鈴木重秀 孫市TOPへ
 重秀は、佐太夫の末男(諸説あり)として生まれました。
 ちなみに通説では、彼が孫市である可能性が最も高いとされています。
 重秀は石山合戦の際、本願寺側を支援し信長に反抗。重秀は攻め寄せる織田軍に対し「鉄砲隊を前後二列に分け、前列が弾を撃っている間に後列が弾をつめ、次に後列と前列が入れ替わり、同じことをする」という前列と後列が交互に連続発射するという戦法で織田軍を苦しめました。
 1580年に石山合戦が終結すると、重秀は織田軍と本願寺との取次役を務め、その後織田信長が本能寺の変で亡くなるまでは、歴史から姿を消すことになります。
 信長が亡くなった後、重秀は羽柴秀吉に仕えました。
 1585年、秀吉は小牧長久手の合戦の際、秀吉方の城を襲撃し、またその地に独自の支配網を持っている雑賀衆の討伐を決意(石山合戦終了後は、雑賀衆は「雑賀党」と「太田党」の二つに分かれており、重秀が属し秀吉に従ったのが雑賀党で、秀吉に反抗したのが太田党。つまりこの時討伐の対象となったのは太田党です)。
 その際重秀は太田党の説得に向かいますが、太田党は応じません。
 そこで秀吉は、太田党のこもる城に得意の「兵糧攻め」「水攻め」を敢行。
 それが功を奏し、太田党は降伏。太田党もまた、秀吉に従うことになりました。
 こうして、ひとつの勢力としての雑賀衆はこの時、滅亡したのです。