鼠魔山にて

(この話は、ちょっとだけ本当です。ただし「鼠魔山」も「伝説」も実在しません。) 

  
 

 急な登り坂が、パパに向かって倒れてくるように思えた。 

 道端の木につかまり、肩で息をして、ひたいから顔を激しく流れる汗を拭った。心臓の鼓動が痛いほど耳の中で鳴るのが聞こえる。 

 深い山の中。 

 あたりが静かすぎる。なぜか、蝉の声さえもない。 

 どのあたりなんだ、ここは。地図くらい持ってくればよかった。後悔してもおそ。 

 誰もいない。人がいるわけがない。しかし、何かがいる。さっきから、こちらを見ている。パパは、不思議な気配を、感じていた。パンフレットの記事は、でたらめじゃなかったんだ、きっと! 

  

 パパは山も登山も嫌いだってことは、前に言ったよね? だから、最初っから山歩きをしようと計画して、こんなところに来たんじゃない。 

 朝の8時ごろだったかな。湖を歩いて一周してくる、といって一人でキャンプ村のバンガローをあとにしたんだ。 

 細長い湖を左にみながら、舗装された道をすたすた歩いた。ちょっとみたところ、一周10km位だろう。パパの足なら3時間かそこら、昼までには帰れると思った。 

 トランシーバを持っていこうか? 

 いいや、と思った。短い時間だ。ハムだからって、いつもいつも無線機を持って歩くもんじゃない。しかも、歩きながら“CQ、CQ”なんて、いかにもダサい。これみよがしだ。 

 それより、このいい天気。すばらしい景色。 

(わからないなあ) 

 パパが反すうしたのは、バンガローを出る前にちらっと読んだパンフレットの、この晴れやかな景色の環境に似合わない記事であった。 

  

「鼠魔心中(伝説) 

 心中覚悟で駈落ちした男女が追いつめられ、鼠魔山に逃げる。鼠魔の王に二人は命を差しだす。王は二人を獣道に案内し、石にした。」 

  

 そんな妙な名の山が、見渡したところ、どこにあるんだ? 

 道は湖岸をくねくね複雑に曲がっていて、その分だけ遠いことが予想外だったが、それでもパパはすたすたと歩きつづけた。 

 気温はかなり高いはずだった。しかし、乾燥した空気が、さほど暑さを感じさせなかった。 

 近くの大都市であるY市へ行く道が湖から別れ、道路は狭くなった。 

 かたちのよい山が正面にそびえていた。パパは数度カメラのシャッターをきった。 

 やはり大きな都市であるK市行きの道がさらに分かれたあと、道の舗装がなくなった。《この先通行止め》の標識。 

 すこし不安になった。 

 くるまが3台、パパを追い抜いて走り去った。車の行くほうへ行けばいい。パパは歩きつづけた。 

 さっき出発したキャンプ村が、湖の対岸にみえるところまできた。湖をほとんど一周したのだ。これなら目的地はすぐだ。パパはポリタンクの水を飲み干した。 

 太陽は、頭上にあった。少し疲れていた。足が痛む。まめができたかもしれない。 

 立ち止まって、ゆくてを見た。 

 山がゆくてを阻んでいる。山は、湖の中ほどに向かって突き出ていた。山の端が湖面と接する付近には、いくら目をこらしても、道らしいものは見つかりそうにない。 

 さっきパパを抜いていったくるまが湖の岸に停まっていた。魚釣りでもするつもりか。 

 道が急に太くなった。舗装はないが、新しい道だ。 

 新しすぎる。車の轍の痕さえほとんどない。しかも、湖の周囲には沿わず、むしろ湖から遠ざかるように山の中へと延びている。 

 回り道かもしれない。 

 ともかく、あの山の向こう側へ行かないと、キャンプ村には帰れないのだ。 

 仕方がない。パパは、新しい道を、山の中へと歩いて入った。 

 2kmもすすんだろうか。急に道がそこで終っていた。トラクターが一台、工事中の道端に傾いておきざりにされていた。先は、深い森林。林道らしいものさえない。しんとした山の中に大きな鉄の機械がひとつだけポツンとある風景は、ことのほか異様であった。 

 あわてて、来た道をひきかえした。どこかに、湖に沿う方向に折れる道があるはずだ。 

 道はあった。少し戻ったところで、さっきは気付かなかった、山の方へ曲がる道がみつかった。車のタイヤの痕跡もある。よかった。曲がってみた。 

 とたんに、ひどい登り坂になった。こんな坂を普通の乗用車が登れるとも思えない。 

 500mほど登ったところに、トラクターが止まっていて、道はやはりそこで終っていた。工事中のようだった。トラクターの運転手がいれば、道を聞こうと思ったが、全然姿がみえない。 

 後戻りするだけだ。疲れがいちどにでた。 

 湖の対岸へ行く道がみつからなかったらどうしようか。対岸へ折れる道と永久に出会わないなんてことはあり得ないが、歩いていけないくらい遠い地点かもしれない。 

 バスとかタクシーとかには、来る途中、一台も出会わなかった。来た道を、湖を反対に回って徒歩でひきかえす元気は、正直いってない。太陽は、頭上から傾きはじめていた。 

「おーい、あんた、どっちへ行くの」 

 とつぜん、森から声がする。木のねかたに、老人が一人、ひっそりと腰をかけていた。切株にそって地面から生えたようだ。さっきそこを通ったときは、そのへんには誰もいなかったが。 

 パパは、手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギをおもいだした。瓢箪のような形をしていてツギハギがあたっている、茸のようなヘンな生物である。 

「キャンプ村へ行くんじゃないの」 

「そうです。湖の向こう岸へ行く道はありますか」 

 こっちだよ、と老人がアゴでしゃくってみせた先に、いわれてみれば、やっと道のようにみえる場所があった。その先は暗い森。 

 老人に礼をいって、パパは森へ入った。 

 笹や背の高い草が、道の上をおおうようにせりだしていた。目でみながら、というよりも、足で草の少ないところをさぐりながら進んでゆかなければならなかった。しかも、道は急な登り坂になった。湖はどこにも見えない。 

 ハイキング道か、それにしては、人の通った様子がなさすぎる。獣道というものかもしれない。 

 ほんとうに、こんな道を歩いていていいのか。といっても、ほかにどうしようもない。 

 対岸のキャンプ村まで、どの位の時間でゆけるのだろう。老人に聞いておけばよかった。疲れと不安が、心臓を激しく打った。ドキドキという音だけが、しんとした山の中で、パパの耳の中をあばれまわるのだった。 

 午後の強い日差しが容赦なくふりそそぐ。汗が、ぬぐってもぬぐっても、とまらない。なんて長い登り坂なんだ。パパは途中で何度も地面にへたりこんだ。 
 もしも、ハムのトランシーバ持ってきていたら? 
 馬鹿馬鹿しい。電波で何を言おうってんだ。「助けてくれ」ってか? そんなこと、死んでもいえるか。
 あー、カッコわるい。本当に、カッコわるい。 

 ふと、パパは感じた。パパのこの醜態、さっきから見ている奴がいるんじゃないか。 

 誰だ? 

 前にいったように、パパには、かわった超能力がある。まだ生まれていないパパの子供、それどころか、ママになるはずの女性が君をまだ妊娠してもいないのに、パパの子供になる君と話ができるという能力だ。 

 自分では認識していないが、パパには、ほかにも、変な能力があるかもしれない。たとえば、この山に住んでいる魔物の気配を、普通の人間よりも早く感じることができるような能力が。 

 この山には、何かヘンな奴がが棲んで居る。 

 山に入ったときから、何かおかしかった。そう、急にヒョウタンツギ老人が現れたこととか、確かにおかしかった。 

 汗にまみれたからだを、悪寒がおそった。追い立てられるようにパパは立ち上がった。 

 歩きはじめたパパの目の前に、板切れがころがっていた。 

 鼠魔山、半ば朽ちたその板切れの文字は、やっとそう読めた。ここがそうだったのか。なんて不吉な名だ。 

 これは、ひょっとしたら、遭難というものなんじゃないのか? パパは、悪い事態を想像した。 

 “無線機忘れ、中年ハム遭難”、“むちゃなアマチュア無線家ひとり、山中で疲労死”、“食料もなく地図ももたず”。 

 地元の新聞のありそうな見出しが、目のまえをちらついた。 

 重い気分をふりきって、這うように長い坂を、それでもやっと登りきった。 

 しばらくは緩い下り坂が続く。下った分だけ又登りになるんじゃないだろうか。そうなったら、はたして登る元気が残っているだろうか。パパは、トボトボと歩いた。 

 それにしても、あいつは何なのだ?  

 かさこそとパパのあとをつけ、ふりかえるとむささびよりはやく身を隠す。そうしては後ろから、ときには頭の上から、パパを見ている。パパを見てわらっている。 

 何者だろう。 

 超能力をもってしても、パパには全然わからない。だがワルイ奴にきまっている。 

「ちくしょう!」 

 パパは石をつかみ、ふりむきざま投げつけた。石はしかし、木の枝をかすりながら、草むらに落ちただけった。 

 道といってよい場所なのかどうか、いつかパパの足は、薄暗い森の中をたどっていた。 

 湿った柔らかい枯れ葉を敷き詰めた地面。極めて緩い下りの平坦な地形が続いていた。 

 蓄積した肉体の疲労は、パパが中年である以上、仕方のないことであったけれど、適度な湿りをもった空気と足元の枯葉の軟らかさが、パパを少し落ち着かせた。そのことが疲労した精神状態から、おだやかにパパを解放していき、肉体の疲労までを、いつか忘れさせつつあった。パパ自身も気が付かないくらい、ゆっくり、ゆっくり。 

 ふと、涼しい空気のながれを感じた。 

 パパは、たちどまった。ゆくての森が少し明るい。 

 そのゆくてに、ちらりと白いものが見えた。 

 なんと、それは湖の水面だった。パパは足を速めた。 

 木と木との間で、水がキラキラ光っていた。湖に突きだした山を越えて、反対側へ出ることができたのだ。ヒョウタンツギ老人が切り株のところで言ったことは、本当だった。 

 やった! 

 下り坂が一本、行く先にあった。あとは下るだけだ。汗をふきながら、パパは今来た森をふりかえった。 

 とたん、何かが素早く飛んで、木の後ろに隠れた。 

 ちらっと、黒いしっぽが見えた。けものじゃない。もちろん人でもない。 

 そいつは、故意かどうか、ほんの少し姿をみせただけで、たちまちどこかに隠れてしまった。そして、なおもいぶかって立ちつくしている、トランシーバを持たないハムのパパに、テレパシーを使って呼び信号を送ってきたのだ。そいつは、はっきりと言った。 

「アカンベェー、どうぞ」 

  

 昼前に帰るはずが、夕方になってしまった。 

 パパは、キャンプ村のバンガローに向かう舗装された道を、マメのつぶれた足をひきずりながら歩いていた。 

 背後に、何か気配を感じた。もっとも、それは、パパの超能力とは関係のないレンタサイクルが近づいた音で、ついで、聞き覚えのある声が、夕食の時刻とそのあとのフォークダンスとキャンプファイヤーの予定を知らせ、パパを追い抜いて走っていった。 

(ヒョウタンツギ老人をパパに会わせたのは、パパの子供の君のいたずらだったのか?)だとしても、今日のことは、決してママに言ってはいけないよ。 
 
 
 
 

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