あるエコノミストからのメール

「お礼と訂正」

 

だいぶ以前のことになりましたが、つまり2001年9月23日に、ということは、もう1年ほど前のことになりますが、一人のエコノミストと思われる方から、一通のメールをいただきました。
エコノミストであると思ったのは、匿名で, しかも特殊なメールを使って送られてきたからです。しかも全文英語です。通常の人ならここまで手の込んだことは多分しないでしょう。いずれにせよ、エコノミスト(経済学徒)であるのは間違いありません。

追って次の日9月24日には、追加分を送ってくださいました。お礼を書くにも宛先がわからず、そのままになっていました。私は英語が得意ではないのですが、それでもこの方は英語に慣れておられて、上手だなあ、と感心いたしました。

メールも信書ですから、第三者の目に触れる所に掲載するのは良くないことかもしれませんが、掲載されても、誰だかわからないように、こういう手段をとられたわけだと考えられますので、かまわず掲載いたします。

先ず最初のメールは次のようなものでした。

I think most people prefer the ordinal utility expression like (dU/dX)/(dU/dY) = Px/Py, i.e., marginal rate of substitution is equal to price ratio. However, some people still use the cardinal utility expression like (dU/dX)/Px = (dU/dY)/Py.

I don't think the latter expression is totally wrong. We can interpret dU/dX as marginal value of X in terms of numeraire (eg. dollars), or how many dollars this household is willing to pay for additional unit of X.

For example, the intermediate level of textbook by Hirshleifer et al.(6th edition, 1998) explains the cardinal expression as well as the ordinal one in chapter 4. And, under proper settings, the result (the optimal consumption bundle) does not change.

I think the habit formation hypothesis is quite intuitive and important, but it may be difficult to apply to an economic model rigorously. If you have an alternative, you should submit it to a journal. There are thousands of journals around the world, and you don't have to be a member of those societies.

メール有難うございました。

たいていの経済学者は序数的効用関数の概念の方を好むが、それでも一部の経済学者は基数的効用という概念をまだ使用していると書いておられます。
その上で基数的効用関数もまったく間違っているというわけではない、どうして基数的効用ではいけないのか、現にHirshleiferという人の中級の教科書にも序数的効用のみならず、基数的効用についても説明してあるではないか、とおっしゃっておられます。
残念ながら私は、教科書、書物に書いてあるから正しいというだけの説明に対しては、聞く耳を持ちません。
と言いますのは、私の学生時代からわけの分からない本はありました。

例えばL・ヨハンセンの「経済成長の多部門分析」(西川俊作訳・ダイヤモンド社)の第6章 需要構造の「6.2 理論的な考察と方法」から少し引用してみます。(邦訳89ページ)


6.2.1効用独立の仮定に関する若干の注意

若干の財貨消費、,・・・が効用関数,・・・・)に含まれているとしよう。すると、効用独立の仮定からすれば、 ,・・・・)は次のような和の形に書くことができるはずである。

(6.2,1;1)

,・・・・)=)+)+・・・

このような仮定に意味を与えるためには、次の二とおりの説明のうちどちらか一つを受け入れる必要がある。すなわち、

1)の線型の増加変換だけが許される効用函数が確定的に存在すると、仮定することができる。これは基数的効用を仮定するのと同じことである。この仮定はラグナー・フリッシュが地域間選択の公理と名づけたものを受け入れるところにもとづいている。

2) 序数的効用のみが存在すると、仮定することができる。これはを任意の単調増加変換が適切であるという意味である。すると効用の独立性は次のように定義される。すなわち、選好場の記述として許される函数族のうち、少なくとも一つは(6.2.1;1)のような加法的な形によって表しうることを意味する。この接近方法は、R・G・D・アレンによって示唆されている。

以下の分析では、この観点のうちどちらを受け入れるかはほとんど問題にならない。というわけは、われわれの考察しようとしている静学的な需要函数については、いずれも同一の意味しかもっていないからである。しかしながら、具体的な場合に効用独立の仮定の現実性を評価しようとすれば、前の説明の方がずっと便利なように感じられる。

 


静学的な需要函数について、言っている場合は、ヨハンセンも言っていますように、何を仮定しようと、どういう間違ったことを考えようとも結果は同じです。
しかし一度選好場を変位、変形させようとすると、こんな馬鹿な間違った考えに従っていますと、アホ丸出しになります。

ところで、この方に基数的効用なるものは無意味ですよ、と説明するのは、お名前も宛先も不明だということもありましたが、たとえ宛先がわかったとしても、メールで説明するのは気が遠くなるようなことでした。

しかし先般「やさしい限界効用」を書きましたので、この点はお分かりいただいたと思います。また何よりも辻村江太郎自身が「序数的効用しか意味が無い」とはっきり述べているのをお聞きいただきました。

私たちの学生時代の慶応というところは、こんなわけのわからない本で充ち充ちていました。教師たちはKEIO SCHOOL(慶応学派)などと自分たちのことを、良いつもりでか、呼んでおりましたが、私たちの方から見れば、混沌学派(CHAOS SCHOOL)としか思えず、白けておりました。

それにしましても、地球の果てからこんな、おそまつな本を良く探し出すものだと感心していたものでした。

「訳者あとがき」として鈴木諒一の弟子でもある、西川俊作が次のように書いています。

この訳書を仕遂げるにあたって、たくさんの人々にご尽力を願った。
邦訳をすすめてくださった辻村江太郎教授、訳文を閲読された小尾恵一郎教授、浜田氏夫妻、伊東精彦氏、原稿の浄書に当たられた常木氏夫妻、校正をして下さった茅根英良氏、最後に邦訳を快諾されたヨハンセン教授、これらの方々のご好意とご援助なしに、この訳書を仕上げるのは不可能であったと思われる。
心からお礼を申し述べる。

昭和37年5月 三田の山で

悪党辻村江太郎やその盟友、小尾恵一郎などの指示に従って、若い西川俊作が訳したものと思われますが、馬鹿らしい限りです。こんな阿呆なものばかりを読まされる私たちは神経衰弱になる始末です。

それはともかくとして、西川俊作と言えば、学生時代の或る日のことを思い出します。

この人の授業など採ったことなど無いので、多分、辻村の授業か何かの始まる前か、直後に教室にぶらりと現れ、誰かの持っていた、当時鎌倉市寺分にお住まいだった、東京大学助教授の竹内啓氏の邦訳になるジョンストン著の「計量経済学の方法」とかいうタイトルの著書の翻訳が、ミスだらけであると言う悪口を言い続け、その後で、今度自分たちの出す「計量経済学概論」という本は、実に丁寧に書かれて、わかりやすいので、ぜひ買うようにということでした。
ところが実際その本は、鈴木諒一や岩田暁一らとの共著で、いろんな本の切り貼りのような本で、例えばCという記号で説明されているのに、突然Yという記号に変わってしまうというような代物で、皆大変怒っていたのを覚えています。
またこの本は決して安くはなかったと記憶しています。

私はどちらの本も購入しましたが、経済学なるものが何をさすのか、存在するのかということすら分からず、どちらもほとんど、読むことが出来ませんでした。確率論まで手が回らなかったのでした。検証すべき仮説など何もなかったのです。

ところが、いつのころか、この西川俊作が福澤研究所の所長になっているのを何かの記事で知り,唖然としました。福澤の研究をするのは、勿論自由ですが、所長になるのはどうでしょうか。もう年で引退しているようですが、慶応ではよほど人材が不足しているようですね。

とは言え、辻村が文化功労者になったり、黒田が慶応の常任理事になったりするよりは、マシかもしれません。


勿論著者が限界効用について無理解であると示す書物は、慶応以外の学者にもいました。
例えば当時たしか東京工大の矢島欽次なる教授が、これまた、たしか好学社から外人学者の著書を日本語に翻訳して、「この本は、かゆいところにまで、手が届くように、わかりやすく書かれた素晴らしい本だ」というような「はしがき」が書かれていたような記憶があります。
そこでは辻村の著書と同様に、限界効用曲線が変位している絵が書いてありました。矢島氏は、あるいは、その著者は基数的効用を前提としていると断っておられましたが、それ自体無意味でしょう。
まあ一部の個所が間違っているだけですから、辻村らの著書とは、えらく違います。間違っていること自体は悪いことではなく、仕方が無いことなのです。この本は「かゆい所まで、手が届くように、書かれていて、わかりやすい」という表現が面白く、ご自分でわかっておられるおつもりなのか、と思ったので印象に残っているだけです。

このように基数的効用を仮定するとか前提するとかは、実際に効用を何らかの尺度でもって測定していただかないと無意味です。

また、このメールの主は、世界には多くの学会誌があり、alternativeなものがあれば、そこで発表すればと、おっしゃってくださっていますが、どうでしょう。私は辻村の書いた「消費習慣形成仮説」が仮説足りえないと言っているのです。

辻村仮説が、論理的整合性を満たし、仮説足り得たのなら、そして、それが、せめて15点ぐらいの値打ちがあるのでしたら、こちらも、20点ぐらいの仮説を引っさげて登場しなければと思うのですが、辻村仮説はもともと0点で仮説たりえないのですから、こちらも仮説を出さなければならないと言うこともないでしょう。明確な間違いを指摘するだけで充分でしょう。

私は自分の書いたものが、新しいことを書いたものというようには、思っておりません。そういうわけですから、自分の書いたものを「論文」とは言わず、「小文」と言っております。どうしても経済学のことを書いた文ですよと、わかっていただく必要のある時は数回「論文」と書いたことは、ありますが・・・。

さらにこの方は翌日、少し言い残したことがあるとおもわれたのでしょうか、追加のメールを下さいました。


One more thing,...I sincerely wish you could have taken Fukuoka's comment more seriously. Fukuoka said, according to your document, (1)"Tsujimura's utility function assumed "separability" (not "saparatability") and (2)"So, it is meaningless."

I agree with (1), but I strongly doubt that Fukuoka said (2), because many people still use separable utility functions (for example, Cobb-Douglas) in their papers. How could he reject all of those?

Tsujimura indeed assumed the separability in his utility function. And as long as the utility function is separable, his marginal utility approach is consistent with another approach (ordinal utility) as I wrote before.

You may be able to say "this assumption is too restrictive" or "unrealistic" by showing sufficient empirical evidences. However, you cannot say "any research which assumed separability is meaningless and deserve 'zero points'."

It seems to me that the separability assumption is acceptable if the research forcuses on something other than complementarity and substitutability.(なお上の赤字は私の着色によるものです)

下手ですが、訳してみましょう。

もう一言付け加えるとすれば、福岡正夫先生のコメントをもっと重要に考えるべきでしょう。君の書いたものによれば福岡先生は「(1)辻村の効用関数は分離可能を仮定している。(2)それゆえそれは無意味である。」とおっしゃったと言うことです。

私も(1)には同意します。だけれども解せないのは福岡先生が(2)とおっしゃったということです。というのは多くの学者が今なお、分離可能な効用関数(例えばコブ・ダグラス型函数)を使用なさっているからです。どうして福岡先生が、これらの論文をすべて駄目と決め付けることができるのでしょうか。

辻村は実際彼の効用関数において分離可能を仮定しています。効用関数が分離可能である限りは、前にお話しましたように、辻村の限界効用分析は序数的な効用分析と矛盾しません。

君は「この仮定は制約がきつすぎる」とか「現実的でない」とかと、充分な経験的な証拠を示して言うことも出来るかもしれませんが、分離可能を仮定したどんな研究も、「無意味であって、0点だ」とは言えないはずです。

私には、研究が補完や代替以外のことに関心が向けられている限りは、分離可能の仮定は問題なく受け入れられるように思われます。

 


先ず私がこのエコノミストに、お礼を言わなければならないのは、分離可能を saparatable と間違ったスペルを私が使用したことを指摘して下さったことに対してです。

英語に弱い私のこと、分離と言うと、恥ずかしながら、セパレート水着を連想してしまい、こんなスペルの英語が無いなどということには、ご指摘を受けるまでは、全く気が付きませんでした。

英語で恥をかいたことは、それこそ何度もありますが、このご指摘を受けた時、あるエピソードを思い出しました。

それは学部の終わり頃か、あるいは大学院に入ったばかりの頃と思いますが、大学の時のクラスメート4,5人と銀座の4丁目にあるソニー・ビルの下か、すぐ近くにあった「カーディナル」という名の喫茶店に入った時のことです。
私が「この喫茶店の名前の「カーディナル」というのは、基数的と言う意味だったっけ、それとも序数的と言う意味だった?」と皆に尋ねると、全員キョトンとしているものですから、私も調子に乗って、「あっ、そうか。商学部では、序数と基数の違いも教えていないよね」と、やらかしてしまいました。

結局それは鳥の名前だったのでしたが、そう言えば野球の球団の名前に何とかカーディナルスというのがあったなあと気付いたのでした。野球は勿論、スポーツには全く興味が無いので、大恥をかいてしまいました。
確かにCARDINALで基数の意味もあるのですが、常識で考えても、喫茶店の名前に「基数的」など考えられませんよね。困ったものです。

ここでスペルに関しては、「ご指摘どおり」と訂正させていただきます。勿論これは私個人の間違いで、福岡正夫先生の間違いではありません。この点に関して、福岡先生にもご迷惑をおかけしたとするなら、お詫び申し上げるより他ありません。

次に福岡先生が「辻村君の効用関数は,separableである」と、おっしゃったのは間違いではありません。

しかしこの方のおっしゃるような意味で,separableを使用なさったのではないと思います。

本編でお話しましたように、福岡先生にお会いすることになったのは、日消連の竹内直一氏が「福岡先生が君の意見に同意なさっているから一度お会いしたら」と勧めてくださり、それゆえお会いすることになったのでした。
反対しておられると言うことなら、詳しくお尋ねしたでしょうが、同意して下さっているということですから、詳しくお聞きするということもありませんでした。お会いして、一通りの挨拶が済むと、福岡先生は開口一番、「辻村君の効用関数はseparableだ」と、おっしゃったのでした。
私が「辻村の変位項を含んだ効用関数は序数に足し算をしているから、無意味、0点だ」と主張しているものですから、福岡先生の言葉もこれと全く同意味だと理解したわけです。それで「そのような言い方をするほうがスマートというわけですか」とお尋ねすると、「そうだ」ということですから、素直にそういう言い方があるのだと思ったわけです。

しかし序数についての本もあまり無いようだし、わからないことはあまり使用しないようにしてきました。「消費選好場と相対性」でも使用していないと思います。

私はこの方のおっしゃるようには、辻村の採用している効用関数の形状については、一切異を唱えておりません。separableとこの方がおっしゃっているのは、辻村が言うところの独立財の形式というのと、あまり違わないと思いますが、私自身が、何度も言いますように、変位項を含まない効用関数はいわゆる独立財の形式であろうと一切問題ないと言っているわけですから、福岡先生がそんな意味でseparableという言葉をお使いになったとは考えにくいと思います。

私は序数のセットで示される選好の序列が、つまり好みの順番が何らかの変数の変化により、別の順番に変わるということは、序数の差を基数の差のように間違った解釈をして演算をしないと不可能だと言っているわけです。

それゆえ、ここでは英語のスペルの間違いだけを訂正し、お詫びをいたします。そしてこのエコノミストに謝意を表しておきます。

今回のこのページは、普通の読者の方には退屈だったかもしれません。反省しております。私の間違いを訂正しなければと、長い間気になっていたものですから、お許し下さい。

次回からはもう少し一般的な話をさせていただきます。

福岡先生にお会いして、わかったことは、あの寺尾琢磨に「福澤の野郎に似ている」と言って、退学させられた学生が、福澤に似ていると言った人物は役者の「小沢栄太郎」ということでした。

小沢栄太郎の方がちょっとアクが強いように思われますが、そう言われれば確かに似ていなくも無いですよね。

 

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