辻村江太郎・小尾恵一郎・黒田昌裕および歴代の慶応義塾長などゴロツキがやり続けた慶応有史以来のアカハラ事件

おかげでアホ・バカ学者は今もワンサカ・オン パレード

 

今回は、平成三年七月一日発行の(株)財界展望新社の雑誌「財界展望」第35巻第7号の下記の記事を原文のまま、正確に引用させていただきます。
現在、アカハラ不祥事件以来、約40年の年月が経ち、この記事は約20年前のものです。
ごく初歩的なこととは言え、一応経済学の問題もからみますので、新聞や週刊誌などの報道機関には扱いにくい題材であったと思います。
慶応大学の「大学院生退学問題」を報じる財界展望限界効用の話とは言え、学者の応援がいります。応援してくださった方も、名前を出さないという条件付であったので、日消連の後押しがあったとはいえ、この記事をお書きになった舘澤貢次氏も書きにくかったろうということは容易に理解できます。
慶応義塾や辻村江太郎が学問上の開き直りをしても肝心の学者が表立っては助けてくれないのですから・・・。

舘澤氏は、既に日消連が自らのレポート誌「消費者リポート」で明らかにしている辻村江太郎の名前までをイニシャルにしておられるのも当然のことかもしれません。私は当事者であり、また被害者なので今まで、すべて実名で書いてきました。勿論、辻村が限界効用も理解していない本当の馬鹿だと、またそれ故にこのような不祥事を起こしたのだと私は当然確信しているからです。記事本文でイニシャルになっている名前もすべて私の責任で実名にいたしました。(この場合は名前を赤色にしました)
なお本HPでは本来名前を明かしてはいけないはずの学者も、読者の知る権利を優先できるということで、事実を明らかにできると個別に判断した場合は躊躇無くそのように実行してきました。今までのところ、そのことによってご本人から批判を受けることはありませんでした。
また私の書いていることに、真実でないと否定されるようなことがある時は、録音資料などで反論できる用意もあります。
事件以来慶応義塾は一切、本事件を認めず、謝罪もしないのは今までご説明させていただいています通りです。それどころか辻村江太郎や小尾恵一郎の幼稚で未熟な仮説なるものを慶応の多くの学者と自称する輩は今なお継承している始末です。

新塾長となった清家篤もその一人です。まったく自浄作用のない大学です。(これについてはまたお話する機会もあると思います)

ちょうど現在国立は勿論、私立の大学に対しても、国税が適正に使用されているのか、不足しているのではないかなどと論議されつつあります。教育のために国が将来を見据えて、投資することは重要なことです。しかし同時に悪徳大学に国税を使うのは絶対に許してはいけないのです。国民も注視しているところです。
舘澤氏とはお会いしたのは一度きりなのですが、ご本人でも独自に取材なさっていますので、正確で適切なレポートになっています。
しかし一部には注を付け加えておくほうがよいのではないかと思われる個所もあるようです。
しかし記事の後に付け加えますと、参照しにくいでしょうし、文中に割り込んで記入するのも失礼かもと思いましたが、注の挿入を明快に判別できるように必ずその都度(*:黄緑色の文字)で記入いたしました。薄い色で見にくいかもしれませんが、記事本文とを混同なさらぬよう配慮した結果です。(見にくいと思われる時は、コピペする時のようにマウスでドローすると読みやすくなりますよ)

なお本文中の舘澤氏の取材の中で黒田昌裕が相変わらずウソを言っている個所に対しては、未発表の録音をお聞きいただくことによって、これを明確に否定しておきます。さすが「公益」大学の学長です。この部分は赤色で表示しておきます。


最後に(株)財界展望新社や舘澤貢次氏にはお礼申し上げます。


 

はたして教授の学説は「欠陥商品」だったのか

日消連が噛みついた慶応大学の退学問題

 

ジャーナリスト
舘澤貢次

 

いったい日本の大学はどうなっているのか。ある大学院の退学問題が何年間もくすぶったまま。これに日消連がかみついた。

財界展望今から二三年前の一九六八年に、指導教授の学説に異論を唱えた大学院生がいた。院生の人生はそれがため思わぬ方向転換を迫られることになった。院生は異論を唱えたあと間もなくして除籍となり、以来、大学と指導教授を含めた関係教授を相手に二〇年余にわたって闘うことになる。その大学は慶應義塾。院生の名は稲垣武彦氏。指導教授だった人は、経済学の大御所といわれている辻村江太郎名誉教授である。

 はたしてこの一件は大学の閉鎖性、および徒弟制社会が今なお根強いことを物語っているのか。日本消費者連盟はこれを人権侵害問題だとして取り組んでいるのだが・・・・・・。

 

著書の中の初歩的ミス?

稲垣武彦氏。一九四三年生まれの四八歳。六三年に慶應義塾大学商学部研究科に入った。

 「学部時代の三、四年の時、辻村江太郎ゼミにいて、尊敬していた辻村江太郎教授に割と可愛がられた。四年の時に大学院に残ってもっと辻村江太郎先生のもとで勉強したいと思っていたところへ、先生に大学院に進んで勉強してみてはどうかと言われ、迷うことなく大学院に進みました」(*:これはちょっとニュアンスが違っています。私の話し方がまづかったのでしょうか。先に先生が勧めたということではありません。私が大学院に行きたいと言ったら快諾してくれたということです。当時辻村ゼミから大学院に進んだ者は誰もいなかったのでした)

 一九九一年四月二十四日、稲垣さんは、東京に用があって、住まいのある京都から上京した。都内のホテルで稲垣さんと筆者は会った。

 物静かな学究型の人という感じがした。

 ”この物静かな人が二〇年余にわたって慶應大学と指導教授とを人生を賭けて闘っている人物か”

 ここに一つのレポートがある。

 ひところ日本に消費者運動が巻き起こった時、”日本のラルフ・ネーダー”といわれた竹内直一氏が創立した日本消費者連盟(日消連)の「消費者レポート」(一九九一年三月七日号)だ。竹内氏は東大法学部から農林省に入省後、経済企画庁に移り、課長から消費者運動に転じた元高級官僚である。今年春、その代表委員を退き参与となった。

 そのレポートにこう書かれてある。

 「日本の私立大学には多額の国庫助成金が支出されています。

 ところが、日本の私立大学の中でも二番目に多額の助成金を交付されている慶應義塾大学が、信じられないようなイカサマ大学である、という事実が判明しました」

 同レポートは、第三種郵便物認可を受けて発行開始後第七八四号にものぼっている連盟の機関紙で消費者運動を展開している人達や団体の貴重な資料となってきたものだ。

 その消費者レポートで、慶應義塾を”イカサマ大学”と断じている。もちろん、その根拠としているところは、稲垣氏の一件である。

 事実を整理する意味で稲垣氏の一件を発端から見てみることとする。

 辻村江太郎教授(当時)を指導教授とする大学院商学研究科に稲垣氏が入ったのは、前述した通り一九六七年四月のこと。当時の同研究科委員長は増井健一教授であった。稲垣氏の研究する計量経済学の分野では、当時、大学院へ進む人がなく、稲垣氏ともう一人がはじめての大学院生となった。(*:計量経済学の分野で一人ということではなかった。前述のように辻村ゼミでは大学院に進んだ者は私より先にはいなかったということです。私と同期の一人は就職が決まらないからというので、二回目の試験で進学を決めましたので、結果として二人になりました)

 稲垣氏は、大学院生になった当初のことをこう語る。

 「大学の四年間の授業は全くつまらなかった。いわゆるマスプロ教育だった。大学院に行けば個人的指導が受けられる。学者として一生すごそうと期待と夢に胸ふくらませて、院生になったのです」

 ところが、大学院は稲垣氏の期待を裏切ったのだった。

 「ひどいものでした。大学院の授業が期待はずれということと過労とから自己嫌悪におちいり、本を読むのも馬鹿らしくなってきました」
(*:大学2年生の時に経済学部の授業で「ヘンダーソン&クォント」の教科書を知り、それで限界効用曲線などという概念もとっくに忘れていたのでしたが、3年生の時に辻村の「消費者行動の理論」を読むと”限界効用曲線の変位”などというおかしなことが書いてあり、直ぐに間違いではないのかと思ったのでしたが、その本は巻末に乱数表が載っているというような高度な内容の本だと思わせるような体裁であり、「限界効用曲線の変位」とは書いてあるものの、実際はなにか深遠な意味が隠されているのではなかろうかと悩み続けたのでした。実際は基数と序数の区別も辻村は理解していないだけのことでした。辻村の本を読んで間違いに気付かないような程度の人はどうでもよいのですが、直ぐに間違いと気付くような正常な人には、このような苦しみを味わはせたくなくて、しつこくやっているのです)

 精神的、肉体的にすっかりまいった稲垣氏は六七年秋から休学してしまった。期待が大きければ大きいほど、その期待が裏切られた時、その反動は大きいものである。これは人みな同じである。彼はそこで半年間ばかり経済学以外の本を読んだりし、その後再び経済学を研究しようという意欲が湧いてきて経済学の本を読むようになった。六八年の夏である。その時、辻村江太郎教授が新しい経済学の本を出版したのを知り、それを買い求めて読んだ。

 「その著書の中に初歩的な間違いがあるように思えたので、大学に行き、質問した。辻村江太郎教授は、それに対して”もう一度、読んでごらん”というので、納得しないまま”そうですか”と帰ったわけです」

 ちょうど稲垣氏が辻村江太郎教授に質問した日は、教授のその著書「消費構造と物価」が第十一回日経経済図書文化賞を受賞した日でもある。

 稲垣氏は、これを知って、

 「賞をもらうほどだから、初歩的な間違いがあるというのは私の読み違いかもしれないと思い、もう一度、読みなおしたのです」

 この頃、辻村江太郎教授は稲垣氏に対して、弟子が、質問してきた程度と思って、師として、丁寧に対応してくれたと稲垣氏は感じたという。

 彼は、読みなおして、やっぱり初歩的な間違いがあると判断した。

 稲垣氏と辻村江太郎教授の義塾本体をも巻きこんだ、それ以降の長い闘いの始まりとなった。彼は再び大学に行き教授に質問した。

「質問している間に多分、辻村江太郎教授は自分の間違いを悟ったのでしょう。

『ついてこれんのか、本を読め』などというようなことを言うだけなんです。以後、質問の途中に席を立ったりするばかりです。私としても、変な質問をした覚えもありませんので、本を読み返して途方にくれてしまいました」

 と、稲垣氏は当時を思い出しながら話していた。

 彼と教授の仲が、これを機に険悪になったのは当事者ならずとも理解できるところだ。もちろん稲垣氏および辻村江太郎教授が、質問等の行動を以降は中止すれば何事もなかったろう。

 ”事実は小説より奇なり”である。この師弟は、それこそ前世が仇同士であったかのようにいがみあう仲となってしまった。

父親も塾長あてに『内容証明』

辻村江太郎教授といえば、天下に知られた経済学者。慶應大学経済学部を一九四八年に卒業後、大学に残り、前述した日経賞の他に一九七五年にエコノミスト賞を受賞し、紫綬褒章も受けている。政府の経済関係の枢要な機関の委員も歴任。経済審議会、産業構造審議会、税制調査会、統計審議会の各委員、物価財政研究会、国民経済計算調査会議の要職にも就いている。

 稲垣氏と衝突した時は辻村江太郎教授は四四歳と脂ののったばりばりの学者であったわけだ。稲垣氏は二五歳。

 稲垣氏は言う。

 「辻村江太郎教授の態度から、自分の学説の間違いを知る学生を放り出そうとする意図が、その時、はっきりと感じとられた」

 かくて、彼はせっかく復学した大学院も六九年夏頃からほとんど出席しなくなった。

 これは慶應大学特有の大学院の体質なのであろうか。

 なお稲垣氏は、辻村江太郎教授の学説の「初歩的な間違い」を明らかにするため「消費選好場と相対性」と題する「小文」をまとめており、冒頭に「以下の小文は辻村江太郎教授の『習慣形成仮説』なるものが理論的整合性を欠き、それ故仮説たりえないということを論証したものである」と記されている。(*:どうでも良いことですが、正確には「論理的整合性を欠き」と記してあります)

 はっきりいって、これは、世にいう”学問上の対立”である。となれば、当事者同士が堂々と論争し合い、また学会や誌上で、やり合えば済むことである。

 稲垣氏はいう。

 「もちろん、まじめに話し合って、こちらの考えが理解してもらえなかったとか、学問上、意見が対立したとかいうなら、たいした問題でもなかった」

 話し合えば済むことだった。しかし教授に拒否された。彼は他の教授に相談しようと考えたそうだが、指導教授の意図が変わらないのでは、閉鎖的な大学院の制度では、逆に自分の身の置き場所がなくなり、事実上、研究は続けられなくなると思って、ひとり悩んだ。

  この当時、稲垣氏の心には、辻村江太郎教授に対する尊敬の念はまだあって、学説の間違いについて他の教授に相談することを、遠慮していたようである。

 ひとり悶々と悩んでいた、といっていい。

 しかし、そこは二〇代の学究の徒、勉学の徒である。一九七〇年一月に辻村江太郎教授自宅におもむき、質問したが、返事はこれまでと一緒。

 この辺の事情について辻村江太郎教授に確認したいため、取材を申し入れたが、電話先で、稲垣氏の件に関しては、

 「話すことは全く何もありません。失礼します」

 の言葉のみ。何も尋ねることはできなかった。

 稲垣氏は、辻村江太郎教授宅での直談判に失敗したあと、両親に内緒で職探しをしたが、大学院に進むため就職部の面接を受けていないことを理由に会社の紹介を断わられ、また会社側は、大学を通してこないと受け付けない、あるいはある証券会社では指導教授の推薦状を持ってこなければ受け付けないとといわれ、親しい友人の多くいる会社を訪ねてみるとその会社に辻村江太郎教授が出入りしているなどで、結局、今日まできちんとした就職ができないままできている。もとより縁故就職も考えたそうだが、辻村江太郎教授を追及している人物とわかると縁故者に迷惑がかかる恐れがあるので、その方法はあえてとらなかったという。

 ただし、稲垣氏は大学院を辞めたわけではない。心身ともに疲れ果て、実家のある京都に戻って静養した。そして七一年三月に、辻村江太郎教授に質問状を送った。(*:これがこのHPの「本件のあらすじ」にコピーをつけてある「望遠鏡の絵を描いて説明している文章」です。辻村に送っても、反省の態度を見せるどころか、逆だったので、これを確認してから、同じものを小尾恵一郎と白石孝両名に送ったのでした。白石や増井などは鈴木諒一が言うように「素人ばっかり」で分別される学者に属しているわけなので、彼らの為にも望遠鏡の絵を使わなければならなかったのです)

 望遠鏡の絵を使用した説明書「それまでの経緯から多少乱暴な文面でした。この発送は、公式に追及する前の最後の思いやりで、この段階で反省の態度を見せるなら、他教授などに知らせることなく、追求を中止しようと思って出した質問状でした」

 事実、その質問状は筆者もコピーしたものを読んだが、第三者がみても「乱暴な文面」が部分的に見られる。

 稲垣氏の父親が当時の佐藤朔塾長あてに、内容証明付で出した手紙にも、これについて触れられていて、(*:この内容証明そのものは「話し合いの場」の後の話ですから誤解しないでくださいね)

 「尚武彦が辻村江太郎教授に対して一見乱暴な手紙を送ったのも武彦の申すによれば、穏やかに書いても無駄であるといふのは塾に在学中の経験より明らかであったからといふことも無論であるが(実際そうでなかったらこんな騒ぎは最初からおこらなかったことでありませう)それよりも万が一にでも辻村江太郎教授の態度が改まり、多少なりとも反省の色が見られるなら、・・・・・・、いはば、『最後の思いやり』とてもいふべきものであったと言ひます」(教授の名前以外、原文のまま)

 と記している。

 この質問状を機に両者の間の対立は、のっぴきならない事態に加速度的に悪化していったのだ。

関係資料は目下紛失中

辻村江太郎教授の話が聞けないので、確認しようがないが、稲垣氏によると、同教授は数日後、京都の稲垣氏宅に電話してきて、電話口に出た稲垣氏の母親に対してもかなりきついことをいったという。

 辻村江太郎教授を知る人の話によれば、

 「温厚で面倒見のいい学者で、常識人。だからこそ、政府の審議会等の委員になってきた。理屈の多い官僚が相手の委員ですから、かの東大教授や同助教授を辞めた評論家連のような非常識人とはまったく違う学者ですよ」

 という評価である。その常識人で温厚な辻村江太郎教授がこのような一連の言動をとるというのは、いうにいわれぬ事情もあるのではないか。

 稲垣氏は、こうした辻村江太郎教授の対応に一層怒りを覚えたのであろう。大学の最高責任者である佐藤朔塾長宛に窮状を訴える手紙を出したのだ。

 それに対して、稲垣氏の実家のある京都にやってきたのが黒田昌裕助手(現在、教授)であった。黒田昌裕教授は、当時のことについて、

 「たまたま京都で学会があったので、そのついでに稲垣さんの母親に会った。もう二〇年も前のことなので、あまり覚えておりません」

 というのだが、この京都で黒田昌裕助手は、稲垣氏の母親を駅近くのホテルに呼び出して、

 「商学研究科の長である増井健一教授が至急に退学届けを出せといっている旨を伝えた」

 というのである。常識的にみて、こんなことがあるのかと誰もが思う一件だ。(*:佐藤塾長宛のこの手紙とは「指導教授の辻村がこちらの質問に一切答えず、ついてこれんのか、辞めろ、としか言わない。授業料を払っているのですから、塾長の力によって答えさせて下さい」という簡単なもので辻村に対する7,8個の質問も併記しておきました。全部で便箋1枚です。ちなみにその質問とは「効用は測定できない。○か×か。×の場合は測定した例を示してください」「序数的効用を前提とする時、限界効用曲線とか逓減速度などの概念は無意味である。○か×か」というような○×式の簡単なものでした。
するとすぐ黒田昌裕が京都に来て増井が至急退学届を出せと言っていると母親にそれを強要しました。それがウソだとわかると停学届と言い直しました。しかし増井が一切、処分するようなことは言っていないと言明すると、今度は「休学届だった、出せば授業料を払わなくてお得ですよと言いに来たまでだ」とまたまた訂正する始末です。私が塾長に手紙を出した直後に、そんなことを言いに来るのは不自然です。それ故京都に来るついでがあったからと開き直ります。しかし授業料を支払わなくてお得などと言うよりも、私が塾長宛にした質問に答えれば良いのです。それで済むのです。
回答もしないで「授業料を払わなくてもよいからお得です」などと伝えたと言うのですから、お笑いです。

この時、黒田は「何」のついでと言っているでしょうか・・・ 聞いてみる「ここをクリック

「どうして親を呼び出してね、京都まで来てね・・・」(稲垣)
「京都まで来たって、たまたま僕が友達の結婚式があったんでね、京都に行ってね、そのついでがあったと言うだけです。だから、その折に、じゃあ丁度いいチャンスだからね、あなたに言おうか、まぁお母さんの方がいいかなと思って電話したんです」(黒田)

(*:授業料を払うのが得かどうかなどは、どうでも良いことです。返事をするように塾長に依頼しているのです。たまたまついでがあったとしてもわざわざ母親をホテルに呼び出して授業料を支払わなくてお得ですよなどと言いに来るということ自体が理屈に合いません。事実それがウソだと言うことは、この後、塾長は増井君より報告を受けて、話は片付いたものと思っていたと答えているのですから)

 実際、大学で取材したところ、

 「そういうことは学部でも大学院でもしていません。たまたま、学生や院生がどうしても大学に出てこれない事情、たとえば病気とか事故にあって大学にこれないとかの場合は別でしょうが、通常はそうした対象者は本人か親に大学に来てもらいます」(塾監局広報室・田邊久雄広報課長)

 という答え。ということは、黒田昌裕助手の行動は、慶應では例外中の例外だったわけだ。それもそのはずで、稲垣氏が不思議に思って、増井健一教授に確認したら、

 「辻村江太郎君なり黒田昌裕君なりが京都の稲垣さんのところへ行くということ自体、まったく知らなかったから、(退学届を出すように)伝言するわけがない」

 と否定したという。

 ただし、黒田昌裕助手は、退学届とはいっていない、停学届といっていると稲垣氏に主張している。

 「もしお母さんに退学届といったのなら私の間違いで、辻村江太郎教授からの指示は停学届という伝言だった」

 と説明している。(*:これは既に録音でお聴きいただいていますね。停学届というのも処分になるわけで、増井はそんな処分をしたことがないと証言しています。それで黒田は休学届を出したら授業料を支払わなくてお得ですよと伝えたというのです。それならどちらも興奮する必要がないのです。黒田は興奮したからと言っています。何故でしょう。壁に穴をあけて自分の姿をビデオカメラで撮るというよりも筋が通らないことですよね)

 事態の深刻さを感じたのであろう、増井健一教授は、辻村江太郎教授と稲垣氏の話し合いの場を、七一年七月に三田本部の商学部長室に設けた。立会人は白石孝教授と稲垣氏の実兄。しかしこの話し合いは、両者、完全な平行線終わった。

 稲垣氏は再び佐藤塾長に問題点を文書にして提出。判断を求めたのである。(*:この手紙は私が出したのではなく、私の父が出し、私の小論文を添付したのでした。父が手紙を出したのはこれ一度だけです)

 佐藤塾長はそれに対して七二年五月二十三日付けで、父親の正彦氏宛に(*:名前は正彦ではありません。これは舘澤氏のミスです。しかし後で述べますように、それの原因となるのかもしれないミスが慶応側にもあるのです)

 「本塾教授辻村江太郎君とご子息武彦君とのできごとの問題について、わたくしから五月二十五日までに文書によって回答するよう要望された書信を確かに拝受しました。

 問題は何分にも複雑であり、かつ、武彦君の批判文も長文のために、徒らに時間を費やすのみですが、目下いかなる方策をとるのが最善の道か調査ならびに検討を重ねております。

 期限付きの要請でありますので、とりあえず右の事情を申し述べ、学部の自治ならびに学問の自由、研究の自由という見地に立ってなおとるべき方策があれば改めて検討の結果をご通知申し上げたく、ここに回答申し上げる次第です」(傍点、筆者)
 ※この文において原文のまま傍点を付けることは私には技術的に出来ませんので、その個所はブルーで着色しておきます・稲垣※

 この時点では、慶應側はこの問題に正面から取り組もうという姿勢があるのが傍点部からも推察できるところだ。(*:私にはそのようには推察することはできませんでした。それは「なおとるべき方策があれば改めて検討の結果をご通知申し上げたく、ここに回答・・・」と書いてあるからです。「方策がなければ、それまでよ」ということです。上手に書いているという印象は感じられます。ここでいつまでには必ず返事をする、とかニセの伝言を伝えたという事実をはっきり認めるなり、謝罪するなりしているのなら、しばらく待ってみようと思うでしょうが・・・)

佐藤朔塾長からの回答書 しかし、同年八月四日付の塾長の回答は、この問題を回避する内容になっていた。

 「学説上の論争は、理事者の関与する問題ではなく、むしろ本人が学会その他適当な発表機関を通じて提起すべきもの」

 として、今後は、塾長(理事長)宅への電話連絡は本筋からはずれることで、一切しないように、と記されていて、事柄の性格上、大学院商学委員長ならびに大学院学習指導係の所管事項だからそこへ申し出るようにとの回答であった。(*:この時の最終回答なるものは「前略」に続いて「過日来、貴殿ならびにお父上から再三にわたり文書ないし電話によって問題提起された案件に関し、、関係者各位について慎重に調査させた結果をここに明記し、最終回答とする次第です。」と始まるのですが、宛名は私の父親の名前になっています。文面は私宛になっているというお粗末なもので、舘澤氏が勘違いなさったのも当然かもしれません。父親の名前で前述の通り、一度内容証明を出しましたが、電話など私以外は一度もしていません。なおこの回答は先のものとは違って、塾長印割り印も押していないというふざけたもので(写真左側の手紙をご参照)、塾長は勿論知ってはいたでしょうが、会田義雄、白石孝、鈴木諒一などのゴロツキもどきが相談して書いたのでしょう。この時松岡浩が噛んでいたかどうかは私にはわかりません)

 以降、慶應側の姿勢は、

 「学説上の論争で、学会その他の適当な発表機関を通じて提起されるべきもの」(前述・田邊課長)

 で、今日に至っている。なお、同回答では、”退学届”の不祥事は「事実を全く認め得ない」となっている。

 なお、慶應では稲垣氏の件について、辻村江太郎教授らの関係者から事情を聞いたり、調査した内容の文書の有無等を尋ねたら、

 「実は、どこに行ったか見当たりません。この当時、全共闘学生に三田校舎の本部が占拠され、その時、書類を他の場所に引っ越しした時に、どこかに紛失したようで、今探しています」(田邊課長)

 とのこと。

 ともかく慶應側は、佐藤塾長が出した回答にのっとった姿勢である。

 「学問上のこと、学会で・・・・・・」

 の繰り返しに終始しているというわけだ。

閉鎖性のない大学院を

その学会での発表であるが、稲垣氏にはとてもできない相談であった。学会の会員になるには会員の二名以上の推せんが必要。一院生のために推せんしてくれる人などいなかった。

 それよりも、稲垣氏の発表とする学会は辻村江太郎教授が既に深くかかわっているところばかり。事実上、学会の場での論争は無理だった。

 黒田昌裕教授は、今日、

 「もう二〇年余も経過しているから、稲垣さんも、いろいろな場所で自分の説を主張できるのではないだろうか」

 というのだが・・・・・・。

 東大のある教授はいっていた。

 「教授と院生、学生の間でよく意見の違いがある。しかし自然科学の場合は、すぐ結論がでる。それに、両者の意見がそれでも対立していたら、外国の雑誌等に両者の論文を発表して、それを他の学者に評価してもらえば済むことだ。経済学の場合だってそうした道があるはずだが」(*:私は新しい学説を唱えて学会で発表しようとしたのではありません。「ついてこれんのか。やめろ」と言われ続けなければならない理由を示すように要求しているのです。理由もないのに親をだましてまでして退学届を出させようとしたのは何故かということを問うているのです。私の質問がピント外れであるとか、間違っているということを説明する責任は辻村なり学校なりの方にあります。話し合いの場では辻村に軍配を上げているわけですし、日消連の問い合わせにも最初は「辻村の説には一切問題無し」と答えているのです。それでは文書で回答するように要求すると、それも出来ないで逃げ廻っているのは辻村や慶応義塾なのです。辞めろと言った者がその理由を示せばよいことです)

 稲垣氏は七三年三月、授業料を払わないという理由で除籍処分を受けてしまった。

 大学側によると、

 「稲垣さんが正式に退学となったのは、七〇年三月三十一日です。というのは、大学院の研究科委員会の学則で、授業料が未納になった時点にさかのぼるからです。それに、研究科の最長年限は修士の場合ですから、そうした理由からも、未納ですので、退学処分にしたようです。もちろん、大学では授業料を払っていないという経済的理由だけで退学処分にはしません。大学は勉強を継続させようと本人と話し合って努力してきてますから」(*:舘澤氏はあっさりと大学側の言い分を信じておられます。勿論普通の大学なり、教育機関なら、そのぐらいのことをするでしょうから・・・。「大学は勉強を継続させようと本人と話し合って努力してきてますから」なんて言っていますが、話し合いの場以後慶応の誰とも一度も会っていません。誰が話し合ったというのでしょうか。これは田邊久雄課長が言ったのでしょうか。関係者から事情を聞いたり、調査した内容の文書の有無等を尋ねられたら、見当たりませんと返事をしているわりには、今回は物知りですね。なお田邊久雄というのは先に慶応のセクハラの記事中に貼り付けておいたハラスメント防止委員会の相談窓口として日吉キャンパス事務長として、その名が見られましたが、こいつはこういう奴なので決してセクハラ被害に遭った時は相談に行ったりしてはなりません。慶応とは酷いところです。なお福岡正夫氏に会ったのは、ずっと後の話でここでの話とは関係ありません。)

 稲垣氏のところにも授業料支払いの督促がきた。しかし、納入しなかった。

 この点が、第三者にもう一つ理解できない点である。どうして、退学処分を受けるような授業料未納の行動に稲垣氏は出たのか。

 稲垣氏はその点について、

 「大学が、私を辞めさせようとしているのに、どうして授業料が払えますか、払わないのが当然でしょう」

 と説明する。それも一理あるが、大学という土俵で闘うなら、大学の土俵に踏みとどまる資格・権利は維持、獲得しておくのが正攻法と思えるところだが、稲垣氏の闘い方はこの点、違ったようだ。(*:これについてはいろいろな考え方があるでしょう。舘澤氏に楯突くつもりはありませんが、私の考えを書いておきます。このHPの読者の皆様には、前にJRの車掌が車内で女性の乗客を強姦した事件を例に引いてお話したことがありましたね。女性は旅をする目的で運賃を払っているお客です。車掌がお客に強姦しているのを知ったなら、他の乗務員は車掌を取り押さえ、お客を助け謝罪しなければならないでしょう。ところが他の乗務員も一緒になって強姦し続けたとしたら、どうでしょう。しかも強姦されている間に切符を買っていた区間を越えてしまっていた。それで強姦乗務員たちは、この女性を無賃乗車だという理屈で車外に放り出してしまった。本件はこれと同様の不祥事です。最初の車掌だけで終わり、他の乗務員が申し訳ございません。こうしたことは二度と起こしません。どうぞ旅行をお続けくださいと言うのなら、あるいは旅行を続けるかもしれません。しかし全員に強姦されているのに、乗車賃を追加してまで旅行を続けたいと思うでしょうか。私はそんなことをするつもりはありません。被害に遭いながらも、出来るだけ録画、録音に努め、後に同じような被害者が出ないようにと努力するでしょう。この被害女性の場合は恥ずかしいという一面もあるでしょうが、私の場合は恥ずかしいことは何もありません)

 除籍後、稲垣氏は一人でこの問題と取り組むのは不可能となって、新聞社や放送局に話を持ちこんだが、取り上げてもらえるまでに至らず、”日本のラルフ・ネーダー”といわれた竹内氏の日消連に持ちこみ、以後、日消連と慶應大学・辻村江太郎教授のやりとりとなって今日に至っているのだ。

 日消連では、複数の他大学の経済学の教授に、稲垣氏の「消費選好場と相対性」という小論文を参考に意見を求めた。竹内氏の説明によると、意見を求めた教授数は二〇名にのぼり、

 「理論経済学の大家からから慶應大学の大御所教授まで皆、稲垣さんの意見に同意し、辻村江太郎学説の正当性を否定する判定をしました」

 という。(*:皆というのは返事のあった人は皆という意味と思います。竹内啓氏の場合は返事はいただいたのですが、私の再度の質問には返事がなかったので、こういう話になったのだと思います。「消費者リポート」では一人を除いて皆と書かれています)ちなみに、国立系では東大、京大、一橋大、大阪大、また私大では慶大、早大などの教授に意見を求めて、二〇人のうち、竹内氏の指摘どおり慶大と京大の二人の教授が、明確に「稲垣さんのいうのが正しい」といい、また一橋大の若手教授は「辻村江太郎さんの学説はおかしい」といってきたという。(*:森口親司氏の場合はこれよりずっと前の話ですから、ここでは無関係です)

稲垣氏の意見に同意した慶大、京大の二教授は、ともに「名前を出さない」ということを条件にしての返事だった。

 竹内氏は、かくして辻村江太郎学説を”欠陥学説”と断定して、真理を追究する学問の府で、その欠陥学説をもとに次々と論文を書物で発表している研究者が出ており、また、欠陥学説を認めている同大教授もいるにもかかわらず、他教授、他学部のことに関しては口をはさまないという閉鎖性のため、

 「慶大には自浄作用が働かない」

 として、日消連が前面にたって、慶應に公開質問状を送付するなどの活動を展開してきているという。

 竹内氏の代表退任後、稲垣問題を引き継いで対応しているのは同じ日消連の富山洋子運営委員長。

 さる四月九日にも、石川忠雄塾長、辻村江太郎教授宛に「辻村江太郎名誉教授に関する公開質問」ならびに「稲垣武彦さんの退学処分について」の意見を求め、四月二十五日までに回答するように求めた。

 要求内容は質問状に明記しているように、

 「長年にわたり繰り返し要求」

 の内容となっている。

 竹内氏は、大学側に文書でもって要求を開始。

 「辻村江太郎氏が稲垣氏にとった行為の数々は、明らかに人権侵害であり、このような不法行為を行った義塾教職員に対して義塾は厳正な処分をする責任がある」

 というものだ。これに対して、大学側は、”法”を持ちだされたので、この一件を弁護士に一任した。(*:日消連の言い方もまずいのですが、ゴロツキを無法者と言ったようなもので弁護士の、それも安物の弁護士が出てくるような話ではないのです)

 松岡浩弁護士が慶應の代理人となり、日消連とやりとりが始まったわけだが、松岡浩弁護士の言葉を借りれば、

 「ここ数年、事態は何一つ進展していない」

 とのこと。事実、その通りだ。はっきりいって、この”稲垣追放事件”ともいうべき一件は二十年余前の発端から何も変わっていない。

 変わったことをあえてあげれば、関係者が、年齢を重ね、辻村江太郎教授が定年を迎えて、名誉教授となって、大学を変わり、黒田昌裕助手が教授になっていることだ。

 稲垣氏はいう。

 「私のこうした告発によって多少でも大学として学問の自由、研究の自由を確保して欲しい。そうでなければ、私は犬死にです」

 それにしても、と思わざるとえない。

 東海大学の中村誠太郎教授(理論物理学)が最近、新聞紙上で「大学の研究機関を独創性を生む体制に」と題して、次のように書いていたので、それを引用させていただくことにする。

 「閉鎖的な体質の中では、独創的な研究が育ちにくいのは当然である。万事、支配者の教授の顔色を見なければならないので新しいアイデアを伸ばす余地はない。

 大学には旧態依然とした体制のままの権力構造が(第二次世界大戦後も=筆者注)残った。

 大学教授は研究よりも人とのつながりとか自分の権力の保持の方に関心が働きがちである。文部省から審議会などにお呼びがかかるといそいそと出かけて行くが自分の研究室の改良に熱が入らない。

 弟子たちは教授の派閥にいる限りそこそこの成果があれば優秀でなくともトコロテン式に教授の地位が降ってくる。これでは大学が沈滞するのは当然だろう。

 現体制の崩壊をおそれる少数の権力者の支配が大学側に根強く残っているためとしか考えられない」
(*:JRの強姦行為は先の女性以外にも現在も続けられているとすれば時効にはなっていないと言うことです)



それにしても、これほど悪質な大学を私は知りません。通常はワルもいれば、それを止めようとする者もいるものです。大学院に行こうと思っている皆さん、慶応に行こうと思っている学生さん、注意して下さい。
文科省もアホで、学校中が不誠実なこんな大学に血税でもって、補助をしてはいけないのです。

要は、辻村江太郎が自分の学説の間違いを指摘してくれた学生を辞めさせようと企てた単純なアカハラ事件に過ぎないのは明らかです。これを慶応義塾が塾長までもが一丸となってこの事件を隠蔽しようとした事件なのです。
私に賛成して下さった学者の方こそ、おられますが、これほどオープンにしていますので、今更私に反対して、辻村に賛意を示す学者はいないでしょう。

 

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