言われており、二つの「霊」の共存共栄を意味しているとの説がある。)

 西田長男の「日本神道史研究」によれば、この二つの神名を見ると「たかみむすび」の「た」をとれば「かみむすび」であり、更に「か」をとれば「みむすび」となる。この「みむすび」は二つの意味をもつ。その一は、霊魂で、霊の蒸し結び、生み成す義。その二は「三魂(みむすび)」で、生魂、足魂、玉留魂の三魂を意味する。この二つの意義は結局一に帰するので、霊の蒸し結び、生みなしたものが三魂である。他説には高皇産霊神を朝鮮・ツングース系につながる穀霊神とするものがある。

 「?玉積産霊(たまつみむすひ)神」とは、安定した精神、秀れた智の神、魂(たましい)を神体にとどめておく力を授けてくれる神である。『令義解』に、「離遊の霊魂を招きて神体の中府に鎮む。故に鎮魂という」とある。

 「?生産霊(いくむすひ)神」とは、進歩発展、未来志向の神。「?足産霊(たるむすひ)神」とは、不足することなくして豊かに充足することを掌り行う神で、豊饒の神。

 「?大宮売(おおみやめ)神」は、天照大神に近侍した神で、君臣の間を和し、宸襟(しんきん)を安んじ、悦ばしめる神。心が和楽して一切の憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を平ららかにする神でもある。大宮売の「大宮」とは、心身ともにすばらしい女体を象徴とし、天宇受売(あめのうずめ)命との説もある。一方、天皇が国家を大宮と思われるその境地をいうという説もある。「売(め)」は「萌芽」の意である。何事も霊魂の一番集中した処を「め」というのである。それで、大宮売は、天皇がこの国土全体を自らの宮殿と思われて、それを国家の一番大切な眼目であるとされる心の状態を指し、そこから出発されるとの意味となる。それ故にこの働きを裏から見れば生魂になる。

 「?御食津(みけつ)神」は天皇の日々の供えものを司る神。天皇が全国を大宮と感得し、そこに生育する食物を悉く大御食と考え、御自身が大御膳部となって国民に食物を与えられる境地である。

 「?事代主(ことしろぬし)神」とは、やはり天皇の御境地をいう。天皇の鎮魂が進むことにより自身を宮殿と感じて、国の内外のこと、この世、あの世のことも、万事を知り尽くして、国土を安穏に治める境地に進むこと、即ち魂積(たまづめ)の心境になることを云う。そういう意味を踏まえて、祟り封じと、忠孝兼備、朝廷守備、国内統一を念じた神であろう。他説に「言(げん)を司(つかさど)る」という意味もあり、天皇の言葉に威力をつける言霊の神、また神武天皇の皇后の里方にもあたる神。


 八神は神であるが、実は天皇が鎮魂を勧める境地が、生→足→魂積となるので、それぞれの境地を神徳として表していると理解できる。最後に大直日神の力によって、天皇としての最高の姿となり、はじめて天照大神にまみえられる、と説明されている。そして、「三代実録」貞観元年(八五九)正月の条をみると、八神は、産霊の万物を創造する霊妙なる神といえる。また、五神には、「神階一位」が与えられている。他の三神、大宮売神・御食津神・事代主神には与えられていない。両者は各系統を異にするために、このように差別が行われたのであろう。


 宮中八神はいつから祀られたか。日本書紀によると、「高皇産霊尊、因りて勅して曰く、『吾は天津神籬、及び天津磐境を起こし樹ても、当に吾孫のために斎い奉らむ。汝、天児屋根命、大玉命は、天津神籬を持ちて、葦原中津に降りて、亦吾孫の為にも斎い奉れ』とのたまふ。」とある。これが八神奉斎のそもそもの起源である。大同二年(八○七)成立の「古語拾遺」の神武天皇の条に、「皇天二祖の詔にしたがい、神々の神籬をたてたが、それが現在の御巫が祀っている八神なり」という内容が書かれている。本居宣長説では「皇天二祖の詔」とは「高皇産霊尊の詔」であるというから、このことから八神祭祀の起源は相当にさかのぼるという説もある。八神の中に「事代主命」が加えてあることから推して、八神が定まったのは壬申の乱(六七二)の直後、「八色の姓」制定以前で、天武帝の律令政治はじまりのころ、天武天皇の玉体安護を祈って祀られたと推定できる。


 次に、御巫の「巫」とは、「カムノコ」または「カムナギ」と呼ばれる。祈年祭の祝詞に「八神の名を次々に唱え、そのお力によって天皇の玉体を安護して頂き、又盛んなる御世に栄えあることを祈って、幣帛(みてぐら)を献ります。」(次田潤『祝詞新講』より)とあり、その奉上は、御巫が申し上げる祝詞となっている。カムナギとは「神和ぎ(かんなぎ)」の意味で、神を祀り、神の心を和わらげる童女のことといわれる。

 延喜の制によると、古くは中臣・忌部氏が御巫八神の祀り方を伝えていたが、中世以降から、八神は神祇官の西院に祀って、「八神殿」と称した。戦国時代以降、世上の動乱につけて荒廃した。江戸時代を通じ、吉田家、白川家の努力によって奉斎が続けられていたことはよく知られている。

 明治五年(一八七二)には、八神と天地神祗を宮中に移して、相方を合併して、従来の八神殿の様を廃して「神殿」と称した。御巫八神は、現在、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の一たる「神殿」に鎮まられている。

 京都府中郡大宮町にあった大宮稲荷神社の八神は、神社々務所の話によると、維新の時、宮中に返されたということである。したがって、現在(平成一一年)神社境内には由緒に関するものは皆無と見受けられる。


 このほか、大宝年間役行者が飛来して八大龍王を祀ったとされる秩父の大宮山八大宮(現今宮神社)では、役行者飛来以前に大宮売(おおみやめ)神を主座する八大社が祀られていたとの伝承がある。ここは「大宮山」の山号で呼ばれ、この地は長い間「大宮町」と呼ばれており、「秩父(チチブ)町」となったのは大正六年のこと。氷川大宮、杉並大宮八幡とともに「武蔵三大宮」と呼ばれたところでもある。

 仏教伝来があり、神仏習合時代への橋渡しの役割を担った八大龍王は、その格式から、八神に相応しい神仏習合の神であったということだ、と伝えられている。それ故、大日如来が習合され、秩父霊場発祥の中核となり、中古より「八大権現社」と呼ばれ、文亀元年(一五○一)社殿再興、正徳元年(一七一○)社殿再々興の記録をみることができる。

 江戸時代に入って、江戸の庶民の観音信仰の高まりにより秩父観音霊場巡りが盛んとなり、妙見宮の付祭り、絹の市の開始、観音堂の建立に見るごとく、秩父地方は目覚ましい発展を遂げたが、その中核となっていた大宮山八大宮(八大権現社)は、明治維新後に神仏分離令で解体される迄、八大宮宮司家の塩谷家によって祀り続けられたのである。

 神仏分離令により分離・封印を余儀なくされた八大宮であった。それ故、合祀されていた「御巫八神」の名は人々の口にのぼることもなく、八大龍王は「●(おかみのかみ)」とその名が秘され、公式の記録から消えた。その後も、明治・大正・昭和へと続く物質万能の世界の中で、また神社活動の低調期の間「八神」に光が当てられることもなく、「八大龍王」も共にうずもれる寸前迄いったのである。

 しかし、百観音信仰の興隆と観光ブーム並びに交通路の発達に伴い、観音菩薩と不離一体といわれる八大龍王神への関心は、水の神、万物の生命のおおもと、エネルギーの神、観音との両参りの神、環境保全・共存共栄の神、異質なものとの和合を進める神として、少なからず人々の関心を呼ぶ時代となったようである。それに従い、合祀された宮中八神即ち「御巫八神」への関心と信仰もわずかながら芽生えがみられる昨今となっているようである。

 なお、八大宮(八大権現社)は明治維新以降解体されたが、大般若経六百巻は広見寺に、御神輿は今宮から独立した御岳神社(現武甲山神社)に、社号額は札所二十八番橋立寺に、それぞれ寄贈されている。


  • 【参考文献】
  • 「神祇辞典」(平凡社、大正三年)
  • 「神道辞典」(神社新報社、昭和四十二年)
  • 「神道大辞典」(京都臨川書店、一九八一年)
  • 「日本神道史研究」(講談社、昭和五十三年)
  • 「神社新報」(神道の基礎知識、読者の質問箱、平成六年五月二三日)
  • 「日本神社総覧・式内社所在一覧」(新人物往来社、西牟田崇生)
  • 「今宮神社取調書」(秩父市立図書館蔵、明治二十八年)

(塩谷治子)

※上記●は,雨かんむりに龍という文字であり「おかみ」と読まれている。


●役尊神(役行者・役小角) えんのぎょうじゃ・えんのおづぬ


役尊神(役行者・役小角)と秩父今宮神社

 社記によれば、当社の前身は長岳山金剛寺、大宮山満光寺といい、ここに古来より武甲山の伏流水が湧き出る池があり、大宝年間(701〜4)役行者によって「八大龍王」が祀られて八大宮と称しました。


 役行者は舒明6年(634)葛城山の麓、茅原の里(現奈良県御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘渡都岐(とつき)の間に生まれ、仙道、道教、古神道、仏教を学びました。しかしこれに満足せず「人間完成の探求と実践こそ神仏の境地到達の路であり、国家平安、万民幸福の根本である」と悟り、葛城山、金峰山へ入り難行苦行され、遂に法起、龍樹菩薩から乱れた世を救う秘法を授かりました。当時人心は荒れ、凡教も頽廃して末世の様相であることを嘆いた役小角は、悪魔(悪病や災厄、人間の欲望や煩悩)を降伏させることのできる御本尊を求めてさらに修行し、金峰山で忿怒の相の金剛蔵王権現を祈り出して、吉野の金峰山寺山下の蔵王堂にまつりました。

 羽黒、立山、浅間山等を開き、道場を建てること二百余ヶ所、厳しい自然の中に御仏の教えを求めて、強固な精神力と高邁な人格を身につけられた姿は、何人をも魅了してやまなかったと伝えられています。いつも弱者の側に立ち、治水工事、病気治療、鉱山開発、情報収集などを指導し、「神か仏か、仙人か」と人々から仰がれました。一説に、壬申の乱(672)では天武天皇を勝利に導き、後天皇より重く用いられました。

 この前後、今宮神社、武甲山、三峰、慈光寺に飛来し、当処に「八大龍王」を祀り「秩父霊場発祥の地」といたしました。凡そ、八百年後の天文五年(1536)秩父札所が34ヶ寺整えられました。その後「江戸出開帳」も成功し、巡礼路も拓かれて、秩父は日本有数の霊場に発展して、役行者は秩父を開拓した恩人として幕末まで人々から尊敬されました。

 文武3年(699)、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に図られて、無罪の罪により伊豆大島に流されましたが、再び文武天皇に迎えられ「国人(くにびと)の心の親」となられ、寛政11年(1799)の千百年遠忌には、朝廷(光格天皇)から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の称号を賜りました。


 役行者が当社に祀った八大龍王は、水の神、仏法を守る神であり観音菩薩から慈悲の心(宝珠=玉)をいただいた神様です。四月四日の秩父神社のお田植え祭は、今宮神社の霊水をいただきに来られることから始まります。このように、役行者と八大龍王は、秩父霊場や秩父の人々の生活に深く係わられて、今日の秩父発展の礎となられました。


 明治からの百余年は、多くの人々に文化生活を享受させてはくれましたが、それは物質文明競争の暴走で自然破壊を招き、人々の心もまた、荒ませてしまいました。

 これからは、もっと「水」を愛し「真理」を学んで、自然と人類が共存共栄できる世の中になることを心から祈念し,平成8年,当社境内に「役尊神祠」(行者堂)を再建しました。


●役行者について

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