「 あ と が き 」
子供の頃に読んだ福沢の書に、「慶応義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず、その目的は我が日本国中の気品の泉源、知徳の模範たらんことを期し・・・」などというのがありましたが、本当に馬鹿馬鹿しい限りです。
昨日何気なくテレビのニュースを見ていたら、大学審議会会長が鳥居泰彦氏と言っていたような気がします。何時の間に代わったのでしょうか。この人は現慶応義塾大学塾長です。専攻は経済学です。
金もうけ第一主義のこのような私立大学の学長が日本の大学の将来を決定するような審議会の会長などを務めるのは適当ではありません。それも石川
忠雄氏に続いてということですから、おかしなことです。
ニュースによればペーパーテストで受験者を一点刻みに序列化し、上位から合格させるという今のやりかたこそが「公平」であるという考え方は捨てるべきだというのです。
それではどうするのかといえば、センター試験で一定の水準を超えているかどうかを確認すれば、あとはもっぱら大学の教育方針を色濃く反映させた個別試験で判断する、つまり小論文や面接、口頭試問などで選抜するというのです。
小論文や面接で公平に選抜出来るわけがありません。コネで入学する者が増えるだけでしょう。
今の方法も勿論多少の欠点はあるでしょう。しかし男か女か、金があるかどうか、スタイルが良いか悪いか、家柄がどうのこうの、内向的か外向的かなどとは関係なく、試験の点数のみで判定されるところに「公平」と評価される所以があるのです。
それだからこそ、いつもは実力試験で自分より成績の悪い者が合格し、自分が不合格になったとしても、試験に失敗したと納得出来、来年こそ頑張ろうと忍耐出来るのです。これが面接で振り落とされたということになったら、納得出来ないでしょう。それも面接する人間が立派な人格者というのなら、まだ話しはわかりますが、実際は今までご覧のとうりのイカサマ野郎ばかりですから、受験生もたまりません。
大学の教育方針などと生意気なことを巨額の国庫助成を受けている大学が言うべきではありません。
なによりも真面目に授業をするべきでしょう。
福沢精神とは、「改むるにはばかること勿れ」ということなのでしょうが、私が辻村氏の仮説なるものが0点であると指摘し、それに対して辻村や黒田が破廉恥事件まで起こしているのに、今だに訂正しょうとしないのですからあきれます。
鳥居氏も自分の入門書で、辻村の欠陥書物を参考文献で取り上げたりしているのですから、困ったものです。
塾長にして限界効用を理解していないのですから大した大学です。
なにしろ辻村氏は、限界効用は相対的であると言いながら、限界効用の食い合いが起こるなどと書いているのです。なかでも傑作は「消費者行動の理論」(有斐閣)の121頁において、「われわれの得た交叉項の数値がそれらしくないという事実は、Uが唯一の効用尺度でないことを示す徴候であると解すべきものなのかもしれないのである」などと述べている個所です。ここを見ただけで辻村氏が序数の定義も全く理解していないということがよくわかります。これで自分は理論に明るいと思っていたのです。
ドイツの物理学者であるマクス
・プランクが、「自分は若い頃、経済学者になろうと思ったが、あまりに難しいので、やめた」と言っているのと、えらい違いです。
鳥居氏は老人介護年金制度審議会の座長として、ご活躍なさっていたこともあるようですが、そんな難しい問題に頭を突っ込むよりも、まず「序数の和や差は無意味である」ということを徹底していただきたいものです。また生徒の質問には授業料をとっているのですから、当然返答ぐらいはするような大学づくりにご努力願いたいと希望します。
授業料をとりながら、一切質問にも答えないという慶応義塾のやり方より類推すれば、鳥居氏のやっておられることは、老人介護という、どこの家庭でも困っている問題を餌に、後のことなど考えもせず、まきあげられる時にまきあげて置こうというさもしい役目に徹しきる悪代官という役どころに見えてしようがありません。
すこし話はそれました。
慶応義塾というところは昔から教授の権威をかさに馬鹿なことをする者が多いのです。
これは私が慶応に入る前のことですが、当時の新聞(週刊誌だったかも?)によれば、経済学部の或る教授が、たまたま大学近くの理髪店で数人の慶大生と一緒になったのですが、彼らが店にあった福沢諭吉の写真を見て、「福沢の野郎、小沢栄太郎に似ているな」というようなことを言うのを聞いて、慶応の創立者を野郎と言うとは何事かと、彼らを退学させてしまったということです。
なにも、そうむきにならなくてもよいことで、そっと一言「これこれ、あまり大きな声で、つまらないことを言わないように」と注意すれば済むことなのです。そして本当にあるのなら、福沢の素晴らしさを教えれば良いことなのです。
将来ある学生を学業半ばで放り出すなんて当時の私は呆れ、周りのものは誰もこの男を止めないのかと腹が立ったものです。あるいは慶応というところはこうした出来事を当然と思うほど教師も学生も福沢精神に満ち溢れているのであろうかと無理に納得するように努めたものでした。
ところが憧れの慶応に入ってみると、福沢精神、福沢精神と口にする教師は大勢いるが、なるほどこれが福沢精神かと納得出来るような教師には誰一人としてお目にかかることは出来ませんでした。それどころかどうしようもない、品の悪い教師が福沢精神などと言うのを聞くと、いったい福沢とはどんな野郎であったのかと思えるほどでした。
なおこの馬鹿な教授は寺尾琢磨というのだと後になってわかりましたが、それではこの寺尾なる男は自分では、どれほど素晴らしい生徒を育てたのでしょうか。
それは、もうよくご存知の辻村江太郎教授、や鈴木諒一教授などです。
この寺尾事件を知った時、この男の弟子たちは、どうして自分の先生をたしなめることぐらい出来なかったのか不思議でしたが、本件では自分の学説の間違いを指摘した教え子を無理矢理退学させたり、それに協力したりしているのです。寺尾より悪いのは明白です。
歴史は繰り返すと言います。
孫弟子は黒田昌裕氏、や牧厚志氏、それに鳥居泰彦塾長などです。
大先生のオン
パレードです。立派な学校に感謝、というところでしょうか。
これでは良い生徒も育たないはずです。
なお福沢でさえも小泉信三のおとっつぁんの、確か、小泉信吉という名の塾教師(慶応義塾教師)に、つまらない喧嘩を吹っかけ、信吉氏は腹を立てて、郷里に帰ってしまったということがあったそうです。くわしいことは本当は知らないのですが、福沢は後で迎えに行っています。けれども信吉氏はけっして戻ろうとはしなかったそうです。
しかし福沢はそのかわりに、息子の信三氏を大事に教育したといいますから、今の慶応とは全然違います。今は誰一人として謝りもしませんし、間違いをただそうともしません。まるでゴロツキです。
この信三氏の教え子が、前述の寺尾琢磨なのです。小泉信三にして、ろくな教育をしていなかったのが、良くわかります。
尚小泉信吉という人が、どういう学者であったのか、残念ながら知りませんが、酒癖の悪い人だったのは有名です。
今の慶応には馬鹿なことをした辻村をたしなめる者もおらず、それどころか弟子の黒田はわざわざ京都まで来て、私の母をだまして、退学届けを出させようとしましたし、塾長や研究科委員長など人が代わっても同じようにでたらめです。
ところで最後に、この辻村江太郎氏の顔を見てみたいという方は、いらっしゃるでしょうか。
こわいもの見たさで、見てみたいという方は、すぐ見ていただけます。実は辻村氏は公務員制度調査会の会長ということで、そこのホームページに大きな写真が掲載されています。
(2001年3月30日になって、URLが変更されていて、つながらなくなっていたのに気が付きましたので、新しいものに訂正しておきます)
http://www.soumu.go.jp/jinji/chousa.htm
こういう立派なお方が、21世紀の行政システムに対応して、公務員像を抜本的に見直すとして、総理に答申を提出したりしているのです。
そこでは年功序列の昇進などを改善するためとして、65歳定年制導入の検討をはじめ、能力、実績中心の昇進システムの確立、再就職の透明性を確保するための「人材バンク」の設置などを提言しています。しかし、わざわざ調査会を設けなければならないほどの結果は何も見当たりません。
つまり結局のところ、年金の支給開始年齢の引き上げに合わせて、それまでは公務員の給料を保証しましょうということに他ならないのです。勿論これが悪いということではないのですが、民間をほおって置いて、どういうつもりなのでしょう。
なお「分数ができない大学生」の著者の皆さんの派手なご努力の結果でか、大学審議会は中間報告で、入学後の教育に必要ならば、受験科目の増加を認める方針を打ち出しました。これで少しは「数学がわからない経済学部生」が減少するようになることでしょう。しかし数学のできる大学生が増えても、経済学に数学が活かされていないなら、大学の質の低下は避けられません。疑似科学ばかりを見せられては学生の意欲もなくなります。
それゆえ「分数ができない大学生」の著者の先生方には是非ご協力をいただかなくてはなりません。
この「あとがき」は、実は今年の春ごろに少し書き始め、そのままになっていたのですが、そろそろインターネットに接続しようという今頃になって、面白いものを見つけました。(2000年9月末)
それは前掲の辻村氏の著書「計量経済学」(岩波書店、1980年6月発行)に対する書評です。
つまり「日本経済研究センター会報」423号、1982,9,1
というもので、評者は前出の森口親司氏です。
これがどうしてここにあるのか、良く分からないのですが、下のURLにあります。
http://www.mag.keio.ac.jp/~tyano/text7.html
「2001年3月30日になって、このページが消去されてしまっているのに気が付きました。原文をお読みになりたい方は、図書館ででも、お読みいただけます(下の写真はその冒頭部分)。なお万一別のURLに変更されて残っているようでしたら、ご一報下さい」
2008年7月、このページが見つかりました。ほとんどの人にとって必要ではないでしょうが、その個所で見られます。

全文を読みたいという方は少ないでしょうから、ほんの一部だけ引用、コピーしておきます。(文字の着色は筆者)
消費者行動への著書の接近は、ヒックス=アレン流の序数的効用関数によるものではなく、エジワース=パレート流の基数的効用関数である。限界代替率逓減を公理として出発するヒックス=アレン流の消費者均衡分析は、理論としては、もっともゆるい公理の上に打ちたてられた美しい体系ではあっても、消費者行動の実証化には、「可測的な」効用指標がある方が分かりやすく、稔りおおい結果がえやすい。マクロの生産関数が計測されるのに、家計の効用関数が計測されないままで良いというのは非対称的である。
これをお読みになると、辻村氏の「消費習慣形成仮説」なるものは、基数的効用関数を前提としたアプローチである、ということがお分かりいただけるものと思います。
ところが辻村氏はこれに反して自著において、序数的効用を前提とすると明言しているわけです。
これをお示しするために、前掲の「消費構造と物価」の一部をを下に示しておきます。

辻村氏は色々な個所で序数的効用を前提としていると書いていますが、経済学など一切知らないという方のために、お読みになれば分かるという個所を切り抜きました。ちょっとピントのはづれた個所もあるので、厳密には他の個所の方が適当かもしれませんが、そういう個所は経済学を一度も読んだことがないという方にはちょっととりつきにくいと思い、やめました。
私が大学院時代に辻村氏に対して行った質問というのは、まさにこのことに他なりません。
つまり「辻村氏の習慣形成仮説は序数的効用を前提としているのに、実際は基数的効用であり、論理的整合性に欠ける。それゆえ仮説たりえない。0点である」ということです。
これに対して辻村氏は今まで述べてきましたように、一切答えず、「ついてこれんのか。やめろ」というだけであったのです。そして、ついには私の母に商学研究科委員長の名前をかたって退学届けを出させようとしたのでした。
これで今までお読みくださった方も、ご納得いただいたことと思います。辻村氏の仮説が間違っていたからこそ、辻村、黒田両名は勿論、慶応義塾は大学を挙げて卑劣な破廉恥行為を行ったのです。
辻村教授、黒田助手、増井、鈴木両商学研究科委員長、佐藤、石川両塾長などの、やったこと、したこと、すべてが無茶苦茶だということが、はっきりご理解いただけるでしょう。
何度も書きましたが、黒田助手はまさしく共犯なのです。自分の犯した罪をごまかすだけで、謝りも、訂正もせず、その上間違ったこの仮説を自著に書き続けているのです。こういう奴が野放しなのです。
増井商学研究科委員長の設けた「話し合いの場」なるものは、「もみ消しのための場」、「私の母を黙らせるための場」であったことが、はっきりご理解いただけるでしょう。慶応義塾というところの実態が良くわかります。
佐藤塾長が一度は辻村、黒田両名の不祥事を認めておきながら、「そのような事実は全く認めえない」、「学問のことは学会で」と開き直り、授業料未払いなどという、いわれ無き理由で私を除籍したのですから、慶応義塾というところは本当に恐ろしく、不気味なところです。生徒のことなど全く考えていないのです。勿論教授会なるものは外道の集まりで、誰一人として筋の通った行動をとる者がいなかったのです。私学なんて、というより慶応なんて、いくらきれいごとを言っても、所詮は金儲けのための集団なのです。こいつらは何でもします。大学の雪印、三菱なのです。というより水俣病を起こしたチッソなのです。腐っています。(勿論ここでは他の私学については何も言ってはいません。念のため。)
経理も納得出来るような公開をせず、きわめて不明瞭なのに、宣伝と政治力で巨額の国庫補助金をせしめるのです。国民全員でもっと監視を強めていかなくてはなりません。
読者の皆様は、ご自分のご子息の大学選びにはくれぐれもご注意下さい。
また慶応病院にもご注意下さい。患者のことなど何にも考えていないのです。恐ろしいところですよ。
慶応義塾というところは悪の巣窟なのです。塾長にしてこの有り様です。
石川塾長も日消連の問い合わせに対して、「関係者で検討した結果、著書の内容には問題が無いとの結論を得た」という回答をしてきたのは前にも述べた通りです。
「それでは文書で公式の見解を示すよう」要求すると、これには回答せず、「学問のことは辻村本人に」とか「学会で論議されるべき」と開き直ったのでした。それにしても、この時は(82年11月)ここに引用した森口氏の書評も公にされているのですから、呆れ返ってしまいます。本当に恥知らずな男です。こうした手合いが大学審議会会長だったのです。
辻村は日消連(竹内代表)の問い合わせに対して、「厳密に文書で論証するためには、質問なり批判そのものが専門レベルで厳密かつ明解であることが前提。稲垣氏の批判なるものが不可解である以上、もし竹内代表が責任をもってそれを取り次がれるのであれば、竹内代表ご自身が専門家に理解できるような言葉で批判点を説明してくださるのが順序ではないか。学者が論文や書物を書くのは、公開することだから、もちろん第三者からの批判は自由だが、批判するにはそれなりの作法があり、しかるべき専門雑誌に論文を書くとか、学会で発表するとかして、結論は学界の人たちの判断にまつということになる。しろうとの人と直接議論するという習慣はない。」と開き直り、恫喝したのでした。
よく言います。
阿呆まるだしです。竹内氏は、指導教授であった辻村が教え子の私の質問にも一切答えようともせず、また黒田が増井商学研究科委員長からの伝言であると偽って、退学届けを出させようとしたことなどを、録音テープを聞いて知っており、その上で、「稲垣さんに返答してやれば」と私の質問を取り次いでくださったのです。指導教授と教え子の間で、普通の会話が行われていれば、本件は起こらなかったのです。作法よりはずれたのは、辻村本人なのです。
なおこの開き直りは1984年2月14日のことなのです。(この手紙を再確認する)
辻村は自分の学説の間違いをはっきり認識しているからこそ、本件を引き起こしたのです。それにしても森口氏の書評がずっと前に発表されているのに、対外的にもこんなふざけた返答をしているのです。
森口氏も理由など一切説明せず、これは序数的効用関数によるものではなく、基数的効用関数である。と述べておられます。
専門家に理解できるような言葉で批判点を説明しろとは恐れ入ったことです。経済学の入門書の10頁から15頁ぐらいのことなのです。
さて辻村氏が序数的効用函数を前提にしていると主張しているのに、実際は基数的効用函数であり、論理的整合性を欠くから0点だ、というのが私の主張なのですから、これでやめておいてもよいのですが、少し反論が出そうなかんじもするので、前もって述べておくことにします。
それは森口氏の先の書評のコピーした文の次に以下の文が続くのです。
この点で著者のとる接近法は妥当だと思う。
これは面妖な書評です。つまり例えて言えば、或るスポーツ競技の選手が普段から、「筋肉増強剤を使用して生まれたような記録は無意味である。こんなものはスポーツではない」と唱えていたとしましょう。ところがドーピング検査で、なんのことはない、この男本人が筋肉増強剤を使用していたのが発覚したとしましょう。
私は素直に、こんな記録は無意味、これはスポーツではないと判定する立場です。
一方森口氏は、ひねくれもので、この男自身がスポーツではないと言っているのに、「薬でも飲まないと記録も出ない。まあこんなものとちゃいまっか」という立場です。
私など、いくら薬を飲んでも、人より重い物も持てないし、早くも走れないのですから、この場合は後者の立場でも何の違和感もありません。しかしこれはあくまでもスポーツの埒外で言えることです。
このスポーツ選手も「まあ妥当だと思いまっせ」と言われても、喜んでいいのか、馬鹿にされているのか、複雑な気持ちでしょう。
本件の場合も同じです。辻村氏は効用が直接測定出来ない以上、(効用による分析を前提とする限り)、基数的効用など無意味であり、序数的効用函数による分析のみが科学なのだ、と言っていたわけです。ところが実は辻村氏の分析は基数的効用による分析だということが発覚しています。
私は「論理的整合性に欠けるから0点だ」と結論づけています。
一方森口氏は、ひねくれもので、辻村本人が「基数的効用などというのは科学ではない」と言っているのに、「序数的効用による分析では何も生まれない。まあ基数的効用でもいいんじゃないですか。妥当だと思う」という立場です。私も論理も何も無い計算をする人がいてもべつにかまいません。しかしこれが科学の埒外にあるということを自覚していただいて、しかもそのように宣言をしていただいていないと困ります。辻村氏のように、あたかも科学であるかのような振りをなさるのが困るのです。学生時代、辻村氏に、「これは基数的効用ではないのですか」と何度も質問しました。「基数的効用だ」とは口が裂けても言いませんでした。分かっていたわけです。
「著者のとる接近法は妥当だと思う」と言われても、馬鹿にされたと思っていることでしょう。
なお序数的効用による分析では何も生まれないからというので、基数的効用でも差し支えないというのであれば、何も新しい発見が無いからといって、自分の収集した石器を上高森遺跡の土中に埋めて、新発見と偽っているのと同じようなことでしょう。「神の手」とは恐れ入ります。廻りの学者の頼りないこと、本当にあきれます。
森口氏も私と辻村氏の間に何があったのかは多少はご存知なのですから、「辻村氏は序数的効用を前提としているし、また今までしてきたが、実際にはそれに反して基数的効用だ」というように明言なさる必要があったのではと思います。読みようによっては、そのようにおっしゃっておられるような気もしますが、どうなのでしょう。
一般に序数的効用と基数的効用をゆるい仮定と強い仮定の違いだけという認識をなさっておられる方がおられますが、効用などというのは測定不可能なのですから、例えば60単位の効用などというのは科学とは無縁なのです。基数的効用を仮定するということは初めから無意味なのです。これに反して限界代替率というのは消費者が序数的効用函数を持ち、効用極大化行動をとるという約束の上で生じる概念ですが、数としては問題ないのです。
だからといって序数的効用による分析はほとんど何も生み出さないのです。
私が慶応を追い出されてから30数年、経済学の書物を見るということもありませんが、あまり進歩したというようにも思えません。これでは真面目に数学に取り組もうという学生が減少するのは当然という気もします。
経済学を専攻しようとする若い学生に、気が進まないのに数学を強いるのはいかがなものでしょうか。
もっとも経済学部受験生に限らず小中高において、きちんとした算数、数学を教えることには大賛成です。また何の勉強であっても、充分独学が出来るような良心的な書物こそ必要に思います。
よく教科書検定などが裁判沙汰になったりしましたが、大学に入ってから目にする書物のお粗末なこと、特に慶応の教師の書く書物には本当に腹が立ちました。慶応の教師の書いた欠陥書物を本屋で見つけると、真面目な学生が買わないようにと、エロ本売り場に放り入れたものでした。こうした本も検定してほしいと心から願ったものでした。ベトナムからの留学生が、この本はチクロ入りですと、肩をすぼめていたのを、昨日のことのように思い出します。
「分数ができない大学生」の著者の先生がたのご活動は、前にも述べましたように、科学の正しい普及や科学の進歩、発展をご希望なさってのことと思います。勿論数学の人気が無くなったなら、自分たちの商売が上がったりだから、ということではないわけです。それゆえ直接関係の無いことであっても、明確に間違っている科学上の議論があれば、それを指摘なさるのに何のためらいも無いものと思われます。思いがけず森口氏の書評まで登場したのですから、辻村、牧両氏の習慣形成仮説なるものが論理的整合性を欠き、もともと仮説たりえない。0点であると断定なさるのは簡単なことと思います。
大学で、経済学を進歩させるのは、優秀な学生を集めることよりはむしろ、科学と科学でないものとを明確に区別すること、また明確な間違いは排除することでしょう。経済学には、論理とか理論とかに基づかない研究が多く、「つまらない」とは言えても「間違いである」とは言いにくいものがほとんどですが、辻村仮説ははっきり間違いであると断定出来るのですから、簡単です。
お仲間の「算数ができない大学教授」が「分数ができない大学生」を笑ったままでは具合悪いことだと思います。何度も同じことを言いますが、よろしくご回答ください。
一般の読者の皆様はさらに「音声資料」、「消費選好場と相対性」をも参考にしていただけます。
なおご納得いただいた方はぜひ、お知り合いにこのホームページをご紹介いただきますようお願いいたしますとともに、慶応義塾や文部省、岩波書店などに抗議していただければと希望いたしております。
さらにパソコンに不慣れな私に代わって、機会がおありでしたならば、インターネット上でこのページを宣伝していただければ有り難く思います。
また慶応義塾のようなイカサマ大学に巨額の血税を投入するのを阻止するよう頑張っていきたいと思います。
「分数のできない大学生」の著者の先生方からの回答も、得られ次第報告させていただきます。
(遅れ馳せながら先生方には、2000年11月15日に、お願いの手紙を発送いたしました)
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