きまぐれパテント・エッセイ
明治18年特許局(特許2号の辺り)
エイバック稲葉特許事務所
弁理士 稲葉慶和
【発明者】高林謙三
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特許2号「生茶葉蒸器械」
明治18年7月1日出願、明治18年8月14日特許
特許3号「焙茶器械」
明治18年7月1日出願、明治18年8月14日特許
特許4号「製茶摩擦器械」
明治18年7月1日、明治18年8月14日
特許60号「改良扇風器械」
明治18年10月16日出願、明治18年11月10日特許
特許150号「茶葉揉捻器械」
明治19年2月10日出願、明治19年3月20日特許
特許3301号「茶葉粗揉機」
明治31年4月4日出願、明治31年12月22日特許
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埼玉県の「平民」高林謙三さんは、天保3年(1832)4月25日、高麗郡平沢村(現・日高市)に生まれ、16歳で日本の古医術を学び、さらに、西洋の外科医術をも身につけた。医者だった高林さんは、薬でもあった茶葉の加工を機械化し、安価に大量に生産しかつ輸出することを、開国日本の要請と直感した。
明治の男どもといえば、何かあれば遠くをみつめ、激動の時代を慨嘆するのが定番であった。坂本龍馬は、土佐の高知の桂浜から大平洋を眺めて「海のおもよりいづる月かげ」などと歌を詠み、京都の剣士鞍馬天狗こと倉田典膳は、鴨川の橋より東の空を見詰め、「日本の夜明けは近いぞ」などと杉作少年にいいきかせた(フィクションです。)。余談だが、倉田典膳は物好きな男で、開業間もない「きっちゃてん(←ウソ)」に入り、当然曽十郎頭巾は脱いで、珈琲を一口含み、「苦いっ」と顔をしかめ、「だが、こういう苦い味にも、これからの日本人は馴れていかなければならんのだなあ」などと、開国派らしく自戒した(と、大佛次郎は書いております)。コーヒーをブラックで飲めば苦いが、我らが日本茶だって、そう甘い飲み物ではない。
さて、高林謙三さんも、埼玉狭山ローム層上に立ち、明治の男らしく時代を慨嘆した。茶葉は大切な薬だ。薬は、病んだ人間に必要だが、病気の日本国にも必要だ。人間の病気は小さく、国の病気は大きい。自分はひとつ、国が患った大病の治療をしよう、高林さんは決心した。
「大洋に浮かぶ外国船を見るに(→埼玉から船が見えるか?)、一葉一屑の木葉、木片にしか過ぎないが、まるで一国一城のような威容をもって無限の大洋を我がもの顔に雄飛しているではないか。しかるに、日本はその一隻に対してすら一矢、一槍も報いることが出来ない。いわんやその一隻を派遣している母国に対してをや。悲憤屈辱この上ない」。
「百般ノ事物悉ク海外ニ仰ギ、輸入品目日ヲ逐テ多キヲ加フルモ、我ヨリ輸出スル所僅ニ製糸、製茶ノ二品アルノミ。而モ其産額僅少ニシテ償フニ足ラズ。国家財政ノ権衡ヲ失フ。寧ンゾ久キニ堪フルノ理アランヤ」(農商務大臣への履歴書)。
高林さんは、すでに小仙波の地に開業する外科医であった。「平民」とはいいながら、川越藩主松平大和守の侍医となっていた。そのお医者さんが、茶の機械生産を志した。ところで、医者って理科系なんですかね。北杜夫さんとか、小説家がたくさんいるけれど。ま、それはそれとして、家族とりわけ夫人の浜子さんには傍迷惑な話だ。
高林さんは、明治2〜3(1869ー70)年にかけて、数ヘクタールの山林を買い、開墾して、茶園の経営をはじめる。高林さんの他にも製茶業に目をつける者は沢山いて、全体に生産量は上昇したものの、価格は低落し、製茶業者たちは困窮をつづけていた。はやく製茶機械を作らねば、高林さんは焦った。医業の傍らの無理な研究が祟ってか、明治13年ごろ肺病を罹った。医者の不養生。医者の身で他の医者の世話になるようでは情けない。
苦闘の中、高林さんは、ある日、炉端で茶を入れた硝子瓶をぐるぐる回しているうち、中の茶が滑らかに回転するのを見て、ふと思い当たる。試行錯誤のすえ、回転円筒式の焙茶機械を完成した(やっぱり理科系だったのだ。)。併行して茶葉蒸器械、および製茶摩擦器械も完成し、明治18年7月、開業したばかりの特許局に出願した。これらが、特許2号、3号および4号となった。機械化による生産量は、人手の4倍と見込まれた。埼玉県は、明治21年、高林さんを表彰し、うまくいけば、機械を使い、人件費を安くして、茶の輸出のみちが開ける“はず”であった。しかし・・・
機械といっても電動機も内燃機関もまだない(後に水力は登場する)。人手も加えながらでは、職工の技量未熟のため、不良品が多量に出た。
発明した機械を、地元狭山の製茶業者たちは採用してくれない。茶業組合は高林さんを受け容れないどころか、不買運動を起こして妨害する始末。茶業者には機械は商売敵、仕方がない。
高林さんは、狭山を離れ、東京の染井に移った。浜子夫人もブツブツ云いながら亭主について行った。その亭主は、明治31年に「高林式茶葉粗揉機」を発明(特許3301号)したものの、医者を始めた頃にはあったそこそこの財産も、またたく間に底を突いてしまい、親類縁者の鼻つまみになる。茶畑は借金のカタに取られ、浜子夫人の我慢協力も、限界である。
そんな高林さんに、静岡県の茶業者が味方をした。小笠郡(現・掛川市)で茶業を営む松下幸作さんと山下伊太郎さんの援助だった。おかげで明治31年12月、ようやく新しい製茶機械が社会に出た。高林式製茶機械松下工場(本社静岡市金座町4−1)がそれであった。
それまで、東京で高林さんの機械を後援してきた西ヶ原農事試験場技師の大林雄也さんは、当時日本一の茶師と言われた榛原郡初倉村(現・島田市)の大石音蔵さんという人と高林謙三さんの茶葉機械とを競わせてはと提案した。そこで、大石さんと高林さんの対決になる。結果は、生産効率は勿論、茶の品質についても高林さんの機械の圧勝だった。
茶師日本一の大石さんは吃驚した。実は、機械なんてとバカにしていたのだ。対決から三日たって、大石さんは突然高林さんを訪ね、「あなたの機械を譲ってもらいたい」と願って、高林さんが明治31年に改良した茶葉揉乾機を、郷里の初倉に持ち帰った。体育会系のキャラのようであったが、進歩を躊躇わぬ、広い心を持った理科系の人でもあったのだろう。
一方、高林謙三さんの晩年もまもなく終わる運命にあった。掛川を訪ねて会食中、突然脳溢血に倒れたのである。全快も覚束ない。松下さんらは、帰ろうとする高林さんを引き留めた。家を建ててやり、家族も呼び寄せた。
高林さんは、身体の調子が少し良いと、理科系の人らしく機械を修理したり、晴れた日に茶畑を眺めたりした。静岡の茶業者たちのために、技術相談にも乗った。
穏やかな2年がたち、明治34年4月1日、高林謙三さんは、堀の内(現在の静岡県菊川)において、71歳の誕生日を前に、他界した。高林さんの墓は喜多院斎霊殿(川越市)にあり、史跡となっている。墓石に浜子夫人の名も刻まれている。なお、菊川にも、松下幸作さんが建てた謙三さんの墓がある。
JR高麗川駅(八高線/川越線)に近い畑の中に、「製茶機械発明者高林謙三出生地」の大きな標識が建っている。茶によって日本の近代産業開発の基礎を遺した高林さんの大きな足跡の記念として。
狭山茶は、関東ロームと、独特の製法の狭山火入れを施されて、コクのある味わいが楽しめる。狭山茶を、物好きな剣士(体育会系らしい)鞍馬天狗が飲んだかは、全然分からない。
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