ケ・セラ・セラ
 




 夜の23時、NHKが「愛と友情のブギウギ」という連続ドラマを放送した(2005年春。4月末終了)。片平なぎさら演ずる5人の脳天気な主婦が、ブギウギ・ファイブというコーラスグループを結成し、発展的に解散するまでのコミカルなストーリーで、主婦たちの年齢は30から40才、彼女らの亭主は5人揃って同じ会社の落ちこぼれ社員、コーラスグループ結成時持ち歌が「東京ブギ」と「ケセラセラ」のたったふたつしかない、という、あぶない設定であった。
 ブギウギは勿論、ケセラセラの歌が流行したとき(1950年代後半)未だ片平なぎさも外の誰もこの世に生れていないじゃないか、といった突っ込みもあろうが、欲求不満気味でイージーで何をするか分からない主婦らの物語のバックミュージックとしては、まさに、ケセラセラ以上のものはないではないか。
 余談ながら、気まぐれに、インターネットでケセラセラと発明のふたつの言葉をANDで検索すると218、ケセラセラと特許とでは178、回答があった(2005年5月10日)。といっても、ケセラセラなどという特許発明や出願があったわけではない。たまたまウエブサイト管理者のハンドルネームや主張の中にその言葉が使われたというだけである。しかし、1950年代に生まれたケセラセラは、いまだ死語でないことが分かった。発明や特許かはともかく、人生で望むものを得るなら、行儀よくお勉強机の前に座るより、幸運の女神が来たら前髪をひっつかんでやろうとウロウロして待ちかまえるのがいいと、ドラマの作者は言いたいのだろう。
 さらについでに、ケセラセラを商標で検索すると、かばん類で1件(登録4346247号)だけで、こちらは、些かがっかりしないでもない(商品区分が違えば同じマークが複数あってもおかしくない。)。
 さて、ケセラセラの歌詞は、音羽たかし氏が正確に翻訳して歌詞にしているが、ワザとたどたどしく翻訳すると、次のようなものである:
 私がまだほんの子供だったころ
 私は、お母さんにたずねました。
 私は、きれいになるの?
 私は、お金持ちになるの?
 お母さんはこういいました。
 「ケ・セラ・セラ
 なるようになるでしょう。
 未来は、手に取って見るなんてできないわ。
 ケ・セラ・セラ」
(上は、音羽たかしの訳詞ではない。似たところがあったとしても、翻訳上の偶然に過ぎない。)
 ケセラセラは、歌も言葉も、1956年、ヒッチコックの映画「知りすぎていた男」の主題歌に使われて流行した。アメリカではドリス・デイが唄い、日本では雪村いづみやペギー葉山が歌った。どうにでもなれ、どうだっていいや、といった意味のことをいうときに、ちょっと気取って、ケセラセラだ、などと言ったものだ。無責任な、なげやりな気持ちの表現と理解された。
 その理解が正確でないと分かったのは、つい最近、「知りすぎていた男」をTVで吹替えリバイバル映画として見たときである。こういうのを眼から鱗、ブレークスルーというのは大袈裟だろうか。
 有名な映画だが、ストーリーを紹介する。ジェームス・スチュアート(=外科医)とドリス・デイ(=歌手)扮するアメリカ人夫妻が、さる外国の大物政治家の暗殺事件にまきこまれる。暗殺は夫人の機転で阻止することができたが、夫妻の息子が誘拐されてしまう。息子は大使館のどこかに閉じ込められているに違いないと推理した夫妻は、政治家が大使館のパーティに招待してくれたのを幸い、会場にまぎれこむ。歌手である夫人がパーティで歌をうたってみんなの注意を引き付け、その隙に夫が子供を助けようという作戦である。ここでドリス・デイのうたう歌が、ケ・セラ・セラだった。
 When I was just a little girl,
 I asked my mother what will I be ?
 Will I be pretty ? Will I be rich ?
 Here's what she said to me.
 ドリス母さんの歌がここまできたとき、閉じ込められている息子が、母親の歌をきく。息子は、歌に合わせて、口笛を吹く。大声で「ママ、助けて」のほうが手っとり早いように思うが、ここは、口笛が、演出というものなのである。
 “(口笛)ド・シ・ラ・ファ・ラ・シ・レ・ド・ラ・ソ・ド・ミ”
 一瞬、ドリス母さんの歌と演奏がとまる。なぜ歌が止まるんだ、悪党たちが怪しむではないか、などと野暮な突っ込みを入れてはいけない。これ又、ヒッチコックの見事な演出なのだから。
 とにかく、ドリス母さんには、すぐ、わかる。いた、わが子が!
 映画館で、ヒッチコックの手に乗せられて、観客が息を呑む。目の奥がジーンとくる場面である。はやくも、ハンカチを握りしめるひともいよう。
 だがしかし、ここで、ドリス・デイ演ずるアメリカのお母さんは、メソメソ嬉し涙なんか流したりしない。顎をキリッと持ちあげ、ニッコリとわらい、大きな口をあけて、ハスキーな声をはりあげるのだ。
 ケエッ・セラーッ・セラーッ・ウオーレーヴァ・ウイルビーウイルビーッ
 (なにもかもうまくいくわ。心配することはないのよ!)
 Que' sera' sera'
 Whatever will be will be.
 The future is not ours to see.
 Que' sera' sera'
 歌のとおり、物語はこのあと、父親が悪者を倒し、息子を救出して幕、となる。
 歌の中で、ケ・セラ・セラは、母親が息子を励ます力強いメッセージとして使われた。無責任でも投げやりでもなく。
 ところで、ケ・セラ・セラの語源がわからない。スペイン語か、楽天的なラテン系民族の言葉のように思われるが、フランス語だ、イタリア語だという説もある。まさかと思うが、ま、どうでもいいか。
       (参考)
        “ Que' sera' sera' ”
         作詞:RAY EVANS 作曲:JAY LIVINGSTON
    音羽たかし氏による訳詞のあるサイト(もと歌を正確に翻訳しています。)
    http://www.est.hi-ho.ne.jp/fe-h/HP2/HPmi/mi07ke.html


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