同時通訳始末
エイバック稲葉特許事務所
弁理士 稲葉慶和
http://www.zoomin.co.jp
10数年以上も前だが、特許庁にいて、研修所に勤務していたとき、国際課から急な注文を受けた。アジア諸国から来たお客に、日本の特許制度の歴史を話せというのである。外国語でスピーチなんか出来ないというと、同時通訳をつけるからと。
通訳者は、特許庁で度々依頼する人で、特許用語にも慣れている、ただ、スピーチのあら筋を、予め届けてくれという。検閲かと軽口をたたいたら、とんでもない、翻訳者の都合だと、相手は笑った。そもそも、私ごとき、検閲を受けるほどのVIPではない。
私は、同時通訳して貰った経験はなかった。スピーチ3時間として、2時間余りの原稿を準備すればいいかと考えた(後に、大変な認識不足とわかる)。外国人に面白い話題とも思えないが、福沢諭吉、高橋是清、清瀬一郎ら古いヒーローに登場願い、明治開国時後進国であった頃と、敗戦直後荒廃していた頃の2度、特許制度と技術導入とが日本を救った話をすることにした。
スピーチには、特許庁の最上階の、立派な会議室が当てられていた。私が部屋へ入ったとき、思ったより沢山のお客が、既に席についていた。
通訳してくれるのは、おちついた女性で、会議室で初めて会った。特に打ち合せもなく、皆さんに簡単な挨拶をして、私はしゃべりはじめた。
まずおどろいたのは、彼女の通訳がとても速かったことだった。私が一言しゃべるやいなや、彼女の唇はマシンガンになって、私のスピーチを追いぬかんとするごとく、英語の弾丸を吐き出した。
それでも、始めは、しゃべりながら、彼女の言葉をポツポツ聞き取るくらいの余裕はあった。
たとえば、福沢諭吉の紹介で、封建時代の日本で、人は平等と説いたと説明した。彼女は“Men are created equal.”と通訳した。私には、created のような格調高い単語は、とても使えない。これがプロの教養というものかと感心した。彼女にとっては、当り前だったのだろう。
また、高橋是清が、米国特許局を見学してすっかり気に入ってしまい、それを小型に真似た建物を日本の特許局として造ったエピソードで、彼女は日本の特許局に“miniature”という形容詞を付けた。それは、高橋が設計した日本の特許局に、ぴったりした形容詞だった。
スピーチを始めてすぐ、ひとつのことが、気になりはじめた。話の進み具合いが速すぎる。同時通訳がこんなに速いとは、予想外だった。私は、早口の方なのだが、スローダウンし、所々に、つまらないアドリブを追加した。それでも、用意した原稿は容赦なく進んだ。
その日、会議室の外は、とてもいい天気だった。現代の特許庁の建物は、外壁がくすんだ色で重苦しく見えるが、中は明るい。ふかふか椅子の会議室は、私の面白くもない話を聞かせられる人たちには、眠くなるような環境だったと思う。しゃべっている私一人、スピーチ原稿の頁がすすむにつれ、内容が足りなくなる心配で、落ち着かなくなってきた。
中間の休憩をわざと長めにとったスピーチの後半、私には、緊張したときが2度あった。
1度目は、2・26事件で高橋是清が暗殺され、軍国主義に陥った日本がアジア大陸を侵略したと述べたときである。
日本政府は、未だ戦争の反省と謝罪をアジアに対して公式に認めてはいず、“侵略戦争”という言葉の使用を意識的に避けていた。
私は、中国人と韓国人の席を盗み見た。全く変わった様子はなかった。会議室には、国際課の職員も数人いたが、私のスピーチなどそっちのけで、その日の夜の予定を打ち合わせていたようだった。私は、心の中で一人溜飲を下げたが、侵略という日本語を彼女がどう翻訳したか、確認する余裕は、すでになかった。
2度目の私の緊張は、大正10年特許法改正の国会審議の話のときだった。
この国会では、清瀬一郎が伝説にのこる逐条審議をした。清瀬博士は、クレーム多項制に反対の論陣をはった。博士は改正法成立のあと、すぐに、銘著「特許法原理」を完成するのだが、同著は多項制を肯定している。博士は、いつの間に銘著を逆の方向にまとめたのか。「ひょっとしたら」と私は余計なアドリブを入れた。「演説をするフリをして、実はこっそり、机の下で特許法原理を執筆していたのでしょうか?」。
しゃべったとたん、しまったと思った。外国の真面目なお客には、日本の国会議員たちはいつも議場でアルバイトをしていると誤解されたかもしれない。これでは、国際的スキャンダルだ!
心配はなかった。通訳の女性は、にこやかに私に手を向け、言ってくれた。「みなさん、今、彼は、ユーモアを言いました。キヨセは、それほど早く、著作を執筆したのです」。私は、彼女に、感謝と照れ隠しの会釈をした。もっとも、聴衆がユーモアと思ってくれたかどうかは、怪しいものだ。
そんなスピーチの最後、私は、前特許庁長官荒玉義人が「荒玉文庫」という貴重な歴史資料室を造った話題を付け足し、荒玉“文庫”の訳語として彼女が選んだ、Collection(library でもreference roomでもなく)という適訳に感心しながら、なんとか時間を引き延ばし、ミニ国際スピーチを終了して、聴衆と、お世話になった通訳の女性に礼をいって、会議室を退散した。
私が同時通訳でスピーチした経験は、そのときだけである。
後日談だが、“侵略戦争”について、細川護煕総理が記者会見(1993.8.10)で“侵略戦争”と言ったため、審議中だった政治改革法案の成立とからんで、政治責任を問題にされた。その翌年村山富市総理が談話(1994.8.31)で侵略行為と明言したが、それでも、“侵略”と認めない政治家がおり、さらに翌年、「戦後50年の国会決議」(1995.6.6)の一部を、自民案は「侵略的行為」といい、社会(当時)・さきがけ案は「侵略行為」といって、どちらにするかもめた。結局は自民案ということになった。ところが、そのとき、外務省の英訳はどちらも“Acts of Aggression”だった。「侵略的行為」なら外交術の範囲、「侵略行為」はもはや戦争、同じ訳語でいいわけはない。外務省の翻訳操作が感じられた。
話を私のスピーチに戻すが、日本はなぜ侵略戦争したのか、といった質問がもしもあった場合、私は多分つまらぬ返答をし、木っ端役人といえども、なんらかの責任を問われたことだろう。私はともかく、通訳の女性に累がおよんだかもしれない。政治的に微妙な問題に、軽率な内容の原稿を準備していたことには、私は全然反省していない。しかし、準備した原稿の量が不足気味だったことは、今でも反省している。
(NIPTA 知的所有権ジャーナル(第3号)掲載を若干変更しました。)
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