中国の最新ヨット事情 その1

ヨットとの出会いについて

2008年10月8日
鶴田 卓身


 ヨットとの出会いは、大学時代に弥勒の伊藤さんと知り合い、土浦に連れて行ってもらったのが最初である。その時代は70年安保闘争で、大学はしょっちゅう休講になり、一応大学には行くものも玄関先で、伊藤さんたちとどこに行こうかと相談し、学食で飯だけ食い、又は近くの肉屋のコロッケパンをかじり、御茶ノ水近辺の喫茶店で語り合ったり、又はジャズ喫茶で自分のリクエストした、お気に入りの曲が出てくるのをただ黙って待っていると言う状態で、友人と居るというだけの安心感で毎日を過ごしていたのかもしれません。

 しかし今となってみるとその時の感覚が非常に懐かしく、その時に伊藤さんから聞いたヨットの話が頭のどこかにしまっておいたものが突然出てくる様な感じです。

 その時の自分は何で飯を食っていくか、漠然と考える毎日であったが、今とは違い高度成長期だったので就職には事欠かなかった。又余り転職については否定的な時代だったので飛び込んだ会社が自分と相性が会えば、その仕事が一生の仕事になるような時代だった。

 大学での休講が多いせいで、又金の工面が必要なので色々アルバイトを経験した。伊藤さんに薦められてビルの管理の仕事をしたが、何で伊藤さんがこのアルバイトを選んでいたのか後で良く分かった。この仕事はとにかく自由な時間が取れるので、彼はどこかで手に入れたヨットの設計図を基にビルの管理室でヨットの製作を始めた。その後その船体が地下室の管理室から出られないのが判明して水戸の実家に作業場を移したように記憶している。

 私と言えば大学を出て何か仕事を探さないといけないと、新聞広告で電気機器を設計、製造している会社に入社し、設計の仕事を初め、その仕事が面白くなり30年近くも朝9時に出社して深夜12時前に帰る生活で、ヨットの事を考える余裕も無かったが伊藤さんから毎年来る年賀状で伊藤さんが着実に一歩一歩自分の夢を実現しているのにはうらやましく感じていた。

 1997年に日本での仕事に見切りをつけ香港の会社に入り、2000年から中国に住んで音響製品の設計の仕事を続けていたが、中国人にもの作りを教えている中で、何でこの民族は基礎を築こうとしないで、いきなり利益のみを追求するとするのか、と考えていて、陸では動物が見えるので、食料とした時に的が絞れる、又疲れたらそこで寝れば何とかなる、海は板一枚隔てて、海なので船の建造をいい加減にやればそれは死を意味する。又魚を取ろうと思えば計画性が無ければ取れない。そういえば中国は海に面している面積が狭い(日本より広いかもしれませんが)、海に出なくても生活出来たので、海洋の技術が後れている、海軍の力が弱い、よっていい加減な製品でも何とか生活出来たのは海洋の技術が後れていたからでは無いか、日本は周りが海なので船の造船技術が進んでいてそれが基盤となり、日本独特の物作りの文化が育ってきたのでは無いか、それを知るには船について学ぶのがいい、よってヨットの設計、ヨットの操縦の勉強をしようという自分でも良く分からない論法でヨットに再度たどり着いた次第です。 前に述べたように、頭の片隅に封印してあったヨットに関することが、やや生活に余裕が出てきて封印が取れたのかも知れません。

 そんな訳で中国のヨット事情について調べてみようと思い、私の住んでいる中国広東省のシンセン市(香港の北側に接している)の東の大梅沙のヨットハーバーを皮切りに、北の大連、青島はたまたロイヤル香港ヨットクラブ、その香港とマニラ間のレースがあると聞いてマニラのヨットハーバーを訪問した次第です。時間に限りがあり又、ヨットの経験が浅いので伊藤さんから見たら視点が違うところもあるかも知れませんが写真を何枚も撮ってきていますのでそれぞれの観点からごらんになってください。