晴佐久昌英神父説教

2000年 12月25日(深夜0時)

クリスマス夜半のミサ 

ルカ2・1−14 

 先程の19時の御ミサ、大勢でしたよ。去年、一昨年とくらべても、年々仲間が膨らんでいるようで嬉しい気持ちになります。狭い教会でぎゅうぎゅう詰めでしたけれども、「こうしてみんなが集まるというのはそれだけで素晴らしいことだ」と本当にそう感じさせる嬉しいミサでした。この暗い暗い闇の中で、高幡教会には灯が灯って信じるものが集まります。特にこの教会、周りが畑やら森やらで暗い。家がない。だからこそ余計にそんな印象が強いのです。暗い暗い中にろうそくをいっぱいともして、信じる者が集まってきます。7時のミサがあんまり多かったので「これは、深夜零時のミサ、あまり人が来ないんじゃあないか」と思っておりましたらご覧のとおりで「いやあ結構物好きが多いな」と(笑)。この夜更けにわざわざ出かけてきて…しかしカトリックは古くからこの深夜ミサという伝統を大事にしておりまして、やっぱりこれはいいですね。この深い深い夜に闇の中をずっと歩いて集まってきてクリスマスのミサをこうして一緒に祝う。この私達がここに集められているという、そのことだけで僕は「神様は確かにおられるんだなあ」と本当にそう感じます。皆さんが先程手にしたロウソクのように、皆さんの心に信仰の灯が灯っています。その灯がこうして一つに集まってきてこの暗い暗い世の中に神様の光を輝かせている。高幡教会のこの聖堂で行われているこの深夜ミサが今も闇の中を生きている大勢の人を照らす希望の輝きであるように心から願わずにはいられません。実際、今日皆さんが心に灯したその信仰のともしびは「闇の中でこそ光る」、そのようなともしびです。さっきのキャンドルサービスで、暗い時はロウソクのともしびはいっそうきれいでした。こうして照明をつけますと、ちょっとそのときめきは減ったような気がしますけれど、そういうものです。周囲が暗ければ暗いほど輝きが増す。私達にとって闇であるところにこそ真のともしびが輝き出す。イエス様の誕生っていうのはそういうことを私達に教えてくれているんだと思います。

 イエス様の誕生物語をよくよく読んでみると、本当にどうしようもないくらい真っ暗なところにイエス様は生まれてきます。今はクリスマスの飾りを派手にして、馬小屋までピカピか光ってますけれど、実際のイエス様の誕生はどれほど真っ暗だったか。カンテラの明かり一つもなかったかも知れない。本当に真っ暗だったと思う。そもそも身重のマリアが旅に出なければならない。これは本人にしてみれば大変なことです。「もしもできることならば安静にしていて、充分に準備して我が家で子供を産みたい」母親ならば当然そう思っていたはずです。けれども突然のように「住民登録をしろ。本籍地まで旅に出ろ」そう言われて、もう10ヶ月になるようなお腹を抱えたマリアが旅に出なければならない。「どうしてこう思うように行かないんだろう」マリアもヨゼフもきっとそう思ったに違いありません。けれどもこの「思うように行かない」その闇にイエス様が生まれてくる。これはやっぱり神様の私達への特別の関わり方だと思っていいと思います。どうしても思うように行かない。そこへ救いの光が輝き出すのです。その思うようにいかなさ加減も、暗ければ暗いほど救いのともしびが明るく輝く。マリア様がロバに乗って、ヨセフが手綱を引いて旅をする絵を見たことがあると思いますけれども、僕は実際にはそこまで恵まれてもいなかったと思います。そんな金もなかっただろうし、多分大きなお腹抱えて一生懸命歩いていたんじゃあないか。岩山を登ったり降りたり。その上、ようやくベツレヘムに着いたら泊まるところもない。陣痛が始まる。馬屋のような所で「ここでもいいから」といって生まれて初めての子を産む。「どうしてこう思うように行かないんだろう」きっとそう思ったに違いない。夢を打ち壊す、思い通りに行かないその闇。皆さんもいっぱい経験しているはずです。「もっとこうだったらいいのに。神様もっとこうしてくれたらいいのに。」そう思うこと。マリアとヨセフも思い通りに全然行かないで、どんどん悪い方に悪い方に向かっていって、仕舞いにはノミやシラミが飛び交っているような臭い馬屋に転がり込んでの出産です。お湯なんか沸いていないんでしょうね。ボロい布が何枚かあるだけのところで、不安と恐怖に駆られながら、必死に祈りながらマリアは始めての子を産んだのです。おそらくへその緒を切ったのはヨゼフだと思います。もしかすると命の危険があるかも知れないような、そんな状況。それでも神様はそんな思うように行かない闇のまっただ中に、どうしても救い主を送りたかった。この神秘を皆さん方はこの暗い夜に、深く深く心に刻んでいただきたいのです。

 思うように行きたいですよね。私達。それは誰でもそうでしょうけれど「どうしても思うように行かない。こんなことだったらもう何もしなければ良かった。」とか仕舞いには「生まれてこない方が良かった」とか、そんな闇の底に神様が「いいや違う。やっぱりあなたは生まれてきて良かった。そんな闇の底でこそ、あなたの素晴らしさが輝き出るんだ」そう言って救い主を与えてくださる。天使が「今日あなた方のために救い主がお生まれになった」と宣言しました。その「あなた方」というのは、まさしく今日闇の中を必死にウロウロとオロオロと生きている皆さん方のことです。この夜高幡教会に来る闇も相当暗かったと思いますけれども、皆さん方の今年一年の人生も相当暗いことがいっぱいあったんじゃあないでしょうか。しかしその人生は今日皆さん方がここに歩いて来たように、救い主に向かっての人生であり、救い主を迎えるための一年であったはずです。不安の中でがっかりして「もうダメだ」と思うようなことも幾つもあったかも知れないけれども、西暦2000年のクリスマス深夜に私達は神の恵みによってここに集まって参りました。闇の底に輝き出るまことの光を信じているからです。

 イエス様の誕生2000年をお祝いしているこのクリスマスに灯した光が、これからもいつまでも消えることがなく皆さんの心に灯っているように、お互いのためにも祈り合うべきです。これからもまたまた思うように行かないことがたくさんやってきます。「もっとこうだったらいいのに、何故神様」というようなことが次々とやってきます。そのたびに私達はこのノミ・シラミの中で始めての子を産んだそのマリアの信仰と、その闇にこそ救いを与えてくださった神様の深い愛を思い起こしてほしいのです。「あなたがたのためにお生まれになった」という意味は非常に具体的です。言い換えるならば「あなた方の今日の悩みのために救い主がお生まれになる」そういうことです。病気で苦しんでいる人がいるならば、「その不安と孤独の内にこそ救い主がやってくる」そういうことです。こうして皆さんの顔を見ていると「ああこの方のご主人も今病気で大変だ。ああ、この方のお母さんも病気で大変だ」と、病気の家族を抱えている方の顔がいっぱいあって、僕は「できることなら念力か奇跡でも起こしてその病気を治してあげたい」正直、そんな気持ちになります。けれどもよくよく考えてみると「病気が治ってそれで全てオッケーか、それが我々の究極の目的か」と言うと、そうではないでしょう。むしろ神様がこの病気という闇の底にお生まれになって、その神様を私達が受けとめること、闇の中にあっても神様の光が私の心に灯ること、それが一番嬉しいこと。それこそが私達の救い。病気が治ろうが治るまいが、「今私の所に神様の輝きがやってきた」とそう信じられることが私達の喜びです。闇が深ければ深いほど、小さなともしびでもとても美しく輝くという、この逆説のような神秘をどうかこの深い深い夜に自分自身の信仰として心に灯していただきたいです。

 一人一人の今日の闇。皆さん方はどんな闇をお持ちでしょうか。祝福されたその素晴らしい闇にイエス様がやってこられたことを、あえて喜んでください。天使は言いました。「恐れるな。今日あなた方のために救い主がお生まれになった」。ここに集まった私達が救いの神秘を固く信じて心を一つにしてミサを捧げ、「きっと今病床にあるあの方この方も、信仰の闇の中で苦しんでいる方も、今辛い思いをしているあの人この人の所にも、救い主が必ず生まれてくださる」とそう信じて、このミサで奇跡を起こしましょう。この祭壇の周りにこうしてたくさんのロウソクを灯しましたけれども、これは一つ一つ、今日ここに来られなかった方の代わりに灯したものです。このともしびのように全ての人の闇に光が生まれていると信じて、奇跡を起こしましょう。もはやそれは人の目には不思議なことでも、神様のわざです。この一年を感謝して、この一年の様々な闇を全部今日は神様にお捧げして、来るべき新千年紀、新しい世紀、新しい一年の内に神様の輝きがいつまでも灯り続けるように今日のこのミサをお捧げします。
 ご一緒に信仰宣言を致しましょう。

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