真田幸村TOPへ
真田幸村の幼年時代

真田幸村は、真田昌幸の二男として生まれました。
なお幸村は本名を信繁といい、
これは父昌幸が、主君であった武田信玄の弟である武田信繁にあやかって名づけたとも、
また信玄が幸村に期待して、自ら進んで信繁と名づけたともいわれています。
※幸村の正式な名前は『信繁』ですが、本項では有名な『幸村』で統一したいと思います。

武田信玄像
信繁の名付け親(?)武田信玄(甲府駅)
上杉景勝レリーフ
幸村が仕えた上杉景勝(魚沼市役所)
豊臣秀吉像
幸村が仕えた豊臣秀吉(墨俣一夜城)

幸村は1582年まで、甲斐の豪族武田氏の元で育ちました。
ですが同年、武田勝頼が天目山で自害し、武田氏は滅亡。
この危機に際し、父昌幸は真田氏の命脈を保つため、
後北条氏、ついで織田氏、更に徳川家康に仕えました。

しかし1585年、徳川家康が北条氏直との講和をする際、
『真田氏の領地である沼田を、後北条氏に割譲する』
との条件を立てました。
これに昌幸は激怒し、幸村を人質として上杉景勝の元に送り、
家康と離反したのです。

こうして上杉氏に人質として送られてしまった幸村ですが、
上杉の家臣達は、幸村に親しみを覚えたといわれています。

これはどうやら、
『ものごとに対して柔和であり、恥辱を受けてもじっと耐え、
言葉は少なく寡黙で、怒って腹を立てることがない』
(後に、兄・信之が幸村を評した言葉)
という幸村が、景勝と似ていたからだと言われています。

一方、昌幸の離反に対して、
家康は昌幸の居城・上田城に軍を差し向けます。
更に家康は、北条氏直から援軍を出させることに成功します。
しかし、昌幸は景勝に救援を求め、地の利を巧みに駆使し、
奇略をもって徳川軍を撃退しました。

なお、『この戦に幸村も参戦した』という説があるのですが、
残念ながら、幸村はこの合戦には参加していないという説が
優勢となっています。

それはともかくとして、昌幸は徳川勢に勝利し、
その武名を大いに轟かせました。

その一方で昌幸は、「次の天下人は豊臣秀吉である。
なので、景勝よりも秀吉に臣従すべきだ」と考えていました。

そのため1586年、昌幸は景勝が上洛した隙に幸村を呼び戻し、
今度は秀吉の元へ人質として送りました。
ただしこれは、いくら景勝がいないからといって、
家臣らが人質を送り返すことを許すはずがないので、
昌幸が事前に何らかの理由を伝え、幸村の送り返しを承諾させていた可能性が高いと思われます。

幸村を秀吉はたいそう気に入ったようで、
幸村は人質でありながらも、秀吉の近習に取り立てられました。

そんな中、秀吉は1589年から、小田原攻めを行います。
この小田原攻めに、幸村は父・昌幸と共に参戦したようで、
どうやらこの戦いが、幸村の初陣と考えられるようです。

それからしばらくして、幸村は大谷吉継の娘と結婚することになります。
吉継もまた幸村を見込んでいたようで、幸村にたいそうな薫陶を施したと言われています。

さらに1594年には、秀吉から『豊臣』の姓を賜りました。
このように幸村は、『人質』という立場にありながらも、
秀吉や吉継など、優秀な人物にその才を見込まれていたのです。

『2 九度山での配流生活』へ