パパは絵日記をつけていた
 
 パパが小学校一年生だったときの夏休み、はじめて絵日記というものを書いた。古い原稿用紙を袋とじにして、厚紙で表紙と裏表紙をつけた。表紙は千代紙でていねいに装丁した。細長い紙に「ぼくのえにっき」とかいてはりつけた。
 中のページは、上下二つに分け、上に絵を、下にその日の出来事をかいた。
 絵日記は、いつも「きょうは」という書き出しではじまった。そういう書き出しでなければ、絶対に承知をしなかった。
 人は本来、気まぐれなものだ。毎日やすまず同じことをするなんて、そもそも人間のすることじゃない。それも、絵日記をつけるなんて。
 これは、実に悪い習慣だ。
 ところが、三年間、パパは、絵日記をつけるという悪習慣から抜け出ることができなかった。それは日課であり、義務となった。はじめたものは、やり通さねばならぬ、というのが、日課の背景の大義名分みたいなものだったんだが、仕事自体の馬鹿馬鹿しさかげんは、パパのお母さん、つまり君のおばあちゃんにも、パパが通っていた小学校の先生にも、かんじんのパパにさえも、無視されてしまっていた。
 そのころパパは自分のことを“ぼく”と呼んだ。
 ぼく、野暮ったい呼び方だけど、創作的で行動的だったぼく。良心的でよい子だっただけでなく、そのことに照れることもなかったぼく。
 絵日記は、“ぼく”が小学校の四年生のなかごろになる迄つづけた。感心すべき仕事の結果が12さつのノートになって、なんと今でも残っている。
 言い訳するようだけど、12冊のノートをパパが何十年も持ってたわけじゃあない。20なん年か前のことだけど、パパのお母さんが死んだとき、荷物を整理していたら、押入の奥の箱の中からでてきたのさ。
 ともかく、パパのお母さんは、パパもそうなんだけど、よく引越しをする気まぐれな女だった。それが、どういうわけか、パパが昔つけていた絵日記をなん十年もなくさずに持ち歩いていたんだ。おかげで、絵日記の薄黄色い紙と、質の悪いクレヨンと、鉛筆の太い「きょうは」の文字が、日に焼けた、きたない顔をして、突然パパに話しかけてくるんだ、「おまえは、ずーっと前から、おっちょこちょいの嬉しがり屋だったよ」と。
 なんか、恥ずかしいだろう?
 パパのお母さんのことは、パパのお父さんのラブレターの話とか、もっといろいろあるんだけど、そのうち話してやろうな。
 
 パパの小学校は、山の中にあった。といっても、いわゆる僻地の分校といったようなものじゃない。内容はどうあれ、形はちゃんとととのっていて、生徒は500人ほどいた。もとは、兵器工場だったんだ。だから、建物は一応ちゃんとしていて、けっこう広かった。誰かいなくなると捜すのはちょっと無理だったな。休み時間にどこかで遊んでいて、そのまま遊びほうけたりするもんだから、授業に一人や二人足りないなんてことは、あたりまえのことだった。今だったら、教室にお母さんがどなりこんできたりして、たいへんだ。
 授業がまたいい加減で、まあ、日本がばかげた戦争をしたあげく、それに負けたすぐ後だったから、仕方がなかったんだけれど、社会や理科の教材とか実験道具なんてほとんど揃っていず、時間割りさえちゃんときまっていなかった。朝、国語と算数と社会の本と帳面をランドセルに入れて学校へ来ても、先生が「今日は音楽をしましょう」といえば、半日歌をうたわされた。
 もっとひどいときは、一日中運動場の草抜きをすることもあった。草は、抜いても抜いても生えた。はえるたびにボールがなくなるのに、草を抜いてもみつからないのは、どうしてなんだ? 
 あちらこちらに防空壕があった。防空壕ってわかるかな。戦争のとき、飛行機から弾を撃ってくる。爆弾を落とす。それらから逃げて隠れる人工の洞穴みたいなもんだな。そういうのがそこら辺にいっぱい残って居て、その防空壕を十分征服した者は、校門を通らなくても校内に入れたし、回り道をしなくても、築山のむこうの校舎へ行けた。なかでも親分格の防空壕は、立派なコンクリート造りで、その奥にはガイコツがある、と伝えられていたが、とうとう確かめることができなかった。入る勇気がなかったんじゃなくて、中に水がたまっていて入れなかったんだ。
 まわりの山には虫がいて、木がたくさん繁った。
 並四とか4ペンとかいわれた、真空管を四本使ったラジオが、普及していた頃だった。
 4ペンのペンというのは、後でパパがハムになる勉強をして知ったところでは、5極真空管、つまりペントードのペンで、4ペンという以上、ペントードが4個ないといけないんだが、これもあとで知ったところでは、4球の真空管のうち5極官は2本しか使ってなかったはずで、だから4ペンというのはおかしい。
 いまやIC時代にいる君は、真空管そのものを知らないから、どうでもいいことだけれど、4ペンという名は、どこのどんな人が言いだしたのだろう。少なくとも、ペントードという真空管の種類をちゃんと知っている人がどこかにいたことは確かで、ひょっとしたら、戦争中も、こっそりハムをしようとしていたかもしれない。当時としては、ハムは、ハイテク中のハイテクだったろう。パパの手の届くところには、そんなものはなかった。身の回りに通信用電子機器らしきものはといえば、4ペンラジオがあっただけだった。
 ま、ともかくその4ペンラジオは感度が悪くて、放送を聴くためには、アンテナ端子を手で握っていなければならなかった。これは、人間の体がアンテナの役目をするからなんで、本当は、いまパパの仲間のハムがやっているように、庭に大きなアンテナなんか建てればいいんだけれど、そのころのパパには、そういう知識はなかったしね。
 今だからいうけど、パパはその4ペンラジオに興味があったんだ。木の箱から中にものを引っぱり出してみたことがあった。パパのお母さんは、パパのその行為を叱らなかった。シャーシを裏返してみると、部品や配線が複雑にからみあっていた。
「これとソックリ同じラジオを作ったら、鳴るかなあ」パパはお母さんに尋ねた。お母さんは、さあ、と言っただけで、答えてくれなかった。
 作りたい。鳴らしてみたい、パパはそのときそう思った。
 そのころ、ラジオでは、「鐘の鳴る丘」と「向こう三軒両隣り」という番組が人気があって、配役の名前を皆がよく知っていた。そして主題歌を、学校で先生といっしょに歌った。テレビも携帯電話も、勿論まだなかったよ。
 チョコレートがめずらしかった。うまいものがチョコレートで、恐いものが歯医者さん。
 パパたちは、本当に良心的だったんだ。そして、何にでも熱心だったんだ。だから、クラス会をすることになれば、勝手にプログラムを作り、“幼年クラブ”に載っている劇の脚本を見つけ、勝手に練習して、先生には、つつしんで見物の座だけを与えた。まだ小学生2年のころのパパたちが、だよ。
 
 絵日記の二冊目は、1年生の9月から始めた。一冊目の絵日記は、夏休み作品展で、金賞をもらって帰ってくることになった。それで世の中には、賞というものがあることと、さらにその中に、金、銀、銅、佳作というランクのあることを知った。このときの経験がパパにインプリンティングされて、40年もあとになって、パパに、ハムをしながら、アワードハント、つまり賞漁りという行動をさせることになるな。ま、いいや。おとなになってからの行動をいちいち幼児体験のせいにするのは、くだらん。
 ただ、これだけは言っておく。賞状を貰う程度の行為は、小学生の絵日記だろうがハムのアワードだろうが、あまりツミがない。しかし、世間には賞状のない賞ってものがある。そういう賞のなかには、それを利用して、人が人を差別したり、支配したり、逆に、賞がほしくて、人が人におもねったりする。子供の世界にもないことじゃないが、大人の世界には、必ずある。わかったときには普通おそいんだけれど。ま、これも、くだらん。
 ともかく、小学校1年生の秋が来て、運動会が近ずいた。それで「きょうは」練習をした。次の今日も、又その次の今日も、練習をした。
 走っている人間を、いかにも走っているように絵にかくには、足の関節を曲げてかかなければいけない。そのことを発見するのに何日もかかった。発見するまで、日記の絵は、足をピンとのばしたまま走っている。しかも皆右足を前にだして。関節を曲げないで走るなんて、どんなに変な格好だか、ちょっと、やってみてごらんよ。
 玉入れ。だるま競争。鳩は出てこなかったが、きれいな紙がパッと散乱して、運動場の上をおおう鈴割り。
 
 家は学校からそれほどはなれていなかった。家の二階に大きな窓があった。そこから生駒の山がずーっと遠くに、しかし真正面に見えた。もし高校のときまであの家に住んでいたら、きっと近視にならずにすんだことだろうが、この景色を見てすごしたのは、結局そう長くなかった。
 山には柿や栗がなっていて、取って食べても誰も叱らなかった。いや、叱らない、と思いこんでいたんだ。ところがある日、餓飢大将の一人が柿をとって大目玉をくったという話を聞いて、びっくりしてしまった。本当は、持ち主がいたんだね。
 パパたちは、木のぼりばっかりしている奴を餓飢大将、水溜りで泥だらけになってばかりいる奴を泥大将と呼んで区別した。パパ自身はどちらでもなかった。強いて言えば、餓飢副将で泥副将だった。ケンカがそう強くはなかったせいもあるけれど、主たる理由は、パパの性格ときたら、子供の頃から気まぐれで、一つのポストに安住しなかったためさ。
 いも虫って知ってるだろう。その虫が自分で巣をつくった。そして巣の中でサナギになった。サナギはいつもじっとしていたが、生きている証拠に、しっぽにさわると、ぴくぴくと動いた。あとで、それは蛾になったはずなんだけど、どんな色や模様だったか、どうしても思い出せない。
 いんげん豆の実がなって、それからそのほかの実もなって、遠足がすんだ。それは、文字どおりの遠足だった。
 蒸した芋を輪切りにして、ムシロの上で干す。いもするめっていって、灼いてたべるんだ。これが、とてもおいしい。君にも、食べさせてやりたいなあ。
 ついでにシブ柿も串ざしにしてつりさげたが、これがまた、とっても甘くなるんだ。
 鼻黒ウサギをもらった。芋が入っていた箱に、竹で格子をしてうさぎを入れた。おからをやってもちっとも食わず、芋を丸のままやると、音をたててかじった。鼻黒ウサギは、芋を一日では囓りきらずに、何日もかかって囓っていた。その音は、どうかすると、夜中でも聞こえた。
   ゴツ、ゴツゴツ・・・
   ゴツ、ゴツゴツ・・・
 ふっくらしていた山が、なんだか急に平べったく見えるころ、やせてお上品なかっこうをした冬がくる。
 地面がコチンコチンに固くなる。そこに湿り気を与えるように、水仙が咲く。
 凧とコマと××ゲームを買ってもらった。凧や双六は、自分でも作った。
 そうだ。パパは何でも自分でつくろうとした。事実、何でも作ったんだ。ボール紙とキビガラと木切れと、その他いろんなものを使ってつくったんだ。
 色紙の赤いちょうちん。貨車とシグナルと駅。電車にはパンタグラフ。流線型の特急つばめ。ニカワでかためた指人形。ジープ。うさぎのお面。黒豹のお面。魚屋と魚とお金。針を糸でゆるく留めたので、いつも6時半をさしてる厚紙の時計。吹くとすべるスキー人形。指で動かす小鳥のシーソー。目に豆電球のともるロボットなんて、当時のパパには、なかなかエレクトロニクスっぽい課題だったよ。パパは電池と豆電球とスイッチを、小学生だったけれど、自分で考えてハンダ付けした。
 それから、紙のクリスマスツリーと紙の門松も作った。子供がつくるものは、夢もなんもない大人たちから見れば、たかがしれているように見えるかもしれないが、子供の目からみれば、いっぱいあった。パパは、片っ端から作りまくった。
 やがて正月。
 灰色と黄土色としぶい緑の世界に、突然、全く突然、はなやかな赤や朱や桃色の模様が出現してくる。羽子板の鳴る痛々しい音といっしょにだ。
 外に出るのは寒いけれど、家にいると損をするような気がして、ポケットに手を入れ、肩をすくめながら、おそるおそる足踏みするように土の上にたってみる。しかし、子供は、すぐにシャンと背がのびて、わっとばかりに走り出すんだ。
 おかしなことに、元旦の天気というと、いつも曇りなんだ。空が晴れていて日が照っていても、弱すぎてわからなかったのかもしれないな。
 それにしても、土が乾いて固い。大地から締め出しをくった砂粒の一群が、地球へ入りたがって、風に吹かれて道の表面をすべってゆく。地球への入口と場所を間違えて、靴と靴下の間にもぐり込む奴もいる。
 そんな中を小学生たちは登校する。学校の前に本物の門松が立っている。先生が二十世紀がどうのこうのという話をする。
 あれ? そのころは、元日に登校することになっていたのかな。ま、いいか。
 昨日までつきあってきた人に、今更わざとらしく「おめでとう」というのもてれくさくて、無理に言わせられても小さい声でいったものさ。
 二日には、おかきぞめというやつをやらされる。「かるた」という字をかく。その道のりの何と遠いこと。字をかきながら、一日家に閉じこもってしまうなんてこと、できるもんか!
 外へ出ると、もう少しは正月ずれがしている。電線に凧がひっかかっていて、あちらこちらから見おろしてくる。そいつらに石をぶつけてやれ!
 宿題の“冬休みの友”(何が友達なもんか!)を最後にして、冬休みは終ってしまう。
 
 そのころだ。パパに小さな友達ができたのは。それは新聞屋でもらった小猫さ。
 茶色の雄のその小猫には、体型から、すぐにコロという名が付いた。一匹しか生まなかった母猫の乳を独占して育っていたコロは、元気いっぱいそこら中をかけまわった。
 猫が強いか弱いかは、首のうしろををつまんで持ち上げたとき、後足を腹へ上げるかどうかでわかる。首筋を持って空中につまみあげられたコロは、最初、自分がどうされたのか呑込めず、キョトンとした。ただ、反射的に、両足が頭より高く、ピンとひきあげられた。
 突然、真っ赤な口が耳まで裂けた。目がつり上がり、コロは、小猫とは思えない力で暴れた。
 成長した猫は、飼い主である人間に爪や牙を立てることは滅多にないが、小猫は、そんな遠慮はしない。たちまちコロは畳の上に投げだされた。それでも、ちゃんと四つ足で立ち、体をブルッとゆすった。そのとき、尻尾が折れて曲がっているのがわかった。生まれたとき母猫に踏みつぶされたんだろう。よくあることだ。
 コロの顔からは、人間に対する敵意はすぐに消えていた。それまで自分に加えられていた虐待をすっかり忘れて、再びそこらをかけまわりはじめた。
 コロは、利口だった。箱に砂を入れてやると、その中でおしっこをしたうえ、ぶきっちょなやりかたではあったけれど、ちゃんと後足で砂をかけることまで知っていた。
 ねえ、動物には、親にも誰にも教えてもらわないのに、知っていることがあるんだ。人間だって動物である以上、いろいろ知っているはずなんだ。
 例えば、前に転びそうになったとき顔が地面にぶつかるまえに瞬間的に手で体をささえるだろ? それから、道に迷ったときに人にきかないでも自分の家の方角がなんとなくわかるとか、電車やバスの窓から外に出るときは、頭からでなく足から先に外へ出る(そういうことって、よくあることなんだぞ)とかってことだな。
 まだあるぞ。はじめての家へおよばれに行ったときなんか、食事になったら、テーブルの上をさっと見渡し、自分の好きなものは、他の人に食べられる前に、サッサと食べてしまわなければならない。これを、卑しいとかなんとかいう大人がいるかもしれないが、生きてゆくために当り前の行動で、ちっとも恥ずかしいことじゃない。
 それから、自分に配られたものが、体に悪いものじゃないか、近くにいる人にわからないよう、そっと臭いをかいでみるなんてことも、大切なことだよ。
 ともかく、パパがまだこの世に現れない君に教えてやれないからといって、まして、どこの誰とも今のところわからない君のママが叱ったりしないからといって、君には知っていなくちゃならないことがいっぱいあるんだ。コロなんてみてみろ、誰に教えられたわけでもないのに、おしっこをしたあと砂をかけることを知っていた。それだけじゃない。後になって近所の雌猫を誘惑して、自分とそっくりの茶色の小猫を生ませたりした。これだって誰も教えたわけじゃない。
 もっとも、猫のコロを鼻黒ウサギと同じ箱に無理矢理おしこんでやったときは、どうしていいのか分からなかったらしくて、やたら黒い鼻をおしつけてくるヘンな相手に爪をたてもせず、ただ情けなさそうな顔をしていたけどな。
 おっと、パパは君に小猫物語を話してるわけじゃなかったんだ。絵日記を書いてたのはパパで、この話の主人公はコロなんかじゃなくて、このパパだからな。えへん!
 そういうわけで、コロが家に来たのはよかったんだが、すこしたって鼻黒ウサギが死んでしまう。パパは、全然おぼえてはいないけれど、絵日記に、詩だか何だかわからないものを書いているんだよ。
 
 昨日までごろごろ芋をころがしていたウサギが死んだ。
 昨日まで元気にあばれてたウサギが死んだ。
 わるい犬が寝ているまにかってに戸をあけてくわえていった。
 そのままウサギは、からだだけになって死んでた。
 かわいそうなのでボケの木のところへ埋めた・・・・
 
 3月初め、ウグイスが鳴いた。春だ、と大人たちは言った。
 しかし、4月になれば暖かくなるという期待は、大人たちの話がいつもあてにならないように、4月1日、もろくもけしとんだ。春はそんなに華々しくは登場しなかった。もっとゆっくり、ゆっくり、いつのまにか、やってくるものなんだ。
 家の二階の窓から、ずーっと遠くの方に、黄緑の山の色とは違った、薄桃色の帯のようなものを見た。見えたのはその日一日だけじゃなかった。しかも、日によって見えたり見えなかったりしたので、あれは一体何なのだろうと、ずいぶん長い間考えさせられた。
 だからって、考えてわからないことを、大人に尋ねるなんてばかなことはしなかった。なんにしても、大人はいい加減なことしか言わない。子供だといっても、夢は、自分で見なくちゃあ。
 ある日パパは、薄桃色の帯に向かって、どんどん走った。走っても走っても、走っただけ帯は向こうへ遠のいて、いつまでもそこへたどりつけなかった。そして又ある日、森の中をぬけて、急に、桃色のカーテンのある、木に囲まれたレンガ造りの家の所に出たが、入口がわからなくてまごまごした。なぜか、そこできまって、目がさめるのだった。
 ピンクの帯のようなものは、桜の木だったかもしれない。だが、桜でもシンキロウでも何でもいい。神さまは、大人には見えないものを、子供にはいっぱい見せてくれる。そのころ子供だったパパは、へんなものをいっぱい見たものさ。
 それだけじゃない。神さまの中には気まぐれなのもいて、いまでも、大人のはずのパパに、へんてこりんなものを見せてくれる。だけど、あまり自慢になることでもないので、ほかの人には黙っていることにしている。君には、こっそり教えてあげるけれどね。
 ともあれ、子供だったパパの家には、毎日誰かが遊びに来た。そしてパパも誰かの家へ遊びに行った。友達の家は、自分の家。それが子供なんだ。借家だろうがあばらやだろうが、関係ないことさ。
 毎日何かをする。もし何もしなかったとしたら、何もしなかった立派な理由がある。
 絵日記の内容に不自由はしなかった。何もなければ、その日の天気を書いて、それから「きょうはえにっきをつけました」。それでいいじゃないか。
 朝の九時ごろパパのお母さんが子供のパパにむかって、「朝の気持ちのいいうちに今日の絵日記をつけてしまいなさい」といったって、それはそれでちっともおかしくなかった。絵日記は、日記じゃなくて、絵なんだから。
 
 じゃがいもの芽が大きくなった。
 ナンキンの双葉が出た。
 いぶしたガラスで部分日食の観測をした。
 畑の草を抜いて、芋とトマトとなすびの苗を植えて、えんどうの実をとった。
 キヌサヤの実を、箱いっぱい取った。
 大きくなった猫のコロがうろうろと落ち着かない。夜中に屋根の上にあがっては、のどの奥から不思議な声をあげる。
 ウオーオ、ウオーオ、ウオーオ(俺はコロ様だ。文句のある野郎はいるか。いたらかかってこい。)ウオーオ。
 コロは、毎夜お出かけをしては、怪我をして帰って来た。それでも飽きずに、またでかけていくのだった。
 ドロイモの種を植え、きゅうりの種を植え、にがい顔をしてマクリを飲み、甘いイチゴの実が一つできた。マクリってのは、虫下しの薬のことだ。今の子はお腹に寄生虫なんかいないよな。
 そのころ、散髪代は、十八円だったぜ。
 ガラスのビンの中へ砂を入れ、蟻を飼った。蟻は、なぜかビンの壁のそって、巣を作るのだった。精密な巣は、ガラス張りの高級住宅だ。蟻たちはそこへさとうくずやお菓子のくずを持ち込んだ。
 青虫を数匹つかまえて、これも飼った。あとで何匹かは、紋白蝶になって、飛んでいった。
 花をインクのびんにさしておくと、花がインクを吸って、青くなった。やがて又、蝉が鳴きだした・・・・。
 
 ノートが終わりになる度に、絵日記を先生に提出した。「先生、これ」などといって、持っていったんだろうと思う。
 先生は「これ」に五重マルをつけたり、「うれしかったでしょう」とか「よくできましたね」とかいう、月並み極まりない評を、赤インクで書き入れた。それだけじゃなくて、国語の教科書に「絵日記」というところがあったとき、クラスの皆にパパの絵日記のことを話した。
 絵日記のノートは、1年生の夏始めて書いたときは、古い紙を重ねて糸で綴じたものだったが、2冊目以降のノートは、誰かに買ってもらっていたはずだ。多分それは、パパのお母さん、つまり君のおばあちゃんだったと思うが、よく覚えていない。
 
 パパはそのころ、自分の住んでいる家は、自分の家だと信じていて、それ以外の場合もあることに全然気が付かなかった。だから、ある日それが借家だときいたとき、とてもへんな気がした。
 ひょっとしたら、“ぼく”は貧乏で、気の毒な身の上なんだろうか?
 そのくせ友達には「ぼくのうち、これ借り家なんだぞ」と、自慢そうに話したりした。
 パパはパパのお父さんをほとんど知らない。家の二階には白い布でつつんだ箱があって、パパのお父さんの写真がおいてあった。パパのお母さんが、それは遺骨というものだと教えた。本当のことをいうと、箱の中には何も入っていない、とも。
 いちど、親戚のおじさんが、箱を空けて中を見せてくれたことがあった。小さい木ぎれが一つ入っていただけだった。よくわからないが、父さんが軍隊にいた場所にあった木切れなのかなあ、と親戚のおじさんは言った。大人もたまには本当のことをいうんだな。
 パパのお母さんは、仕立物をたのまれて縫った。たのむ人は、着物を作るには糸が要ることに気が付かない、といって、パパのお母さんはこぼした。おなじことを、パパのお母さんのお姑であるパパのおばあちゃん、つまり君のひいおばあちゃんも言って、こぼしていた。
 イミテーションの真珠の首飾りだとか、チューブラーコンデンサ(これは、ラジオの部品)だとか、色々な下請けの手内職もした。電気スタンドの傘作りが、一番長続きした。
 針金の骨の上に紙テープを巻きつけて糊でかためる。それに薄いピラピラした布を張って、上下に飾りをつける。それで出来上がるのだった。
 それらは皆、たいした収入にはならなかった。パパは、パパのおじいさんが、お母さんに、毎月お金を渡していたのを知っていた。
 
 パパが小学校3年生だった冬のある日、お母さんはパパをつれて、電車で大阪市内の中学校へ行った。用務員室でおばさんと二言三言話した後、薄暗い階段を上がった。
 明るい廊下のつきあたりに小さい部屋があり、中に痩せた女の人がいて、声をかけ、自分でお茶をいれ、パパに菓子をすすめてくれた。お母さんとその女の人が話をしている間、パパは運動場へ出た。
 よく晴れていた。街の騒音は、そこまではとどかなかったが、学校全体がワーワーと音をたてているような感じがした。だだっぴろいパパの小学校よりも、もっといろいろなものが、そこにはあった。
 運動場で、男生徒が野球しているのを見ていると、お母さんが下りてきた。そしてさっきの女の人はこの学校の校長先生で、お母ちゃんはもうすぐこの学校に勤めることになった、と云った。
 実際その通り、お母さんは、家庭科と社会科の教師として、その中学校に勤めだした。それといっしょにパパも大阪市内の小学校へ転校しなければならなくなった。
 3年生の三学期の終業式の日、先生がクラスの皆に、パパが他の学校へゆくことになったと告げた。
 その時はまだ、転校ということの意味がよく分からなかった。みんなにどうして学校をうつるのか尋ねられて、どう答えればいいのか、困った。
 それは、人間がしばしば経験する別れというものだったんだけれど、そのことで感傷なんてものに浸るには、パパはまだあまりにも子供だった。
 転校したあとも、パパとパパのお母さんとは、同じ家にすんでいた。その家に住んで、小学校4年生の新学期を迎えたパパは、電車で大阪の小学校に通学した。
 家へ帰っても誰もいないことがわかっていたので、遅くまで学校に残っているくせがついた。
 家には寝るために帰るだけになった。コロは、毎日留守番させられていた。もちろん家の中でおとなしくなんかしているはずはなかったけれど、家出することもなく、パパやお母さんが家に帰ると、不思議にどこからともなく急いでもどってくるのだった。
 今ながめると、パパの絵日記の絵は、絵日記が十冊目をこえるころから、目に見えて乱暴になってきていた。
 「はい、これ」といって見せる先生は、もういなかった。何もしない日になぜ何もしないのかという理由がみつからない。
 なにかがパパに教える。絵日記なんてつけてんじゃないんだよ。つけるんなら「日記」だよ。
 君だっていずれ経験するだろう。どういうわけか、大人たちのすることがとてもばかばかしくみえたり、そのくせ自分は何をしたらいいのか分からないもんで、腹を立てたりするんだ。コロは猫だから、屋根の上に登ってウオーオなんていってりゃいい。君は人間だから、屋根のうえで鳴いたりするなよ。もちろんパパだって、そんなことはしなかったから。
 そのかわり、パパがしなければならなかったのは、絵日記という習慣をやめる理由をさがすことだった。どう考えても結局それは「めんどうくさい」というぐらいしかなかった。でもパパは、はっきりとお母さんにいったんだ。「ぼく、今日から絵日記はやめた」
 そうそう、その頃パパは、お母さんや親類の人の前じゃあ自分のことを「ボク」なんて云ってたけど、友達どうしでは、とっくに「俺」って呼んでいた。赤ちゃんがどのような機構で産まれるか、そう詳しく知っていたわけではないが、どこから生まれるかくらいはしっていた。そういうことを、男の友達どうしでは話していた。友達に言えても、親にはいえないことって、いくつもあるもんだよな。
 
 パパが4年生だった年の9月に台風がきて、そのころは台風に外国女性の名をつけて呼んでいたんだが、その台風はジェーンという名で、これがまたひどい女だった。家の片一方の壁を、ザックリさらっていってしまったんだ。しかも、応急修理したすぐ後に地震があって、これはジェーンのせいじゃないけれど、家全体がギシギシといやな音をたてた。
 借家だったその家は、とても古くなった。パパとお母さんとは、引っ越すことにした。
 といっても、子供のパパに相談なんかはなかった。人間のパパには、引っ越しすると知らせてもらっただけまだましで、猫のコロなんか、そのころはかなり巨大に育っていて、きっと奥さん猫や子供猫がどこかにいたに違いなかったのだが、ひっこしを知らされることさえなかった。
 
 引越しの日、あいにく朝から小雨が降っていた。荷物は、前からまとめてあった。パパは、コロを無理に買物かごに入れて、トラックの助手席に座らせてもらった。
 トラックは、そのころは淀川の土手の上にあった道路を、大阪の市内へ向かって、相当な速さで走った。他のトラックを何台も追い抜いた。パパは、抜いたくるまの数をかぞえたりして、結構ごきげんだったが、コロは恐がって、何度も買物かごから飛び出そうとし、そのたびに、頭を「ぐい」とおさえつけられた。やがて窓の外から畑がきえ、あたりを走る自動車の数がふえて、トラックのスピードが落ちても、コロは何度かもがいて、その度に、頭を「ぐい」とやられつづけたのだった。


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