ENIAC+ノイマン+ABC
気まぐれディジタルコンピュータ史
コンピュータは、世間的には、1940年代、モークリとエッカートが発明した“ENIAC”が最初とされている。特許文献も実在する(米国特許3120606=のち無効)。
それでも、われこそはコンピュータの本家なり、元祖なりと、いろんな発明家やその取り巻きがいう。
ともかく、初期の技術を列挙しよう。
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◆1620年、英E・ガンターが対数目盛りの計算尺を考案した。カーソルなし。カーソルは、1850頃仏A・マンハイムまでなかった。
◆1623ー4年、独チュービンゲン大学教授シックハルトの機械的計算機。未確認ながら、不完全な論理(ソフトウエア)もあった。
◆1642年、仏のブレーズ・パスカルは、歯車を連結し機械式加減算機を作った。哲学、数学者としても有名なパスカルは、19才のとき、徴税吏である父親の税金計算のために作った。
◆1673年、独のゴットフリード・ウイルヘルム・ライプニッツ(哲学者で数学者としても有名)は、ライプニッツホイールという部品を使った機械で4則演算させた。
◆1804年、フランスのジャガードは、穿孔カード式自動織機を作った。翌年、彼は、計算機をパンチカード織機に応用した。
◆1820年、【アリソメータ】、C.X.トーマスがライプニッツ計算機を改良し、4則演算計算機として商業化。
◆1823年、【階差機関】、英のチャールズ・バベッジによる。
◆1833年、【解析機関】、バベッジはタダの計算機だった階差機関を発展させて構想した。実物は未完。構想の主要部は助手のエイダ・ラブレイスが論理構成した。
◆1848年、英ジョージ・ブール(英)、記号論理学。
◆1854年、ショイツ(スウェーデン)、バベッジの階差機関を応用した計算機。
◆1885年、バロース、記録式加算機リスティングマシンを発明。
◆1896年、ホレリス「タビュレーティング・マシン社」を設立、パンチカード処理。同社は、のちコンピュータータ・ビュレーティング・レコーディング社(1911)を経て、さらに、1924、IBMとなった。T.J.ワトソンも一緒。
◆1902年矢頭良一、1923年大本寅次郎、【虎印計算機】、手回し自動算盤を特許出願、50万台を製造販売(日本人としてはやはり;;)。
◆1907年、ホレリスが特許出願を怠っていた隙に、J.パワーズは自動、電気穿孔、水平分類方式のパワーズ・マシンを発明。
◆1911年、パワーズは「パワーズ・タビュレーティング・マシン社」を設立。同社は、1927年レミントンランド社と合併、1955年スペリジャイロスコープ社と合併。
◆1930年代後半、【チューリングマシン】、英アラン・チューリングがドイツ軍の暗号解読のかたわら、計算機械のアイデアを示した。スキャンダルに葬られた悲劇の天才だった。
◆1936〜1940年、【Z3】、デジタルコンピュータで、ドイツのコンラッド・ツーゼによる。当時、Zシリーズは機械リレーを用い、固定プログラム制御。ツーゼは真空管にも興味を持ったが、当時高価だった。後に汎用プログラム言語を開発し、ドイツ軍に資金援助を願い出るが、相手にされなかった。米国に特許出願したところ、審査官はバベッジの機械を引用して拒絶。失意で研究を断念。
◆1939年12月、【ABC】(Atanasoff and Berry Computer)アイオワ大学教授アタナソフは、基本的な着想を、修士ベリの助けを借り、実験回路板モデルの形で、新しい計算用機械として完成。30年もあとになって、裁判でENIACと先発明の地位争いに巻き込まれた。
◆1941ー42、ミサイル研究所(アバディン、メリランド)の数学者ゴールドスタインらは弾道計算を研究。天才ノイマンもいた。
◆1943年、【コロッサス】、第2次大戦(1939ー1945)中、英ブレッチリー・パーク事業所が、独軍の暗号器“エニグマ(ENIGMA)”を解読するため使った。一種のプログラムがあり、真空管を1500本使用したので、最初の電子式デジタルコンピュータではあった。
◆1944年、【マークT】、IBMとハーバード大学が開発していた自動シーケンス制御方式計算機をハワード・H・エイキンが完成。マーク1と命名。23桁の加減算電を3/10秒で。使った線はのべ800km。3304個のリレースイッチを使い、5tもあって、ワトソンは不満。後継機がマークU〜W。計算機ではあったが、のちの電子計算機の原型ではなかった。
◆開発1943.4.9〜1946.2.15、【ENIAC】(electronic numerical integrater and computer)、ペンシルバニア大学エッカートとモークリーによって開発され、最初の電子計 算機とされる。9m×5m、部屋を占める大きいUの字型、真空管18850本、30t、150kW、クロック(たったの)100KHZ(当時の単位ではキロサイクルというべきか。)、加算0.2ms、乗算2.8msは当時の電気機械式計算機の数1000倍だった。2進というより、2進化10進法を使った。パッチボード配線のため、プログラム変更が厄介。初仕事はニューメキシコ州ロス・アラモス研究所のフォン・ノイマンが依頼した原子爆弾開発のための問題解きだったという言伝えは怪しい。レミントン・ランド社に買われ、1951年、UNIVAC1として世に出た。特許は、のち裁判で無効とされ、その理由がアタナソフのABCという説もあるが、判決の無効理由は、ENIACの出願前公用とノイマンが出願前に論文“First Draft of a Report on the EDVAC”で公表してしまったことにあった。
◆開発1946.11〜1949.5.6、【EDSAC】(electronic delay strage automatic computer)水銀遅延線メモリを使用し、ENIACのプログラム汎用性を改良。英ケンブリッジ大学ウイルクスがノイマンのEDVACより早く完成。世界初の蓄積プログラム方式コンピュータ。
◆開発1946.8〜1950、【EDVAC】(electronic discrete variable computer)、1945.6.30、フォン・ノイマンが提案した蓄積プログラム方式。ノイマンは、種々の新しいアイデアを示したが、コンピュータの最初の発明者というのは、ハンガリー人のお国自慢。カリスマだったノイマンは、人々に過大評価された。ガチガチの右翼だったのはヒットラーへの対抗上しかたなかったとして、ノイマンの欠点は、ハードウエア音痴だったことと、特許嫌いだったこと、特に他人の特許出願に配慮が足りなかったことだった。
以後の歴史も若干見ておこう。
◆ショックレー、1947.4.27、少数キャリヤ拡散理論、1948.6.26、接合トランジスタ特許出願
◆1948年、シャノン情報理論
◆1959.2.6、キルビー、IC特許出願。
◆1959.7.30、ノイス、プレーナIC特許出願。
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トランジスタの登場で、1950以後、コンピュータはいわゆる第2世代へ。集積回路の誕生で第3世代に入る。第4世代は、まだである。
さて、以下、コンピュータの発明史上のウソや間違いを、気まぐれにほじくり返えそうと思う。たとえば、ノイマンの悪口をいったからって、まさか、ハンガリー人に暗殺されることもなかろう。
[参考]
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~sano/2003SOB/historical-structure-of-computer-development01.htm
エレクトロニクス・イノベーションズ(日経エレクトロニクス.ブックス、1981.4.20)
エレクトロニクス50年史と21世紀への展望(日経エレクトロニクス.ブックス、1980.11.17)
(2)
最初のコンピュータは、どこの誰が発明したのか。歴史上これを云うのは、諸説があって、実のところ難しい。いくつかの説は、概ね故郷お国自慢にすぎない。
例えば、アメリカ人に尋ねれば、名前は知らないがアメリカ人だろうなどと答える。ビル・ゲイツか、それともIBM?といいかげんなことを言ったあげく、そういう先端技術は、すべてアメリカ人の功績に決まってるんだ、とか。
最初のコンピュータの名や発明者の名を、正確にどころか、具体的に云える人は、米国人に限らず、少ないと思われる。
コンピュータの発明者を、同じアメリカ人でも、アイオアで尋ねれば、それはアタナソフじゃないか、そんなことも知らんのかとばかりに胸をはるはずである。お国自慢は、ローカルへいくほど具体的になる。
ついでに、イギリス人に聞けば、チャールズ・バベッジかアラン・チューリングの名が挙がる。第2次大戦中ドイツ軍相手に活躍した「コロッサス」も挙がるかもしれない。ドイツ人も黙っていられず、ナチスがホモとユダヤ人とジプシーを帝国から排除するために発明したとか、コンピュータのレプリカがミュンヘンのドイツ博物館にあるとか、ドイツ人らしからぬあやふやなことをいう。もっとも、ツーゼの名がでれば、ふうん、アンタよく知っているなと、感心してやってもいい。
ハンガリー人は、コンピュータの発明者はフォン・ノイマンだと信じている。タカ派のノイマンを科学技術の平和利用と結び付けるにいたっては、見当外れも甚だしく、気の毒というほかない。
観点を変えて、特許された最初の電子的なコンピュータの名をいえば、これは、米国生まれの「ENIAC」だった。このことは、特許資料(米国特許3,120,606、出願1947年6月26日、特許1964年2月4日)から、簡単に、かつ客観的に云うことができる。
ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は、ロス・アラモス国防総省のムーア校において、ジョン・モークリと助手のプレスパー・エッカートが、1943年4月〜1946年2月にかけて開発した。大戦のさなか、ムーア校は、原爆の研究開発をしていた。同じ場所で、ENIACは、弾道計算をより高速に行うマシンとして生まれた。
なにしろ巨体だった。9m×5mのU字配置、真空管18850本、30t、2進化10進、クロック周波数は(たったの)100KHz。加算0.2ms、乗算2.8msは、それでも当時の電気機械式計算機の数千倍に達した。150kWの消費電力は、フィラデルフィア中の電灯を薄暗くしたという伝説がある。
憶測だが、ENIACは、名称中央の“I”(積分器の頭文字)が表すように、アナコンのディジタル化というコンセプトを意識したせいか、アーキテクチャにアナコンの特徴を引きずっていた。自慢の並列分散構造や20台のアキュムレータは、アナコンの積分器にみえる。このころ、プログラム制御するデジタルコンピュータとして、ドイツのコンラッド・ツーゼの「Z3」(1936〜1940年)や、先に述べた、英国がドイツのエニグマ暗号の解読用に1943年頃開発していた「コロッサス」があった。当時Zシリーズは機械リレーを用い、固定のプログラムで制御した。ツーゼは真空管にも興味を持っていたが、当時高価だった。後に汎用プログラム言語を開発したツーゼから経費援助の相談を受けたドイツ軍は、完成までの期間を尋ね、その前にドイツ帝国は勝利するに決まっているといって相手にしなかった(おやおや)。コロッサスは1500本の真空管を使ったというが、軍事機密で資料がない。結局、汎用プログラム制御内蔵の電子的コンピュータは、まだ世になかった。そんな中で、ENIACは誕生した。
ENIACの特徴は、単に機械リレーを電子管に置き換えてディジタル計算したというだけではない。ENIACによって、コンピュータは、まがりなりに、汎用化の入口へ歩を進めたのだ。プログラムをパッチボード配線で行ったため、変更が非常にやっかいという問題はあったものの、再生メモリやフリップフロップを使いこなしたハードウエアも顕著なブレークスルーだった。
エッカートはENIACを「発明した」と云うかわりに“Computeした”と説明した。彼は無線マニアでもあった。特許明細書にENIACを構成する真空管回路が図示されている。真空管名を見ると、6SN7,6SA7,6L6,807といった、ラジオマニアなら周知の、つい最近まで(あるいは今でも)使った真空管の名がある。無線マニアだったエッカートは、自分のジャンク・ボックス(部品箱)から部品を持ってきてENIACをComputeしたか、少なくとも、趣味の無線を知識源として活用した。
完成後、ENIACは、レミントン・ランド社に買われ、UNIVAC1として世に出てから、アバディーン実験場で1955年11月まで稼働した。故障ばかりでまともに働かなかったという悪口があるが、これは誤解である。規則で毎日電源を落し、翌日の立ち上げにいちいち時間を喰ったのは事実だったが、実際のところよく働いたと記録にある。
そのENIACより早い時期、電子デジタルコンピュータを構想し、作っていた人物がいた事実が分かっている。アイオア州立大学の物理と数学の教授だったジョン・ヴィンセント・アタナソフだった。ほぼ完成させたマシンは「ABC」(Atanasoff and Berry Computer)と呼ばれた。このマシンは、のちにENIAC特許の無効を訴えた裁判で、先発明を争った。世間の大発明には、この手の先発明手柄話は珍しくないが、裁判までいったのは、コンピュータでは、アタナソフ位である。
アタナソフの助手を勤めたクリフォード・ベリー(「ABC」のB)も無線マニアだった。ENIAC陣営でモークリの助手だったエッカートがやはり無線マニアだったのと似ている。コンピュータには論理(ソフトウエア)とともに、ハードウエアが必須である。アマチュア無線家たちは、今みたいな電話ごっことは違い、エレクトロニクス発展の一翼を担っていた。当時のハードウエアの知識源として、ぴったりであったに違いない。
アタナソフは、立派な学者ではあったが、米国でもあまり知られていなかった。忘れられていたアタナソフの功績を、アイオア生まれで故郷びいきのピューリツア受章作家クラーク・モレンホフは、著書“ENIAC神話の崩れた日(原題:忘れられたコンピュータの父)”に書いた。モレンホフは、アイオア出身の議員ニール・スミスに唆されて、モークリらが、最初のコンピュータであるABCの発明を盗んでENIACを作ったので、判決がその特許を無効にした、と書いた。おかげで、アタナソフはちょっと有名になった。それはいいが、モレンホフは、コンピュータ技術にも、判決を読むことにも素人だった、おかげで、20年も前の判決文を正しく読まなかった。
ENIAC特許が裁判で無効になったのは、ミネソタ地裁1973年10月19日、ラーソン判事の判決(180USPQ673)の通りだ。特許権者のスペリランド(旧レミントンランド)がハネウエルを特許侵害で訴え、逆にハネウエルから特許無効と訴えられ、敗訴した。その結果、ENIAC特許は確かに無効にされた。しかし、判決の理由は、発明者のモークリとエッカートが、米特許法が先発明者のために出願手続を猶予する期間である出願前1年よりさらに半年以上も前、ENIACを公然使用したり販売したことと、途中からENIACの開発をサポートした大御所フォン・ノイマンが、技術内容を勝手に公表してしまったことにあった。モレンホフがとりあげた先発明争い物語をラーソン判決から真摯に読みとろうとすると、がっかりすることだろう。
(3)
最初のコンピュータといわれるENIACの米国特許は、ENIACが完成してから30年たってから、裁判で無効にされた。
裁判は、特許権者のスペリランド社がイリノイISDとともにハネウエル社を特許侵害でミネソタ地裁に訴えたのに対し、逆にハネウエル社が特許は無効と訴えて、1967年5月26日に開始され、1973年10月19日、スペリランド側を敗訴とした。
主な争点を表す判決書の長いタイトル:
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【反トラスト法違反、並びに特許無効及び特許侵害に対する被告の反訴である非侵害の確認判決を求めるSperry Rand CorporationとIllinois Scientific Developments, Inc.に対するHoneywell Inc.の訴訟。原告に対する判決及び被告に対する判決】
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証拠として真っ先に挙げられた資料が、初期のデジタル式計算に関するチャールス・バベッジの19世紀の 496ページの著書だったと聞いただけで、時代がわかる。77人の証人が口頭で証言し、80人の証人の証言が証言録取書により追加された。ハネウエル側が選んだ25,686件の証拠、イリノイ側が選んだ 6,968件の証拠、さらに公判で追加された約 500の証拠。結局、公判記録は20,667ページにわたった。
ラーソン判事は、当然のことながら、専門外のコンピュータ技術と当事者達が提出した膨大な証拠資料にうんざりしたに違いないが、苦労話を判決書にクドクド述べたりはしない。当事者の主張と裁判所が認定した事実とを淡々と整理し、それに反証はない、といった調子で、審理を手際よくすすめた。それでも、数多い争点を、“余の点は検討するまでもなく”などと省略することはせず、逐一判断したので、判決は、相当なボリュームになった。
ミネソタ地裁は、6年半の審理ののち、スペリランド側を敗訴とした。アンチトラストの政治意図が働いたとも云われるが、ラーソン判事が国益で判決を左右させられるような人物か、些か信じ難い。少なくとも、判決をよく読めば、公知公用の事実から、国益など持ち出すまでもなく、判決は動かないように思われる。
判決がENIAC特許を無効にした公知公用の事実は、具体的には、途中からENIACの開発に参加したコンピュータの大御所フォン・ノイマンが、ENIAC特許の技術内容を勝手に公表してしまったこと、発明者のモークリとエッカートが、米特許法が先発明者のために出願手続を猶予する期間である出願前1年よりさらに半年以上も前、ENIACを公然使用したり販売していたことにあった。
無効理由の争点は、ほかにもあった。ENIAC開発チームが、アイオア大学のアタナソフらが発明したABC(Atanasoff and Berry Computer)マシンの技術を盗んだ、というものだった。物語としては、面白そうだ。
判決は、ENIAC特許の148のクレームのうち、派生的な第88,第89の2項をABCマシンが起源(derived from)と認定し、無効理由の一つに挙げた。誤解をおそれず云えば、ENIAC特許の148のクレームのうち2項が、ABCに抵触するという、ただそれだけのこと。これを、モレンホフのように、ENIAC冒認説の論拠と言うのは、つまらない言いがかりである。
判決は、ENIAC特許の主題そのものをABCマシンから盗んだと認定はしていない。言葉足らずの派生的なクレームが、たまたま先行技術と抵触してしまうのは、よくあることだ。特許無効の理由が前記クレーム88と89だけなのであれば、ENIAC側は、抗弁にさほど苦労はしない。
ミネソタ裁判の判決は、「公用」の定義や明細書の開示事項不備の立証責任などについて重要な判示を含んでおり、他の多くの米判決が参照した、価値の大きいものだった。ところが、運悪く、判決の日、たまたま降って湧いたウオーターゲート事件報道の騒ぎで、難解なコンピュータ裁判など、マスコミの話題にならなかった。人々が忘れたころにモレンホフが採り上げなかったら、誰の興味をひくこともなかったろう。
判決には、当事者双方とも控訴しなかったので、ENIAC特許の無効は、確定した。
判決が確定して20年もたってから、ピューリツア賞作家でアイオアびいきのクラーク・R・モレンホフは、古い裁判のENIAC冒認説にとびついた。開発チームのリーダーだったジョン・モークリが、アタナソフの発明を盗んで特許出願したというストーリーを創作して書いた著作“ENIAC神話の崩れた日”の第1章「真実をありのままに」に、モレンホフは、次のように記述する:
「裁判の審理を終えるに際して、ラーソン判事は力強く裁定した。『エッカートとモークリーは、自分たちの力で最初の電子計算機を発明したのではなく、ジョン・ヴィンセント・アタナソフからその原理を受け継いでいる』『モークリーはアタナソフから教わってENIAC原理を考えたとハネウエルが立証できたので、ENIAC特許は無効である』」
ラーソン判事の声が力強かったかなんてことはどうでもいいとして、判決書には、モレンホフのいうような記載はない。“真実をありのままに”いうなら、ラーソン判決の、ハネウエルの立証に関するくだりには、次のように記載されている。
「ハネウエル社は、ENIAC特許の発効時のクレームの内、17項のクレーム 8、9、36、52、55、56、57、65、69、75、78、83、86、88、109、122、142のどれもアタナソフのマシンその他の仕事を含むことを証明できなかったし、ENIAC特許にクレームされた主題の発明者又は共同発明者がエッカートとモークリ以外にいることを証明しなかった。また、エッカートとモークリ、彼らの弁護士、承継人又は譲受人が、ENIAC特許にクレームされた主題の共同発明者であるとの主張について、US特許庁に対して故意のフロード(詐欺)を犯したことを、明白で信用できる証拠によっては証明できなかった。」(判決段落【13.25.3〜13.29.9】)
要するに、ハネウエルは、冒認も詐欺も、モレンホフの言うようには証明しなかったというのが事実である。
ラーソン判事は、判決の文に、いわゆる冒認(発明盗用)に該当するタームを使っていない。代わりに“derivation”(由来、起源)というタームを使っている。このタームは、単なる先行技術ほど軽い意味ではなくても、冒認ほどの故意性を、意味しない。ちなみに、判決中に、appropriate(盗用する)という語がみられるが、フロード(詐欺)による特許取得があったかの判断の項であり、アタナソフやABCマシンに関係する認定ではない。
だが、モレンホフによるENIAC冒認説キャンペーンに、喜んだのは、アイオア州の人たちだった。アイオア州には、アイオア州立大学のアタナソフという偉い先生がコンピュータの真の発明者であるというローカルなお国自慢があって、その自慢話の正当性を裁判所が認めたことにできるからである。判決は、そんなことは認めていないが、アイオア州人にとって、やっかいな判決文を読むよりも、ピューリツア賞作家の名分を読むほうが、てっとり早いに決まっていた。
【参考】判決:180USPQ673 米国特許:3,120,606 文献:ATANASOFF: Forgotten Father of the Computer. by Mollenhoff, Clark R.
(4)
作家モレンホフは、「ENIAC神話の崩れた日」に、判決を引用して、ENIACはアタナソフのABCマシンを盗んだと、自説を書いた。
ENIACチーム代表者モークリがABCを見たり、アタナソフから知識を得た事実はあった。しかし、ABCを見た者が、ABCと同じコンピュータを作るわけではない。1940年代初期、すでにタイプの違うコンピュータが複数あったことを、ラーソン判事は知ったうえで判決を書いたが、モレンホフは勘違いした。そういう当事者の主張があり、判決が争点と認定したのは事実だから、そこだけ読んで勘違いしたものと思われる。
判決の、アタナソフに関する事実認定を抜粋する。【 】は判決の段落、下線はモレンホフが自説論証のため主に引用した部分である。
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「3.アタナソフ
【3.1】 ENIAC のクレームの主題及びENIAC にクレームされた発明は、アタナソフが起源であった。
【3.1.1】 スペリランド(特許権者)及びイリノイISDは、ENIAC 特許にクレームされた発明が広く「自動電子デジタル・コンピュータ」であるという当審における反訴を支持する彼らの陳述に拘束される。
【3.1.2】 エッカートとモークリ自身は、最初に、自動電子デジタル・コンピュータを発明したのでなく、その主題の起源は、ジョン・ヴィンセント・アタナソフ博士という者であった。
【3.1.3】 ENIAC特許の「発明」の冒認(derivation)の認定に必要はないが、ハネウエル は、当審における反訴を支持する際の根拠であるENIAC特許のクレームされた主題はモークリがアタナソフを起源とした(derived by Mauchly from Atanasoff)ものであるため特許性がないことを証明した(has proved)。代表的な例として、ハネウエルは、ENIAC 特許の詳細なクレーム88及び89の主題がENIAC マシン及びENIAC特許に関する仕事を始める前にモークリの知っていたアタナソフの仕事に対応することを示した。
【3.1.4】 1937年と1942年との間、アイオワ州のエイムスにあるアイオワ州立大学の物理と数学の教授だったアタナソフは、大規模な連立線形代数方程式を解くため自動電子デジタル・コンピュータを開発した。
【3.1.5】 1939年12月に、アタナソフは、彼の基本的な着想を計算器の操作回路板のモデルの形で完成し、実用化した。
【3.1.6】 この回路版モデルのマシンは、実際の動作状態でマシンの種々の部品をテストすることができる修士クリフォード・ベリの助けで製作した。
【3.1.7】 回路版モデルのマシンは、設計の基本方針がしっかりしていることを示し、アタナソフ及びベリは、高い程度の正確さで未知数が29個の29元程度の連立方程式のシステムを解くことができるプロトタイプ又はパイロット・モデルの製作を開始した。
【3.1.8】 1940年 8月までに、追加の資金を求めるために、彼のマシンを説明する詳細な設計上の特徴を含む包括的な文書を作成した。
【3.1.9】 1940年8月にその文書が作成されるまでに、この訴訟においてアタナソフ・ベリ・コンピュータ又は「ABC」と呼ばれる運命にあるマシンの製作が、すでにかなり進んでいた。
【3.1.10】 文書に記載された説明は、当時の電子工学の当業者がABC コンピュータを作り使用できる程度に十分であった。
【3.1.11】 文書を、数学的計算の補助手法(art of aids)の専門家が調べ、資金援助の推薦をし、その推薦の結果、ABCの製作の継続のための資金が研究組合から与えられた。
【3.1.12】 1940年12月までに、アタナソフは、初めて、米国科学振興協会フィラデルフィア会議でモークリに会って、アイオワ州立大学で製作中の計算器について概要を知らせた。マシン及びその原理にモークリが興味を示したので、アタナソフは、モークリにアイオワのエイムスに来て、コンピュータについてもっと研究するよう誘った。
【3.1.13】 アタナソフと文通した後、モークリは、数日間アタナソフの家の客としてアイオワのエイムスに行き、そこで、彼は、ABCコンピュータや計算技術に関するアタナソフの他のアイデアも含め、議論をした。
【3.1.14】 モークリは、アタナソフが1940年8月に作成した包括的な文書の写しを読む機会を与えられ、文書を読んだが、持ち帰ることは許されなかった。
【3.1.15】 モークリが訪問した時、ABCは全部完成してはいなかったが、製作は十分進行していたので、モークリは、詳細な設計上の特徴を含む動作原理を説明され、デモを見た。
【3.1.16】 モークリがアタナソフとベリとエイムスでした議論は、自由かつオープンで、マシンの理論、設計、製作、使用又は動作に関するどんな重要な情報も隠されなかった。
【3.1.17】 アイオワのエイムスを訪れるより前、モークリは、電気アナログ計算装置に大変関心があったが、自動電子デジタル・コンピュータは考えになかった。
【3.1.18】 この訪問、モークリのアタナソフとベリとの議論、デモ及び文書の閲覧の結果、モークリはABCからENIAC特許にクレームされた「自動電子デジタル・コンピュータの発明」をした。
【3.1.19】 当裁判所は、公判でアタナソフ 及びモークリの証言(testimony)を聴き、モークリによって引き出された(derived by Mauchly)知識及び情報についてのアタナソフの証言が信用できる(credible)と認める。」
(判決からの抜粋は以上)
モレンホフは、判決(主に下線部分)を、ENIAC特許(米国3,120,606)の請求項88、89がABCを盗んだものだったので、特許を無効にしたと解釈し、自著に書いた。しかし、2つの請求項は、ただのメモリ書込み装置と読取り装置である。ENIACの特徴でないどころか、当時も、コンピュータと呼ばれる装置なら、備える部分だった。当然、ABCも備えていた。だからどうだというのか? モークリらは、コンピュータ初期の特許出願の一部に、特許性のない技術構成を独立項で特許請求するミスをした。それだけのことだ。
*
[請求項88]
パルスに応答し、第1のタイマの制御の下に第1のレートで動作する中央処理装置と、第2のタイマの制御の下で第2のレートで動作する周辺データ処理装置と、一時蓄積データの蓄積手段と、前記第1のタイマの制御の下に、データを前記蓄積手段と前記中央処理装置の間で第1のレートで転送する手段と、第2のタイマの制御の下に、データを前記蓄積手段と前記周辺データ処理装置の間で第2のレートで転送する手段とを有し、前記中央処理装置と前記周辺データ処理装置は、前記蓄積手段と中央処理装置とは、互いの間を双方向にパルス形態による転送を果たす手段をそれぞれ有することを特徴とするデータ処理マシン
[請求項89]
処理すべきデータを蓄積するメモリ手段と、前記データを前記メモリ手段から読み取り、前記データをパルス形態に変換する読み取り手段と、多数の相互接続されたパルス応答処理ユニットであって、処理動作の結果を表すパルス出力を生じるものと、前記ユニットの少なくとも1つは前記読み取り手段に接続され、読み取り手段によって放出されたパルスを受け取り、前記ユニットの少なくとも1つに接続され、前記処理動作の結果を印刷する印刷手段を有することを特徴とするデータ処理マシン
(米国特許3,120,606 抜粋仮訳)
(5)
【 】は、ミネソタ地裁判決の段落を示す。
アメリカの特許制度では、発明者でなければ出願できない。出願以後に譲渡することはできるが、出願のときはすべての発明者がそろって出願しなければならない。
ENIACを発明したのは、エッカートとモークリの二人だけだったのか?
ラーソン判事は、ENIACの仕事がグループ又はチームの仕事であって、発明の寄与は、Sharpless、Burks、Shawその他の者であったという主張を、丁寧に検討した【4.2】。
当初の判事の心証では、Burksは、アキュムレータや乗算器の設計に寄与し、少なくとも77の図面に署名した【4.2.1】。Sharplessは、高速乗算器、初期化及びサイクリング・ユニット並びにアキュムレータの設計に重要な寄与をし、少なくとも83の図面に署名した【4.2.2】。Shawは、機能テーブル、アキュムレータ、初期化ユニット、プリンタの設計等に寄与し、少なくとも103の図面に署名した【4.2.3】。Davisは、アキュムレータ、初期化ユニット及びサイクリング・ユニットの設計に寄与し、少なくとも56の図面に署名した【4.2.4】。Muralは、アキュムレータ及び主プログラムの設計に寄与し、少なくとも124の図面に署名した【4.2.5】。Chuan Chuは、除算器/平方根器の設計に寄与し、少なくとも28の図面に署名した【4.2.6】。Williamsは、リレーに入力情報を一時記憶する設計を考えた【4.2.7】。IBM社は、1944年の第1半期に入力及び出力機器並びにインタフェース回路を供給して発明に寄与した【4.2.8】。ムーア校の多くの技術者は、ENIACの設計チームのメンバーとしてマシンの設計に寄与した【4.2.9】。
しかしながら、モークリとエッカート以外の者の具体的な寄与について、証明はされなかった【4.3】。モークリとエッカートが、ENIACチームの他のメンバーを共同発明者として記載することを不法に排除したという証拠もなかった【4.1.5】。
原告のハネウエルは、ENIAC特許のクレームとENIACプロジェクト・チームの各メンバーの寄与とを具体的に対応させる証拠を提示せず、裁判所は、この問題について個々に判断することができなかった【4.3.1】。
この後、数多い証拠は、むしろ、エッカートとモークリの二人(のみ)が、ENIACを誕生に導いたことを証明するのである。
1941年夏に、モークリとエッカートは、ペンシルバニア大学の電気工学ムーア校において、電子計算機について一連の議論、会話及び意見交換を始めた【4.3.2】。1942年8月、当時ムーア校の教員だったモークリは、修士だったエッカートと、電子計算機のアイデアの一部を記載したメモランダムを作成した【4.3.3】。
メモランダムは、1943年3月、Herman Goldstine大尉及びPaul Gillon大佐の二人によって米国陸軍の軍需品部長室にもたらされた【4.3.4】。同時代、戦争のゴタゴタで特許出願の機会を失ったアタナソフらのABCマシンと、ENIACは、ここで運命の明暗を分かつ格好になった。
提案書が作成された。技術的な部分をエッカートとモークリが書き、Brainerd博士の推薦した正式なものだった。提案書を受けて、政府とペンシルバニア大学の理事会は「ENIACの開発に関する研究・実験」の契約を結んだ【4.3.5】。
契約の前、エッカートとモークリは、すでに、分担して開発作業を始めていた【4.3.6】。
Brainerdは、エッカートをENIACプロジェクトの研究監督及び主任技術者に指名した。モークリは、エッカートとともに、技術者の職務とテストを担当した【4.3.7】。ENIACプロジェクトを補助するために、技術者その他のグループが追加された【4.3.8】。エッカートとモークリは、仕事の内容を技術者たちに説明し、分担させた【4.3.9】。プロジェクトの他の者がテスト装置を製作している間に、エッカートとモークリとは、ENIACマシンについて、さらに詳細な検討を続けた【4.3.10】。ムーア校の職員は、エッカートとモークリの下で、ENIAC マシンの工学的な仕事、製作及びテストを補助した【4.3.11】。
エッカートとモークリは、計算システムをどのように組み立て、実現するか、グループとしての着想を洗練し明確化し続けた【4.3.12】。
1944年9月27日までに、エッカートとモークリのENIACマシンの着想は、完成した【4.3.13】が、そのときには、共同発明者と呼ばれるかもしれない人々の数は、かなりになっていた。
1944年9月27日、エッカートは、プロジェクトに関係する技術者すべてに、「特許が有効であるためには発明者名義で特許取得しなければならない」と知らせ、発明者として権利を有すると信じるクレームをエッカート又はモークリに返信するよう、手紙を書いた【4.3.14】。
この、エッカートの手紙への返信の中には、ENIAC特許に発明的な寄与を特定したものも主張したものもなかった【4.3.15】。そして、1944年のエッカートの手紙から約20年間、エッカートとモークリ以外の者がENIAC特許に発明的な寄与を特定又は主張したことを示す証拠は見あたらなかった【4.3.16】。当時の文書等公表されたものには、エッカートとモークリのみが、共同発明者として記述されていた【4.3.17】。
陸軍軍需品部及びムーア校の職員たちは、エッカートとモークリが、自身を発明者とし、ENIAC特許の出願を2人だけの名義でしたことを知っていたが、他の技術者たちがその事実又は最終的なクレームを知っていたことを示す証拠はなかった【4.3.18】。技術者たちは、エッカートとモークリ以外にENIAC特許の主題に発明的な寄与をした者がいたかどうか知らなかった【4.3.19】。
1964年2月4日、米国特許3,120,606として、ENIAC特許は発効した。出願書類には、エッカートとモークリの二人だけが、発明者として記されていた【4.3.21】。その結果、エッカートとモークリは、真正の(true and actual)発明者と推定された【4.3.22】。推定を覆す責任があるハネウエルは、エッカートとモークリ以外にENIAC特許に共同発明者がいたことを、証拠をあげて示すことができなかった【4.3.24】。
エッカートとモークリが発明者として公表された時、発明者又は共同発明者と主張する者がその主張をしなかったことは、発明者又は共同発明者と主張する者の主張に根拠がないと推定させる証拠とされた【4.3.28】。
発明者を大切にする米国の手続は、他の国からの出願に対して、ときに、うるさい手続を要求する。しかし、発明者を護る精神と手続には、教えられるものがある。
ENIACの発明者と認められるために、エッカートとモークリは、チームの技術者たちに、共同発明者と名乗り出る手続を周到に尽くしていた。
ENIAC事件の経過は、日本で先頃連続した、職務発明の大型訴訟の当事者に、さまざまなことを教える。特に雇用者には、“みんなで力を併せて”発明する美談風の職場環境に甘えていると、結局誰が何に寄与したのかをいい加減にしてしまう弊害を警告する。
一方、ENIAC事件の経過は、権利を主張する発明者たちにも、自分の寄与を証明するのは自分しかいないことと、その証明手続の実務をも教えてくれている。
(6)
ジョン・フォン・ノイマン(1903〜1957)。ハンガリー生れ。1933年プリンストン高等研究所の研究者になったのを機会に米国に移住。ゲームの理論など数学者として有名だが、ここでは、最初のコンピュータENIACとの出会いをとりあげる。
ひとは発明されたものに発明者の名を付けて呼ぶ。八木アンテナ(特許69115)、タカジアスターゼ(特許16135)、豊田自動織機(特許1195、6787)、etc.
現存するコンピュータのほとんどは、ノイマン型に分類されるアーキテクチャを持ち、ノイマン型コンピュータと呼ばれる。コンピュータといえばノイマン型である。では、このあまりにも有名な“ノイマン型”コンピュータは、誰が発明したのか?
そりゃあ、ノイマンだろう、と人は考える。著名な技術史学者でさえ、そう信じる人が多いし、まんざら間違いとも言えない。
計算の天才、優秀な知能、あくなき探求心、行くところ可ならざるなし、何でもOKといった賛辞は、ノイマンのためにあると言ってもよいほどである。このジョン・フォン・ノイマンという天才が、コンピュータの発明者であって、なんの不思議もないのだが・・・・・
ノイマンを宗教の教祖のように尊敬する人物が、問題をややこしくした。ノイマンを尊敬した人物は多いが、その一人、弾道研究所のゴールドスタイン博士。悪意は全くない。
*
1944年、ノイマンは、陸軍軍需品部の弾道研究所("BRL")のコンサルタントであり、核兵器研究についてロス アラモス研究所の科学アドバイザー兼カウンセラーでもあった。そして、既に、国際的に有名な数学者だった。
この年の晩夏、ノイマンは、ハーマン・ゴールドスタイン博士に誘われて、フィラデルフィア行きの列車に乗った。車中、ゴールドスタインは、ENIACについてノイマンの関心を刺激した。
ノイマンは、開発中であるというENIACに非常な興味を持った。ENIACとはどんなものだろう。彼は楽しみでならなかった。一方で、ENIACが、もしも彼の知的興味を満たすにふさわしくないつまらないものであれば、サッサとその場を去ろうとも考えていた。
そして、到着したノイマンの目前に、ENIACは姿を現した。広い部屋を占領する巨大なU字型のフレーム。19000本になろうとする真空管。ノイマンは、稼働中のENIAC の二つのアキュムレータシステムを見学して思った。これこそ、私が求めていたもの、私を感動させるのに十分なものだと。
ENIACは、定説として、史上最初のコンピュータとされる。ノイマンは、かなり出来上がってからのENIACと出会っている。ならば、ノイマンは、少なくとも史上最初のコンピュータの発明者ではない。事実、ENIACの特許出願書類の発明者の欄には、プレスパ・エッカートとジョン・モークリーの名のみが記載され、ノイマンの名はない。
その後、ノイマンは、ENIACプロジェクトに深く関係し、しばしば、エッカート、モークリ、バークス、ゴールドスタインらとつき合うことになった。
ENIAC開発の事実上のチーフだったエッカートは、正直なところ、有名なドクター・ノイマンをよく知らなかった。論理に対するノイマンの理解の早さと正確さには、舌を巻かざるを得なかった。しかし、ノイマンは、実技オンチであり、真空管を使って実際にモノを作り、動作させる技術では、アマチュア無線(当時のアマチュア無線は“電話ごっこ遊び”とはレベルが違う)で実技を鍛えたエッカートには、物足りなく見えた。真空管回路についてのノイマンの指摘はしばしば見当外れであったが、駆出しの研究者だったエッカートにとって、大学者のノイマンに露骨に反論することははばかられた。たまにエッカートが注意をすると、ノイマンはまともに争わず、それがまた、若いエッカートには、適当にあしらわれた気がして、不愉快だった。
ENIAC開発現場での小さい摩擦はともかくとして、実は、非常なトラブルが、ノイマンによってひきおこされることが、後で分かる。
BRLとロス アラモス研究所における弾道と核兵器の研究に関連して、ノイマンには、高速計算器の使用を勧める必要があった。ゴールドスタインとノイマンは、ムーア校で議論した高速自動電子デジタル・コンピュータ技術に関する一般的なアイデアをまとめる報告を作成しようと合意し、その結果、ノイマンは、「EDVAC(electronic discrete variable computer)に関する第1報告案」と題する文書を1945年6月30日に作成した。
ノイマンの第1報告案は、101ページもの長い文書で、彼が書こうとした構想の重要な部分であった。15章からなり、各章はサブセクションを有し、高速自動電子デジタル・コンピュータの論理構造及び構成を詳細に論じたものだった。政府の機密扱いを避けるためと、(エッカートとモークリの言葉をかりると)議論した論理的な検討からはずれるのを避けるため、ハードウェアについての具体的な記載は詳しくしなかった。ノイマンに興味を持てない部分だったこともあったのだろう。
第1報告案は、高速自動電子デジタル・コンピュータの製作技術の開発を促進すること、及びこのテーマに関する科学技術思想を出来るだけ広くかつ早く広めるために作成されたものであった。ゴールドスタインは、ノイマンの合意を得て、コンピュータ技術水準を高める知識を一般に利用できるようにするという目的を明示して、第1報告案を謄写印刷によってコピーし、これを多数配布した。
謄写版印刷の完了後、陸軍軍需品部の許可によって機密でなくされた報告案は、直ちに、ムーア校の技術スタッフのメンバーに配布され、さらにその後、米国及び英国にある、弾道研究所、プリンストン先端研究機関、国立防衛研究委員会の応用数学部会、マサチューセッツ技術大学の放射研究所ロンドンの科学計算会社、米国海軍軍需品部、英国のケンブリッジ大学の計算研究所、ニューヨーク大学の数学研究所及びシカゴ大学を代表する多くの他の者にも配布された。
EDVACは、ノイマンが構想したコンピュータであり、蓄積プログラム方式を特徴としていた。これは、一応、ノイマンの発明としておこう。
さすが天才、1944年晩夏にENIACに初対面をして、1年足らずで改良したシステムを構想してしまった、といいたいが、相当部分、ENIACという先行技術を基礎として、蓄積プログラムというαをプラスしただけではないかということもできる(+αが採るに足りないという意味ではない)。
それはさておき、致命的な問題を、ノイマンの第1報告案はENIACにもたらしてしまう。というのは、第1報告案が、前段階として、ENIACの論理をそっくりコピーした内容を含んでおり、当業者が第1報告案を参照すればENIACの発明を実施することができるほどに記載された刊行物であって、そのため、第1報告案が、ENIAC発明の新規性を否定してその特許を無効にするという問題だった。この問題は、ENIACの出願当時は発見されず、ENIACが特許を受けて約10年後の裁判で審議されることになる。
(7)
ENIACマシンの特徴は、プログラムの汎用性にあった。一通りの計算をするだけでなく、種々の手法で情報を処理する。米国特許3120606号の第73図に“主プログラマ”と表示された部分がある。アイオワ生まれのABCマシンには、該当する機能はなかった。しかし、ENIACの汎用性には、問題があった。そのことは、エッカートも認めていた。とりわけ、プログラムをちょっと変更するのに、6000個もあるスイッチやパッチボードの複雑な配線を何日もかけて変更しなければならず、きわめて面倒だった。
ノイマンがENIACと対面したとき、まともに動作していたのは2機のアキュムレータくらいだったが、ノイマンは、ENIACの動作論理をたちまち理解し、問題点を指摘した。それだけでなく、ノイマンは、蓄積プログラム方式によって汎用性を改良したコンピュータEDVAC(Electronic Discrete VAriable Computer)を、第1報告書案に構想した。いわゆるノイマン型コンピュータの原型だった。ミネソタ地裁ラーソン判事は「フォン・ノイマンが第1報告書案で述べた計算システムは、コンピュータの高速メモリを、数値だけでなく、動作指示の記憶にも用いることが特徴だった。すなわち、この“プログラム記憶”という着想によって、自動電子デジタル・コンピュータの速度、柔軟性及び有用性が新しい局面にはいった。」と認定した(判決段落【7.1.2.5】)。もっとも、プログラム内蔵のアイデアは、実は、エッカートも持っていた。第1報告書案より早いエッカートのメモがある。さらにいえば、古いチューリングマシンの中にもあったようだ。
それにしても、モークリもエッカートも、ハンダ付けの位置などを口うるさく命令することが多く、ENIACには文書化された教科書がなかった。軍の仕様変更が頻繁だったこともある。それを、ごく短期間で報告書案にまとめたノイマンは、やはり、天才である。
しかしながらノイマンは、モノ作りは不得手だったらしい。第1報告書案の起草後、EDVACマシンを1946年8月、開発を開始したものの、マシンを完成させる1950年までもたもたしていて、ケンブリッジ大学のモーリス・ウイルクスに先を越されてしまった。そんなわけで、最初の蓄積プログラム方式の汎用コンピュータの発明は、一般には、ノイマンのEDVACではなく、ウイルクスのEDSAC(Electronic Delay Strage Automatic Computer)とされている。ウイルクスは、水銀遅延線メモリを用い、1946.11〜1946.5.6にかけてEDSACを開発した。開発にあたり、ウイルクスは、ノイマンのEDVAC理論を学んだふしがある。ノイマンはEDVACマシンを完成させてはいなかったものの、完成度の高い理論を第1報告書案に開示していた。第1報告書案を熱心に読んだウィルクスは、後に、ノイマンの第1報告書案にはエッカートやモークリに対する謝辞が書かれていないと非難した(NPLレポート,COM90,1977.6"The EDSAC")。ノイマンにしてみれば、第1報告書案を、刊行物頒布することまでは意図せず、形式的な謝辞を記載しなかったのかもしれない。それとも、自分こそコンピュータの発明者に相応しいと自負していたか。ウイルクスが第1報告書案の悪口を言ったことで、ノイマンの報告書案を見た証明になったのは皮肉だ。だからといって、ウイルクスがノイマンより先にプログラム内蔵コンピュータを発明しなかった証拠になるわけでもない。
結局、ノイマンは、世界最初のコンピュータを発明したわけではなく、プログラムを内蔵させて汎用性を改良したコンピュータを発明してもいない。ENIACの実物を見て、汎用性を改良するために“蓄積プログラム”の論理アイデアを加えて第1報告書案を作成し、なにもかも自分が創りあげたみたいに提出したところ、たまたまノイマンを教祖みたいに崇めるゴールドスタインが謄写版印刷して頒布し、ノイマンをコンピュータの発明者にしてしまった。
ノイマンが勝手に報告書案を提出したのを知って、エッカートやモークリは慌てたらしい。しかし、カリスマ大学者で世の信頼も厚いノイマンに、文句は付け難い。
エッカートは、19才で初めて特許出願して以来、生涯いくつも特許出願をしている。モークリもエッカートも、コンピュータを売ったり、使ってカネにするビジネスを企画していた。煩型でキレ者のエッカートだったが、ビジネス志向でおっとりした“思索派”のモークリーとは不思議に肌があった。
ノイマンは、コンピュータを論理学者としての興味の対象のほか、ナチス・ドイツの恐怖に対抗する必須の手段と考えた。現実には、ヒットラーは1945年4月に自殺し、5月にドイツは無条件降伏する。しかし、2次大戦下、アメリカはパニックだった。「マンハッタン計画」(原爆開発・製造のために米国が国家的に科学者、技術者を総動員した大プロジェクトで、科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマー)に集った学者たちは、戦争ヒステリーの状態にあった。ノイマンがそうだったとしても、不思議はない。ハンガリーから逃げるように渡米してきた身である。
マンハッタン計画に参集した学者の中には、アインシュタインのように、後に核兵器の恐怖を訴える陣営に回った人も多いが、ノイマンは、最後までガチガチ右翼。ムーア校自体、保守的な風土だった。モークリーは、FBIの要注意人物だったのだが、彼が同校に雇われたのは、博士号所持者が他にいなかったからにすぎない。
かくして、モークリー&エッカートのグループと、ノイマン&ゴールドスタインのグループとは、反目が深まっていった。
ノイマンは、特許というシステムを嫌っていたといわれるが、これは怪しいところもある。ノイマンは、国防総省法務局に、第1報告書案の写しとともに、EDVACの特許出願を提案していた。1947年4月EDVACの特許権について、ムーア校でノイマンも含めた会議が持たれた。ENIACの特許出願は、モークリーとエッカートがすることになっていたが、現実には未だ出願していない。ムーア校の会議は、ノイマンの出願とエッカートらの出願とが衝突すると察知して、ムーア校が招集したものだった。この席で、ノイマンは、軍の幹部から、第1報告書案は発明の公表に該当し、1年も経過した以上、特許を受けることができないと告げられる。
一方、モークリとエッカートがENIACを特許出願したのは、1947年6月27日であり、地裁が認定した第1報告書案の発行(1945年6月30日)から、2年も後だった。なぜそんなにぐずぐずしていたのか。会社の設立に忙しかった、公表日を1946年以後に予定していた、戦時下で、メンバーの所在不明もあり、出願準備に手間取った、など原因はいろいろ憶測できるが、先発明制度を甘く見て、ENIACの何が、何時、どのように公表されたか、正しく認識しなかったのではないか。先発明制度の米国ではよくある失敗である。
それはともかく、第1報告書案という“立派な”公知例があるのに、どうして米国特許商標庁がENIACを特許したのか、訝しみたくなるところだが、事実が整理されたのは、ミネソタ裁判の後であって、それ以前は、当事者も特許商標庁も、未来を予知するべくもなく、両者の不手際が偶然重なるのである。
(8)
ENIACは、開発を開始(1943.4.9)してから完成(1946.2.15)までの間に、注文主(軍)から何度も仕様変更を受けた。開発リーダーのエッカート自身も、思い付きを次々とマシンに加えていた。エッカートは、ハンダの位置ひとつにもうるさく変更を求めた。その一方、全システムをまとめるハンドブックやマニュアル類を作成していない。ENIACが頻繁に変更されたので、作成し難くかったのだろう。後に特許庁に提出されたENIAC出願の明細書は、豊富な内容ではあるが、あれもこれもとクレームしていて、まとまりに欠ける。発明の同一性は別として、第1報告書案とは些か違ってみえる。
ノイマンが触れなかったハードウエアの枝葉末節が、エッカートにとって捨てられないブレークスルーの集大成だったといえないか。
ENIACの完成は、一応、前記の日ということになっているが、実の所、何日、どういうかたちで完成したか、確定が難しい。ディジタル・コンピュータのENIACが、完成か未完成か、2者択一でない。皮肉なことだ。
それにしても、ENIACの開発者モークリとエッカートは、特許出願手続に、ひどくノンビリしてしまった。ノイマンの論理構想力の素早さは計算外だったにしても、そのノイマンの第1報告書案の公表(遅くとも1945.6.30)から2年も後に、やっと特許出願をした。その間、ビジネスの準備のためデモ実験で公の使用もしていた。これでは、先発明制度の米国でも、あぶない。
しかし、米国特許庁はENIAC出願を特許した。第1報告書案が公知刊行物なら、あり得ないことなのだが、複数の手違いが重なった。といっても、物証はない。第1報告書案にはENIACが開示されていたか。第1報告書案は本当に公知刊行物だったのか。出願人は、先行技術である刊行物の頒布を知りながら出願したフロード(詐欺による特許取得)はないかといったことは、いずれも、30年も後にミネソタ地裁で初めて審理された。ENIACの出願当時、2次大戦の中で、決して明白ではなかった。
加えて、特許庁では、審査担当官はノイマンの第1報告書案をよく検討しなかったし、さらにあろうことか、特許庁内において、責任の所在は判然としないが、第1報告書案が紛失されてしまうのである。以下、出願よりいくらか前に時点を戻す(“【 】”は判決の段落)。
1946年、ノイマンは、彼の第1報告書案の写しを陸軍軍需品部の特許弁護士に提出した。モークリは、弁護士に早く報告書を送付するよう指示されたが、送付しなかった【13.32.1】。
1947年4月1日に、ムーア校の職員ジュールス・ワーシャウは、モークリ並びにケセニッヒ、チャーチ、リブマン及びウッドワード(陸軍軍需品部の特許弁護士)に会って、第1報告書案について、「第1報告書案は機密扱いでなく、多分、それ自体、法律的な意味で先行技術として引用される刊行物になるほど世間一般に頒布されたものであることを指摘する」と述べた【13.32.2】。
その後の1947年4月8日の会合で、チャーチとリブマンは、第1報告書案が特許法上の刊行物頒布であって、後の出願を無効とする引用例となることを認めた。チャーチ弁護士は、この会合で「1945年6月30日付けのあなた(ノイマン)の報告書が公知の刊行物であることは、我々が現在知っている事実に基づく我々の確信である」と述べ、リブマン弁護士は、報告書が機密扱いでなく広く頒布されたことはほとんど疑いがないと述べた。エッカート自身も、報告書に記載されたものは、その頒布によって公共の財産になる(個人の特許の対象でない)と認めた【13.32.3】。
1947年4月8日のチャーチ弁護士のアドバイスに反して、モークリは、彼及びエッカートが第1報告書案は刊行物として頒布されなかったので、クレームできる事項はすべてクレームすべきだと述べた【13.33.2】。
ENIAC特許出願がされる前の1947年5月20日に、特許弁護士ケセニッヒは、特許庁に、1945年6月30日付けのノイマンの第1報告書案の写しを送付した。この送付は、陸軍軍需品部の特許部が第1報告書案が刊行物として頒布したことを意味しないし、第1報告書案と特定の特許出願又は当該(contemplated)ENIAC出願とを結び付けるものでもなかった。特許弁護士ケセニッヒは、ノイマンの第1報告書案が「この主題に関係する審査部、特に23部に参考として」とだけ差出書に記載したが、送付しただけでは、報告書案をENIACの審査官に届けるには不十分だと予測したチャーチ弁護士は、1947年4月8日の会合で、第1報告書案に特許庁審査官の注意を向けるようにしないと、審査官は永久にそれを見ないだろうと述べていた【13.31.3】。
ENIAC出願の弁護士チャーチ及びリブマンは、第1報告書案がENIAC発明の特許性を否定する印刷刊行物であることを知っていたか、又は知っていたはずであった【13.32】。
特許庁に第1報告書案が存在した事実は、出願人及びその代理人の誠実義務を免除するものでない(may excuse)【13.33】。
(1947.6.26 ENIAC特許出願)
特許庁は、一度、特許を否定するために第1報告書案を引用したが、それを紛失又はミスファイルしたようである【13.31】。
ENIAC出願の実体審査手続は、1963年5月23日の補正で開始した。ENIAC出願を担当した審査官は、ノイマンの第1報告書案を特に良く(specifically)見ることもなく引用した。エッカートとモークリ又は彼らの弁護士は、ENIAC出願手続中にその審査官の注意を第1報告書案に向けなかった。第1報告書案は、実体審査中に引用された膨大な先行技術のリストに含まれていなかった。1963年の補正手続から後の特許発効までの間、ENIAC出願の審査を行った特許審査官マニー・ポコチローは、裁判所で見せられるまで、第1報告書案を全く参照しなかったと証言した。
第1報告書案は特許庁に送付されたが、ENIAC出願を担当する審査官がその報告書を知っていたという証拠はない。審査官ポコチローは、特許を付与した時、ノイマンの第1報告書案に気付かなかった【13.33.1】。裁判所は、審査官ポコチローの証言を信用する【13.31.4】。そうするしかなかった。
原告ハネウエルは、エッカートとモークリ 、その弁護士、承継人又は譲受人が第1報告書案について特許庁に対して故意のフロード(詐欺による特許取得)を働いたということを明白かつ確信を抱くに足る証拠によって証明しなかった【13.39.12】。
*
ENIAC出願当時から訴訟にいたる経過
(○:ENIAC、●:その他)
○ENIAC開発開始(モークリ&エッカート1943.4.9)
●EDVAC第1報告書案(ノイマン1945.6.30)
○ENIAC完成(モークリ&エッカート1946.2.15)
●EDVAC開発開始(ノイマン1946.8)
●EDSAC開発開始(英ウイルクス1946.11)
○ENIAC開発会議(ムーア校1947.4.8)
○ENIAC特許出願(スペリランド1947.6.26)
●EDSAC完成(英ウイルクス1949.5.6)
●EDVAC完成(ノイマン1950頃)
○ENIAC特許3120606号(スペリランド1964.2.4)
▽ミネソタ地裁判決(1973.10.19)
(9)
ミネソタ地裁の審理が行われたのは、ENIACの開発ないしは特許出願から30年近くも経ってからだった。ノイマンの第1報告書案は提出(1945.6.30)後37年以上経っていた。
裁判所は、ENIAC特許明細書とノイマンの第1報告書案とを、日本の特許庁で審査審判官がよくやるような、あの要素は同一、この要素は相違するが容易、といった技術対比はしていない。ラーソン判事は、法廷に専門家証人を呼んで証言させ、法廷は証言を信ずる、反証はない、といった調子で、審理を進めた。
ENIACが開発された1940年代に、コンピュータは、単なる四則計算機を超えるシステムとして一般に知られてはいたわけではない。“コンピュータ工学”なる学問分野は、形成されていたとしても、著しく初期だった。“コンピュータ業界”といい得る組織はなかった。コンピュータ技術情報を系統的に交換する慣習もなかった。そもそも、コンピュータ工学の最初の教科書を、ノイマンが執筆したばかりだったし、のちにコンピュータとして、世界に先駆けてこの業界で利用されるENIACが、当時は未だ本格的に稼働していなかったのだ。
判決に、当業者という言葉が使われた。技術も産業も確定しない状態にあるコンピュータの分野において、“当業者”とは一体誰を指すのだろう。
当業者として、発明者のモークリやエッカート、ENIAC開発チームのメンバー、アタナソフ、そしてノイマン、いずれも1970年頃の法廷に居た。そのような人々を、1945年の時代に逆タイムスリップさせて証言を求めること自体は可能だったけれども、彼らは、当業者というには贅沢すぎないだろうか。
さらに、ミネソタ裁判には、1940年代には通常でなかったはずの技術が影響した疑いがある。それは、ENIAC以来成長を続けてきて、ミネソタ地裁において、法廷で審理の証拠資料検索のため使われていたコンピュータの実物だった。
これら当業者というには贅沢すぎる技術が法廷内外にあったことは1940年代に当業者に容易であったと認められる技術の範囲、すなわち第1報告書案に記載された発明とENIACの特許発明との同一性の幅を拡げてしまう。そのような中で、ENIACの新規性や進歩性を争うことは、モークリやエッカートにとって、非常に不利ではなかったか。法廷に形成されたバーチャルな1940年代の当業者が、裁判の専門家証人たちに、“hindsight”(後知恵)を作用させなかっただろうか。
具体的に、@第1報告書案はENIACを開示したか、A第1報告書案は頒布された刊行物だったか、裁判の経過を含め検討してみよう。
*
@第1報告書案にはENIACが記載されていたか。
ノイマンの第1報告書案は、コンピュータの動作を脳細胞と神経細胞による情報伝達にたとえ、101頁、15章からなり、さらにサブセクションに分けてコンピュータを解説した。
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("First Draft of a Report on the EDVAC"
1945.6.30 ペンシルバニア大学ムーア校電気工学科)
@定義
Aシステムの主要部
B議論の順序
C素子および同期機構の神経細胞との類似性D算術演算を支配する原則
EE素子
F算術演算+×の回路
G算術演算−÷のための回路
H2進小数点
I算術演算のための回路,その他の演算
JCA(中央演算)の構成,演算の完全なリスト
KM(メモリー)の容量,一般原則
LMの構成
MCC(中央制御)およびM
Nコード
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第1報告書案の目的は、ノイマンが構想したコンピュータEDVACを解説することだった。ENIACはEDVACを述べる前提、いわば旧機種にあたる。
前提だからといって、ノイマンは、報告書案に、ENIACをすべて開示したわけではない。ノイマンは、得意とする論理(ソフトウエア)について主に解説したが、真空管回路を中心とするカナモノの特徴を、詳しくは述べなかった。一方、ENIAC出願(米国特許3120606)の明細書・図面には、真空管回路が詳しく記載されている。エッカートにとっては、彼の真空管工学の集大成のようなものだった。
もっとも、出願明細書には、先に触れたクレーム88,89のように、発明といえないありふれた事項まで含んでいたので、全ての部分の新規性を主張するわけにもいかなかったろうが、エッカートの立場に立てば、フリップフロップ回路などハードウエアのブレークスルーを中心として、争点はいくつもあったはずである。
判決は、ENIACのハードウエアの詳細な技術内容をどこにも認定していない。1940年代は、機械リレーを真空管に置き換えただけで、発明とされたケースもあった。ENIACには、いますこし、具体的技術について、主張立証があってもよかったと思われるのだが、モークリは、ノイマン憎しの故か、法廷で、あまり冷静ではなかったと言われている。
ノイマンの第1報告書案に何が開示されていたか、裁判所の認定は以下である。
第1報告書案には、マシンを製作するための具体的なハードウェアについて詳細な開示はないが、高速自動デジタル・コンピュータのシステムの論理制御をどのように実現するかについての技術を当業者に知らせるのに十分な開示を含んでいる【7.1.3】。
第1報告書案に開示された各論理素子(以下、「素(organ)」という。)は、実際に入手可能なものに対応していた。ENIAC特許の基準日より前である第1報告書案の公表時、当業者は、第1報告書案に基づいて、そこに記載されたコンピュータを製作し使用することが十分可能であった。このことは、この分野の専門家が公判でテストした結果から明らかである【7.1.3.1】。
原告の参考専門家証人ケネス・ローズは、第1報告書案を読み、理解し、第1報告書案が開示する蓄積プログラム技術の裁判所用のデモ用モデルを提出した【7.1.3.2】。
また、裁判所は、コンピュータが報告の内容に基づいてその当時(1945年)に製作できたか否かを判断するため、報告書案を広く検討した原告の専門家証人ポール・ウインザーの証言を聴いた。ウインザーは、第1報告書案に記載された素子を製作するために、報告書案の公表時に利用できた戦時技術を調査した。それら検討の結果、ウインザー及びミネソタ地裁は、第1報告書案は、1945年の当業者にとって、報告書案に記載されたコンピュータを製作し、使用することが十分に可能であったとの結論に達した【7.1.3.3(前半)】。
当裁判所において主張されたENIAC特許においてクレームされた発明には、第1報告書案に基づいて新規性および進歩性がないと認める。当裁判所のこの認定は、原告の専門家ウインザーの証言を含む記録を裁判所が独自に検討した結果である【7.1.4】。
第1報告書案がENIACの発明の基本的着想を開示したという認定は、ENIAC出願が出願された時より前に同じ問題を考えた者の陳述によっても裏付けられる【7.1.5】。
原告ハネウエルは、当審において、ENIAC特許発効時の17のクレームの内、クレーム36、83、86、88、 109、 122及び 142、又はそれらのどれも第1報告書案を含むことを証明できなかった【13.31.2】。
(10)
1945年5月ドイツは降伏したが、日本はまだ戦いをやめていなかった。
ヒットラーは既に死亡し、もしもナチスが原爆を開発したら、という恐怖は、アメリカにとって、もはやないはずだった。しかし、日本軍による真珠湾攻撃の恐怖は消えていなかった。日本機によるカミカゼ特攻(実際に、たいした“戦果”をあげたわけではなかったが)飛行機が船艦に向かって捨て身で突っ込んでくる恐怖に、アメリカ兵は、怯えていた。
おまけに、アメリカの勝ちが確実になってから、ソ連が参戦してきた。戦後処理について、アメリカは、ソ連との主導権争いを始めなければならなかった。ソ連は、日本の北方領土だけでなく、北海道全体を占領しようとしていた。ぐずぐずしていられない。
突然死んでしまったアメリカ大統領ルーズベルトの遺志を継いだ、あまりパッとしない副大統領だったトルーマンにとって、当面何かしてみせないことには、米国民から総スカンを喰らう恐怖があった。
1945年8月6日、マリアナ諸島のテニアン基地を飛び立った爆撃機「エノラゲイ」は、朝の広島に原爆「リトルボーイ」を投下した。戦場でない後方地帯の広島上空で、すさまじいウランの核分裂がおこった。衝撃波、爆風、熱線、キノコ雲、それらは、当時のコンピュータで計算できたかもしれなかったが、広島市民に何がおこるか、予測できるわけもなかった。
原爆1個では、アメリカは不安だった。8月9日、同じテニアンから飛び立ったB29爆撃機「ボックスカー」は、長崎に、広島のときより太っちょのプルトニウム239原爆「ファットマン」を投下した。
日本軍は、新型爆弾の存在を知っていた。とりわけ、広島市民に報せることも可能であった。しかし、日本人にも秘密に、攻撃は行われた。
アメリカ大統領トルーマンは、2個の「特殊爆弾」が日本に対する警告になるだろうと、ニコニコして報告した。拍手がおこった。無差別爆撃の実態は、このときも、その後数十年たったいまでも、多くのアメリカ人に知らされていない。
20億ドルもかけた原爆は、他の原爆を抑止すると表明されたにも拘わらず、原爆を減らさなかった。核兵器は、アメリカ、ソ連から、世界に広がっていった。ノイマンの明晰な頭脳によるゲームの理論も、そのことを理解していない。
ノイマンにとって大切だったのは、政治の話よりも、最小の損失で最大の効果をあげる論理だった。原爆は未だ開発途上だった。不確定な条件から確定した結果を得るには、膨大な計算を高速に正確に実行する必要があった。政治談義で感情的に口喧嘩して時間を浪費しても仕方がない。計算をするために、ENIACを完成してしまわなければ。
ところが、肝心のENIACに、エッカートときたら、ハンダ付けの位置がどうの、シフトレジスタを構成するフリップフロップが何段必要かだの、論理ではとっくに結論の出ている“些末な”問題にあくせくしていた。陸軍の注文が頻繁に変わるせいもあったが、何と無駄な。
そんな想いが、ノイマンの第一報告書案完成を急がせた。結果的にモークリやエッカートらENIAC発明者を出し抜くことになるが、そんなことはノイマンにはどうでもよい問題だった。オレはノイマンだ。報告書案に書いたものはENIACじゃない、EDVACだ、文句があるか、とまでは言わなかったが、政治がらみの無駄話も、技術的な枝葉末節も、いい加減にしてくれとはいいたかったろう。
ノイマンが、コンピュータの情報を公表し、それがENIAC特許を無効にする深刻な理由となってしまったことは、悪意からではなかったとしても、ノイマンとモークリらとを、一層不仲にした。モークリは、1980年1月8日他界したが、最期までノイマンを恨んでいたらしい。
皮肉なことに、ノイマンの論文はあまりにも優れていた。そのため、ノイマンをコンピュータの発明者とする説ができてしまった。ノイマン自身のオリジナリティも含んでいたから、全くの出鱈目ともいえない。そもそも、蓄積プログラム方式を記述した第一報告書案という著作物の創作者がノイマンであることは、疑う余地がない。
このあと、ノイマンはENIACよりも汎用性を改良した蓄積プログラム内蔵コンピュータEDVAC(Electronic Discrete Variable Computer)を1950年に論理構想する。それは、「ノイマン型コンピュータ」の基本だった。
ENIACそのものは、最後の製作に時間がかかり、終戦まで使い物にならなかったので、原爆の弾道計算に間に合ったとは思えない。しかし、ENIACより一足先にノイマンによって創作されたノイマン型コンピュータは、広島、長崎への原爆投下を推進させた。
1945年8月、日本は降伏した。しかし、核は世界に広まっていた。戦争の不安は去らない。
水爆開発元年といわれた1950年、ノイマンは軍の武器体系評価グループと国軍特殊武器計画の顧問としてワシントンに勤めた。51、52年、さらに4つの顧問(中央情報局、原子力委員会総合諮問委員会、リヴァモア研究所、空軍科学諮問委員会)を引き受けた。核実験にも立ち会った。ノイマンは、自分の身体に浴びせられた放射能に、無頓着すぎた。1955年8月、診断書がノイマンの左肩鎖骨巨細胞の腫瘍を警告した。それは末期のガンであった。明らかに、核実験の放射能の影響だった。
ノイマンは、病院へ入退院を繰り返しながら、自らの仕事をまとめることに急いだ。病魔は、ノイマンの頭脳をも蝕んだ。癌の苦痛は、ノイマンの論理をもってしても、プログラムすることができなかった。苦しみのあまり軍事機密を口走るのではないか、と心配する者がいた。
ウイキペディアから抜粋
第五福竜丸(第五福龍丸、だいごふくりゅうまる)は1954年3月1日、米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船の船名である。無線長だった久保山愛吉がこの半年後の9月23日に血清肝炎で死亡した。
ウイキペディア・被爆事件 [編集]
キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー(BRAVO)、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被曝した[1]。実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を計ったが延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり第五福竜丸の船員23名は全員被曝した。後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼるとみられ、被曝者は2万人を越えるとみられている。
予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初米国がこの爆弾の威力を4〜8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであった為、安全区域にいたはずの多くの人々が被曝することとなった。
第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言を遺して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へと移行することを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。また事件が一般に報道されると、「放射能マグロ」の大量廃棄[2]や、残留放射線に対する危惧から魚肉の消費が落ち込むなど、社会的に大きな影響を与えた。
これに対してアメリカは、第五福竜丸の被曝を矮小化するために、4月22日の時点でアメリカの国家安全保障会議作戦調整委員会(OCB)は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴのちりの化学的影響とする」と明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長が死亡した際に、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けている。[3]
第五福竜丸の被曝により、日本国民は原子爆弾・水素爆弾と両核爆弾の被爆(被曝)体験を持つ国民となった。
第五福竜丸は被曝後、救難信号(SOS)を発することなく自力で焼津漁港に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている[4]。
1957年2月8日、フォン・ノイマン死去。54才、学者として未だ老齢前の惜しい他界だった。ノイマンがもっと生きていたら、ノイマン・ボトルネックと呼ばれる、現在のコンピュータにおいてどうしても計算が遅れる問題を、並列マシンよりも、もっと大きく改善できたかもしれない。それどころか、非ノイマン型コンピュータだって実現したかもしれない。だのに・・・
(11)
ノイマンの没から20年。
「誰が何を発明したかをいうときは、発明をハッキリ定義すべきだ。」
ミネソタ裁判に敗れたあと、しばらく沈黙していたプレスパー・エッカートが登場したのは、学会誌「Computer」(VOL9.No12、1978年12月号)だった。エッカートが述べた学会誌の記事を抄約する:
○なぜ10年早くENIACが発明されなかったか? 真空管はすでにあった。パンチカードシステムも良くないがあった。必要は発明の母というが、弾道計算が開発のきっかけになった。いまやコンピュータはよく知られた。金額の間違いがあるとコンピュータのせいにされる。
○コンピュータ開発上必要なブレークスルーは120あった。ENIACに役立ったものは20位。コンピュータ開発の第1期(初期、1943-1950)既存の部品が使われ、新しいシステム概念は生まれたが、ユーザーニーズは理解されなかった。第2期(成長期、1950-1960)新しい部品としてトランジスタが生まれ、大容量メモリ、システムは改良された。第3期(改良期、1960-1975)ICが生まれたが、新しいシステムはほとんどない。リアルタイム、TSSぐらいだ。第4期(成熟期、1975-)いくつかの分野(大容量メモリ、文字認識、音声認識、パターン認識、自己学習)のブレークスルーはあったが、ほとんど進歩はない。ソフトウエアは未解決。
○ブレークスルーの50%は成長期に生まれた。25%は初期でその85%が生きている。成長期に50%で半分は今も生きている。コンピュータがパンチカードシステムと争ったように、白熱電球は初期の同じものと争い、アーク灯とも争った。白熱電球の概念は以前からあったが、発電機の開発で、本格的に開発された。ドラリューの提案(1820)や最初の特許(1841)からエジソンの特許は1879年。スターのフィラメント電球はエジソンに近いが35年も前だ。
○誰が何を発明したかをいうときは、発明の定義をハッキリさせるべきだ。エジソンの特許には、スプレンゲルの水銀真空ポンプ(1865)や発電機を欠かせない。ライト兄弟やディーゼルも同じ。コンピュータについては、バベージは100年も前だ。
○120のブレークスルーのうち、90%はアメリカ生まれ。内30%はUNIVAC社、エッカート、モークリー、ERA社。15%はIBM。
○役立っている発明の背景には準備と土台がある。ENIACも無から始めてはいない。サブルーチンやフレキシブルな中央制御システムを導入してできた。改良されてはじめて、魅力ある発明品になった。準備と土台があってENIACができた。
○ENIACの真空管5000本の予定が18000本になった理由は、政府の要求が増えたためだった。予算は15万ドルから40万ドルになった。分散型制御を採用したのは、中央制御部を複雑化せずシステムを追加でき、スピードが増し、ワイヤの数が少ないから。我々は、同時“処理”を実験した。後のコンピュータが直列処理したのと対照的だ。サブルーチンをたくさん使えた。
○中央制御は人間から得た概念だ。人間は中央制御を好む偏見を持つ。頭をたたきながら腹をこするプログラムに数秒かかる。逆にすると、混乱し、すぐにはできない。逐次式にプログラムするからだ。たくさんの処理を同時にするのに、たくさんのマイクロプロセサとそれらを統合する別のプロセサが必要。メモリ転送速度を10〜30倍にすればいい。ワードをビット・スライスして、コンピュータを分割してもよい。
○内部記憶、内部プログラミングの概念は、ノイマンでなく我々のアイデアだった。ENIACは汎用性について長短両所があった。セットアップに何時間もかかった。弾道問題を解くために作ったが、次は何を解くかわからなかった。ディスクを使うアイデアをメモにしたのが1944年1月だった。これは、フォン・ノイマンがムーア・スクール(ペンシルバニア大ムーア電気工学科)に来る前だ(書類で確かめた)。その後、ノイマンにアイデアを話した。ノイマンは、(電気にでなく)論理に関心を持ち、驚くほど速く理解した。
○フォン・ノイマンは極秘のアイデアを勝手に公開した。モークリー、ノイマンそして私(エッカート)はENIACについて話し合った。ENIACはノイマンからつまらない影響を受けた。並列マシンの議論もした。種々のアイデアは、軍事機密だったのに、ノイマンは、神経学の言葉に翻訳して、他人にしゃべってしまい、私は当惑したが、若輩だったので報復できなかった。ノイマンの説明は粗っぽかったが、彼は訂正を拒んだ。彼はのちにIBMのコンサルタントになった。この行為は不誠実だ。
○これまでできなかったパターン認識などに真剣に取り組め。モークリーや私が過去に新しい概念を産みだしたが、今の若い人にも同じチャンスがある。私たちができないことを見つめないといけない。パターン認識、人工知能など。ここにチャレンジがある。チューリングも言っているではないか。「ある段階までは、誰もどうやったらそうなるかわからんと思うよ」(1949?)。
学会誌「Computer」(VOL9.No12、1978年12月号)
*
ノイマンは、ENIACのグループと、ひどく仲たがいをしたことになっている。エッカートは、ノイマン没後20年を過ぎて猶、computer誌でノイマンへの恨み事を述べている。
ノイマンは、好きで嫌われ者を演じていたかにもみえる。
ところが、ノイマンの側では、ENIACとその開発グループのメンバーに対して、敵対意識をあらわにしてはいず、むしろその逆でさえあった。
ENIACマシンに対しては、ノイマンは、終始好意的だった。当初のゴールドスタインの前宣伝のせいもあったが、もともと、ENIACに会う前から、コンピュータの能力に大いに興味を持ち、計算能力に期待していた。
ENIACグループのプレスパー・エッカートはといえば、実のところ大学者ノイマンをよく知らず、どうせ妙な質問でもするだろうから、そのときはバカにしてやろうなどと考えていたらしい。ところが、ノイマンは、ENIACと対面するや、たちまち論理を理解し、プログラム内蔵の問題点など、エッカート自身心の内で気にしていたポイントを鋭く見抜いて質問した。
質問をしながらも、ノイマンは、このENIACこそ自分が求めていたものだと喜んでいた。開発メンバーについては、左翼のモークリに対してはともかく、エッカートに対しては、活力にあふれ素早い仕事ぶりや几帳面さを高く評価していた。エッカートをムーア校における技術責任者にして、協同研究をしたいとまで考えた。そのことをエッカートにきちんと話したのかどうか。話していればいくらうるさ型のエッカートだからといって、そうノイマンを悪くいわないだろうに。
エッカートと協力体制をつくる話は、しかしながら、エッカートがモークリとつるんで特許取得してコンピュータ技術の独占を企てていると聞き、ノイマンは引いてしまった。自分の研究が自由にできないと困ると思ったからだ。ノイマンが特許制度を誤解していたふしもある。
それでも、ノイマンは、さほどにはENIACやエッカートを悪くは思っていず、むしろ、ENIACの開発をなにかと援助した。
ノイマンの第一報告書案は、軍事機密の隙をぬって英米各所に頒布され、のちの裁判でENIAC特許の無効理由としてエッカートとモークリを苦しめたが、ノイマン自身は報告所案を頒布したわけではなく、頒布を目的として原稿案に筆を入れることもしていない。あちらこちらにばらまいたのはゴールドスタインだった。ノイマンが恨まれることはない。
1944ー46年頃といえば、企業人はENIACに冷たかった。ENIACを視察したIBMのトム・ワトソン・Jrなどは、「だだっぴろい金属の棚に真空管をずらずら並べて」「少しは切れるエッカートと、うすぼんやりしたモークリのコンビがわが社をもうすぐ蹴飛ばすなんて、お笑い草だ」「ENIACなど、図体が大きいばかりのコケおどしにすぎない。維持費がかさむし信頼性もない」と、後のIBMの飯の種を考えれば、随分と罰当りなことを言っている。ワトソンの単なる先見性のなさか、でなければ性格の悪さである。
エッカートにとって、ENIACは、初め与えられていた弾道計算の次にどんな仕事があるのかも決っていなかったが、ノイマンは、気象予報への適用を考え、1946の5〜7月、海軍と相談した。当時気象学は整備されていず、方程式より未知数のほうが多かった。ノイマンは、ENIACが偏微分方程式を扱えるように改良した。実態は「24時間先を予報するのに36時間かかる」ありさまで、おまけに世間では数値解析のような計算を低く見る風潮があり、軍事機密の壁もあった。けれども、ノイマンの業績で、世の中の計算コストは低くなり、偏見は次第に改善された。
ENIACマシンの開発は、完成近くでモタつき、2次大戦が終るまで使われなかった。ENIACは、1946年6月30日アバディーンの陸軍フィラデルフィア軍需特別区の管理になり、それでもすぐにはアバディーンに移送されず、ロスアラモスから依頼された面倒な計算の残務に時間を費したのち、1947年7月29日になって、やっとアバディーンで再度灯が入って稼働した。そのとき、装置に手を入れて、かなり原始的ではあったがプログラム内蔵コンピュータに作り替えたのはノイマンだった。演算速度はいくらか落ちたが、プログラミングの能率が上がり、ENIACは、1日24時間フル稼働を続けた。
ノイマン自身が構想したEDVACは、完成する以前にウイルクスのEDSACを始めとする後継機種が出現してしまい、必ずしもノイマンのために働きはしなかった。ENIACは、1955年10月2日、取り付けられた何千ものスイッチをすべてオフにされて、スミソニアン博物館に納められた。その2ヶ月前、ノイマンは末期がんを告知されていた。それから2年もたたず、ノイマンは逝った。
ノイマンの母国ハンガリーでは、ノイマンは、紛れもなくコンピュータの発明者である。ハンガリーのノイマンを讃える碑には、科学技術は人間の使い方次第であるという趣旨のノイマンの言葉が刻まれている。ノイマンがそう言ったのか確証がないが、同じ趣旨のことは、全米ライフル協会が、人が銃を所持すべき理由として主張し、国が核兵器を持つべき理由として米国が主張している
(12)
*
ミネソタ地裁判決 1973.10.19
特許 1953.2.24 USP 3,120,606
特許出願日 1947.6.26
基準日 1946.6.26(出願日の1年前)
*
ENIAC特許がミネソタ地裁で無効にされた理由として、アタナソフの先発明、フォン・ノイマンの第一報告書案の刊行物頒布をみてきたが、いまひとつ、特許出願前の公然使用があった。 ENIACの米国特許にクレームされた発明は、基準日より前に公用されていた、と判決は認定した【1.1】。エッカートとモークリはENIACマシンを、出願の1年より以上前に、実験以外の目的で大胆に公用していた。先発明制度とはいえ、出願1年前よりさらに前では救われない。
そもそも、何を、誰が、いつ、どこで、いかなる意図で、どのように公用したか。ENIACは巨大だし、説明が面倒になるのは当然のことだが、判決はそれらを、一応事実認定している。しかし、証拠がどうも怪しい。裁判所が認定した発明公用の主な事実には、クレームの文章転記は含まれない。36項のクレームの何番が実施されたのか、特定されていない。
そこで、「何」が実施されたか。
判決は、ENIAC特許の実施は、ペンシルヴァニア大学電子工学ムーア校で作られたENIACマシンを、開示しクレームした発明の実施と認めた【1.1.1】。ENIACマシンとは、巨大な電子コンピュータであり、戦時中に政府資金を使ってムーア校の職員によって作られたものであり、約18,000本の真空管、数百個のスイッチ、数千個のリレー及び数マイルの配線を用いていた【1.1.1.1】と。
だから何なのか? クレームされた発明はこれでは分からない。被告は、ENIAC特許がすべての他のマシンの起源となったパイオニアの電子コンピュータであると主張する。当然、争点にもならない。
ENIAC マシンは、1946年6月6日頃に陸軍に運ばれ受領されたことが、ムーア校のチームの作成した最終報告書に記載されている。作られ作動したENIAC マシンと最終報告書に記載されたENIAC マシンとの間に格別の違いはなかったという【1.1.1.2】が、実は、148のクレームの文言の中には、相当違うものもあった。そういうレベルでいえば、アタナソフのABCマシンを先発明と担ぎ出したモレンホフの“いいがかり”さえももっともらしくなる。
ENIAC特許が開示した記載内容は、ENIACマシンの最終報告書の対応する部分の記載に基づいて抽出されたものだった。最終報告書に記載されたものとENIAC特許のクレームとの間に格別の違いはない【1.1.1.3】、などという認定も、正しいはずがない。しかし、特許権者エッカートらは、争わなかった。争えば、明細書とりわけクレームの不備を自白することになる。それは、フロード(詐欺)につながる。
判決は、エッカートとモークリーが「発明の実施例」であると述べたENIACマシンの主題全体は、有効な特許性がない。なぜならば、このマシンは、出願日である1947年6月26日より1年を超える前に米国で公用されていた【1.1.1.11】と認定した。この認定は、認めざるを得ない。これだけの事実の流れがあれば、証拠の少々の疑義など到底問題になるまい。
ENIAC特許でクレームされた「発明」を実施したENIACなるマシンは、非実験的な目的で、基準日より前に公用された【1.1.3】。具体的には、エッカートらの次の行為だった:
[1]1945年12月〜1946年2月のロス・アラモスでの計算
[2]1946年2月1日、プレスへ国際的公開するための使用
[3]1946年2月8日のニュース映画の使用
[4]1946年2月15日の除幕式での使用
[5]1946年2月16日のオープン・ハウス(open house)の使用
[6]1945年12月〜1946年6月の定常的実用
[7]1946年2月〜1946年4月の販売勧誘
以上のように、ENIACの基準日前公用の事実は「明らか」だが、せっかくだから証拠の疑義にも触れておく:
[1]について、裁判所は、W. J.ステファンズ,Jr.少佐からA.ボーベックへの1946年3月19日付け書簡PX4245によれば、これまで、ニューヨークの南部地区裁判所スペリランド対ベル電話研究所事件において、故アーチー O. ドーソン判事らの注意を引かなかったが、明らかに、1946年3月より前に、ENIACマシンが「電子数値積分器及びコンピュータの開発に関する研究及び実験を終え完成されていた」ことを示していた【1.1.3.1】と認定した。先の事件の認定との矛盾を言いながら、理由は不明だ。
同上、スペリランド及びベル事件では、ムーア校とENIAC特許出願の作成を担当する陸軍軍需品部の特許セクションとの1946年11月の書簡(シャープレス/リブマン書簡)に証拠価値があると考えなかったという。PX5374では、言及している新聞発表の日付に誤りがあり、でなければシャープレス/リブマン書簡は大きな証拠の価値があり、明らかにこの時ENIAC特許出願を作成していた陸軍軍需品部の代理人リブマンに、完成したENIACマシンが1945年12月10日にマンハッタン地区のための一組の偏微分方程式(ロス・アラモス問題)に対して最初に実用目的で稼働したという。書簡に「最初の問題がマシンにかけられたときが、マシン全体を使用した最初であるが、問題が解かれることは十分予想され実際に解かれた」とあるので、この最初の仕事は実験ではない【1.1.3.2】と判決はいう。新聞社に問い合わせればすぐ明らかになるような事項を何故判決に書く必要があったのか。
[2]に関して、ENIACの回路及び詳細設計の機密扱いを、エッカートとモークリーとは監督していなかった。1945年の機密解除したものの、ENIACの詳細設計及び回路は、ビジネス上の利益及びエッカートとモークリーの私的な利益と関係なく、政府の権限で1947年2月まで秘密にされたと、判決は認定した【1.1.5.3】。出願日(1947.6.26)の4ヶ月前秘密だったとすれば、認定した公用の事実が怪しくなるじゃないか。
[4]について、除幕式で行ったENIACマシンの計算はどれも、ENIACマシンで実施した「発明」を完成させるためでも、私的利益のためでも、エッカートとモークリーが監督したものでもなかった。二人の関心は、私的な商業利用だった(【1.1.5.22】【1.1.5.6】【.13】)。
エッカートとモークリーによるENIAC公用が、「発明」を完成させるために必須の実験であれば、公用といえども、特許無効原因の例外ということができたかもしれないが、その立証責任をスペリランド及びISDは果たさなかった【1.5.4.3】らしい。その通りだろう。
判決も、ノイマンを含むいかなるアカの他人たちも、ENIACという発明の完成を、どこかの時点で、“後知恵”によって決めてしまった。憶測だが、完全主義者エッカートには、ENIACは、最後まで進化途上にあった。進化が止まって「完成」すれば特許出願する予定はあったにしても、完全主義のエッカートは、敢えて出願を控えた。先発明制度をナメていたという面もあろうが、エッカートには、ENIACの公用が実験的か非実験的かなどどうでもよかったのだ。代わりに、ハネイウエルが、ENIACの公用が非実験的で実用的と証明した【1.5.4.3】と聞いて後悔したかもしれないが、結局、その後、エッカートとモークリ以外にENIACの発明者と名乗りでた者はいなかったし、ENIACが最初のプログラム内蔵コンピュータという神話が崩れた事実もなかったのだから。
(13)
? 話はかなり戻るが、ENIACを共同発明したプレスパー・エッカートとジョン・モークリーの二人は、どういう理由でツルんだのだろうか。彼らは、まことに、不思議なコンビだった。秀才でうるさ型で、エネルギッシュで、怒りっぽい完全主義者のエッカートと、12年々長の、春風みたいにヌーボーで、なごやかで、愛すべきインテリだが、どこか影の薄いモークリー。どこでどうウマが合ったのか、ENIACチームのみんなは不思議がったものだ。
モークリーは、1907年8月30日生まれ。夜おそくまで本を読むのが好きだった。遅くまで読書していると、父親に怒鳴りつけられる。モークリー少年は、階段にセンサを付け、父親が来ると部屋のランプが自動的に消える装置を作っていた。電力事情が未だ充実はしていない時期の悪戯だった。数学と物理の天才モークリは、花火をリモコンで打ち上げてみせる電気オタクでもあった。ジョンズ・ホプキンス大学の大学院で分子分光学を学び、博士号を取得するが、職はおいそれとは見つからぬ。折しもアメリカは大恐慌。ようやくペンシルバニアのアーサイナス・カレッジに奉職するが、学部維持のため年俸の10%を召し上げられる。関係はないが、昨今の日本の社会保険庁職員の賃金カットみたいにも見えて、なにやらいじましい。それでも、モークリーの授業は、スケボーを教壇に上げて物理運動を説明したりして、なかなか人気があったらしい。
電子回路の組立に計算機が必須であった。もっといい計算機はないか、モークリーは気付いた。「真空管」がいい。それも、アナログでなくパルスで計算させたら? 1940年、MITの優秀な数学者ノーバート・ウイナーと話し、電子計算機こそ将来の方向であるとの確信を持ったモークリーは、さらに1941年、アイオワのアタナソフを訪ね、新しいデジタル方式に遭遇し、刺激を受ける。このときの彼の行動が、IBMの陰謀によって、モークリーがアタナソフの発明を盗んだと訴えられることになるのだが、ずっと先の話である。
モークリーがアイオワから帰ってすぐ、ペンシルバニア大学のムーア校で米陸軍による電子工学コースのクチがかかった。そのときクラスで最年少実験指導員だったのが、モークリーより12才若いプレスパー・エッカートだった。かくて二人は出会った。
エッカートは、金持ちのお坊ちゃんであり、生まれながらの天才と言われ、幼くしてラジオやスピーカの絵を描き、鉱石ラジオを設計し、池を動くヨットの模型を作って表彰され、無線やアンプに興味を持ち、火葬場の不気味なガスバーナーの音を打ち消す音楽放送システムを作っていた。天才ではあったけれども、この人も、することがオタクっぽい。
エッカートは、超一流のMITに充分入学できたのだが、母親に泣き落とされてランク下のペンシルバニア大に入り、ムーア校に移ってきた。天才だったが点取り虫ではなく、嫌いなことは全然しない特性もあった。学部長の面白くない授業に出たはいいが、居眠りを決め込み、とがめられて、こんな話を聴いて寝ずにいられるかと言い返すわがまま。反面、好きなことには懸命になるオタクの性癖が、エッカートをENIACへ導いてゆく。
21才で光ビームを往復させてフィルムに歪の少ない記録をする「光調節の方法と装置」を出願し、特許取得しており、特許出願には縁があったエッカートは、レーダーの研究を通じて電子回路を使った計算機を模索するようになった。計算機を高速化させるにはデジタル化だ! この考えに、エッカートは、一回り歳上のモークリーと、ピッタリと気持ちが合った。
当時の人々の認識では、エッカートとモークリーのデジタル電子計算機の構想は、ユニークというよりエキセントリックであった。普通であれば学会も産業界も相手にしなかったところだったが、始まった2次大戦がチャンスをもたらした。弾道計算の目的で高速の計算機を必要としていたのである。実のところ、アメリカ陸軍は、追いつめられ、藁をもつかむ雰囲気にあり、24才のエッカートと35才のモークリーによる若造のエキセントリックな思い付きにさえ飛びついて、カネを出した。かくてENIACのプロジェクトXは誕生した。
ENIACが“マニアック”な二人を結び付けたといえば、ぴったり来る。
ENIACのために集まった人々に、異常な活気があった。とくに“プログラマ”と呼ばれた数学の専門家である女性たちの活躍が顕著だった。
計算に機械リレーでなく電気を使うデジタル・汎用コンピュータを夢み、やがてプログラム内蔵というコンセプトの汎用機を具体化させる二人の男は、そのころ、机に腰掛けて、足をブラブラさせながら、高速で計算する機械について語り合った。エッカートとモークリーの幸せな時期であった。
ムーア校は保守的な校風だった。モークリーのような、アカ狩りの時節がら(FBIが身辺をウロウロするような)感心できない人間を雇ったのは、たまたま博士号の頭数が揃わなかったからだった。
その後、ENIACチームの管理者役ゴールドスタイン中尉が大御所のフォン・ノイマンに心酔し、開発に参加させ、持ち上げまくったことで、ENIACチームにひびが入り、さらに、エッカートとモークリーに、一転してさまざまな不幸をもたらしてゆく。
ノイマンは、信じられないほど優れた論理で、エッカートらがそれまで開発用にマニュアルひとつ作っていなかったENIAC環境に学問体系を与える「第1報告書案」を起草した。エッカートとモークリーは、慌ててENIACの特許出願をするが、明細書には種々の不備があり、のみならず、決定的な出願日の遅れに起因する特許の無効が、のちにミネソタ裁判の法廷で明らかにされる。
エッカートとモークリーの志向は、ノイマンと違い、コンピュータで特許を取得し、ビジネスへ利用することにあった。アメリカ人としてはよくある自然な志向だったが、このことが、二人とノイマンとを対立させ、結果として、ENIAC特許を無効にする重大な原因を作り出してしまっていた。
「ノイマン、お前だけは許せない!」
モークリー自身が言ったのか、「エニアック」の著者スコット・マッカートニー(*)の代弁なのかよく分からないが、さまざまな不幸が発明者でビジネスマンの二人を苦しめる。
※
(14)
1946年、コンピュータ産業は、まだ、かたちがなかった。コンピュータって何?、ENIACチームを助けて手作業計算をした女性たちのことと、誤解する人もいた。
1月30日、米陸軍省は、ENIACのプレス発表を行った。実は、特許出願は1年半以上後の1947年6月26日。いくら先発明制でも無茶だ。
ともかく、プレス発表は、38才のモークリ、26才のエッカートがニコニコ説明した。「世界最速コンピュータENIAC、電子を使った“コンピューティング”にご注目を!」「ENIACのおかげで、お天気がわかる」「ロシアが水爆で攻めてきても、弾道計算で対応できる。死の灰をお返しします」「パンが安くなる、税金も安くなります(ウソだろー?)」。大変な費用だろうが、陸軍がもってくれたのは超ラッキーだった。
エッカートとモークリーは、エレクトロニック・コントロール社を設立し、ENIACの名を、UNIVAC(Universal Automatic Computer)と変え、ダンス・スタジオだった建物で、営業を始めた。
コンピュータが成長産業かは未だわからない。二人の夢想は、何事につけすばやい米国ビジネス界でも、早すぎたかもしれない。
エッカートは、コンピュータ(女性ではなく機械)をスーツケースでモバイルにするアイデアを機関銃みたいに出していた。着想はよかった。彼らのアイデアは後世になってほとんど実現したから。が、いかんせん、当時としてはどうも。それでも、コンパクトなコンピュータをデザインして、ゴキゲンだった。
エッカートとモークリーとは、アイデアを文書でなく、口から口へ、喋りながらバージョンアップさせていく。フォン・ノイマンに文書にされて失敗したのに、懲りない。ビジネスを嫌ったノイマンは、いなかったからいいとして、社長のモークリーからして、民主々義にありがちな非能率ばかり目立って、会社経営がその体を成していなかった。さすがに財政危機の認識はあったものの、資金収集力が頼りない。
それでもよくしたもので、ノースロップ航空がミサイル飛行を制御するコンピュータを発注してきた。エッカートとモークリーは、小型のUNIVACを2連結で、BINAC(Binary Automatic Computer)にするウルトラCを提案した。
二人は、エッカート・モークリー・コンピュータ社(EMCC)を立ち上げたが、資金状態がひどい上、のんびりしたモークリー社長の下で、エッカート副社長は決断のストレスがひどい。仲のよい二人も、しばしば衝突した。
困ったことに、国務省は、UNIVACを外国に売ってはいかんという。反米の国ならともかく、親米の国にもである。FBIは、依然、モークリーをコミュニストとみなしていた。モークリーの妻が不幸な事故で水死した事件で、モークリーを殺人犯人に仕立てようと、陰湿な活動。それは、核兵器開発を批判する勢力に神経を異常に尖らせる、戦後アメリカの実態であった。
そういうEMCCを助ける者がまたも現れた。1948年、デラウエア州の競馬場が、特許担当弁護士を通じて、賭率計算の電子化を依頼してきたのだ。それを機会に、EMCCはレミントンランド社の傘下に入る。BINACは1949年8月起動した。
1952年大統領選挙で、レミントンのアート・ドレイバーが、選挙結果の予測にコンピュータを使おうと思い付いた。CBSのカメラが、EMCC社事業部で、コンピュータが出力するスティブンスンとアイゼンハワーの得票を大映しする。あらゆる票予想は“僅差”であったのに、UNIVACだけがアイゼンハワーの圧勝を予測し、結果はその通りになった。こんなすごい宣伝があろうか。たちまちUNIVACの売行きが好転した。
面白くないのがIBMのワトソンだった。1955年、700シリーズがUNIVACに勝っていたのに、全てを独占せずにいられないIBMは、レミントン所有のENIACの特許権を妬んだ。ワトソンは、コンピュータをよく分かっていなかったくせに、覇権をもくろみ、ノイマンを雇った。欝病気味だったエッカートは、益々気分を悪くした。
IBMは、ENIAC特許の弱点を探し、モークリーがアタナソフというアイオワの学者を訪問した事実を突き止める。やったぞ、モークリーがアタナソフのABCマシンから発明を盗んでENIACを作ったストーリーにしてしまえ! 主人公アタナソフを「忘れられたコンピュータの父」に、アイオワ出身ピュリツア作家モレンホフが執筆、アイオワ連邦議員ニール・スミスも協力。
かくて、1971年6月1日にミネソタ裁判は始まった。ENIACとアタナソフのABCマシンとは、真空管を使った点では共通したが、アーキテクチャがまるで違う。ENIACには原始的ではあるがプログラムの機能があったのに対し、ABCにはそれがない。この相違は、裁判所が明確に認定した。後の判決には、ENIACがABCから影響を受けたというくだりはあるが、少なくとも発明の主題を冒認したと認定していない。アタナソフも「盗まれた」と主張はしていない。
しかし、ENIAC特許には、出願1年以上前のノイマンによる「第一報告書案」頒布と、マシンのプレス公開といった無効理由があった。
ENIACがABC発明を盗んだという主張は、後にアイオワでアタナソフを名士にし、モレンホフに印税を儲けさせ、スミソニアン博物館にアタナソフをコンピュータの発明者と常設表示させたアイオワ連邦議員ニール・スミスの得票に少し影響したかもしれない他は、根拠のない横車に過ぎなかったが、裁判に不慣れで冷静を失ったモークリーを、消耗させた。
地裁判決は1973年10月19日に出た。特許権は無効になった。エッカートもモークリーも控訴したがったが、不正競争事件へ波及を恐れたスペリーは、二人の希望を容れなかった。
その後は、モークリー、エッカートとも、さしたる業績はない。
モークリはいくつか会社を創ったが、1973年スペリー社とヨリを戻し、脳内で夢想を続けたものの、夢想が時代よりも進みすぎたまま、1980年1月8日、72歳で他界した。スペリーの副社長だった
エッカートは、非常な嘆き様だったという。
そのエッカートは、デスクトップのコンピュータを考えたが、理屈っぽい点が災いしてスペリー社で肩身が狭かった。それでも機械いじりはやめず、晩年はオーディオに凝り、たくさん特許を取得し、1995年6月3日他界した。
コンピュータを誰が発明したかなんて、人々はよく知らない。IBMだろう、それともビル・ゲイツかな? しかし、いつか、歴史が自分たちの業績をみとめるようになるだろうと、モークリーとエッカートは信じていたらしい。二人は、コンピュータが社会に浸透したことを喜んでいた。コンピュータの仕事はいつも楽しく、その分野で仕事ができて幸せだったと。
「一生の仕事が1センチ角のSiチップに収められてしまったらどうします?」 1991年、東京でのエッカートのスピーチである。
なお、アタナソフだが、アイオワの名士になった後、海軍に関係し、コンピュータと縁が切れなかった。ノイマンの「報告書案」を入手し、ENIAC本体とも接触している。いかなる因縁か、エッカートより僅か11日先に他界した。先発明競争した自覚はなかったらしいから、あの世でモークリやエッカートに会っても、喧嘩口論などはするまい。
<気まぐれディジタルコンピュータ史>終わり。
「フォン・ノイマンの生涯」ノーマン・マクレイ著、渡辺正・芦田みどり訳、朝日選書
http://www.zoomin.co.jp/patbank/consulting/abacinaba.html
(*)「エニアック」スコット・マッカートニー著、日暮雅通訳、パーソナルメディア[株]
別編として、「階差機関」を発明した「変人」バベッジと、バベッジのパートナーSEだったエイダ・ラブレイス夫人と、エイダの夫で「凡人」ラブレイス侯爵と、エイダの父親で詩人(革命「軍人」)のバイロンの物語を企画中。
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