ビッグな青い光とビッグな発明者たち
1.30年前のビッグバン
現代の“ビッグバン”青色発光ダイオードは、1990年、四国の日亜化学工業社において、中村修二氏によって生まれた(特許2628404、出願1990.10.25、特許1997.4.18ほか関連発明多数)。
日亜化学社は、休暇の多いことで有名な会社だったという。その日亜社を、1990年代初めの頃の休日訪れた新聞記者がいた。記者は、中村氏に会った。休日の会社で、中村氏は一人、阿波踊りに出かけることもなく、研究に従事していた。
休日の日亜社における中村氏のこのシチェーションは、30年も前の1958年、TI社のジャック・キルビーが“TIのビッグバン”集積回路の発明をした状況とよく似ている。ただし、似ているのはここまで。その後の展開はかなり違う。
日亜は、天才学者中村修二氏に社を去られてしまった。一方、TI社は、発明も発明者をも全面的にバックアップしつつ、大会社に成長する。以下、TIの軌跡を追ってみよう。
会社の2週間の休日に、ジャック・キルビーは、一人出社して仕事するしかなかった。イリノイ大を卒業し、ウイスコンシンで修士を取得した1923生れの青年は、1958年7月に入社したばかり。遊ぶカネもなく、好きなアマチュア無線も諦め、前職場のグローブ・ユニオンでテーマであった補聴器の小型化の研究を続けた。そして、入社した年の11月、いわゆるメサ型ICを発明し、米国に1959.2.6、日本には翌60.2.6に出願した。IC技術は、キルビー発明の直後、ノイスによるシリコンプレーナICの発明(59.7.30)も欠かせないが、ノイスに遅れをとらなかったことは、キルビーにとって幸運だった。
TI社の経営陣は、不思議なことだが、空中配線だらけの不格好な移相発振回路やフリップフロップICに未来を感じとり、全社あげて発明と発明者をバックアップした。もちろん、キルビーも、社員として協力する。
一般に、出願は、迅速に特許されることが望ましいのはいうまでもないが、なかに例外がある。初期のTV技術やパルス符号変調通信の発明は、早期に特許されながら、デバイスが伴わず、商業ベースにのらないまま、権利期間を満了してしまった。ところが、“TI社のビッグバン”ICの発明は、審査が遅れたおかげで、かえって、発明の実施に都合よく特許権の存続期間を同期させ、非常な利益を得た幸運なケースになった。ピンチはチャンスとはこのことだ。
もっとも、日本での特許取得までのみちのりは険しかった。もとの親出願は、大正10年法が次の昭和34年法にバトンタッチするわずか55日前の昭和35年2月6日(優先権主張1959・2・6)に出願され、昭40年(1965)に公告された(特公昭40-13217、後に特許320249号)。さらに原出願から11件を分割し、内7件も昭40年中に公告決定を得た。
公告された8件の出願のすべてに、当時の法律で、特許付与前の異議申立(現行法の特許無効審判請求に該当)があった。
TI社は、驚くほどアグレッシブに事件に臨んだ。異議答弁手続の一方、日本メーカーにロイヤルティ前払いを要求し、1970年前後、30億円(推定)を得ただけでなく、まだ成立前の特許の実施許諾を取引材料として、政府に日本TI社設立を迫り、1968年5月に50%合弁でスタート、1971年に外資100%会社とした。念願の日本進出であった。
しかし、出願のストーリーは、順調には進まず、1969年から71年にかけて、オール異議理由あり=拒絶となった。TI社は、査定を不服として審判を請求した。そして、1977年、原出願のみが特許された(昭46年抗告審判1号)。分割出願群は拒絶されたとはいえ、親の“ビッグバン”は、ついに日本で特許権を取得したのだった。
この特許手続の遅れが、結果的に幸いした。大正10年法43条によれば、特許権の存続は公告からまる15年。次の昭34年法にあるような出願日から20年の制限はない。特許は、潜水艦の如くIC時代の大海に浮かび上がり、IC時代を攻め進んだ。ロイヤルティを売上げの3.2%(推定)から始め、のち料金を低減。それでも、莫大な利益だった。
1980年、特許は権利期間を満了し、特許権は終了したかにみえた。ところが、驚くべき事件がおこる。1986年、拒絶された分割出願の内1件をさらに孫分割した出願が、突然公告され(特公昭61-55256)、尽きていたはずの特許権が蘇った。特許庁がデータをコンピュータ化する以前の出願だったため、出願の存在が知られていなかった。全出願が18カ月で公開される現行制度では、おこり得ないことである。
日本各メーカーは、「徹底抗戦の構え」(日経ビジネス1988・10・24,P.140)で、再び10数社から異議を申立てたが、異議の証拠は、特許庁がすでに検討済みの資料にすぎず、1989年、審判合議体は、異議を理由なしと決定、孫分割出願を特許した。特許の権利期間は、原出願が大正10年法終了の55日前にされた幸運を引き継いで、半導体産業が高度に活発化した世界に悠々とタイムスリップし、いわゆる第3世代以後の電子回路の多くを権利範囲とした。ロイヤルティ3%から一説で5〜7%、89年水準で800億円強となった。
古い発明がずっと後になって特許になることは、影響が大きい。かといって、“影響が大きい”という不特許の理由はない。TI社は、降り掛かった災いまで味方につけた。幸運もあったが、幸運の女神の前髪をしっかりと捕らえ、御利益を何倍にも増幅させたプロフェッショナリズムは、賞賛されこそすれ、非難されるべきものはない。
“ビッグバン”の孫出願が公告される少し前、1985年は半導体不況だった。米国メーカーが次々と撤退、落城する中、1986年2月、TI社は、特許権を武器として、日本メーカーにロイヤルティ更改を迫り、それは法外な要求とうけとられて「反発」(日刊工業1988・11・24)されながら、日韓半導体9メーカーから1億9千万ドルの特許料を得た。これは1987年に同社が得た収益の62%に当たった。当時の副社長ニューライター氏は、「知的所有権は新しいナショナル・カレンシー(通貨)だ」(日刊工業1988・11・24)と述べている。
2000年に、調査会社ガートナグループはキルビーICの世界市場を、2310億ドルと推測した。その年、ビッグバンの生みの親キルビーは、ノーベル物理学賞を受けた。このときもキルビーはTI社の社員であった。
2.特許明細書に現れる発明者の性格と社風
日本の現代のビッグバン、青色発光ダイオードの顛末によれば、せっかく優れた発明と発明者を得ながら、日亜社は、経営スケールの小ささをさらけだしたかにみえる。発明者中村修二氏は云った。「(将来日本で働く考えは)それは、絶対にありません。」
青色発光ダイオードという夢の発明を生んだ日亜化学工業という会社が、休みの多いことで有名だったというのは、地方の農繁期と関係がある。農村の人々を集め、労働力として立ちあげた会社なら、人々は、慣習として、隣近所との付き合いを大切にする。誰かの家で農作業の手が足りなければ、会社を休んでも手伝いにゆく。
日亜化学社は、当時は未だ、そういう土地柄になじんだ会社であった。中村修二氏は、遠くから車で1時間かかって通勤しただけで、悪意からではなかったろうが、変わり者扱いされた。中村氏のような個性的な人が入社し、個性的に行動することで、社風になにかの変化はあったかもしれないが、変化に対する抵抗もまた強いもののようである。
中村氏は、自著のそこここに、自分は地方出身のノンエリートだと書いている。しかし、この人の行動は、気に入らないものがあると社会主義のせいにするキャラを除いて、他の点では都会的である。周囲の他人の詮索を気にしない。西沢潤一博士のような権威者とも臆せず議論するし、他人の悪口を平気でいう。
日亜化学の社長は、地方の2代目で入り婿であった。創業者である先代の遺産を、事勿れとしっかり守っていかなければならない立場にあった。中村氏のような都会人類は、さぞ扱いにくかったことだろう。それでも、社長は、一時は、中村氏を、通常を上回って処遇し、フロリダに留学させ、1.4億円からするというMOCVD(化学気相装置)を設備することを認めた。中村氏独自の研究を追認し、結果として発明に貢献したといってもいい。本当のところ、中村氏に好意的だった先代社長への遠慮と、中村氏の勢いに呑まれて、渋々妥協したといったところではあろうが。
その扱い難い社員は、しかしながら、大きい業績をあげた。中村氏は特許出願を妨害されたというが、社員だった20年間に300件以上の特許出願をしている。中村氏単独の発明ばかりではないけれども、普通の研究者と較べても、随分多い方である。おまけに、中村氏関連出願300件中、200件弱が特許されている。出願の全てが審査請求されるわけではなく、仮に60%とすれば、中村氏の出願の特許率は100%に近い。
就中、中村氏は、青色LEDという、ノーベル賞クラスのビッグバンを成功させた。同特許による独占利益が、東京地裁認定の通り1200億円かどうかはさておき、巨額の利益を、中村氏言う社会主義に反して“搾取”した社長は、他人から見れば笑いがとまらないはずなのに、カネの使途よりも、社内にあってはやっかみなど人間関係の乱れをどう治めればよいかに、そして社外にあっては、中村氏の大発明への「相当の対価」不払いに対して世界中から押し掛けたマスコミ等の日亜バッシングの大合唱に、ほとほと困惑したことだろう。
ところで、特許出願の明細書には、発明者の性格が現れる。実際には代理人弁理士が書くにしても、依頼した発明者の個性は消えないものである。その観点で、中村氏のビッグバンと時をほぼ同じくしてノーベル賞を受けた田中耕一氏の質量分析装置の明細書(特3097148)をみると、まことにあっけらかんとしている。発明の周辺の実施例が全然ない。権利範囲をチマチマと排他的に囲い込むような考えは、明細書の作者にはないようだ。一方、中村修二氏の明細書であるが、発明の特徴であるべき、青色LEDや窒化ガリウムといったキーワードが、特許請求の範囲にほとんど記載されていない。実施例の測定結果として青色のスペクトルについて記述があり、窒化ガリウムは、従来技術の項に記載されている。中村氏が云うように、発明のブレークスルーが2フローMOCVDであるからには、論理的に間違いはないのだが、能ある鷹が、爪を(研究テーマに反対する社長の目から)必死で隠そうとした事情を推測するのは、うがちすぎかもしれないが、それにしても、不思議な明細書にみえる。
ちなみに、キルビーのIC特許明細書は、能ある鷹が鋭い爪(分割出願)を隠すことなく、これでもかこれでもかと、目いっぱい広げる。
明細書は、社風をあらわすこともある。島津製作所は、社員である田中耕一氏の偉業を、自社外の外国からの推薦に先んじられるというミスをしながらも、大企業の余裕を見せ、社内におこりがちな人間関係のトラブルを全く見せなかっただけでなく、社外には、田中耕一氏という、実は相当頑固なところもある人物の外見上の温厚さを広告塔にして、見事に島津社をイメージアップさせた。
島津社の明細書からは、社員を大切にし、自由に研究させるおおらかな社風を想像することができる。TIの明細書はといえば、“攻撃”の社風が、そして日亜の明細書には“防御(引き籠もり)”の社風が感じられる。
TIには、社風がプラスに働いた。日亜社には、気の毒なくらいマイナスであった。だいたい、今の時代、発明であれノウハウであれ、社員の社外発表にストップをかけ、技術を秘匿して社を防御しようなどという目論見が、成功するはずがない。隠せば他者に追い越されるだけのことだ。
地方の2代目“婿殿”は、結局、会社の奥にひきこもり、マスコミには「中村氏と同じ土俵に上りたくない」などと取材を断わった。せいぜい隣近所の御機嫌をとっていればよかった人が、中村氏の強すぎる個性とわたりあえる筈もない。もっとも、中村氏自身、社長への反発をバネに成功した面もあろうから、ものごと悪いことばかりでもない。
とはいえ、日亜の社長は、中村氏の勢いに対して、ついグチった。中村氏は、穏健な田中氏を見習うべきではないか、と。日亜社の社長の言葉を記者から伝え聞いた田中氏は、いった。「私が中村氏の立場だったら会社と闘いますよ」。
さて、日亜の社長にとって、最後の頼みは、退職してカリフォルニア大学サンタバーバラ校に教授として向かう中村氏に、同じ分野の研究を続けるな、研究を公表するなと、サインを迫ることであったという。
しかし、この要求には、中村教授は、腹を立てた。当然だ。おまけに、日亜社は、米国の中村氏を、企業秘密漏洩で訴えたから、中村氏は本気でキレてしまい、特許を受ける権利の譲渡契約不存在と、権利譲渡がなされたのであれば相当の対価を支払えという訴訟で対抗した。
訴訟は、東京地裁を経て東京高裁で和解に至った。マスコミは、やれ、200億円判決だの、8億4千万だのとセンセーショナルに報道した。話題が、青色LEDというせっかくの未来ある夢の技術から離れて、金銭の話にばかり集中してしまったことは、非常な不幸だった。
日亜社は、「企業にはリスクの負担というものがある」「発明は全社員の協力によるものであり、中村氏一人の功績でない」と、裁判所の内外で繰り返えし主張した。これらの主張は、一理あるようにもみえるが、願書のどこにも協力した全社員の名は記載されていない。
誤解を怖れずに言えば、発明というものは、元来が個人プレーであって、みんなで力をあわせてするようなものではない。日亜社の主張は、特許制度の中では、社長とその取り巻きたちの無理解を露呈しただけであった。日亜社は、自社のイメージを、ずいぶんとダウンさせた。
発明者のリスクは、技術もさることながら、周囲の人間、とくに無理解な上司とのお付き合いも無視できない。酷なようだが、発明者は、それだけの説得力を要求されるのである。
3.発明と金銭
平成16ー7年、職務発明の対価に関して、発明者と使用者の間で、高額の訴訟が続いた。日立のCD読み取り機事件、味の素のパルスイート事件、そして、中村修二氏対日亜化学の青色LED事件。すべて、発明者の取得は、億を超えた。ほかにも、継続中の事件がある。野次馬は、つい金額に興味を向ける。
東京地裁における青色LEDの訴訟は、2段階あるが、第1段階、権利の帰属の争いでは、地裁は、特許権は日亜化学にあると判断した。
2番目の、発明の対価がセンセーショナルだった。200億円という額を地裁が認定したからだ。理屈抜きに巨額である。
双方高裁に控訴した。高裁は和解を勧告した。勧告は、青色LEDの発明の対価を、他の一切の発明の対価も含めて、8億4,000万円と提示した。
地裁で200億、高裁で8億4,000万。どういう計算によるのか。判断機関による計算値の大きすぎる差異は、司法の信用を落としかねない。
ところで、200億はともかく、8億4000万は、多いだろうか。
直感的には多いようにもみえるが、基本特許以外の中村特許をすべて含んだ金額なので、比較が難しい。8.4億を得た人が、年1,000万円で暮らすと、84年間遊んでも、まだ利息が余る。8億4,000万が高額にみえるのは、生活給付と考えるからだ。
事業資金と考えれば、8億4,000万が高額という結論は、ただちには出ない。中村氏が起業する場合、8億が高額かといえば、MOCVD(有機金属化学的気相成長)用装置一台買っても1億3900万円、初期投資だけで数億円はかかる。
財界の某氏が、意見を求められ、『会社はそんなに金を出せるものじゃないよ』などと言った。どうして出せない? 特許法35条により発明者が受けるべき相当の対価は、特許による超過利益の一部に過ぎない。儲けた以上に出せと言うわけではない。1200億儲けた企業には、8億は、無理な額ではなかろう。
中村氏の著書によると、特許を受ける権利が発明をした発明者にあるのだということを当初よく知らず、弁護士に言われて知ったという。「目からうろこが落ちた」と中村氏は書いている。300件以上特許出願したベテランにしてそうであれば、一般研究者には、もっと知られない世界なのかもしれない。
中村氏自身は、著書で、発明の動機として、金が欲しかったわけではないとも書いている。これは本当だろう。学者として、論文をたくさん発表したい気持ちは、金銭以上のものがあったに違いない。しかし中村氏は、高裁の和解終了後、インターネットで、「結局、お金が大事だと思います」とも言っている。ときが変われば発言が変わることは、怪しむに足りない。不得手な訴訟を終え、いささか疲れたワイという位の権利は、中村氏にもある。金以外に大事なことは沢山あるが、金も大事である。
平16.4.23衆議院経産委で、経団連の知財委員長が、発明者が発明する理由を聞かれ、何と、社長からディナーに招待してもらう栄誉であると述べた。いまどき、社長と会食して有難がる研究者がいるか。それをまた国会で社長が言うか。あきれたものだ。日本の経営者を代表する人の知財に対する認識のレベルは、こんなものなのか。
日亜社は、東京地裁の認定では1兆何千億円という巨利を得た。別の報道では、青色LEDを発売した1993年の前後で、売上高3億から545億(税引)に、1株の配当は、200円から5,000円に急騰した。
その日亜社は、地裁で、14億の赤字とヌケヌケと主張した。会社の儲けは、青色LEDのおかげではない。中村氏の発明は質のよくない未完成なものだったと主張した。この主張を裁判所は一蹴した。
地裁は、中村氏の功績と会社の功績を、互いに50%と認定した。1兆何千億円の利益のうち、特許独占による超過利益の額が1200億。この50%、600億を受ける権利が中村氏にはあると。短期間、中村氏には嬉しい誤算となる。訴状には200億円分の印紙しか貼れなかった。印紙ひとつをあげても、個人にとって、企業財界と闘うことが、どれほど大変なことか。
高裁は額を値切るだろうという野次馬の観測に、10億円のボーダーラインを中村氏は仮想し、期待した。
高裁は、和解勧告を公表した。「相当の対価は、従業者等の発明へのインセンティブとなるのに十分なものであると同時に、企業等が厳しい経済情勢及び国際的な競争の中で、これに打ち勝ち、発展していくことを可能とするものであるべきであり、さまざまなリスクを負担する企業の共同事業者が好況時に受ける利益の額とは自ずから性質の異なるものと考えるのが相当である」。
和解勧告には、従業者を中村氏に、企業を日亜社に、それぞれ置き換え得る具体的事実認定も判断もない。要するに、企業を保護しなければいけない、相当の対価を払ってしまえば会社が営業できなくなるという、発明者個人に我慢を求める論理である。経産省や総理の施政方針ならこんなものかもしれない。だが、和解勧告とはいえ、これは裁判だ。中村氏は満足できまい。
結果的に、中村氏が金銭に振り回されたことも、否定はできない。200億の額に振り回された後、10億を超えるかどうかの争いにも振り回された。こんなことがしたかったはずがない。何億円を超えたから意味があるというわけでもないが、8億4,000万円と提示された案に、勝ち取ったというより、正直疲れたという思いが、中村氏に和解を受け入れさせたのではなかろうか。
ただ、8億4000万は、発明者への単なる御褒美でなく、特許法35条に本来あるべき相当の対価として公に認めたものである点、一般研究者にとって意義のある和解でもあった。
*
四国で日亜社は分不相応に大きくなった。もはや農閑期の人手を融通して会社を運営できなくなった。そこで、日亜社は、派遣労働者を集めた。おまけに、集めた労働者に、ろくに賃金を支払わない。四国の派遣労働者たちは、中村氏とは別の意味で、分配されるべき対価を闘っている。それはさておき、中村氏のいない日亜社から、今後どういう発明が生まれるだろうか。
さて、新聞記者が、サンタバーバラの地に、その後の中村教授を訪ねた。中村氏は、日亜の時代と変わらず、土曜日も日曜日も出勤して研究していた。休日は、日本人でハンディがあるから行かなくちゃいけない。それ以外の日は他の人も出勤するからやっぱり行かなきゃいけない。休日出勤というパターンから、青色LEDの発明者は逃れることができないでいた。だが、忙しい中に、新たな元気を取り戻した天才学者の姿が、記事からは読み取れた。
キルビー基本特許+分割公告群
特公昭40-13217→特許320249
特公40-14383
特公40-14384
特公40-14385
特公40-14386
特公40-14387
特公40-17410
特公40-26978
特公61-55256→特許320275
米国特許3138743
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