葛西さんの49日
今年2月8日、先輩弁理士のKさんが亡くなった。71才。特許庁で同じ職場の上司だった。事務所で一人亡くなったと、後で知った。8日には、私も、他の誰もまだ知らないでいた。
2月9日、たまたま、なじみの本屋さんに寄った。Kさん注文した本取りにこないのよ、と奥さんが言った。年だからな、来るの面倒なんだろ/会ったら教えてあげて/いいよ、でもオレも年取ったからな、忘れるよ/アンタ若いわよ/精神年齢だけはなー。
それでも、Kさんの事務所に電話した。このとき、Kさんは既に亡くなっていたのだ。私は、自分のパソコンが古くなったなんて勝手なことだけ気にしていた。気まぐれにでも、Kさんの事務所を訪ねていれば助けられたなんてことは、まさかあるまいが、悔まれた。
10日、アーサー・ミラーの訃報。赤狩りでアメリカと闘った米劇作家。著書「幸運な男」「みんなわが子」。なぜか、最近、新聞の訃報欄が、さまざまな想いと重なる。“赤狩り”のキーワード。Kさんは、革新で、労働組合の指導者だった。戦争嫌いだった。
Kさんは、職場での審査理論面の指導者でもあった。原則からきちんと指導してくれた。いかつい顔だが、冗談も交えて、しかし、基本の論理がまっすぐだった。年とっても、伝説的な論理と舌鋒は衰えなかった。私は、自分の論文に、Kさんの日常の言葉を、随分拝借した。ほとんど冗談の表現ばかり真似ただけだったが。
12日、土曜、13日、日曜。締め切り近い原稿を書きながら、私は、自分のことしか、考えていなかった。
14日、Kさんに電話。応答がない。何度目だ。さすがに、いぶかしく思った。近所で事務所を開業している人に、寄って見てもらえないか頼んだ。今日は、バレンタインディ、なにもないな、とか考えながら。電話がなった。事務所に郵便物が溜っているんだけど/無理に入ってみる?/しかしなー。
16日夜、明け方4時46分、地震に起こされた。震源は茨城南。Kさんの故郷だ。付けっぱなしだったテレビが、たまたま、Kさんの故郷を映していた。電灯が揺れていた。
仕事していたら、Kさんが亡くなったとの報らせ。えーっ。目が点になった。驚きと、やはりという気持ちとがクロスした。不思議なことだが、ウソだろうとは、思わなかった。
先輩や知合いに電話をかけまくった。
クライアントへも連絡しないと。知財のデータベースにアクセスし、Kさんのデータを見た。他人の事務所の内容をみることはめったにないことだ。Kさんがコツコツ手書きしていた事件のリストがあった。中に、オンライン手続も少しあった。
Kさんは、理科系に珍しく機械いじりをしなかった。半田付けをしたことがないと自分で言って笑っていた。自動車は酔うからと運転しなかった。特許出願は、ほとんど紙で手続した。論理学と数学が好きだった。コンピュータを発明した(というのは誤解)論理学者フォン・ノイマンを褒めた。「ゆくところ可ならざるなしだ」と。
反戦のKさんに、右派のノイマンは、妙な取り合わせだ。将棋が強かった。将棋は論理の世界に違いない。
私は、機械オタクで、無線や、コンピュータや、自動車も含め、機械はおもちゃだと思っている。いじらなくちゃしょーがないでしょーKさん/いいんだよ/インターネット便利ですよ/FAXがあるよ/ぜーんぜん違うじゃないですか。
17日、通夜。棺の中で、Kさんは、難しい顔で眠っていた。手を合わせた。いかつい顔だが、優しい人だった。後輩に、やさしい言葉で指導してくれた。
亡くなった人には申し訳ないけれど、葬儀は、同窓会でもある。急な葬儀だったが、Kさんは、たくさんの客におくられた。
お通夜の中、Kさんの事務所の後継の話になった。特許庁の事務担当者が、Kさんの受任案件をまとめてくれていた。期限が迫っているケースに、しるしをつけて。ありがとうございます、などという立場では私はなかったが、思わず礼を言った。
クライアント全て、机椅子書類ごと、引き受けてくれる人がいればいいのだが、難しかった。
昨年暮れの22日、忘年会で、Kさんと会った。毎年の忘年会を、“Kさんを囲む会”と呼んでいた。2次会のあと、今夜は事務所に泊まるよ、もう一仕事だからとKさんが言ったのが、話をした最後になった。終電車が近かった。フォン・ノイマンびいきのKさんへの嫌みに、私は、ノイマンの悪口めいた論文原稿を押し付けた。その夜以来、Kさんと会っていない。
18日、告別式。事務所の後継者は、見つかりそうにない。
22日、レオ・ブリュワーの訃報。米国の化学者。2次大戦中、マンハッタン計画で原爆開発に参加、というと、ノイマンと同窓か。
28日夕方、Kさんの事務所に寄る。すごい紙の山。青色発光ダイオード裁判の切抜き。大発明をした発明者とケチの経営者に、Kさんは、何をどう言いたかったのだろう。
事務所の床に、貴重な知識が山積みされ、散らかっていた。Kさんと一緒に、巨大な図書館が逝ってしまう。特許制度への想いが、逝ってしまう。しかし、主人を失った紙の山は、捨てるしかなかった。ゴミに埋もれて、ノイマンの伝記があった。黙って、戴いた。
25日、クライアントにKさん死亡の通知。私は、金沢で頼まれていた講演をどう組立てようか、まだ、自分の都合ばかり考えていた。
3月2日、金沢で、青色LED裁判の話。聴衆は思いのほか多かった。発明者に対価を払わない経営者の悪口を、私はだいぶ言った。悪口雑言は、Kさんの直伝だと、自分では、今も自惚れている。
3日、Kさんの受任案件は、同じ職場にいた人が引き受けてくれることになった。関係者6人で飲んだ。夜、雨。
Kさんは、酒が好きで、強かった。酔った私はちゃらんぽらんなことを言ったが、笑って聞いてくれた。議論にはちゃんと答え、酔っていてもごまかしはしなかった。いい酒だった。若いときは無茶飲みしたらしい。年とってからは、良質の酒を、手酌で、乱れず、静かに、押し付けず、奪わずの酒だった。
4日、東京に降雪。寒気がぶりかえす。
6日、栗原貞子逝く。反戦平和を訴え続けた原爆詩人。同日、ハンス・ベーテ逝く。ノーベル物理学賞受賞者。ナチスドイツを脱出して、“原爆の父”オッペンハイマーに招かれ、ロスアラモス国立研究所初代理論部長としてマンハッタン計画で原爆開発を主導。後に核軍縮を支持し、イラク戦争反対声明に加わった。右派のノイマンには、そんな感性はなかったかと。だが、ナチスから見れば、ノイマンは左派か。
12日、詩人江間章子逝く。「夏がくれば思い出す・・・・」。よく歌ったなつかしい歌だが、Kさんには、やはり“王将”かな。
Kさんは、体力があった。スポーツは、うまいというのではなかったが、エネルギッシュだった。キャンプに一緒した。Kさんは、管理職になってからも、労働組合主催のレクリエーション行事に参加していた。キャンプの夜、飲んで、議論した。
14日、午後Kさんの事務所から古いパソコンを引き取る。思いきってデータを削除。
17日、昼前雨。Kさんのパソコンは、OSが旧いが、使える。申し訳ないが、Kさん、勝手に使いますよ。
18日、血圧137-86。ちょっと高め。眠い。
Kさんの名を、ネットで検索してみたが、ほとんどヒットしなかった。論客だったのに、特許庁の外に出た著作は少なかった。伝説になってしまったKさんの思想。
特許庁時代、米国のカーマーカーによる数式特許が話題になったときだった。数式は人間の取り決めだ、発明じゃない、特許はおかしい、という意見が多かったなかで、Kさんの言葉。「数式には、近似法もある。近似は創作だ。発明じゃないのか」。
目から鱗。はっとしたのを、私は忘れない。なんて自由で、新鮮な洞察だろう。
もっとも、Kさんは、そのあと、冗談を付け足すのも忘れなかった。「左辺イコール右辺の数式変形は、特許にはならんよ。だって、数学の当業者には容易だからな。はっはっは」。
28日、Kさんの四十九日。あの世で、学者に会いますか。ノイマンは、彼自身を蝕んだ癌の論理の解明に成功していますか。
Kさんから、もっと沢山教わることがあったに違いない。沢山教わって、教わってから、送ることができていたら(2005年)。
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