ENIAC神話は崩れていない
 




1.ENIACの誕生

 誰が最初のコンピュータを発明したのか。歴史上これを云うのは、諸説があって大変である。しかし、特許された最初の電子的なコンピュータが、米国生まれの「ENIAC」だったことは、特許資料(米国特許3,120,606、出願1947年6月26日、特許1964年2月4日)から、簡単に、しかも確定的に云うことができる。
 ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は、ロス・アラモス国防総省のムーア校において、ジョン・モークリ及びプレスパー・エッカートを発明者として、1943年4月9日〜1946年2月15日にかけて開発され完成した。二次大戦のさなか、ムーア校は、原爆の研究開発をしていた。同じ場所で、ENIACは、弾道計算をより高速に行うマシンとして生まれた。
 なにしろでかい。9m×5mの巨大なU字配置、真空管18850本、30t、2進化10進、クロック周波数は(たったの)100KHZ。加算0.2ms、乗算2.8msは、それでも当時の電気機械式計算機の数1000倍に達した。150kWの消費電力は、フィラデルフィア中の電灯を薄暗くしたという伝説がある。
 憶測だが、ENIACは、名称中央の“I”(積分器の頭文字)が表すように、アナコンのディジタル化というコンセプトを意識したせいか、アーキテクチャにアナコンの特徴を引きずっていた。ご自慢の並列分散構造、20台のアキュムレータは、アナコンの積分器のようでもある。
 このころ、プログラム制御するデジタルコンピュータとして、ドイツのコンラッド・ツーゼによる「Z3」(1936〜1940年)や、英国がドイツのエニグマ暗号の解読用に1943年頃開発していた「コロッサス」があった。当時のZシリーズは機械リレーを用い、固定のプログラムで制御した。ツーゼは真空管にも興味を持ち(当時高価)、後に汎用プログラム言語を開発するが、ツーゼから経費援助の相談を受けたドイツ軍は、完成までの期間を聴き、帝国はその前に勝利するに決まっていると相手にしなかった(おやおや)。コロッサスは1500本の真空管を使ったというが、軍事機密で資料がない。結局、汎用プログラム制御内蔵の電子的コンピュータは、まだなかった。そんな中で、ENIACは誕生した。

2.帰ってきたコンピュータの父

 ENIACの特徴は、単に機械リレーを電子管に置き換えてディジタル計算したというだけではない。ENIACによって、コンピュータは、まがりなりに汎用化の入口へ、歩を進めたのだ。プログラムをパッチボード配線で行ったため、変更が非常にやっかいという問題はあったものの、再生メモリやフリップフロップを使いこなしたハードウエアも顕著なブレークスルーだった。エッカートはENIACを「発明した」と云わず“Computeした”と説明した。ちなみに、彼は無線マニアでもあった。
 ENIACは、レミントン・ランド社に買われ、UNIVAC1として世に出てから、アバディーン実験場で1955年11月まで稼働した。故障ばかりでまともに働かなかったという悪口には、誤解がある。毎日1回電源を落し、次の立ち上げにいちいち時間がかかったのは本当だったが、実際のところよく働いた。
 ENIACより先に、すでに電子デジタルコンピュータを発明していた、という人物が、20世紀も終わり頃になって現れた。世間の大発明には、この手の先発明手柄話はさして珍しくないが、裁判までいったのは、コンピュータでは、ジョン・ヴィンセント・アタナソフ位である。
 アタナソフは、アイオア州立大学の物理と数学の教授だった。助手のクリフォード・ベリが無線マニアだったのは、モークリの助手だったエッカートがやはり無線マニアだったのと似ている。コンピュータには論理(ソフトウエア)とともに、ハードウエアも必須である。アマチュア無線は、当時、ハードウエアの知識源として、ぴったりであったかもしれない。
 アタナソフらが開発したマシンは、「ABC」(Atanasoff and Berry Computer)と呼ばれた。この話は、特許ニュースでも紹介された(No.8173/平成3年8月15日 経産調査会発行)。
 アタナソフは、米国でもあまり知られていなかった。忘れられていたアタナソフの功績を、アイオア生まれで故郷びいきのクラーク・モレンホフは、著“ENIAC神話の崩れた日(原題:忘れられたコンピュータの父)”に書いた。モレンホフは、モークリらが最初のコンピュータであるABCの発明を盗んでENIACを作ったので、裁判所がその特許を無効にした、と書いた。おかげで、アタナソフはちょっと有名になった。それはいいが、モレンホフは、20年も前の判決文を正確に読まなかったと思われる。以下、モレンホフが読み飛ばした判決をご紹介しよう。

3.無効理由は公用と公表

 ENIAC特許が裁判で無効になったのは、ミネソタ地裁1973年10月19日、ラーソン判事の判決(180USPQ673)の通りだ。特許権者のスペリランド(旧レミントンランド)がハネウエルを特許侵害で訴え、逆にハネウエルから特許無効と訴えられ、敗訴した。その結果、ENIAC特許は無効にされた。しかし、主な無効理由は、発明者のモークリとエッカートが、米特許法が先発明者のために猶予する期間である出願前の1年よりさらに半年以上も前、ENIACを公然使用したり販売したことと、ENIACの開発を途中からサポートした大御所フォン・ノイマンが、技術内容を勝手に公表してしまったことにあった。モレンホフがとりあげた先発明争い物語をラーソン判決から読もうとすると、がっかりするに違いない。
 ラーソン判事は、当然のことながら、専門外のコンピュータ技術と当事者達が提出した膨大な証拠資料にうんざりしたはずだが、苦労話をクドクド述べたりはしない。当事者の主張と裁判所が認定した事実とを淡々と整理し、それに反証はない、といった調子で、審理を手際よくすすめた。それでも、数多い争点を“余の点は検討するまでもなく”などと省略はせず、逐一判断したので、判決は、相当なボリュームになった。
 判決によれば、アタナソフらがABCマシンを作ったのは、確かにENIACより先だった。けれども、判決は、ふたつのマシンについて、技術認定を全くしていない。当然のことながら、ENIACのこれこれの部分がABCと同一であるといった認定も、してはいない。
 ABCマシンは、惜しいことに、戦時下の事務系統混乱のため特許出願できず、商業的利用も公衆への開示もされなかった。ただ、アタナソフらが、1940年代初期、電子化、2進化の着想と、かなりの完成度までマシンを作り上げたのは本当で、その功績は、決して小さくはない。モークリがアタナソフから何かの知識を得たことも事実だった。ラーソン判事の膨大な認定及び判断の一部を、判決文の段落【 】から抜粋し、抄録して示す。
 
4.判決のアタナソフに関する認定

 【3.1.4〜3.1.19】 アタナソフは、1939年12月、基本的な着想を、修士ベリの助けを借り、実験回路板モデルの形で、新しい計算用機械としてほぼ完成していた。さらに作業を続けるため予算が必要だったので、その説明用に、包括的な文書を作った。
 1940年、アタナソフは、米国科学振興協会のフィラデルフィア会議で初めてモークリと出会い、製作中の計算機の概要を話し、アイオワに来てもっと研究するよう誘った。幾度かの文通の後、モークリは、1940年8月の数日間、アタナソフ家の客となった。
 アタナソフは、包括的な文書の写しをモークリにみせた。ABCマシンは、完成してはいなかったが、製作は十分進行していたので、モークリは、詳細な設計上の特徴や動作原理を聴き、デモを見ることができた。アイオアでのモークリ、アタナソフ及びベリの議論はオープンで、マシンの理論、設計、製作、使用又は動作に関する重要な情報に隠しごとはなかった。
 アイオワ訪問まで、モークリは、電気アナログ計算装置に関心があったが、自動電子デジタル・コンピュータは考えになかった。アイオア訪問の結果、モークリは、ABCに基づき、ENIAC特許にクレームされた「自動電子デジタルコンピュータ」を発明した。裁判所は、公判でアタナソフ及びモークリの証言を聴き、モークリが起源とした知識についてのアタナソフの証言は信ずるに足ると認めた。
 【13.19.6〜13.19.7】 1941年9月30日、モークリは、ムーア校からアタナソフに手紙を書き、アタナソフのマシンの特徴の一部を組込んだコンピュータを製作することに異議があるか、ムーア校で「アタナソフの計算器」(Bush解析器)を製作してよいか、と問い合わせた。アタナソフは、アイデアをモークリに開示したことについて心配はしていないが、特許を得るためにコンセプトを公開しないよう希望すると答えた。
 【13.21.1】 しかし、ABCマシンは、特許出願されなかった。信頼できる草稿及びクリフォード・ベリの作成した出願明細書案にマシンの詳細が記載されていたとしても、特許庁には、ABCマシンや関係するモークリの先行する知識を知るすべがなかった。
 【13.25〜13.25.1】 1944年9月、モークリは「アタナソフのマシンは非常に工夫に富むが、スイッチング用の回転子のような機械的部分があるので、私の考えたものではない」という感想を書面にした。ENIACはABCともアタナソフとも何の関係もないとモークリは誠実に信じていたようである。また、ENIAC特許にクレームした主題の起源がアタナソフにないとモークリが誠実に信じていたことも、嘘ではない。
 【13.25.2】 アタナソフは、1945年10月26日にENIACマシンを見知っていたが、その後20年間、ENIACマシンが彼のものを含んでいるという主張はしなかった。

5.発明者についての認定

 【4.1〜4.3.28】 1944年9月27日、エッカートは、プロジェクトに関係する全技術者に「特許が有効であるために発明者の名義で特許取得しなければならない」と知らせ、彼らが発明者として権利があると信じるクレームを書き出して提出するよう書簡を送った。その書簡に対するどの返事も、ENIAC特許のクレームに対する発明的な寄与を特定も主張もしなかった。その後約20年間に、エッカートとモークリ以外の誰も、ENIAC特許にクレームされた発明の主題に対する発明的な寄与を特定又は主張した証拠はない。1947年6月19日、エッカートとモークリは、ENIACの唯一の共同発明者だと宣誓した。
 【4.3.2〜4.3.24】 ENIAC特許は、有効と推定され、書面に発明者と記載されたエッカートとモークリは、真正の(true and actual)発明者と推定される。推定を覆す立証責任はハネウエルにある。しかし、エッカートとモークリ以外にENIAC特許にクレームされた発明の主題の発明者又は共同発明者がいたということは、立証されなかった。
 【13.22〜13.24】 特許庁に対しては、完全な誠実さと開示が求められる。しかし、出願人の知識は、種々の情報源並びに多年の教育及び経験から生まれるのであり、発明の元になったと思われるもの(possible sources)、先行技術又は起源(derivation)として特許庁に開示すべきものは、ある程度は、出願人の判断と良心に任せざるを得ない。
 【13.25.3〜13.29.9】 ハネウエルは、ENIAC特許の発効時のクレームの内、17のクレーム 8、9、36、52、55、56、57、65、69、75、78、83、86、88、109、122、142のどれもアタナソフのマシンその他の仕事を含むことを証明できなかったし、ENIAC特許にクレームされた主題の発明者又は共同発明者がエッカートとモークリ以外にいることを証明しなかった。また、エッカートとモークリ、彼らの弁護士、承継人又は譲受人が、ENIAC特許にクレームされた主題の共同発明者であるとの主張について、特許庁に対して故意のフロード(詐欺)を犯したことを、明白で信用できる証拠によっては証明できなかった。

6.起源は何だったか

 ラーソン判事は、判決の文に、いわゆる冒認(発明盗用)に該当するタームを使っていない。代わりに“derivation”(由来、起源)というタームを使っている。このタームは、単なる先行技術ほど軽い意味ではなくても、冒認ほどの故意性を、意味しない。なお、判決中には、appropriate(盗用する)という語もみられるが、詐欺による特許取得があったかの判断の項であり、アタナソフやABCマシンに関する認定ではない。
 判決は、ENIAC特許の148の請求項のうち派生的な第88,第89の2項をABCマシンが起源とした(derived from)と認定し、無効理由の一つに挙げた。これを、モレンホフのように、ENIAC冒認説の論拠とすることは、つまらない言いがかりである。
 判決は、特許の主題そのものをABCマシンから盗んだと認定はしていない。言葉足らずのクレームが、たまたま先行技術と抵触してしまうのは、よくあることだ。特許無効の理由が前記クレーム88と89だけなのであれば、抗弁はさほど難しくなかったはずである。
 フォン・ノイマンは、大学者ではあったが、特許に理解がなかった。ノイマンが、モークリらの事情を考えず、自分が興味を持ったコンピュータの情報を勝手に公表し、それが特許無効の深刻な理由となってしまったことは、悪意からではなかったとしても、彼と、モークリらとを、一層不仲にした。モークリは、1980年他界したが、最期までノイマンを恨んでいたらしい。
 皮肉なことに、ノイマンの論文は、あまりにも優れていた。そのため、ノイマンがコンピュータの発明者であるという説まで生まれた。ノイマン自身のオリジナリティも含んでいたから、全くの出鱈目ともいえない。事実、ノイマンはENIACよりも汎用性を改良した蓄積プログラム内蔵コンピュータとして「EDVAC」(Electronic Discrete Variable Computer)を1950年に論理構想した。これは、「ノイマン型コンピュータ」といわれるものの基本となる。
 実は、汎用プログラム内蔵コンピュータとしては、英ケンブリッジ大学のウイルクス教授による「EDSAC」(Electronic Delay Storage Automatic Computer=水銀遅延線メモリを使用し1949年5月6日完成)の方が時期的に先だったし、実験段階だがマークTもあった。なお、ウイルクスは、ノイマンの論文には、メンバーへの謝辞がないなどと批判しながら、EDSACの中にノイマンの理論を取り入れたふしがある。
 ENIACは、ノイマンらの後継機種にプログラム制御の流れを与えたが、その由来を、資料不足とはいえ、ABCマシンから汲み取るべき根拠はない。アタナソフらの業績は業績として、どこをENIACの起源というのか。そもそも、先発明争いでは、ZシリーズのツーゼやマークTのエイケンにも、一言云う権利はありそうだ。しかし、ABCマシンは、参考にならない。

7.神話は崩れない

 ミネソタ裁判の判決の日、たまたま降って湧いたウオーターゲート事件報道の騒ぎで、難解なコンピュータ裁判など、マスコミの話題にならなかった。人々が忘れたころにモレンホフが採り上げなかったら、誰の興味をひくこともなかったろう。
 ミネソタ判決に対しては、当事者双方とも控訴せず、ラーソン判事の判決は確定した。判決は、「公用」の定義や明細書の開示事項不備の立証責任などについて重要な判示を含んでおり、他の多くの米判決が参照した。
 のちに、IBMは、ノイマンをコンサルタントに迎え、コンピュータ事業でスペリランド社(現UNISYS)の競争相手となった、そのため、スペリの副社長兼技術顧問に就いていたエッカートのご機嫌をそこねた。そのIBMは、社史とセットで編さんした「コンピュータ発達史」(昭63年10月)に、最初のコンピュータとしてENIACをあげ、アタナソフにもABCにもふれなかった。ENIACの神話は崩れていないのである。
 「誰が何を発明したかをいうときは、発明をハッキリ定義すべきだ。」
 判決のあと、しばらく沈黙していたプレスパー・エッカートが登場したのは、学会誌「Computer」(VOL9.No12、1978年12月号)だった。
 エッカートは、弾道計算という“必要”が、ENIACにとって発明の“母”になったこと、アメリカ人のすぐれたブレークスルーが生きていること、ノイマンがくだらないことしかいわなかったのに、若僧だったので反論できなかったこと、そして、コンピュータ技術の「世代」や将来について持論を展開し、チューリングが言ったというわけのわからない言葉「ある段階までは、誰もどうやったらそうなるかわからんと思うよ」(1949年? 詳細不明)で話を締めくくるまで、アタナソフについてなにも述べなかった。
 エッカートが言うとおり、コンピュータを定義しないで、コンピュータを誰が真っ先に発明したか、議論しても意味がない。
 コンピュータの先発明者についての諸説は、どれも本当なのではないか。ただ、発明したコンピュータがあちらこちら違うだけで。
 エッカートは、1995年6月3日死去した。くしくも2週と違わぬ同月15日、アタナソフが死去した。20世紀のコンピュータの歴史に密接に関与した二人が、因縁のように連れだって天国に発った。コンピュータ史上の英雄たち、モークリ、ベリ、エイダ、チューリング、そしてノイマンまでも、なぜか不幸な死を迎えた中で、エッカートもアタナソフも、企業家あるいは学者として、成功の晩年を全うしたと思う。天国で彼らが論争を続けるとすれば、それは、ラーソン判事がいちいち事実認定しなかったマシンの詳細ではないだろうか。

(判決全文の翻訳をお願いした某友人に、深い敬意と謝意を表する。翻訳は正確で完璧である。そうでないところが本稿にあれば、稲葉が余計な筆を入れたためである。なお、本稿は、特許ニュースNo.11430 (2004.12.13)に掲載したものをいくらか変更した。)




ホムペのトップへエッセイ目次へ