
本件のあらすじ
- 1967年3月、私こと稲垣武彦、慶応義塾大学商学部卒業。同年四月、大学院商学研究科に入学。指導教授は辻村江太郎教授、専攻は計量経済学。ところが同年秋、休学。
実は学部時代、辻村氏の著書、「消費者行動の理論」(有斐閣)を読み、それ以来理解できぬまま悶々としていたのですが、というより、その本の中で紹介されている、辻村氏の習慣形成仮説には初歩的な間違いがあるように思え、同時にまさか大学教授ともあろう者が、そんな馬鹿な間違いをするはずはないと打ち消す思いもあり、悶々としていたというのが正確なのですが、それゆえ神経が過敏となり、また大学院での授業がつまらなく、そんなものに出席している自分がいやになり、休学する破目になってしまったのです。
無秩序にいろいろな本を読んだり、読まされたりした結果だと思います。
- ところが68年の夏頃、辻村氏が新しい著書「消費構造と物価」(勁草書房)を出したので、早速読んだところ、今度は絶対に間違っていると確信するに至りました。
何度も読み返したあげく、学部のゼミの教室まで出向き、教授に質問しました。この時は「もう一度読んでごらん」と言われ、納得いかぬまま帰りました。
というのはこの著書は「日経賞」を受賞しており、丁度この日、その記念品の辞書の贈呈式があったとかいうことでしたので、あまり質問をして水を差すのもはばかられ、とりあえずこの日は帰ることにしたわけです。
この時はなんの悪意も感じられませんでした。
- その後何度も、辻村氏に質問しました。辻村氏も自分の間違いを悟ったのでしょう、一切具体的に答えずに、感情的になり「ついてこれんのか。うるさい。本を読め。やめろ」と繰り返すのみで、事実上話が出来なくなりました。
- 大学院での辻村氏の授業なるものは、講義など無く、助手や助教授などがワイワイやっているだけで、肝心の質問にも答えてもらえず、69年の夏頃にはほとんど授業には出なくなってしまっていました。仕方が無いので就職でもしようかとも思いましたが、もともと私は就職する気が無く、学校に残って勉強しようとしたわけですから、辻村氏の意図通りに大学院を去るのは面白くなく、大学改革の糸口でも作るべきではないか、と考えました。
それでこれが最後と、鵠沼海岸にある教授の家に行き、今回も同様な態度であれば、就職してからも教授を追求し、大学院の制度を改善してやろうと決心しました。結果は同じでした。
- 故郷に戻って、しばらく静養していましたが、71年3月、行動を開始しました。その第一弾が辻村氏に対する質問状の発送でした。それまでのイキサツから多少乱暴な文面ではありましたが、これは公式に追求する前の最後の思いやりで、この段階で反省の態度をみせるなら、他教授などに知らせること無く、追求を中止してやってもよいと思っていました。つまり辻村氏の態度を知るための踏み絵だったわけです。
なお辻村氏の学説なるものは序数の定義の無理解から生じたお粗末極まりないもので、私も、これにあわせて望遠鏡の絵を使って、序数的効用を説明するなどして、序数の定義から始めなければなりませんでした(下図)。
数日後、辻村氏は家に電話をしてきましたが、経済学上の質問には一切触れず、何も知らない母に向かって、「不穏なことを言ってきた。精神病院に入れろ。他教授やゼミの学生にこの手紙を見せないようにさせろ。さもないと刑事問題にする。ただし見せないようにさせるなら、もみ消してあげる」などと虫のよいことを言ってきました。
全く反省の色もないので、追求をはっきり決意しました。奥さんや、娘さん、息子さんには罪はなく、それゆえ、内分に処理してやろうとしたのですが、本人がこれでは仕様がありません。
先ず辻村氏の弟弟子にあたる小尾恵一郎教授と、学問のことはともかくとして、政治力と行動力は抜群の白石孝教授(国際貿易論)に先の質問状のコピーを送付しました。
とりあえずは他教授に事実を知っておいてもらう必要があったのです。
- その上で今度は、当時の佐藤朔塾長(フランス文学)宛てに窮状を訴える手紙を出しました。すると黒田昌裕助手(現在は教授)が辻村氏の命によって、実家のある京都まで、すっ飛んで来て、母を呼び出し、当時の商学研究科の長である増井健一教授からの伝言であると偽って、至急に退学届を出すよう強要しました。勿論全くのでたらめでした。
と言うのは増井教授は「処分する理由など何も無いし、なによりも辻村君なり、黒田君なりが京都の稲垣さんのところへ行くということすら知らなかったのだから、そのような伝言をするはずがない」と断言したからです。
黒田助手は後になって、「増井教授からの伝言は、停学届けの言い違い」だとか「休学届けと言ったつもりだ」とか言い逃れをしましたが、伝言そのものが無かったのです。
出世のためには、後輩の母親をもだますわけですから、情けないかぎりですが、こんな男が教授となり、辻村仮説を引き継いでいるのですから、世も末です。学生にとっても、国民にとっても迷惑なことです。(増井証言,黒田証言のいづれをも録音しています。)
商学研究会委員長の名前をかたり、母親をだましてまでして、退学させようとしたのですから私のほうには何の落ち度も無いのは明らかです。また経済学上の質問に対して、答えれば済むのに、答えないでこの有り様ですから、辻村教授の学説が間違っているのも明らかでしょう。
- 結局、母に対してウソをついた手前、大学院としてもそのまま放置するわけにもいかなくなり、増井委員長は「もともとは経済学上の論争より起こったのだから、経済学上の問題に限って話し合うように」と話し合いの場なるものを設けました。
しかし本件は「考え方の違い」ではなく、自分の学説の「明確な誤り」を指摘した教え子を無理矢理追い出そうとした悪徳教授が起こした不祥事なのですから、それを認めも、謝罪もせずに、経済学の問題を話し合っても決着しないのは当然です。
事実白石教授が立ち会って商学部長室で行われた「話し合い」は予想通り無茶苦茶なものでした。何しろ、序数の和や差は無意味であるという「定義」も通用しないのです。
- そこで72年4月、今までのいきさつ、や辻村氏の仮説が論理的整合性を欠いているということを論証した小文、「消費選好場と相対性」を私の親から佐藤塾長宛てに送付し、判断を仰ぎました。
商学研究科委員長の設けた「話し合い」は茶番でしかない結果に終わったが、ここでの結論をもって慶応義塾の公式の結論と認めるのかと問いただしたわけです。
つまり辻村氏は「うるさい。ついてこれんのか。やめろ」としか言わないが、私の言い分の何処がおかしいのか、辻村氏に回答をさせ、慶応が、その回答がまじめなものと認めるなら、それを送ってよこせと要求したわけです。
慶応義塾が「話し合いでの結論は慶応の公式の結論である」と答え、辻村氏の回答を送ってくれば、それで済むはずなのに、そうはしなかったのですから、先の話し合いはインチキであったということを大学は自ら暴露したことになります。
事実会田義雄理事は私との電話中、「辻村君は回答もしないで逃げ回っている」と話し、苦笑するありさまです。

そして72年5月23日、塾長より回答なるものが届きました。
「問題は何分にも複雑であり、かつ、武彦君の批判文も長文のために、徒に時間を費やすのみですが、目下いかなる方策をとるのが最善の道か調査ならびに検討を重ねております。期限付きの要請でありますので、とりあえず右の事情を申し述べ、学部の自治ならびに学問の自由、研究の自由という見地に立って、なおとるべき方策があれば改めて検討の結果をご通知申し上げたく、ここに回答申し上げる次第であります。」というのがそれです。
回答申し上げるとは書いてありますが、なんの回答にもなっていません。
とるべき方策がなければ、なんの通知もしませんよということにすぎないわけです。
- そこで塾長に電話をし、これが回答なのか問い詰めました。また辻村、黒田両名が委員長の名前をかたって起こした不祥事に関して何も触れていないが、この事件をもまだ確認していないのかただしました。
塾長はこれに対して、期限付きの要望であったからと弁明し、必ず回答する旨答え、また両名による不祥事も事実であると認めました。また会田理事は丁度このころ、やはり電話で、或る電気メーカーに就職を世話しようかと持ち掛けたりしました。しかし当方はそのようなことを要望しているわけではなかったので、勿論断りました。
- そして72年8月4日付きの塾長よりの最終回答なるものが届きました。
「学説上の論争は、理事者の関与する問題ではなく、むしろ本人が学会その他適当な発表機関を通じて提起すべきもの」として、「今後は理事長たる塾長宅への電話連絡は本筋から外れるものであり、かつ、個人の迷惑でもありますので今後一切しないように、また事柄の性格上、大学院商学研究科委員長ならびに大学院学習指導係の所管事項なので、そちらに申し出るように」というものでした。
こちらはなにも論争を挑んでいるわけではないのです。辻村氏がこちらの質問に一切答えようとしないで、「うるさい。ついてこれんのか。やめろ」としか言わず、母親をだましてまでして、大学院を追い出そうとしたことへの責任をとるなり、謝罪をするなりしろと言っているにすぎないわけです。迷惑しているのは、こちらなのです。不祥事を論争とすりかえてしまっています。
辻村、黒田両名による不祥事については、「事実を全く認めえない」という回答でしたが、塾長自らが、舌の根もかわかないうちに、このような嘘を平気でつくのです。
とんでもない大学であるということが良くご理解いただけたと思います。
尚この佐藤塾長なる男は、本件との関わりからも推察できるように、学者としての資質をも著しく欠いています。
それは佐藤氏の後輩でもある慶応大名誉教授兼京都外国語大名誉教授(当時)、白井 浩司氏(フランス文学)から、その訳書の粗雑さを徹底的に批判されていることからもわかります。
白井氏は京都外大の「研究論叢」における論文で、アルベール・カミュ原作「転落」の佐藤氏訳の杜撰さを、あますところなく指摘しています。
白井氏は佐藤氏に直接この誤訳、語釈を指摘したところ、「全部やり直さねば」と言っていたのに一向にその気配もなく、また、この翻訳の版元(新潮社)の担当者が、「読者から苦情も言ってこない以上、いくら誤訳があったところで改訳の意図はない」と白井氏に言明したことから、この論文を書いたということで、白井氏は「折角の名作が台無しになってしまった、という一種の義憤がこの論文の筆を執らせた」と最後を結んでいます。
この訳書は、学生の下訳を使い、ごく短期間で仕上げられ、当時初版刊行以来35年にもなるのに、一度も改訳されていないということでした。
白井氏は論文の続編で、佐藤訳「革命か反抗か」(新潮社)も同様にとんでもない欠陥商品であると論証し、おまけに佐藤氏の弟子の高畠某の翻訳も非常に荒っぽく、カミュの初期作品がすっかりゆがめられてしまった、と憤慨しています。
白井氏によれば、この弟子も女子学生の下訳を使い、師を見習ったわけでもあるまいに「翻訳工場」を営んでいたというのは、結局、翻訳という作業、学問を甘く見ていた証拠である、ときめつけています。
このあたりは本件と同様、慶応の教授陣やその弟子たちの学問に対する姿勢がよくわかります。佐藤氏は最初から塾長になれる器ではないのです。
しかし佐藤氏の訳書は誤訳や語釈が多いとは言え、まったく無価値というわけではありません。ここのところが、同じ欠陥商品問題でも本件とは異なるわけです。
つまり辻村仮説なるものは論理的整合性を欠き、最初から仮説たり得ず、0点なのであり、もともと世に出てはいけないものだったのです。
- さて塾長からの最終回答に従って、商学研究科委員長に電話をしたところ、委員長は何度も居留守を使った挙げ句、やっと電話口に出てきたと思ったら、開口一番、「個人的問題で話している暇はないよ」と切り出し、「指導教授の問題だろう」と言うではありませんか。
悪いのは辻村教授であって、自分は関係ないと言わんばっかりの態度には、こちらも呆気にとられましたが、「だから学校の責任を問うているのです」と言うと、「今は忙しいのだ。こんな問題に関わっている暇はないよ」と、いきなりガチャンと電話を切る始末です。呆れたものです。
委員長はこの時は増井教授から鈴木諒一教授に代わっていましたが、とんでもない男です。しかも鈴木教授は辻村教授の兄弟子にあたり、計量経済学が専門ですから、本件が理解出来ないはずは有り得ません。鈴木教授が言うように、どの点から見ても「悪いのは辻村」なのです。それゆえ謝罪するのでなければ、電話を切る以外何も出来なかったのでしょう。
私の書いた初歩的な短い論文も読んでいないなどと言っていますが、不自然です。
こちらの主張がおかしいのなら、そのように言えばよいのです。
この電話の模様は録音しています。この男の言い分をお聞きになるか、ご覧になるかなさると慶応義塾の教師の程度が良く分かります。
なお73年3月慶応義塾は授業料未払いを理由に、私を除籍処分としました。授業料は、このような不祥事が起こる迄は、きちんと払っており、慶応義塾というところは一体何を考えているのでしょうか。
指導教授が質問にも一切答えず、理由も無いのに親を騙してまでして無理矢理退学させようとし、また大学もこの悪徳教授を処分もせず、謝罪もしないという時に、生徒がいつまでも授業料を払うわけはないでしょう。
私のもどる所はないのですから。
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