気まぐれパテント・エッセイ
両立性FMステレオ基本特許の攻防
(1)ラスト・ワン・ステップ
1960年より前、家庭における娯楽は音楽であり、それを供給したのは、主としてモノラルのLPレコードだった。高価なレコード再生装置がない人は、ラジオで音楽を楽しんだ。
そこへ、ステレオ(立体音響)という新しい娯楽がもたらされた。人々は、その素晴らしさに感嘆した。あるオーディオマニアは、「合唱の合間にピアノ伴奏がチラッと聴こえるそのすばらしさといったら、まるで生きもののようだ」と評した(http://www.audiosharing.com/people/kasuga/tureduregusa/tureduregusa_04_1.htm)。
ステレオのラジオ放送は、日本では、NHK第1放送と第2放送とが、毎日曜日、時間を合わせて「立体音楽堂」という番組で、左右の音源をAM放送した。しかし、当時は、同じ特性のラジオを2台揃えることは、ちょっとした贅沢だった。ラジオは、なかなか高級な家電だったのである。もとより、TVは、普及していなかった。
ステレオ音楽として、初期にはディズニーの「ファンタジア」(1940代)、後期は、ドルビー社の「スターウオーズ」(1977)など、映画作品を挙げることができる。一方、家庭では、ラジオのステレオ放送、とりわけ、GE(GE−ゼニス)方式によるFMステレオ放送が1時代を形成したことを、抜きにできない。
GE社のFMステレオ方式の発明者を尋ねられて、アンタル・シクサトカの名を言い当てる人は、日本には、ほとんどいまい。彼の名は、米国特許明細書(特許3,122,610)に発明者として明記されている。しかし、インターネットを日本で探しても、なかなか出ては来ない。
シクサトカは、ハンガリー出身である。米国まで、彼がどんな事情だか旅してきたのと逆ルートを辿って、ハンガリーに着き、やっと見つけることができる(http://hungaria.org/hal.php?halid=6&menuid=120)。
上のサイトは、電子通信技術に貢献したハンガリー人として、ティベイダ・プスカス(電話交換)、ゾルタン・ベイ(レーダ)、フロップ・レナード(CRT)、ピーター・ゴールドマーク(カラーTV)、デニス・ガボール(ホログラフによるバーコード読取り技術)、フォン・ノイマン(コンピュータ)、ヤノス・ケムニイ(マイクロコンピュータのベーシック・コード)、アンドリュー・グローブ(半導体チップの父と呼ばれ、インテル創業者の一人)、アンタル・シクサトカ(FM立体ラジオ放送)らの名を載せている。ノイマンとアンディ・グローブ以外は、日本ではあまり馴染みのない名前である。ノイマンは、コンピュータの天才的解説者ではあったが、コンピュータを発明したというのは正確でない。他の技術者にしても、ハンガリーの単なるお国自慢かもしれないのだが、シクサトカのFM立体放送が大発明だった事実は、米国特許第3122610号が世界に与えた衝撃から、明言できることである。
もっとも、この人のほかの業績は、よく分からない。ノイマンは、ナチスを嫌って渡米したが、シクサトカも同じ理由でアメリカに来た一人なのか、これもよく分からない。ニューヨークに居たらしいシクサトカの生い立ちについて、根拠のない詮索は措いて、彼のすぐれた発明を紹介しよう。
シクサトカの発明は、FMステレオそのものではない。新しいステレオと旧いモノラルとを両立させる放送方式および受信機が、彼の発明だった。ステレオには付属物のような発明を、軽く見る人がいるかもしれないが、新しいメディアであるステレオを市場で実用化させた功績は、きわめて大きかった。
ステレオといっても、2つの信号が左信号及び右信号であるというだけで、それらを同時伝送するなら、多重技術を使えばいい、といった程度のことは、既に知られていた。多重技術として、空間分割、時分割、周波数分割、変調方式分割、そして符号分割と呼んでいい技術でさえ、基本の着想は生まれていた。先に挙げたNHK第1と第2のAMステレオ放送は、一種の空間分割多重に該当する。のちのAMステレオ放送は、変調方式を変える多重技術に該当する。FM放送に、既知の多重技術を適用することを、1960年当時も、困難という理由はない。
しかし、ステレオ放送を実用化し、普及させるには、越えなければならない最後のステップがあった。それは、新しいステレオと旧いモノラルとを両立させる技術だった。
ステレオ放送が始まれば、リスナーの中には、新しいステレオ受信機に飛びつく人もいるだろうが、ずっとモノラル専用受信機を使い続ける人もいる。ステレオとモノラルとは、当分、併用される時代が続く。一見どうでもいいことのようであるが、営業上は、たいへんな問題である。併用期間、単に左右の信号を多重伝送で別々に放送したのでは、モノラル受信機しか持たない人は、右か左の一方しか受信できず、立体効果はともかく、自然なモノラル放送を聴くこともできない。この過渡期をうまく運営しないと、放送事業は、多くのファンを失ってしまうかもしれなかった。
モノラルとステレオをいかにして両立させるかは、ステレオ自体とは別の、ごく小さなステップにすぎなかったが、実用化には欠かせない関門だった。その問題を、シクサトカは、非常にシンプルな手法で解決した。
発明にも、発明者の個性が反映される。同じステレオだが、後年のAMステレオ放送のL・R・カーンの発明は、複雑な理屈と数式だらけだった。カーンの技術表現に比べると、シクサトカの発明は、簡素だった。
音源の右信号をR、左信号をLとして、ステレオの放送側では、
A.右と左を加える・・・・・・・・・・R+L
B.右と左の差を求める・・・・・・R−L
Aはそのまま、Bは少しはなれたサブキャリヤ(38khZ)で変調して、AとBとの中間にパイロット信号(19KHz)を挿入し、これらを周波数軸上に並べて送信する。
ステレオ受信機では、全信号をFM復調し、A信号をフィルタで分離する。
パイロット信号の周波数を2倍した信号により、B信号を得る。A信号とB信号とを加え、
A+B=(R+L)+(R−L)
= 2R(右信号)
また、A信号とB信号との差を求めて
A−B=(R+L)−(R−L)
= 2L(左信号)
すなわち、左右に分離したステレオ音楽を再生できる。
モノラル受信機の場合、A信号すなわちR+Lのみを復調する。ステレオ効果はないが、左右信号の合成を、不自然なく受信して、楽しむことができる。
シクサトカは、和信号と差信号との中間の帯域に、パイロットである弱い19KHzの信号を挿入して送信することで、ステレオとモノラルとを両立させた。多重伝送において、同期信号を同時に送信することは知られていた。ところが、シクサトカのパイロット信号は、左右信号の和・差に対しては周波数分割でありながら、元のステレオの左右信号を直接時分割スイッチングするという、既知の多重技術からは予測できない不思議な特徴をもっていた。
シクサトカの発明は、GE社が米国に1960年特許出願し、米国では1964年に特許された。出願の少し後、FCC(米国連邦逓信委員会)は、米国FMステレオ放送の標準規格として採用し、公表した。そのことが、のち、日米の間で、大きな摩擦をおこす原因になる。
FMステレオ方式の攻防
(2)日本の特許異議事件
昭和35(1960)年、日本には、特許前に出願公開するシステムはなかった。GE社によるシクサトカのFMステレオ方式の発明の出願の詳細は、出願後、長期間、公表されなかった。
日本国内では、FMステレオの本放送を目前にして、標準規格をどうするかが問題になった。標準規格が特許に抵触すれば、巨額の実施料を支払わなければならない。特許請求の範囲の僅かな文言の相違が、特許使用料に何億円もの差を生む心配があった。諸外国では、GE社が既に次々と特許を受けていた。特許は開始した業務放送の前に立ちはだかり、輸出各社は苦しい商戦を強いられた。
NHKは、1963年12月実験放送を開始したものの、本放送を1969年3月まで延期している。特許問題の成行きをみたためといわれる。GE社の出願は、特許庁の中に隠されていた。見たい、日本各社は切望した。
当時、日本の特許制度では、特許の直前に出願の内容を一応公告し、他人による異議申立を待つ、出願公告制度を採用していた。公告前には出願の詳細はわからない。なんとか出願の内容を知りたい。特許庁に、問い合わせが殺到したが、特許庁は、教えるわけにいかない。
GE社の出願を、審査官は拒絶査定した。GE社は査定を不服として審判を請求した。審判合議体は、審査官による拒絶理由の引用例はGEの発明と隔たりがあると認め、昭和45年、出願を公告決定した(特公昭45-27401)。
特許請求の範囲の詳細は公表された。出願から10年が経過していた。国内各社にとって、特許使用料を免れるためには、先行技術の証拠を探して異議を申立て、特許にストップをかけるしかない。
米国でFMの人気が高まり、急増する受信機の需要で、日本メーカーもその製造や輸出に力を入れ、OEMブランドも含めてシェアは90%以上に達した。信じ難い貿易黒字であるが、米国では成立していたGE社の特許を避けて通れない。米国特許を無効にすることも検討されたが、困難と考えられ、GE社と実施契約する交渉が進められた。
GE社は強気で臨んできた。受信機一台当り20セントとも、一部の観測では28セントともいわれた。日本側は、電子機械工業会を窓口として交渉したが、内部に歩調の乱れもあり、難航した(1970・9・19日刊工業新聞)。
日本でGE社の特許が成立すれば、実施料は天文学的数字になり、当然、コストに跳ね返る。成行きは、日本中から注目されていた。
そんな中で、特許庁の審判部では、異議事件の審理を開始していた。開始しても直ちに結論が出るわけではない。
日本各社は、資料収集をしてきていた。あるメーカーの特許部長は、他のすべての職務をはなれ、特許庁資料館(情報館)に詰めた。輸出では譲ったものの、特許が未成立の日本国内では、異議事件は、日本家電の運命を決める、最後の、そして最大の砦だった。
13件の特許異議の申立てがあった。異議申立人は、日本を代表する総合電機メーカーと放送局。異議の証拠として提出された刊行物は、放送技術論文誌、学会会報などであった。
その間、出願人GEは、原出願の放送方式に加えて、送信機、受信機、ほか1件を分割出願していた。クレーム多項制は未だ導入されていず、送信側のみ、受信側のみを実施する者に対しても特許権を行使するため、送信技術と受信技術とを分割出願することは普通行われ、GE社もこの常套的な戦術を実行した。
審査官は、分割出願のうち2件を公告し(特公昭46-5882、同46-2201)、それぞれに10件、17件の特許異議申立てを受けていた。審査官は、異議申立を理由があるとして、出願を拒絶査定し、査定を不服としたGE社は、拒絶査定された残る一件の分割出願とともに、審判を請求した。審判部に、あわせて4つの大きい事件が集まった。事件のファイルは、異議の証拠を含め、内容もさることながら、物理的なボリュームも相当なものになった。異議の書類に、異常な数の閲覧請求があり、審判の審理の障害になった。特許庁は、閲覧請求者たちに整理を求めた。
当初、審判合議体は、異議の証拠刊行物に記載された技術は、GE社の発明に、なお、隔たりがあると考えていたようだった。
ところが、隔たりを埋める別の刊行物が存在することが分かった。異議理由を補正できる期間の経過後に、異議申立人の一人が、“参考資料”として審判部に提出した刊行物だった。刊行物は、皮肉なことに、GE社自身が米国で標準規格として認可を受けるためFCC(連邦逓信委員会)に提出した報告書を、FCCがGE社の米国出願日(日本出願の優先権主張日)より以前に公表した文書だった。
FCCが公表した文書は、先発明制度の米国では拒絶理由に当たらなかったが、日本では、発明が特許要件を失う有力な証拠となった。審判合議体は、4件の審判事件の全てに、FCCの文書を引用して、拒絶理由を通知した。
出願人は、何故か拒絶理由に応答せず、4件の審判請求に係る出願は拒絶された。
GE社は、拒絶の審決を不服として高裁に出訴した。しかし、1980年になって、訴訟を取り下げた。このとき、日本国内の事件は終了し、事態は、特許異議申立人グループの望んだものとなった。出願から20年が経過していた。
日本で特許成立を逸したとはいえ、シクサトカの発明の技術的価値は大きい。発明は、日本を含め、世界各国の商業放送に、半世紀以上経った今でも使用されている。
この特許異議事件のサムアップを、出願前の技術資料公表というミスの結果と片付けることは、出願人に酷であろう。FCCによる発明の公表は予測外だった。先発明制度を採用するアメリカでは、問題にならなかった事情もある。
事件の総括をいうなら、特許異議の申立てをした後もなお証拠を探し、FCCの公表資料に到達した特許異議申立人のねばりこそ、大きく評価されよう。有力な資料は、特許庁が独自で探すことはできなかった。それらは、メーカーや放送局である特許異議申立人たちが得意とするところにあり、その得意なところをサーチしたことが、勝因になった。
出願人GE社にとって、迷惑な話だったに違いない。事件の処理に異常な長期間を要した特許庁は非難をされても仕方がない。日米特許摩擦と、今ならそう呼ばれたはずの事件だった。しかし、当時から今日まで、GE社をはじめ、米国が、この事件に関し、“日本叩き”めいた態度にでた事実はない。
なお、公告/異議申立制度は現在は廃止され、無効審判制度がそれに代わっている。
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【GE社FMステレオ特許】
米国 1964.2.25(P3,122,610)
アルゼンチン 1977.8.21(P129,969)
オーストラリア 1977.7.18(P255,391)
ボリヴィア 1981.2.25(P2,281)
ブラジル 1981.3.25(P74,687)
チリ 1981.2.25(P20,478)
コロンビア 1975.8.19(P14,517)
エクアドル 1980.6.5(P90)
フランス 1981.7.20(P1,295,749)
西ドイツ 1979.7.19(P1,283,913.5)
香港 1977.6.12(P192/69)
イタリー 1976.6.19(P651,784)
メキシコ 1946.5.15(P81,779)
パラグアイ 1977.8.21(P1,601)
ペルー 1975.3.5(P7,894)
英国 1977.6.12(P946,707)
ウルグアイ 1981.7.6(P6,717)
ベネズエラ 1976.10.27(P16,591)
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