きまぐれパテント・エッセイ
明治18年特許局特許1号辺り
エイバック稲葉特許事務所
弁理士 稲葉慶和
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東京(東京府)の平民である堀田瑞松(ずいしょう)さんは、世間的には宮内省の技師であり、また、彫刻家、漆工芸家としても既に有名であった。士農工商でいえば、士ではないが、お役人扱いされたからか、一般庶民の仲間に入れないインターネット・サイトもある。しかし、特許局の記録では平民である。
堀田さんには別に家業があり、錆止め塗料の研究は趣味みたいなものだった。趣味といっても遊びや手慰みではない。ともあれ、錆止め塗料で名誉ある「特許1号」取得のジャンルは、今で言う宮内省の職務発明ではなかった。
(誤記訂正で度々恐縮ですが、「企業と知財」誌428号(32頁右欄最上行)に、堀田さんの特許1号の出願日を「明治18.8.10」としたのは、「明治18.7.1」の誤りでした。お詫びして訂正します。申し訳ないので、堀田さんの技や名声の情報を、勝手に増幅して追加します。)
話を遡るに、堀田さんは、旧暦天保8年4月12日(1837年5月16日)兵庫県豊岡市で、刀鞘塗師の家の長男として生まれた。幼名菊太郎、16歳で家業を継ぐ。
少年時代、すでに相当な技倆の持主だったようであるが、安政5(1858)年21歳のとき、京都に出て、家業とともに彫刻や細工物、また書道や南画の技を磨いた。独自の工夫を重ね、彫刻刀によって絵画を自在に鏤刻する技術も創始した。この頃寸松と名乗っていた堀田さんは、厚漆の板に絵画を彫刻する「鉄筆」という技で天才と言われた。家業の刀鞘塗から、漆のあつかいは専門分野だったと理解できる。
彼の名声を、孝明天皇が伝え聞く。この天皇は、尊皇攘夷でガチガチだったので有名であるが、それはともかく、政権交代その他で超忙しい時期でもあろうに、天皇が一彫刻家の噂など聞く閑があったか、些か訝しい。とはいえ、まあ信じよう。孝明天皇は、天才寸松青年に、水晶宝珠の彫刻をして納めよと命じた。慶應元(1865)年寸松君は28歳であった。感激した寸松君、たまたま京都に大雨が降って河の水が氾濫し、あわや橋落ち家屋も流れんとする三條に、警護の者が危ないから逃げなさいというのに「御所の御用だ」とがんばって、揺れる橋の欄干に寄ること1時間余、水の動きを工芸家の目でしっかり観察した。堀田青年の行動は、のちに文部省国定の高等小学校の教科書に載った。
堀田青年は、嵐の中での波濤の記憶を基に、置物臺をデザインして御所に納めたところ、天皇はいたく感心し、以後瑞松と名乗りなさいと御諚を賜わったという。堀田さんは、このときから瑞松と名乗るようになり、以後、皇室に関係する仕事をするようになった。
後の特許第1号にある「東京平民堀田瑞松」の表示は、ステージネームやペンネームでないにしても、戸籍法(1871制定は微妙、以来度々改正)によって届けた氏名なのか、よく分からない。もっとも、当時の特許局が、瑞松にしても寸松にしても、いちいち調べたかどうかも分からない。畏れ多くも天皇に貰った名なら、本名で誤認混同などないだろうと思うが。
さて、堀田さんの特許第1号明細書(図面の添付はない)は、カットの通りで、見難いかもしれないが、4種類の塗料の成分の表が記載されている。全ての塗料は酢を含んでいて、この4種類の塗料を順番に塗っていくと、3年間は錆びない保証があったという。
堀田さんは、専門分野から、船舶の外壁に介虫や海藻が付着しないように予防することも重要と、虫や藻を防ぐ漆塗料を開発し、介藻を防ぐ効果を加えた『介藻防止漆』についても、明治23年7月22日付で特許第918号をも取得した。
堀田さんの塗料は、日本海軍の横須賀造船所で試験して好成績をおさめ、明治19年から23年にかけて、約20隻の軍艦に塗装して評判になった。さらに、外国の海軍にも注目される。明治20年11月には、塗装が劣化して困っていたロシア海軍旗艦ドミトリイドンスコイという6200トンの巡洋艦に依頼され、錆止め塗装をほどこした。この船は翌年も来日したが、1年の航海中劣化がほとんどなかったことにスクルイドルフ艦長は感動し、感謝状をくれた。この軍艦はのちに日本海海戦で沈没した。しかし、日露戦争時代、既に旧型ではあったが、まだ動いていた。
ロシア軍艦が採用した日本の錆止めが優れものという情報は、米国、独、オーストリア海軍にも報告され、堀田さんの漆塗料は世界にも認められたが、日本海軍は、できたばかりでまだたいして艦数も持っておらず、堀田さんにとって、企業採算は成り立たちそうになかった。堀田さんは、海外への進出を考え、明治30年に英米を視察した。その結果、日本の漆の生産量ではとても間に合わないと知り、帰国後、国産漆を増産するための「堀田式漆樹栽培法」を開発し、以後七年間、東北地方にこの栽培法を広めた。苦心が実を結んで、漆の生産量も増大したので、明治38(1905)年1月、68歳の堀田さんは元気に渡米し、明治44年、74歳になるまで、純日本技術の漆塗料を普及させた。アメリカでは、チャールスタウンの港で船底塗料長期試験に成功し、ボストン駅やガス会社のタンクに塗装して成果を収め、またスタンダード石油の耐酸試験に合格し、米国特許も取得した。この在米中、得意の鉄筆を米国要人に披露して新聞に紹介された。このような苦心の結果、日本の漆技術を認めさせ、新しい販路を開拓し、新会社設立を考えたものの、不況で挫折。漆はコスト高であり、又米国の塗装技術では適合しない問題もあった。堀田さんは、結局、明治44(1911)年8月に帰国した。
海外での起業化不成功を堀田さん個人のせいにするのは酷だ。天皇はどうした。高橋是清はどうした。不況対策で知財推進計画どころでなかったか。福沢諭吉はどうした。TLO?何ぢゃそれは(まさか)。
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特許1号を取得した堀田瑞松(ほった・ずいしょう)さんについて、補足。
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彫刻家・漆工芸家として既に世に知られていた堀田瑞松さんは、そのころたまたま政府要人の間で語られていた話に研究心を刺激されたという。
その話は、「世界の鉄製近代船舶が海水によって船底を浸食されるため、6ヶ月ごとにドック入りして塗装をしなおさなければならない。もし、もっと強力な防錆塗料が開発され、ドック入り周期を延長できれば、わが国はもとより世界の大きな利益となるのだが」というものだった。
そこで、瑞松さんは、家業で専門の漆を主成分とする船底塗料の研究に着手した。横須賀造船所の周辺海域で実験を繰り返し、海軍の船で実船テストを行い、成功を収め、テストの結果に自信を得た瑞松さんによって、1885(明治18)年7月1日に農商務省工務局へなされた出願は、同年8月14日特許を取得した。これぞ、特許1号だった。
また、同じ明治18年11月に『防水布』も出願し、12月28日特許82号を取得しているが、やはり漆の応用だった。かくて、堀田さんは、一貫して漆を使った塗料や薬品を研究し、営業した。
明治政府にとって、黒船に欺されるように締結してしまった不平等条約は、金不足による不景気の元凶であり、なんとかしなければならない大きな問題であった。
1888(明治21)年に農商務大臣となった井上馨は、高橋是清に、外国から輸入した新式の機械を保護するため、初めて輸入した者に専売特許を与えるよう強く要求されているので、そのような法律を作ってくれと指示した。ところが高橋は、不平等条約の下で日本から外国に求むるべき事は多いが、外国からこれ以上日本に求めてトクするものは少ないから、外国発明の保護は、今は決定せず残しておいて、条約改正の際、取引条件に使う方が日本のためになりますと、井上に意見する。聞いた井上は、単純な性格の故か、高橋の言うことに納得して、その後外国機械の保護を言わなくなったという。
日英通商航海条約締結によって不平等条約の改正が実現するのは少し先である。
日本では、1896(明治29)年に外国人からの特許出願を受け付けるようになり、また、1899(明治32)年パリ条約に加盟した。当時加盟は18カ国だったので、日本は、遅れて特許制度を開いたにしては、パリ条約の古いメンバーということになる。
瑞松さんは、鉄製船の錆止め塗料を発明しただけでなく、船に海藻が付着しがちであることにも気づき、海藻の付着を防ぐ漆塗料を開発し、防介藻の効果を加えた『介藻防止漆』を、帝国大学勤務の吉田彦六郎さんと共同出願し、明治23年7月22日付で特許第918号を取得した。
瑞松さんは、漆塗料が内外に認められるようになったからといって直ぐに満足はしない。日本海軍がまだできたばかりで、船の数はそう何隻もなく、商売相手には不足と悟るや、海外進出をはかり、アメリカ、イギリスを訪問した。明治30年であった。外国では、日本の漆の生産量ではとても間に合わないと知って、帰国後早速、国産の漆の増産を検討し、「堀田式漆樹栽培法」を開発した。以後7年間にわたって、東北地方にこの栽培法を広める努力をしている。気の長い人である。その一方、「日本漆業研究所」を設立して漆塗料の研究に励み、大正2年(1913年)には、それまでの研究を元にした特許『堀田式防錆塗料(第25233号)』を、息子の堀田賢三さんを共同出願人として、特許取得した。このとき堀田さんは、76歳だった。
堀田さんにとって、課題とその解決は、まだまだ終わらない。彼の論理と考察は、合理的ではあったが、不平等条約で不景気のこの時代、大きな利益を得る機会を逸していたかもしれないのに、クサらない。ねばり強く前向きではある。京都三条の橋で頑張って、濁流を観察したときの勢いを発揮すれば、高橋是清なみの成果も無理でなかったかもしれず、しかし、その瑞松さんも、老齢には勝てなかった。
瑞松さんは、大正5(1916)年9月8日、79歳の生涯を閉じた。創業した事業は、遺族が引き継いだ。瑞松さんの没後、日本海軍用の塗料を目的として業務を継続するが、やはり、なかなかうまくもゆくものでもなかった。
瑞松さんが開発した漆塗料は、性能は優れていたが、高価であり、大量生産が困難であり、のちに押し寄せる欧米の石油系塗料などに押されて、不利な商品だった。明治の時代、日本独特の工業技術を育て、しかも日本を代表して世界に気を吐いたのに、今ひとつ報われたようにみえない。
その後、瑞松さんが創業した会社は、防汚塗料、耐酸塗料、電気絶縁塗料、缶用塗料などにかかわる数々の特許をも取得し、各種塗料技術の基礎を築き、わが国塗料産業の発展に寄与した。自社開発技術による缶内外面用塗料、紙加工用塗料、接着剤、真空蒸着用塗料、プラスチック用塗料、潤滑・防滑塗料、抗菌・防カビ塗料など、特殊機能性製品と関連サービスを客に提供しているそうである。
なお、漆塗料については、日本の研究者によって、人工漆として見直されている。有害気体が生じなく、製造に省エネルギーであり、人間の居住環境に優しい塗料として、新しく注目されている。明治の先覚者で天才だった堀田瑞松さんの夢が、特許庁の「二百年史」の頁を飾ると面白いのだが・・・
【日本化工塗料株式会社】
http://www.nippon-kako.co.jp/gaiyou.html
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ネットで、堀田瑞松さんのフルネームをキーワードとして検索してごらん。普段ひとにあまりアクセスされそうにないサイトが、ひっそりと集まってくるから。
ねばり強く努力家と言われる但馬の先人を紹介する地味なサイト。沢庵和尚(禅僧)、大石りく(大石内蔵助の妻)、加藤弘之(東大初代総長)、植村直己(冒険家)らとならんで、堀田さんが眠る。
堀田さんの顔写真がある。「平民」らしくもなく鼻の下に立派な髭なんかたくわえちゃった、堀田瑞松さんの顔写真。
http://www.tanshin.co.jp/zaidan/1hito/09hotta/index1.html
上のURLとは別の、堀田さんのフルネームにリンクするサイト群の一角に、寄生虫のようなサイトがある。「特許1号」という言葉の侵攻的な響きを盗もうとしてか、日の丸の旗を掲げ、「健全なナショナリズムの歴史」「自虐史観教育は誤り」「原爆肯定意見展示構想」などと暗い主張をしてみせる。堀田さんは、云うだろう。君らKY(空気が読めない)だなー。そして笑うような、堀田瑞松さんの、昔の写真のせいか、どこかのっぺりしてみえる白い顔。
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