きまぐれパテント・エッセイ
明治18年特許局の辺り
(1885)
エイバック稲葉特許事務所
弁理士 稲葉慶和
http://homepage2.nifty.com/inava/
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明治5年、汽笛一声ならぬ太政官105号布告で突然店じまいしてしまった特許局が、13年後の明治18年7月1日、業務を再開した。このときが、実質的に、日本の総合的な特許制度の始まりである(商標は明治17年仕事を始めていた)。
明治18の特許出願は、地方庁から、秘密を保つため封緘されて、「農商務省工務局専売特許所」(大手町、のちに京橋区木挽町10丁目に移転)に提出することとされた。
東京の専売特許所は組織として「雑務」「調査」「図書」の3掛(係)を置き、すでに始めていた商標登録所(雑務、登録、図書)とともに出願を待った。早口言葉の「東京特許許可局」ではないが、工務局専売特許所でもやっぱりちょっと言いにくい。このあて先は、明治19年2月26日から「農商務省専売特許局」に変わる。その後、「技術院」だったり「技術標準局」だったりする時期を経て、「特許庁」になる。しかし、面倒なのと言いにくいのとで、ここでは単に特許局と呼ぶことにする。
当時の特許局に職員が何人いたか、正確には分からない。明治20年暮れになってはっきりする特許局の定数が、局長1名以下、審判官1、審査官1、審査官補1だから、2年前の18年も、そう変わらないと思われる。
さて、明治18年7月1日の朝、高橋是清ら局職員は、胸をおどらせて待ったのではなかろうか。明治5年特許局の店仕舞い以来なされた発明は、仮ということで79件受け付けてきてはいた。その過程で、発明ヲタクのような人たちがいることも分かっていたはずなので、ヤラセ出願ではないが、お知らせくらいはしたかもしれない。と言っても、100年後の昨今の出願件数など言い当てられるわけもなく、そんな初日は、やはり何があっても不思議でない。
その特許局に出願たちまち殺到、というほどでもないが、7月1日に少なくとも9件(後特許された件数である。拒絶された件数が不明なので、日毎の総数は不明。以下同じ)、やはり先陣争いのようなことはあったことが伺える。2日は2件、3日は3件、4日は2件、5日はなし(日曜かと思うが正確でない)。その後は1〜2件または無し。それでも、交通、通信手段も不十分な中で、特許局と高橋是清が恥をかかぬ程度の出願はあったといっていいだろうか。
日本人は発明工夫が好きなのだ、その才能があると、当時訪日した外国人が母国に紹介したことがある。日本人の特質かどうか断言できないが、人はもともと他人から指図されず、自発的に物事を考え、自由に行動するのが好きなのであり、必然的に、発明・創作を好むもの。
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ところで、18年7月1日に特許局が営業開始することを、人々(とりわけ発明ヲタクの人々)はどのようなメディアで知ることができたか。
太陽暦を少し戻して、明治18年4月18日に専売特許条例が公布された。このことは、官報および中外物価新聞(1876創刊、のちの日経)、郵便報知新聞(1872創刊)、東京日日(1872創刊、のちの毎日)新聞が報道した。人々が新聞によって特許局の営業開始を知ったことは間違いないが、新聞だけだったのか。
ついでだから、明治18年のほかの交通通信メディアの状況を見ておこう。
鉄道は、明治5(1872)年、汽笛一声新橋を「陸蒸気」鉄道が横浜まで開通した。しかし、鉄道は、東京と大阪とで個々に延びてゆき、東京駅から神戸駅までを路線が結んだのは明治22(1889)年になってからだった。特許局の玄関に人々を全国から運ぶには、未だ間に合わない。
郵便事業はどうか。明治4年4月20日から、町に切手販売所ができ、ポストができ、手紙に切手をはって出すという郵便制度がはじまった。当時は東京大阪間を3日と6時間で届けたそうで、明治5年7月には、日本全国、どこからでも、どこへでも郵便物を届けることができるようになったというから、新聞とともに、特許局開業のお知らせを配るのに役立ったと思われるものの、鉄道や道路の事情からは、相当苦しい。
同じ郵政の電話事業については、明治16(1883)年以来、官営か民営かで議論していた(郵便の官営に対しては、民営団体が頑固に抵抗した経過があった。)。前島密(まえじま・ひそか) が明治21(1888)年に逓信次官に就任して、官営に意見を統一し、電話事業を開始した。しかし、特許局開業の間には合わない。参考までに、1869年、米国の電信技師G.M.ギルバートが工部省の嘱託として来日し、1870年東京横浜間に電信を開通させた。日本の電話業務開始は1890年であるが、そのころの加入者は、東京179、大阪45で、これも、まだまだ。
「あー、あー、聴こえますか? JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」とNHKが初放送したのはずっと後の大正14年3月22日、アメリカでの世界初の放送局設立から、わずか5年後ではあったが、それでも特許制度開業からは、いくらなんでもはるか先のことである。
ところで、どうでもよいことのようで、大切なことだが、「今日が明治18年7月1日」という日付の認識は、西暦が来日したばかりの日本国に、統一的にあったのか。
日本は,明治5年太政官布告第337号で、太陰暦から太陽暦に改暦し、明治5年12月3日を明治6年1月1日に振り当てた。つまり、明治5(1872)年の12月は2日しかなかった、12月3日はなくて、いきなり明治6年1月1日、しかも旧暦6年であれば迎えたはずの13番目の月、うるう月もなくなってしまった。実は、政府はカネがなくて、明治6年の役人の給料を13回払わないですませ、ついでに明治5年の12月分の給料もはらわなかったので、かなり節約をした。しかも、たった20日前太政官布告だったため、国中大混乱したらしい【朝日天声人語2007.12.2】。農耕、沿岸漁業関係を中心に、依然として旧暦を使用していた人々も多かったのではないか。うるう年や日曜日は正しく実行していたのだろうか(実は、日毎の特許された出願件数をみると、日曜が見あたらない?)。詳しいデータがないが、本日明治18年7月1日という確たる認識があったのか、怪しいところがある。
気まぐれな心配はさておき、明治18年、前年のデフレ、凶作に続いて、不況の最中だったという。特許出願がよくできたものだ。それはそれで感心する。
統計では、最初の年、明治18年7月〜12月、425件の出願があった。平均1日1〜2件または無し。いくら明治でも寂しいが、一方で審査などの体制がそう早く揃うはずもない。審査官は1人という時代。いってみれば農商務省の片隅の小さな班くらいのスタートだったとして、それでも、受付けだけで特許は誕生しない。先行技術を探し、審査し、査定文を起案して、特許証を印刷発行して、時々新聞記者のお相手をして、明治だろうが平成だろうが、1日はかかる。そんなルーチンが、日に1〜2件の出願の処理を、着実に実行した。
出願を拒絶するには、それなりの理由を要する。理由はともかく本願を拒絶する、などという拒絶は、いくら明治でもあり得ない。特許査定をする場合は、明治でも「拒絶の理由を発見しない」ですむ。それなら出願を片端から特許してしまえばラクなところ、われらが特許局は、そんないい加減なことはしなかった。
明治18年の半年間に出願された425件のうち、明治18年内には、登録99件、残りは拒絶または次年廻しか、だとしても立派なものであった。
【特許出願件数/登録件数】
明治18年 出願 425 / 登録 99
明治19年 出願1384 / 登録205
明治20年 出願 906 / 登録109
明治21年 出願 778 / 登録183
明治22年 出願1064 / 登録209
明治23年 出願1180 / 登録240
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明治18年、酉の年、西暦では1885年、日本国外の発明・特許界ではどんな動きがあったか。顕著な発明をカウントしてみよう。
まず、1885年より以前に特許された発明:
1840、「電信符号」、モールスが米国特許1647を受けた。デジタルのハシリだっただけでなく、文字の使用頻度と長点短点の巧みな組合せで、情報伝達が早いという優れた性能を持つ発明だったが、モールスは、右翼政治仲間で機械設計技師のヴェイルを欺して、アイデアを盗んだらしい。
1844、「ゴム」、グッドイヤー、米3633。
1855、「ミシンの改良」、シンガー、米13661。
1856、「製鉄製鋼改良」、ベッセマー、米16082。
1873、「ビール醸造法」、パスツールの米135245。
同じく1873、「電話」、エジソン(ベルではない)。米140488。
1876、「電話」、グラハム・ベル、米174465。
1876、「内燃機関」、オットー、米194047
1877、「蓄音機」、エジソン、米200521
1879、「マイクロフォン」、ベルリナー、米224573
1879、「白熱電球」、エジソン、米国特許223898。
1884、「写真フィルム」、イーストマン、米306594。
1884、「パンチカード計算機」、ホレリス、米395782。
面白そうな発明は、すでに沢山誕生していたその1885年、不況の中で、日本が特許局を再開したころ、ドイツでは、機械技術者ダイムラー(1834〜1900)が、既に完成していた熱点火式の高速ガソリンエンジンを2輪車に取り付け、モーターバイクを発明した。同じくダイムラー・ベンツ社を創設したドイツの技術者カール・ベンツ(1844〜1929)も、4サイクル・ガソリンエンジン3輪車をほぼ完成し、次の年ドイツ特許37435「ガソリンを動力とする車両」を取得する。この時代、照明の多くは石油ランプだったが、石油会社では、石油を取り出すとき、大量のガソリンの処分に困っていた。ダイムラーは次の年、ガソリンエンジンを4輪自動車に搭載した。のち「自動車の父」と呼ばれるダイムラーだった。
なお、アメリカのヘンリー・フォード(1863〜1947)が大衆車を完成するのは、さらに23年後、1908年である。
改めて1885年、日本人細菌学者北里柴三郎(1852〜1931)は、留学のためドイツに渡り、コッホに師事した。コッホの結核菌発見によって、病気の原因が細菌によるらしいことがわかってきたころだった。北里とエミール・ベーリング(1854〜1917)とは、まもなく、破傷風菌の純粋培養に成功し、ジフテリアと破傷風の抗毒素血清を発見して、血清療法/免疫療法の基礎を築く。さらに9年後に帰国した後、1894香港で発生したペスト病を調査して、ペスト菌を発見する。
さらに1885年、カールスルーエ工業大学の若い物理学者で教授のハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857〜1894)は、「マクスウエル理論に含まれる重要な仮定の実験的裁定」の懸賞金を狙って、導線によって直接に接続されていない2個の同調回路の間でエネルギーが空間的に移動する現象を、実験によって確認した。ヘルツは、はじめ不成功を繰り返しながら、電磁波の周波数を高くしてはどうかと思いつき、ついに電磁波が20mの空間を伝播することを証明した。結果論として、ヘルツは、エネルギーとしての電気が空間を伝播することを発見しただけで、情報としての電気を無線伝送する実用的価値を予測はしなかったが、のちに、マルコニーやテスラが無線による遠距離信号伝送を実用的なものとする発明の礎を作ったことになる。おしいことに、ヘルツは、マルコニーらの成果を見ず、若くして他界した。
1885年ごろは、それまであったガス灯は、エジソンの白熱電灯と、夜の照明の主役を争っていた。この年、アウェル(1858〜1929)は、ガス炎を輝かせるガスマントルを発明し、おかげでガスの寿命が数年延びるが、やがて白熱電灯に打ち破られる。その白熱電灯の電力供給も、やがてテスラが主張する交流送電に主役を奪われる。
再び1885年、発明王トーマス・エジソンは38歳、発明者として誇り多い前半人生から経営者として評判のよくなかった後半人生へとスイッチする時期だった。前年29才だった妻メアリを失い、悲嘆にくれながら、早くも18才のマイナ・ミラーに目をつけ、翌86年に彼女を後妻に向かえようとしていた。その1885年、エジソンは列車用誘導電信機を発明したりして、短期間だが独身だった。後エジソンはテスラと頻繁に対立し、理論では大抵テスラが正しかったのだが、無理にねじ伏せようとした。テスラは、1885年には未だエジソンのもとで働いていた。両雄並立不可。
ともあれ、1885年、たまたま世界各地で交通、通信、電力のインフラが芽生えようとしていた時期であった。その世界に撃って出た日本は、技術と特許番号の後れは仕方がないとしても、科学技術に関しては、お経かマジナイの時代だったのだ。しかも、特許制度導入に、日本は明治4年試みて躓いていた。「ろくな発明がなく審査する者もいない」失敗を繰り返すのではないか。日本で特許制度は馴染まないとして、導入再考となるのではないか。明治政府もふところは寒い。高橋としては、焦りながらも特許制度に未来の日本の成長した姿を重ねていたことだろう。だからって、ネットでパブコメするわけにもゆかぬ。いっそヤラセ出願でもと悪い考えが浮かんでも不思議でなかった。それやこれやで、明治18年のわが日本(ご安心あれ):
東京(東京府)の堀田瑞松さんは、軍艦に塗る錆止め塗料の研究をしていた。堀田さんの研究は、個人の趣味だったが、彼は、世間的には宮内庁の技師でもあった。
埼玉県の平民高林謙三さんは、すでに、世間で有名なお茶栽培の専門家であった。明治4年以来、特許制度の休業中も、生茶を蒸す機械を発明し、届けてあったが、高林さんはさらに、製茶葉を摩擦して光沢を与える器械や茶を火熱で焙って芳味色沢を付け貯蔵に耐えるようにする器械も案出し、併せて、出願を準備していた。
東京本所亀澤町の宮本孝之助さんは、多量の稲や麦の束を回転する部材に入れ、人が足で踏んで回転させながら、殻と藁を分離させる機械を発明していた。立派な人力脱穀機である。
東京に住む松井兵治郎さん、大津百太郎さん、黒田伊三郎さん、山本熊太郎さんの4人は、釵(かんざし)に工夫をして、鉛筆や印を携帯できるようにする道具を考えていた。近所の若い女性が、ねえ村井様あ、なんて遊びに来たかどうか。
群馬県新宿村の渡邊代次郎さんは、4枚の団扇を手で回転させて納涼する愉快な道具を考えていた。モーターがあれば扇風機だが、まだない。
静岡県の士族小野友五郎さんは、元咸臨丸(勝海舟らを載せて渡米した。)の艦長であり、発明マニアであり、専門の機械工学の素養も江戸時代の政治経験もある、立派なテクノクラートであった。小野さんは、桿を振揺させて回転力を得て、機械を運転する動力とするメカニズムを考えていた。
大阪市西区に居留する草川中兵衛さんは、虫の害や湿気、汚気を除き、安眠できる夜具はないか、蒸し暑い夜の大阪で、ウンウンと考えていた。
高橋是清の心配をよそに、それなりの発明は誕生しようとしていた。鞍馬天狗と杉作ではないが、日本の知財の夜明けは近かった。といっても、こればかりは、さしもの高橋是清にもわかろうはずもなく・・・・
やがて、明治18年1月1日(木曜日)、そして同年7月1日水曜日(日本が太陽暦を正確に実行していれば)・・・・
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