大坂冬の陣 幸村TOPへ
 「自分は病人のようになってしまった。歯は抜け落ちて、ひげにも黒いところがあまりなくなってしまった」と、長い蟄居生活に嘆き悲しんでいた幸村ですが、1614年、最後のチャンスが訪れます。
 1614年10月1日、家康が豊臣追討の命を下したのに際し、幸村の元に豊臣方の武将大野治長より、「豊臣方についてはくれないか?」という書状が届いたのです。 
 更に、支度金として黄金二百枚と銀三十貫が贈られてきました。
 それを見た幸村は、豊臣方の武将として大坂城に入城することを決めました。
 さて、決めたのはいいのですが、幸村がいる九度山というのは、徳川方の武将浅野長晟の領地の一部であったのです。なのでそう簡単には九度山を下り、大坂城に行くことはできません。
 幸村の九度山脱出について書かれた史料を、見てみましょう。

「秀頼(秀吉の息子)は幸村を招いたが、紀州(九度山がある場所)は浅野長晟の領地だったので、長晟は地元の村人に『真田を大坂に行かせてはいかん。必ず押し止めるのだ』と言いきかせ、用心を厳しくした。なので幸村は村人らを酒宴に招き、全員を酔いつぶれさせ、その隙に村人の馬に荷物を積み込み、大坂へと向かった」(常山紀談)
 
 これは幸村を扱った小説などでも非常によく見られるものですが、これはやはり逸話とされており、実際には、深夜に近隣の村人の協力を得て九度山を脱出したようです。
 村人は幸村には好意的であったようですし、また、近辺に住んでいた猟師が数十名幸村に従って大坂城に入っていることからも、それが分かります(もし眠らせたなら、村人は同行できないはずです)。
 さて幸村は大坂城に無事、入ることができました。村を出るときは数十人だったお供も、大坂城に入る頃には百人程度になっていたようです。
 大坂城に入った幸村は、大坂城五人衆の一人として扱われます。
 そしていよいよ、大坂冬の陣が始まるのです。

 大坂冬の陣

 大坂冬の陣に際し開かれた軍義の席で、まずは大野治長が「家康はおそらく軽々しく兵を動かさずに様子をうかがうだろうから、まずは籠城を礎とし、その上で茨木城を落とし、その上で京都を占拠し、近隣の小城を落とす。そうすれば、秀頼様の下に諸大名は馳せ参じるであろう」と発言。しかし幸村はそれに反論し「そのようにゆるゆると動いていて宇治・瀬田を越えられては、戦が難儀になる。城外に出撃し、宇治・瀬田を占拠し、そこを防衛線とするべきだ」と主張。後藤基次などが幸村に賛同したのですが、結局は幸村の城外出撃論は採用されませんでした。
 一般的には、幸村の城外出撃論を取り上げなかったのは、大坂方が「実力未知数(真田を有名にしたのは、徳川軍を二度退けたことであるが、そのどちらも、采配を取ったのは父昌幸)」の幸村を信用していなかったからだと言われています。更には、この城外出撃論を採用していれば歴史は変わったとも言われているのですが、実際はどうなのでしょうか?
 実のところを言うと、この城外出撃論は、言ってしまえば絵空事でしかありません。もしこれが採用されたと考えても、極めて否定的な答えしか出てこないのです。
 というのも、この時点で、徳川軍はすでに準備を整えきっており、また宇治・瀬田に進出するにしても、その間にある伏見城・二条城などを落とさなければなりません(いずれも堅城です)。
 つまり、たとえ城外に出撃したとしても、伏見城などに手こずり、宇治・瀬田に侵攻する頃には、徳川軍の主力はすでにそこに現れているでしょう。また、もし宇治・瀬田を占拠することができたとしても、その頃にはこちらは城攻めで戦力を消耗しているため、宇治・瀬田を防衛線とし、徳川軍の主力と戦うなど無理な話でしょう。
 それよりもむしろ、大野治長の作戦の方が、西国への備え、大坂城の実情などを見ると、よい作戦であると言えるのです(徳川軍に勝てるかどうかというのは別ですが)。
 さて城外出撃は否定されたものの、「ならば大坂城の弱点である玉造口(南口)に、出丸を築きたいのですが」という意見は採用され、幸村は玉造口に出丸を築き、そこで徳川軍を迎え撃つことになります。
 その出丸は、誰からともなく「真田丸」と呼ばれるようになりました。
 そしていよいよ、豊臣方と徳川方との戦いが始まりました。
 12月4日、幸村は真田丸に向かってくる敵軍をぎりぎりまで引き付け、真田丸の壁に張り付いたところを一斉射撃。この繰り返しで、徳川軍の先鋒前田利常隊などを痛めつけました。
 この活躍で、幸村の武名は一躍光彩を浴びた、と言われています。
 しかし家康が大筒(国崩し砲とも呼ばれる大砲)を持ち出してきたため、それを設置させないようにするための牽制射撃のための大量の銃弾が必要となり、銃弾が不足したことから、豊臣方と徳川方は一旦、和議を結びます。
 ちなみに、誤解として、「12月4日の戦いでは徳川軍は真田丸しか攻めていなかった」というものがありますが、実際はあらゆる方面から大坂城を攻めています。講和を結んだのも「真田丸が落とせなかった」のではなく「大坂城の外堀を攻略することができなかった」というのが理由です。
 それはともかく、その講和は家康の作戦であり、家康は講和の際に提示した条件である「大坂城は二の丸・三の丸を埋め立て、本丸のみを残存させること」をさっそく実行。
 その際に真田丸も打ち壊され、まさに大坂城は本丸のみを残す、丸裸の城となってしまったのです。