きまぐれパテント・エッセイ
明治18年特許51号の辺り
(明治のテクノクラート小野友五郎小伝)
エイバック稲葉特許事務所
弁理士 稲葉慶和
(1)
特許51号(「垂揺機関旋転器械」出願明治18.7.1、特許18.8.14)の発明者は「静岡縣士族」なる小野友五郎(おのともごろう)さんである。
小野友五郎、この名前をどこかで見た憶えがないか。日本史につよい人は、万延元(1860)年、勝海舟を艦長とする咸臨丸訪米団に、航海長(艦長を補佐する測量方・運用方)として同道した小野さんの名を思い出すだろう。立派に、幕末の“時の人”なのだ。
咸臨丸は、日米修好条約批准書交換のために、ポウハタン号を護衛して、海を渡った。米国へ向かったメンバーは、使節3名と随員74名。提督として軍艦奉行木村芥舟、小栗忠順(おぐりただまさ)、新見正興(正使)、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)、米国海軍将官ジョン・M・ブルック海軍大尉らだった。
航海の38日の内、生憎34日間も荒天で、艦長の勝海舟は、船酔いのため、艦長室に引き籠もり、ほとんど仕事にならなかった。艦長の仕事は、小野さんや万次郎らがすべて取り仕切った。
同行した米国人のブルック海尉は、小野さんら日本人測量方が、天文測量や航海術に熟達しているのを見て、非常に驚いた。このことで、ブルック海尉は、小野さんらと長く親交を結ぶことになる。
アメリカに着くなり大活躍するのが、当時34才の小栗忠順というエリートである。この人は、日本でたびたび黒船などの米国人を相手にしていたので、外国人との付き合い方をすっかり心得ていた。サンフランシスコで、小判と金貨の変換レートを、金銀の含有率に基づき、理路整然と主張して勝ち取る。米国人たちは、忠順の落ち着いて物慣れた態度をみて、使節の代表者と思いこんだ。大統領の信任厚いデュポン大佐は、小栗を『日本の法務長官』と呼んで敬意を払った。勿論、大統領と会い、日米修好通商条約批准条約締結も果たした。
多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載した。使節らは、サンフランシスコで、米国の近代施設を訪問した。さらにワシントンに赴き、特許局をも見学している。このときが、日本人が初めて特許制度を知ったときであった。もっとも、のちの使節団の報告書では、彼らが米国特許局の業務を正確に理解したかどうか、いささか怪しい。小野友五郎さん(この人が特許局を見学したかどうか記録はないが)も含めて、使節団の誰もワシントンの特許局訪問の結果を日本に詳細に伝えてはいない。そのことはまあ、仕方がない。誰も特許などというシステムに知見はなかったのだから。小野さんだって、特許に縁ができるのは、25年も先のことだ。
もっと近い将来、福沢諭吉は特許制度を日本に紹介する運命にあったが、米国ではまだそれはない。彼は、ワシントンの特許局へ同行してはいなかった。福沢は、少し後にヨーロッパを訪れ、欧州の特許制度を学んで、日本に紹介するので、福沢諭吉が特許制度を日本に伝えるという話は、結果として、やがて事実となるのだが、咸臨丸上での福沢諭吉といえば、勝海舟が、航海中船酔いでゴロゴロしていて、上陸が目前になったとたん「俺が艦長だ!」といわんばかりになったのに嫌気がさし、のちずっと勝海舟と仲が悪かった。いい遅れたが、ここでは勝海舟は、英雄でも快男児でもない。
忠順は忠順で、アメリカの造船所を見学し、日本との製鉄技術の差に驚愕し、感動したあげく、記念に製品のネジを貰って持ち帰ったりする。その後ナイアガラ号に乗り変え、大西洋を越えて世界一周し、品川に帰国、落ち着いているようで、結構はしゃいでいた。忠順は、その後、勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務める。くちがわるいので疎まれるが、全然まいらない。帰国後、洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所の建設などを行うことを予測して、予備知識を米国でちゃっかり吸収していた。
小野さんも、渡米の功績で、日本に名誉が待っているのだが、その前にひとつ任務があった。
実は、この渡米のとき、咸臨丸の遣米使節は、日米修好通商条約の批准書交換のほかに、小笠原群島の調査という使命を併せて受けていた。しかし、太平洋初航海という難行に、往復路ともその命を果たすことは出来なかった。
当時、小笠原群島は、米国人英国人が捕鯨船の補給基地としてが居住するようになっていた。捕鯨といっても、英米のそれは、鯨油をとってあとは棄ててしまう乱獲であり、現代の反捕鯨と行動が大分違う。英米は、小笠原諸島の領有又は植民地化を望んでいた。日本は、小笠原群島の測量と地図作製を行い、古記録との参照などにより、日本古来の領土であることを立証する必要があった。
米国から帰った小野さんは、1862年、今度は咸臨丸の艦長として小笠原群島の調査・測量をする。天測、海岸線測量、深浅測量などを実施し、伊能忠敬以来の日本領土の実測図となる小笠原群島図を完成させた。これらの成果によって、諸外国を納得させ、小笠原の日本領有は確たるものとなった。
小野さんが、小栗忠順と出合うのは、この渡米のとき(1860)ともいい、又はその6年前、1954年12月ともいう。詳細はよくわからない。小野さんは、若いが知略と先見性に満ちた上司を敬愛し、上司の小栗忠順は、小野さんの数学、測量などのテクノクラートとしての技倆を高く評価し、さらに、中浜万次郎(ジョン万次郎と呼ばれるのは、井伏鱒二による「ジョン万次郎漂流記」以後)を加えた3人による、幕臣開国派の物語が始まる。
さて、時間を30何年か、戻そう。
友五郎さん、1817年、常陸笠間藩の下級藩士、小守家の三男坊の生まれ。貧乏藩士の身では、教育を受ける術がない。小野家に養子に入って16才のときから、夜学で和算を学ぶ。江戸勤務になり、和算を長谷川弘という師から、また、造砲術や洋式砲台の設計技術を江川担庵という師から学ぶ。江川師の推薦で、幕府天文方に採用される。このころから、友五郎さんは、数学で天才的な頭角をあらわした。
感心するのは、若い小野さんの才能を、身分が低いの貧乏だのと卑しめず、なにかと援助してくれた師や上司が沢山いたことである。なかでも、幕臣の大物小栗忠順と、風変わりな経験を持つ万次郎とは、小野さんの生涯に、密に係わることになる。
友五郎さんは、オランダ語の通詞で馬場佐十郎らとともに、オランダ人のスワルトによる航海術書の翻訳をする。翻訳の一部である「渡海新編四巻」を幕府に上程し、その縁で、安政2(1855)年に長崎にできたばかりの伝習所で、航海術専修を命じられる。ここでオランダ海軍軍人から、西洋の航海術や造船、砲術など、多くの知識を習得することができた。小野さんは38才になっていた。明治維新まで13年−
(2)
NHK大河ドラマ「篤姫」によれば、宮尾登美子原作、田渕久美子脚本、そしてなにしろ美貌で聡明なヒロインの話だから、男どもは霞んでぼんやりしてしまう。しかし、徳川幕府の官僚は、黒船に慌て、茫然自失の者ばかりではなかった。目立たない幕府“賊軍”の中にも、しっかりした者はいた。小栗忠順(ただまさ)はその代表だろう。この人は、西郷吉之助(隆盛を名乗るのは明治以後)ら官軍に対して主戦論をとっていたものの、攘夷論の強い幕臣には珍しく開国派であった。小野友五郎さんよりずっと若いが、身分は遙かに高い2700石の大旗本である。咸臨丸渡米で小野さんと知り合った(もっと前に知り合っていたという説もある。)後、神田駿河台の小栗屋敷で、ブラックコーヒーを飲みながら、開国論に華を咲かせる間柄となる。
黒船といえば、浦賀にペリーを乗せてやってきた艦隊だけではない。室町時代末から江戸時代末にかけて、欧米人を乗せて、黒船は度々日本に来ていた。多くは、アブラを狙って鯨を乱獲する船で、小笠原諸島を中継基地にして、あわよくば領土にしてしまう狙いもあり、幕府は油断できなかった。1856年10月8日に清国が英国の帆船アロー号の乗組員を海賊と逮捕したことから、清国と英国との間に紛争が起こっていた。アロー号は、実は密貿易のため、英国統治下の香港にいた。英国は、外国人の広州入城を要求したが、清が応じなかったので、それを口実にして、広州を攻撃し、戦争となった。中国の半植民地状態を狙った英国の侵略であった。
「清国の二の舞になってはならん。我が日本は積極的に国を開き、貿易で利益を得、それをもとに国力を伸ばすことが必要だ。友さんには、日本海軍を創設する方向を指し示してもらいたい。もう一度アメリカに渡って、軍艦を買い求めて貰いたいのだ。さらに、軍艦の建造発注のため、オランダに若者を留学させたい。榎本釜次郎(後の武揚)を推挙しようと思うがどうだろうか」
小野さんは、自分より若い上司の先見性に感心するのだった。このあと、小野さんは、1864年6月に勘定吟味役に昇進し、幕府主宰の横須賀製鉄所設立に関与したのち、幕府の命により軍艦調達のため、慶応3年(1867年)再び渡米し、米国国務長官ウィリアム・スワード、大統領アンドリュー・ジョンソンと会見し、海軍省との交渉の末、ストーンウォール・ジャクソン号の購入を約して帰国する。
1860年台の日本は、ねじれ国会どころか、誰の命もあぶない幕末だった。中で開国派といえば、勝海舟もその派だったが、勝海舟は、幕府の体制をほとんど見限り、官軍に恭順ベッタリのふりをした。ポリシーの違いから、小野忠順とは、肌が合わない。
さて、幕府の最高責任者を押しつけられた徳川慶喜は、ぶっちゃけ、やってられない。坂本竜馬の提言に乗って、1867(慶応3).10.3、大政奉還というスタンドプレーに出た。留守は天璋院殿(篤姫)、静寛院宮(和宮)に任せよう。どうせ、朝廷には、国を治める能力はないから、幕府に実権が還ってくるだろうと目論んだが、王政復古は甘くなかった。鳥羽・伏見の戦いでさんざんな目に逢って大阪城に逃げ込む。
徳川の兵1万五千は無傷。薩長軍はたかだか三千の寄せ集め、何ほどのことやあらんとはやり立つ兵隊。慶喜将軍は困った。
そこへ突然、薩長軍にあがった錦(朝廷)の御旗、それは、岩倉具視が大久保利通らに準備させたものだったが、朝敵になりたくない幕府の兵は、見るなり、ガタガタに崩れた。
情けない話とはいえ、慶喜にとっては幸い、ワシは江戸に帰るぞ、あとは良きにいたせと、兵を見棄てて、江戸へ向かって逃げ出した。しかも、火消し新門辰五郎の娘お芳を連れて。
小野友五郎さんは、後方で兵站業務に係わっていた。もともと軍人ではなかったが、250年戦わなかった幕府軍にまともな戦さができるとは思えない。大阪城の御金蔵の軍資金18万両を富士山丸にしっかり積み替えて、将軍の後を追った。
小野さんを江戸で待っていたのは、恭順派による主戦派の粛正であった。寸時、小栗との出会い。
「小栗様、勝(海舟)様は、我らを主戦派と疎んでおられますから、このままには治まりますまい」
「私は西郷軍を迎え撃つ策を考えていた。敵軍(官軍)が箱根関内に入った所を迎え撃ち、同時に日本最強の榎本武揚に幕府艦隊を駿河湾に突入させ、後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を挟み撃ちにして殲滅する作戦だ。しかし上様には受け入れられなんだ。一時勝利するとしても、江戸は火の海になると、勝海舟が止めたらしい」
「小栗様も罷免をされなさったのですなあ」
「うむ、私は、権田村(高崎市)でおとなしくするつもりじゃ。そこで心配なのは、お主のことだ」
「そ、そんな、身共のことなど」
「いや、日本は、今後、開国に向かう。国内で争うているときでないのは勝海舟もいう通りだが、外国相手に、わずかの艦で国は護れぬ。外国と交易をして利を上げるにも、“ものづくり”が大事。友さんにはしっかりと生きてもらわねば」
「何を言われる。小栗様こそ、横須賀(製鉄所、後の海軍工廠)の大切なお仕事がございます。わたしごときに何ができましょうか」
「友さん、憶えているだろう。先(1860)にアメリカに渡った折り貰って帰った“ネジ”というものだ。不思議な器具だが、友さんなら解るだろうな。こういう文化をわれらも使いこなしていかねばならぬのだ。これからの世の中は、農・工・商に向けた産業だな。若輩の私が言うのはおかしいが、私は友さんの技倆を常々尊敬していたよ。まさにこれからは友さんの世の中だ」
「お身が薩長に狙われているというのに・・・」
「命が危ないからこそだ。実は道子(妻)に待望の子が生まれる。道子には、私に構わず会津へ逃げよと言いきかせた。友さんも、入牢くらいはさせられるかもれんが、私と違ってそう疎まれてはおらんから、決して早まってはならぬ。命は大切にされよ」
「お、小栗様」
1868年、これが話を交わす最後となった。
(3)
慶応4(1868)年、勘定奉行だった小栗忠順(ただまさ)が徳川慶喜から叱責を受けて罷免されるなど、恭順路線を進める勝海舟・慶喜の方針により、主戦派はことごとく粛清された。小野友五郎さんは、鳥羽・伏見の戦において、大目付滝川具挙とともに、大坂城にいた慶喜に率兵上京を進言したり、後方兵站業務とはいえ、戦いに関わっていた経緯から、主戦派の首魁と目されるところとなり「重罪・厳科の処、格別の寛典を以て死一等を宥められ」永預(禁固)ということになった(何か大袈裟である)。
ところが、入牢するかしないかに、先に小野さんがアメリカで購入を契約した戦艦ストーンウォール・ジャクソン号が日本に到着し、大騒ぎになった。戦艦は、明治新政府も欲しいので、所有権が移管されたものの、小野さん以外に操縦できる者がいない。おかげで、小野さんは、牢どころでなくなった。小野さんの処罰については、旧幕府も新政府も、さほど厳しく行う意思はなかったようである。
徳川慶喜の恭順路線に反対していた小栗忠順は、疎まれて罷免され、領地である上野国群馬郡権田村(現群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁してした途端、官軍に逮捕された。官軍の侍たちは、無抵抗とはいえ、有名な主戦派で切れ者の忠順が怖かった。捕まえた忠順を、ろくに取り調べもせず、烏川のほとりに引き出して斬首しようとした。河原で刑場をとりかこんだ群衆には、忠順を惜しむ者が多く、官軍の侍との間で只ならぬ雰囲気になる。空気を読んで「方々、おしずまりなされい」となだめたのが、忠順の最期の言葉となった。
牢の外、世間はもはや明治であった。小野友五郎さんの足は、つい、駿河台の元小栗屋敷に向かう。小野さんに声をかけたのは、土佐の中濱万次郎(ジョン万次郎と呼ばれるのは井伏鱒二の小説の中のこと)だった。1960年咸臨丸でともに渡米した仲であり、その後同じ咸臨丸による小笠原測量にも協力した。そして、小栗の生前、政策集団のメンバーであった。
「もし、小野様じゃありませんか」
「やあ、万次郎殿、久し振りだな。その、ネックタイというのか、さすがによく似合う。文明開化の“ふぁっしょん”というものでござるか」
「からかっちゃいけませんよ。ところで、小野様には、ご公儀の、その、お咎めの方は・・・」
「それが、一度は牢にぶちこまれようとしたのだが、そこにアメリカからまさに助け船がやってきてな、ウヤムヤになってしもうた」
「さようですか。牢といえば、私も、漂流から日本に帰ったとたん、牢に入れられたのを、島津の殿様(斉彬)に助けていただきました。友五郎様のことは、心配しておりましたよ。小栗様のことは、本当にいたましい」
「うむ、拙者も大威張りでそこらを歩き回っているわけにもいかない身の上で、自宅で謹慎の風を装っていたのだが、今日は、つい、こちらへ来てしまった。お主に会えるとは、小栗様のお引き合わせかもしれぬ。久し振りに“かーふぃー”などどうかな。万次郎殿は甘党だったかい」
「あは、“ぶらっく”は、本当は、馴れませんと。わたくしも、せっかく小栗の殿様が手ずから入れてくださるので、いただいておりましたが」
「実は、苦手だったよ、アレだけは」
二人は、小栗忠順のブレーンであり、放談の相手として、隔てなく語り合った仲であった。
「それで、小野様は、海軍のお仕事をなさいますので」
「当分はジャクソン号のお守りをするよう海軍に命じられている。しかしな、拙者は軍人に向いていない。小栗様がおっしゃったように、物創りを業にしたい。そういえば、万次郎殿には、小笠原の鯨捕りを誘われたことがあったのう。しかし、もう50を過ぎて、力仕事の歳でもあるまいと思うよ」
「私も、血圧が高くて、塩気を控えるように“めでぃかる・どくたー”に言われて、大人しくしておりますよ」
「そうなのか。お主は、まだまだ男盛りではないか。その塩だがな。拙者は、短期間だが、牢の中に居て、塩を作る“めかにずむ”を考えていたよ。品質のよい塩を売るのもいいし、製塩器械を作るのもいいかと」
「小野様、咸臨丸でアメリカにご一緒したとき、ワシントンに“ぱてんと・おふぃす”があったのを憶えていらっしゃいますか」
「ヨーロッパにそういうものがあると後で福沢諭吉殿から聞いているが、アメリカのどこがそれだったのか、とんと憶えがないのだ」
「新政府の役人に聞いたところでは、わが国に“ぱてんと・おふぃす”を作るそうですよ。小野様も“ぱてんと”など、申請されてはいかがでしょうな。なんでも、新しい事物を創作した者に、専売する権利が保護されるそうです」
「さようか。それはよいことを聞いたものだ。拙者もぜひ申請しよう。これも小栗の殿様のご縁というものだろうか」
事実、専売略規則が明治4(1871)年に公布された。しかし、「審査する者がいない。ロクな出願もない」と、規則ができたとたんに気まぐれ特許局長の高橋是清は廃止してしまい、その後明治18年まで日本に特許制度はない。
さて、明治の小野友五郎さんは、ジャクソン号の縁で海軍から就職を強く要請されたが、固辞し、民部省に出仕して鉄道敷設に係わり(明治3)、工部省が発足してからも鉄道測量の責任者として働いた。その一方、専門の数学教育も忘れられず、明治6年、文部大臣に、廃止された珠算の復活を提言し実現させた。同時に、新しく日本に入ってきた西洋算術を教える体制が整わないので、教育現場にも復帰した。明治9(1876)年には内務大臣大久保利通に、中央天文台設置を提言した。大久保は、鳥羽・伏見の戦いでは互いに敵の主要人物であったが、こだわりなく取りはからってくれ、翌年、東京天文台(現国立天文台)が実現する。
友五郎さんは、明治10(1877)年に役所をやめ、家督を養子に譲って隠居し、いよいよ製塩業を始める準備ができる。千葉県大堀村(現君津市)の塩田跡地を借り受け、製塩事業を明治12(1879)年竣工し、その翌年から試験操業を開始した。
そのころようやく、特許制度再開を知った友五郎さんは、ぜひ、制度再開初日の出願をしたいと考えた。そして、明治18(1885)年7月1日となる。
(4)
明治、船艦ジャクソン号から汽車に乗り継ぎそれも降りた友五郎さんは、製塩に掛かる。明治2(1869)年、行徳(千葉県市川市)の作業場で、枝条架の“パイロット・プラント”を事業化する。枝条架は、横にやぐらを組み、枝条を積み重ね、塩水を流して落とし、水が枝条を伝わって流れる間に、風力で水分を蒸発させ、塩分の濃度を上げてゆく手法であり、16世紀にドイツ人の医師ピエール・アピドの考案になるものであった。明治維新当時には、ドイツの一部を残して、ヨーロッパから既に姿を消していたが、日本では、蘭学者が淋乾法として紹介したところ、仙台藩や鳥取藩で枝条架法を試験した。友五郎さんは、蘭学者の情報を参考に開発した結果、2丈(6m)前後が一番効率が良いとの結論を得たので、翌年松ヶ島(千葉県市原市)に事業を移した。ここでは、自分で開発した人力ポンプを使い、年産1,825石(約 180トン)と見積もり、さらに明治12(1879)年に大堀(千葉県君津市)に松ヶ島の4倍規模の製塩所を折角完成させたところで、暴風雨にあい、施設が大打撃を受けてしまった。おまけに、運悪く、火災をおこしたりする。出身の旧笠間で借金したこともあり、返済も気になったので、枝条架の高さを下げ、人力ポンプを風車ポンプに替え、8棟あった枝条架を3棟に縮小し、生産量も480石に縮小し、手堅い事業に変更した。おかげで、大儲けはし損なったものの、明治14年の内国勧業博覧会に製品を出展し、その白さで好評をえて褒状を受けた。明治17 年には日本橋に開店でき、幸い、上質塩として、なかなかよく売れた。
枝条架製塩は、入浜式塩田を導入できない自然条件の東北や山陰にも伝わって、福島県勧業課製塩試験場、山形県念珠製塩場、島根県杵築高架製塩場、福島県小名浜平井・鈴木製塩所などで採用され、明治中期には、ちょっとしたブームになった。
さて、明治18年7月、いよいよ特許制度の再開である。小野友五郎さんの出願は、名付けて「垂揺機関旋転器械」。垂揺を動力に、他の器械運動に変換するものだった。現在ならそういう発電機もあるのだが、明治の昔、一体何に使うの?と訊かれて、他人にはよくわからない。海に関係がありそうだが、水とか塩とかの文字は明細書にない。審査官もその点を迷ったのかどうか、すぐに特許してくれない。カネにならないのは仕方ないとしても、特許してくれないのには、友五郎さんも困った。
それでも、
○特許51号「垂揺機関旋転器械」出願明治18.7.1、特許明治18.10.30
○特許51号追加特許「垂揺機関旋転器械の改良」出願明治18.12.18、特許明治19.9.14
○特許281号「精米器械」出願明治19.4.16、特許明治19.10.13
○特許681号「食塩製造法」出願明治22.3,26、特許明治22.5.29
などといった実績をあげたはいいが、査定不服の審判で、友五郎さんは、争って敗れている。
●審決13号「拒絶714号、垂揺機関旋転器械」(拒絶した審査は相当)明治23.7.3
●審決81号「出願4575、食塩製造法」(請求申立相立たず)明治26.6.13
友五郎さんとしては、残念な結果である。友五郎さんにも、こだわりはあったが、そのころの世の中、メカニズムといえば、饅頭を作って食うとか、荷物を遠方に運ぶとか言えば、いかにも分かり易く理解されたものを、揺れる運動を回転動力にするというのでは、機械要素の基礎知識も経験もない明治の日本人には、直截に理解されない。いささか玄人っぽいところを狙いすぎたか、という反省は友五郎さんにはなかった。玄人の友五郎さんと素人の日本。レベルの違いは、どちらの所為でもない。
大規模製塩をあきらめた友五郎さんは、技術の改良普及に力を入れた。にがりをリサイクルする独自の食塩製塩装置を考案し、内国博覧会や大日本水産会などで発表し、明治25(1892)年にはこの装置で作った改良塩を使った塩鯖・塩鰊をシカゴ博覧会に出展して、品質の良さで好評を得た。日本で不可能と考えられていた天日製塩法にも検討を加え、明治 30(1897)年の第2回水産博覧会で発表し受賞する。明治31年には実業の特別功労者に与えられる「緑綬褒章」まで受けた。
そして、その明治31(1898)年8月、兵庫県印南郡大塩村で天日製塩の実地講習をしていて、友さんは倒れた。82歳の高齢で、炎天下の作業はこたえた。なんとか家に帰ったまではよかったが、再び倒れた友五郎さんは、同年10月29日帰らぬ人となり、墨田区本所枳殻寺で葬られた。法名観月院殿塩翁広胖居士。因みに広胖(ひろとき、屡々こうはんとも音読)は、和算家としての名である。洋算家としては友五郎と呼ばれることが多かったという。なお、墓は茨城県笠間市にある。
*
「おお、極楽の入り口か。道がよく分からんうえ、どうも足が地につかん気がする。少し休もうか」
「おや、そこにおられるは、友五郎様。拙者より2週間早く昇天されたとか」
「やあ、万次郎殿か。こんなところで逢うとは。何年目だ」
「私は、11月12日にくたばりましたわい。しかし、海と違うて勝手がわかりませぬ。どちらへ行けばよろしいので」
「さて、私もなにしろ始めての道だからな、よく分からんのだよ。え、えーと、だな」
「おーい、そこの老人二人、何をふらふら迷って居る。しっかりいたせ」
「あ、あーっ、小栗さまーっ」
「おう、上野介じゃわ。なつかしいのう。そち達がみまかったと知り、待ちかねて、迎えに来たぞ」
「勿体ない。殿、な、なんと嬉しや」
「いい歳をして泣くな。みっともない。見よ、鬼共が笑うておるわ」
「なんの鬼共、アッチへ行け、しっ」
「よろこべ。ここには戦争はないぞ。楽しいことがいっぱいぢゃ。お、丁度茶店があるわい。どうだ。ブラック・カフィーでも飲んでいこうかい」
「あ、ありがたく、お伴つかまつる」
「それにしても、どうも、足下が定まりませぬわいなあ」
「えい、しっかりいたせ」
(審決データを弁理士鈴木伸夫氏にご提供いただきました。外、複数のWebサイトを参照しました。)
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